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08 薄紅の下で

「う……わ……!」

 頭上に広がる、花、花、花。

 光を孕んだ薄紅が視界を埋め尽くし、まるで輝く雲のなかにいるようだ。

 穴から這い出たままの格好で呆然と頭上を仰ぎ見る。少しの間にも、雪のような花びらが頬や髪にいくつも降り積もった。

「……すごい」

 不思議な部屋だ。それほど広くはないけれど、天井が高い。室内であることは確かなのに、燦々と太陽が降り注ぐ真昼の日向のように明るい。どうやら天井自体が光を放ち、それを白い壁が反射しているようだ。

 影の落ちない不思議な部屋。

 その中央に、一本の大きな老木が立っていた。

 黒い幹は立ち上る煙のようにいびつで、ごつごつと曲がりくねった枝はドーム型の天井に達している。

 その枝をしならせる、幾千幾万の花の洪水。

 信じられない光景に、二人は言葉を失った。

 まるで夢でも見ているようだ。

 あるいは、何かすばらしい絵の中へ迷い込んだような。

 天国という場所が本当にあるのなら、こんなふうであって欲しい。

 そう思わせるほどに、薄紅の花は美しかった。

 かすかに甘い湿った香りを胸いっぱいに吸い込む。体の中にやわらかな薄紅色が広がった。

「この部屋、旧文明のやつだよな。ってことはこの木も旧文明の頃からここに立ってるのか」

 こんなに間近で生きた樹木を見るのは初めてだ。光を吸い込むような黒色をした幹に恐る恐る触れてみる。見た目は岩に似ているけれど、冷たくはない。ごつごつ、がさがさとした感触の向こう側に、動物とは違う生き物の温かみを感じた。

 植物にも寿命があるのだとジインから聞いたことがある。いつ倒れてもおかしくないほどに歪んだこの老樹は、いったいどのくらいの年月をここで過ごしてきたのだろう。

「何十年もここに立っていたのか……旧文明が滅んでも、ずっと独りで」

 ジインの白い指が、黒い幹にそっと触れる。

「……なんだかちょっと可哀想だね」

 空も雨も陽の光もないこの部屋で、老木は何を思い過ごしてきたのだろう。

 誰一人訪れることのなくなったこの場所で、ただじっと終わりの時が訪れるを待っているのだろうか。

 満開に咲き誇る薄紅は、その孤独をつゆとも感じさせないほどに力強く、そして美しい。

 低い機械音とともにゆるやかに流れる風は、二人が入ってきた穴とは反対側の壁から吹き出していた。壁に設えられた金網の奥で一抱えもある大きなファンが回り、部屋の中に風を送り出している。金網は三つあったが、一番右側のファンは壊れて止まっており、金網も半分外れていた。

 積もった花びらが長い年月をかけて土になったのだろうか、一面を薄紅で覆われた床は驚くほどやわらかく、ふわふわと綿を踏むような心地よさだ。

 左奥の壁には、業務用らしい小さな扉が一つ。

 かつては人々の憩いの場だったのだろうか。元はベンチと思しき物体が、壁際でいくつも朽ち果てている。

 壁にかけられたガラスのプレートに刻まれた文字を、ジインの指先がなぞった。

 “桜雨庭”。

 人工の白い光が、花に枝に燦々と降り注ぐ。

「オール・イン・システム……この部屋、全自動で管理されてるんだ。すごいな」

「旧文明の機械が今でも動いてるってこと自体、びっくりだよね」

「電力はどうしてるんだろう」

 部屋をぐるりと見回したジインの視線がふいに止まる。入ってきた穴を背にして右手奥の壁。向こう側から土砂に押されたのだろうか、ぼこぼこにひしゃげた大きなシャッターの前に、植物の鉢植えがいくつも並んでいる。花に気取られて気づかなかったが、雑草一本も生えていない薄紅の部屋でその緑は明らかに異質だった。

