現実
口座からお金を引き落とそうとして、暫くその場に固まった。
後ろに並んでいた人の迷惑そうな言葉に、お金を引き落とすことなくそそくさと銀行から出て、好きなアニメで飾り立てた車へと戻った。
残金、1300円。どうしてこんなことになったのだろう。次の私の給料日は2週間後。夫の収入は期待できないから、それまで何とかしないと……
***
夫は、プロのミュージシャンを目指している。
彼とは、私が18歳の頃、大好きなアニメの掲示板で知り合った。
10歳上で、プロのミュージシャンと言う目標を定めて頑張っていて、その頃高卒目前なのにやりたいことが見つからず、
(今から大学受けてみようかな?と、別の高校に通っていた親友に言ったら、笑顔で、分厚い赤い本を差し出された。訳のわからない記号だらけだった。日本語なのに日本語じゃなかった。真ん中くらいのページを開けてすぐ諦めた。)
そんな具合だった私からしてみたら、しっかりとした意思をもった大人の男性で、憧れが恋心へと変わっていったのは、すぐだった。
でも、そんな彼との交際は、私の両親から猛反対された。
何て言っていたかはよく覚えていないけれど、多分、彼に父親がいないのと、彼が実家で母親と二人暮らしだったのと、ミュージシャンとして夢に向かって頑張っているのが「録に働きもせず遊び呆けている」様に映ったのが原因だと思う。
彼に対する世間の目は、とても冷たい。彼の事をよく見もせずに決めつけて、非難して。辛いと漏らした彼の顔を思い出す。
自分の両親も、そんな「世間」と全く同じだったことに、ショックを受けた。
そんなことがあって、彼を深く理解して愛してくれて、私たちの仲を応援してくれる彼のお母さまを唯一の味方として、誰にもバレないように私たちの交際は始まった。
そして、彼との結婚を決めてから、色々あって、私の両親は、私との縁を切った。
彼との間の子どもも、全て彼らに取られてしまった。
それでも、幸せだった。私は声優になりたくて、飲食店での仕事をしながら学校に通って、彼は、夢に向かってひた走り続けた。
働いていてもどうしてもお金は足りず、彼の実家で、お義母様と三人で暮らしていた。
お義母様は本当に優しい人で、私が仕事先で先輩たちに酷くいびられて泣きながら帰ってくると、
「そんな仕事、やめなさい。ブラック企業よ?」
と言ってくださって、よく私を現実に戻してくれた。
ブラック企業は巧妙で、端から見ると何故そんな条件で働くのかわからない位過酷な労働条件を、働いている人には気づかないように押し付け、洗脳するらしい。
私は、選ぶ目が悪いらしくて、そんなブラック企業にばかり引っ掛かって、そして、1ヵ月位でお義母様に気づかせてもらっていた。
そうしてブラック企業を辞めて別の会社を探している間も、
「お金のことは、私が何とかするから気にしないでね?」
と、援助してくれていた。
そんなお義母様が、去年、亡くなった。
お葬式の喪主は、夫の弟さん夫婦が無理矢理した。
夫が長男なのに。と辞めさせようとしたら、
「あなたたちにできるの?」
と、弟さんの妻に、すごく冷たい目で言われた。
悲しかった。優しい優しいお義母様が亡くなって、こんなに辛い思いをしているのに、何でこんなことを言われないといけないの?と思ったけれど、夫が弟さんに全て任せると言うから、任せた。
一連の準備の中で、私たち夫婦はまるで邪魔物のように、ずっと隅に追いやられていた。
私のお義母様なのに。彼のお母様なのに。
ずっと別に暮らしていて、録に会いにも来なかった彼らに占領されて、泣き叫んで抗議したのに、誰も聞いてくれなかった。でも、夫がずっと慰めていてくれた。
葬儀が終わると、
「それじゃあ。もう会うこともないでしょう」
と言って、弟さん夫婦は去っていった。最後まで、私たちを見下しきった目をしていた。
***
家に帰ってから私は、何でこんなにお金がないのかとずっと考えて、それから、ひとつの結論に達した。
きっと、弟さん夫婦に取られたんだ。と。
だって、お義母様の遺産も、私たち夫婦には入っているはず。だから、こんなにも早くお金が無くなるなんて、考えられない。
そうと決まれば話は早い。弟さんの妻に電話をして、抗議してお金を返してもらおう。と、ラインストーンできれいに飾り付けた、お気に入りのスマホを取り出して、結婚式の時に交換した番号を呼び出した。
結果は、私が不快に、そして、不安になっただけだった。
私が問い詰めると、電話口でこれ見よがしなため息が聞こえて、それから、聞き分けのない小さい子に言い聞かせるかのようなあのバカにした声で、告げられた。
「自分達が一ヶ月にいくら使っているか、家計簿をつけてみた方がいいわよ?」と。
「四則計算……えっと、ごめんなさいね。足し算引き算かけ算わり算はできるかしら?」