 ジインの背ほどもある植物は、手のひらに似た葉を青々と茂らせている。植木鉢はみな同じ形をしていて、どれも真新しい。

「これは……」

 葉を手に取ったジインの双眸が、見る間に険しくなる。

「……“悪魔の草”?」

「それって、ドラッグの材料の?」

「……持てるだけ花を持って早く出よう。もしかしたら、ここは――」

 こちらを振り向いたジインが、ぎくりと動きを止めた。

 凍りついたその視線の先をたどる。

 曲がりくねった老木の根に隠れて見えなかった場所に、何かが横たわっている。

「……っ!」

 ひと。

 人だ。

 ソラより小さな子どもが、薄紅に埋もれている。

 花びらの積もったうつぶせの背中。光を失ったうつろな瞳。わずかに開いたままの口は底なしの闇のようで、すでにこの物体が空っぽだということを物語っていた。

 待っていたかのようにかすかな腐臭が鼻先をかすめる。

 掠れた声で、ジインが呟いた。

「……九呼……?」

 はっとして、二人は同時に顔を見合わせた。

 足音。人の声。頭上から? いや、扉の方だ。

 誰かが階段を降りてくる。

 音が重い。大人だ。

 空調の音で気づくのが遅れたのか、足音はもうすぐそこまで来ている。

 ジインが穴へ目を走らせた。

 がちゃがちゃと鍵をいじる音。

 ――間に合わない。

 唐突にソラは襟首を掴まれた。後ろから突き飛ばされるような形で、外れた金網の隙間へ体を押し込まれる。

 壊れたファンに体がぶち当たる。金網に覆われたわずかな空間には、一人分の場所しかない。

「ジ……っ!」

「誰だ!?」

 ジインが金網から飛び退くのと、男の声が上がるのが、ほぼ同時。

 向けられた黒い銃口に、息を止める。

 凍りついたような一瞬の間を置いて、銃を構えた男が忌々しげに舌打ちした。

「またかよ、クソガキめ!」

「おい、どうした?」

 男の背後から、“悪魔の草”の植木鉢を抱えた別の男が現れる。

「また『ノラ』が一匹入り込んでやがる」

「だからしっかり穴ふさいどけって言ったろ」

「塞いだよ、鉄板で! ったく、次から次へとネズミみてえにわきやがって……」

 男が足元に唾を吐く。銃口を向けられたまま、ジインは微動だにせずただじっと男を凝視している。

 おそらくこの場を切り抜ける術を必死で考えているのだろう。

 息を殺しながら、ソラは暴れる鼓動をどうにか落ち着かせようとした。

 どうしよう。どうすればいい?

「女……いや、男か?」

 男がだらしのない足取りでジインへ近づく。銃身であごを上へ向かせて、その顔をのぞき込んだ。

「はっはァ。どうも人形みてぇな顔してやがると思ったら、やっぱりな。こいつ“オリエンタル”だ。花街あたりでいい値がつきそうだぞ、売っぱらっちまうか?」

 “オリエンタル”というのは、黒い髪に白い肌、色付きの瞳を持つ珍しい人種のことだ。整った容姿をしている場合が多く、花街での人気が高いため、人売りに狙われやすいのだと聞いたことがある。

 ジインが、攫われる?

 植木鉢の男が鼻で嗤った。

「おまえバカか。そいつの口からハッパちょろまかしてることが漏れてみろ、俺らがバラされて売られるわ」

 男の足が金網のすぐ目の前を通り過ぎる。こんな時だというのに、ソラは「オオカミと七匹の子ヤギ」の話を思い出していた。柱時計に隠れていた末っ子の子ヤギは、こんな気持ちだったのかも知れない。

 植木鉢を列に加えた男が、青々とした葉を満足げに見渡す。

「見ろよ、もうこんなにデカくなってやがる。放っといたってこれだけ早く育つんだから、まったく便利なもんだよなぁ」

「旧文明様々ってやつさ。この部屋がありゃあ、新市街暮らしも夢じゃない……」

 光り溢れる天井に下卑た笑いが響く。

 植木鉢の前から立ち上がった男が、何の感情も宿らない鉛の瞳でジインを一瞥した。

「さっさと殺せ。血で商品を汚すなよ」

 そのあまりの素っ気なさに、ぞくりと背筋が寒くなる。

 人の命を、こんなに簡単に――……。

「“これ”もどこかへ捨てておけよ。そろそろ臭いそうだ」

 男のつま先が通りすがりに九呼を小突く。

 ソラは拳を痛いほど握りしめた。

「ったく、面倒くせえなァ……おい、ガキ!」

 男が銃を振る。

「あっちへ行って、壁の前に立て」

 ばくばくと胸を打つ鼓動に、ソラは息が苦しくなった。

 男をまっすぐ見据えたまま、ジインは動かない。

 一体ジインはどうするつもりなのか。無表情な横顔からは何も窺えない。

 やはり魔法を使って、何かをするつもりなのだろうか。

 けれど魔法は、自分以外の人間や、人が触れている物にはうまく働かない。

 人から発せられる“なにか”が、魔法が“触れる”ことを邪魔するみたいだとジインは言っていた。

 助けに入ろうにも男の手には相変わらず銃が握られていて、下手に動くとかえって危険だ。

 荒い呼吸を手で押さえて、ソラはじっと成り行きを見守った。

「おい、聞こえなかったか? 壁の前へ行けって、ほら」

 銃口が汗の浮いた額を小突く。それでもジインは動かない。

 少しも表情を変えないまま、ただじっと男を凝視しているだけだ。

 ――魔法を使う時は、じっと“視る”ことが重要なんだ――。

 そんなジインの言葉を思い出し、はっとする。

「対象と自分を見えない糸で繋げるって感じかな。動かしたい物と自分の間に“力”の道を作るんだ。本当は触るのが一番手っ取り早いんだけど、触れられない距離にある物はじっと見つめて意識を集中する。そうして“力”の道を繋ぐんだけど、何もないところに道を作るていうのがけっこう難しいんだよな」

「目隠しされたら魔法は使えないの?」

「触れている物には使えるからまったく使えないわけじゃないけど、対象が見えないとイメージしづらくて“力”を繋げにくいんだ。あっ、でもずっと見つめていなくちゃいけないわけじゃなくて、一瞬でも対象の周りの状況がつかめれば後は見えなくてもどうにかなる……かな?」

 ソラはジインの横顔を見つめた。

 ジインの視線は、男を見ているようで“視て”いない。

 その意識は、どうやら別のところに集中しているようだ。

「……行けって言ってんだろうが!」

 腕を振り上げると、男は銃のグリップでジインの横っ面を思いきり殴りつけた。細い体が地面に倒れ込み、花びらが巻き上がる。

「ッ!!」

 飛び出しそうになる体を必死で抑えて、ソラはかろうじてその場に留まった。

 大丈夫。ジインは今うまく直撃を避けていた。だから大丈夫。

 そう言い聞かせるが、煮えたぎる感情は今にも爆発そうだ。

 ちくしょう。

 恐怖ではなく怒りで体が震える。

 怒りの対象は、目の前の男たちと、何もできない自分自身だ。

 このままではあの時と同じじゃないか。

 何もできず、ジインがいたぶられるのをただ黙って見ていたあの時と。

 ぎりぎりと地面に爪を立てる。

 一か八か、男に体当たりしてあの銃を奪う。それしかない。

 湯気が出そうなほどに血の上ったソラを制するように、ジインの視線が一瞬こちらに向けられた。

「!」

 来るな。

 一瞬の眼差しは、はっきりとそう言っていた。

「ほら、立て。泣きながら逃げ回ってみせろよ。そこで死んでるチビはおもしろかったぜェ、小便たらしながら、犬みてぇにそこら中に這いずり回ってよォ」

 倒れ込んだままのジインの拳が、花びらを強く握りしめる。

「“助けて、助けて、殺さないでェ!”ってな。ぎゃーぎゃーぴーぴー泣きながら逃げ回る背中に狙いをつけて、ズドン! 一発で仕留めてやった。ハハッ! なあ“オリエンタル”、おまえも泣いてみせろよ、あァ?」