と続けられた言葉に、ぶわ。と頭に熱が集まってきて、「馬鹿にしないで!」と叫んで電話を切った。
電話を切ってから、冷静になると、もしかしたら、弟さんの妻は、自分達が取っていたことが私にバレて、話しを逸らすためにそんなことを言ったのかもしれない。と思った。
何とかしないといけない。でも、私が口で彼女に勝てるとも思えないし、夫は今は大事なオーディションの時だから気を遣わせたくない。
じゃあ、弁護士に相談しよう。でも、証拠は揃えておかないと。
証拠。と考えて、思い付いた。
弟さんの妻は、私たちが遣いすぎだと言い訳したかったに違いない。それなら、そんなに遣っていない証拠を残せばいいんだ。と、私は早速文房具やさんに走って家計簿を買ってきて、それから、溜まっていたレシートを全て引っ張り出した。
***
「それで、どうしたの?」
1週間後、私は、ファミレスのテーブルで親友の、麻衣ちゃんと向かい合っていた。
とっても頭がよくて、中学校の頃のテストでいっつも 5番以内に入っていた彼女は、頭のいい高校と大学を出て、今、小さい頃通っていた科学館でインストラクターをしている。「学芸員」と言うやつらしい。
しゃんと背筋を伸ばして座る彼女は子どもの頃から大人びていて、うちの両親のお気に入りで、私の憧れだった。
大人たちにはよく、
「麻衣ちゃんは、特別できる子だから。千春ちゃんには千春ちゃんにしかできないこともあるんだよ」
と言われていた。今なら、私は麻衣ちゃんよりもできない子だから諦めろ。と言いたかったのだと理解できる。
高校で道が別れた彼女は、私が夫と付き合っていることを言ったとき、唯一酷いことを言わなかった人だった。
ただ、
「彼が夢を叶えるまで一生支える覚悟はあるの?」と、真剣な顔で聞かれただけだった。
そんな彼女に、私は、一冊のノートを差し出した。
「これ、見て」
「家計簿、つけ始めたんだね。私が見ていいの?」
いいから持ってきた。と言うと、彼女は目を通して、そして、小さく笑った。
「麻衣ちゃんと千春ちゃんは違うから」と大人たちに言われる度に浮かべる笑顔と一緒だった。
「収入と、支出が、一桁違うね」
言葉を選んでいる感じだった。
そう。と私はうなずいた。
「でさ、見てよ、これ。私は学校のお金と服とゲーム代くらいで月6万位しか遣ってないのに、夫が40万も遣ってるんだよ?酷くない?」
プロになるためにはいい楽器を使わないといけないから。と買った楽器のローンが、ギター3本とキーボードで月10万、見た目も大事だからと通う会員制のジムが月5万と、洋服代が月25万。本当はもっといいのを買いたいけれど負担をかけたくないから妥協してやっている。と言う言葉を思い出す。
これに食費とか入れると、月の出費は60万を超える。
「や、何で食費と光熱水費と通信費で15万行ってるの?二人暮らしだよね?」
呆れた親友の言葉に、だってなんかそうなった。と答えた。彼女の反応がおかしい。今は、呆れるところじゃなくて、夫に対して憤ってくれるところでしょう?
「それで、瀬尾さんはどうしたいの?」
小さく息を吐いて、優しい目でこちらを見ながら続きを促してくれるようすにホッとした。20歳で結婚してから、自分を呼ぶ名前が「千春ちゃん」から「瀬尾さん」になって、その時は寂しく思ったけれどもう慣れた。
お気に入りの、少し黄色い、座ると太ももの真ん中くらいの丈になるスカートの裾をいじりながら、決意を口に出した。
「離婚する」
だって、こんなんじゃあ生活できない。お金遣いすぎだからもっと節約してって夫に言ったら今でも十分我慢しているのにこれ以上我慢しろって言うのかって怒鳴られた。
決意の言葉になにも返してくれない彼女に慌てて言葉を足す。だってこんなの、ひどいじゃん。
「……今更?とか、彼を一生支える覚悟はあるの?って私最初に聞いたよね?とか色々あるけどさ、」
全部言ってる。こんな言葉が聞きたい訳じゃない。強く握りすぎたスカートの裾が、くしゃりと皺になる。鼻の奥がつんと痛くなって、涙がこぼれた。
「離婚してから、どうしたいの?」
「っれはっ、」
考える。考えて考えて、いいアイデアがひらめいた。
「麻衣ちゃん、大学の頃何回か合コンやってたんだよね?うちもよせて?社会人の人の合コンとかも、テレビでよく見るじゃん。」
そうだ。それで、新しいいい人を見つけて、それから……
「瀬尾さん」
明るい将来のビジョンを立てていると、静かな声で邪魔された。
「節目節目で何度か伝えてたけど、」
この続きは聞きたくない。耳を塞ごうとしたけれど、一瞬間に合わなかった。
「私の一番上の息子は、今年大学院を出たよ。瀬尾さんの息子さんには、二人目が生まれるんだってね。おめでとう」
本当に、本当に悲しい目を日て、彼女は続けた。
「ねえ、いい加減、現実を見て。現実を生きて。まだ、ギリギリ手遅れじゃないと思うよ」