 男はジインの肩を掴むと、突き飛ばすように仰向けに押し倒した。

 しゃがみ込んだ男の顔が、にたりと歪む。

「それとも、あれか。“オリエンタル”は“鳴く”ほうが得意か?」

 ねっとりと舐めるような声音に、ジインの頬がぴくりと動いた。

 固く引き結ばれた唇に、銃口が押しつけられる。

「しゃぶってみせろよ、ほら。どうせ“オリエンタル”なんて、毎日そこら中の奴らに別のもんしゃぶらされてんだろ? 朝から晩までよォ」

 執拗に唇をこじ開けそうとする銃口を避けて顔を背けたジインの頬を、男は逆方向に殴りつけた。

「動くんじゃねぇよ!」

 まともに拳を受けたジインの顔が苦痛に歪む。

 くらりと目の前が暗くなった。

 怒りで脳みそが破裂しそうだ。

 もういい。今すぐぶっ飛ばしてやる。

 両手両脚を地面に付き体勢を低くすると、隙を見ていつでも飛び出せるようにソラは身構えた。

「おい、時間がないんだ。あまり遊ばずにさっさと始末しろ」

「チッ、つまんねぇなァ」

 億劫そうに立ち上がった男が、大げさに振りかぶってからゆっくりとジインに狙いをつける。

「さぁて、どうするか。心臓に一発? それとも頭を吹き飛ばしてやろうか……おい、どこから撃って欲しい? 死に方に希望があるなら聞いてやるよ」

 固く閉ざされていたジインのまぶたがふいに開いた。強い光を宿した瞳と、ほんの一瞬視線が重なる。

 ――動く。

 その合図に、ソラは呼吸を止めた。

 夜色の瞳が、すうっと動く。顔を背けたままジインは眼差しだけで男を見た。傷ついた唇の端に不敵な笑みが浮かぶ。どこか妖艶なその横顔に男の太い喉が、ごくり、と上下した。

「なあ、おっさん」

 掠れた声でジインがささやく。

「ゾンビって、見たことある?」

「なに……?」

 ごと、と音がした。男たちが一斉にそちらを見て、ぎくりと凍りつく。

 九呼が、こちらを見ていた。

 転んだ状態から起き上がるように地面に手をついて上体を起こし、しっかりとまぶたを開いて、焦点の合わない瞳でじっとこちらを凝視している。

 その異様な光景に、男たちが愕然とする。

「な……なんで……っ!」

 がくがくと震えながら、九呼がゆっくりと立ち上がる。頭ががくんと仰け反り、うつろに開いた口が光のもとにさらされた。

「……っ!」

 人ならざるその表情に、ソラは思わず口を押さえた。

 それは、つい数日前まで確かに人だったもの。

 生まれてから死ぬまでが“人”であるなら、死を過ぎたこの物体はもう“人”ではないのだろう。ひどく傷んでいる訳でもなくちゃんと人の形をしているのに、どうしても“人”と思えないのはきっとそのせいだ。

 恐怖や嫌悪は感じない。

 ただ、相容れなかった。

 九呼はもう、別の世界の住人だ。

 こうして同じ地面に立っていること自体が、許容し難い違和感を引き起こしている。

 男たちは凍りついたまま、呼吸すら忘れているようだった。

 かつて九呼だった“それ”は、糸で吊るされた人形のように不自然きわまりない動きで、ゆっくりと歩き出した。

「ひぃ……っ!!」

「う……うわああああっ!!」

 絶叫し、男は夢中で引き金を引いた。銃弾は地面をえぐり、花びらを巻き上げ、九呼の体を貫いた。

 それでも九呼は止まらない。

「来るな……っ! 来るなああっ!!」

 半狂乱の男たちが扉近くまで追いつめられたのを見て、ソラはにやりとほくそ笑んだ。

 ざまあみろ。

 半身を起こしたジインは、しっかり九呼を見据えたままじりじりと後じさっていた。目立たぬようにゆっくりと、老木で男たちの死角になる位置へと後ろ手に這っていく。

 そのすぐ後ろに、植木鉢の列。

「あっ……!」

 腕に当たった植木鉢がごとりと倒れる。生い茂る葉の林がざわざわと音を立てて大きく揺れた。

 血走った男の目と黒い銃口が、ジインを捉える。

 夜色の瞳がかすかに見開かれる様子が、なぜかひどくゆっくり見えて。




 銃声は、三発。




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