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06 危地

「さあ、困ったな」

 左右に分かれた通路を前に、ジインが首を傾げる。

「どっちへ行けばいいんだろうね?」

 その隣で、ソラも同じポーズをした。

 陽の光など欠片も届かない暗闇の中。二人が進んできた水路は少し大きめの水路の横腹に突き当たり、そこで途切れていた。ネズミしか通らないような地下水路に道標などあるはずもなく、左右に方向に伸びる水路を前に二人は揃って思案顔だ。

「方向的にはまだ真っ直ぐのはずなんだけど」

 腕時計についた方位磁石を確かめながら、ジインが顔をしかめる。小さな針の示す先は目の前の汚れた壁だ。

「まさか壁をぶち抜いてまっすぐ進むわけにもいかないしなあ……ちなみに花の匂いは?」

「全っ然しないよ」

 ネズミやゴキブリ、その他のたくましい小さな生き物の存在は時折感じるけれど、『貧困街』のゴミ市場と比べるとここは生き物の気配が希薄だ。LEDの光を受けて毒々しい光を放つ汚水には、バイキンは住めてもそれより大きな生物は暮らせそうにない。

 闇に閉ざされた地下世界。

 果たしてこんなところに、薄紅色をした可憐な花が咲いているのだろうか。

「花の匂いじゃなくてもいい。何かわからないか? 手がかりになるような音とか、匂いとか……何でもいいんだけど」

 どちらに進むべきか手がかりになるものはないかと問われ、

「うーん、やってみるよ」

 深呼吸をひとつして、ソラは神経を研ぎすました。

 音、匂い、空気の感触。感覚のすべてを使って、闇を浚う。




 ――……。




「……あ」

「どうした?」

「また、呼ばれた気がした」

 劇場前の通りで聞こえたのと同じ声が、また聞こえたのだ。

 それが“声”なのかどうかもはっきりとわからない。単なる物音なのか、あるいは何か意味を持った言葉なのか。感覚の端に引っかかる“それ”の輪郭は遠く曖昧で、形にしようとするとさらさらと指の間をすり抜けていってしまう。

 ただ一つはっきりと言えることは、それにはなにか“意志”のようなものが込められている、ということだった。

「まさか本当に幽霊じゃないだろうな」

 ジインが頭上を見上げる。この辺りはもうHOTEL=JESSICAが近いはずだ。

「ただのおしゃべりな幽霊ならいいけどさ、悪霊の勧誘だったらお断りしろよ?」

 水路で迷わせて仲間にするつもりかもしれない、などとジインが本気とも冗談ともつかないことを言う。

 HOTEL=JESSICAにほど近い地下水路での幽霊話。いつもなら震え上がるところだが、今は不思議と恐怖が湧いてこなかった。

「オレにもよくわからないけど、幽霊じゃないと思う。なんかこう、怖いとか嫌な感じはしないんだ。ただ――」

「ただ?」

 ただ、しんしんと心に伝わってくるのは――……。

「――“いる”」

「イル……?」

「うん、“居る”。うまく言えないけど……そこに何かが“居る”って感じ」

 それはたとえば、分厚い雲に覆われた夜空の片隅で、小さな星が瞬くような。

 あるいは、波が消え失せ静まり返った大海原で、小さな小さな羽虫が溺れもがいているような。

 正体不明の“それ”は、右手の水路から聞こえてくるようだった。

「……どうする?」

 言いながら、ジインがソラを横目で見る。

「花の手がかりが掴めない以上、その“声”のするほうに行くか行かないかだ。おまえを呼んでいるモノが何なのかおれにはさっぱりわからないから、ここはおまえの勘に任せるよ」

 行き詰まった闇の中を、いったいどちらへ進むべきか。

 重要な選択を委ねられ、ソラは大きく息を吸い込んだ。

 自分の選択によって花が見つかるかどうかが決まる、責任重大な場面だ。こんな時はあらゆる可能性を視野にいれてジインのように熟考すべきなのだろうが、選ぶ道はソラの中ですでに決まっていた。

 右手の闇の先にじっと目を凝らしながら、ゆっくりとソラは言った。

「オレ、“声”のするほうに行きたい。誰がオレのこと呼んでるのか知りたいんだ。それになんだかこの“声”は……あの花と関係があるような気がする」

 上着のポケットをそっと押さえる。花びらのやわらかな薄紅色を瞼の裏に思い描くと、“声”の輪郭が少しだけ鮮明になったような気がした。

 再び前後に連なって歩きはじめた二人の足元を、キイキイと喚きながらネズミが駆けていく。

 ふいに空腹を思い出して、ソラはため息を吐いた。

「お腹減ったなぁ。前にお肉食べたのって、いつだっけ? ……こいつら食えたら、ごはんに困らないんだけどなぁ」

 ぎとぎとと黒光りするドブネズミをちらりと見て、ジインがぽつりと呟く。

「……たとえ食えても、おれは食わない」

「えー、なんで?」

「不潔。ばっちい。絶対イヤだ。第一、おまえ動物サバけるのかよ?」

「うーん……練習すれば、なんとか? あ、串刺しにして丸焼きにしちゃえば? それなら熱消毒もできるしサバく手間も省けて一石二鳥じゃない?」

「串刺しって……」

 ジインが顔をしかめる。

「おまえって意外とたくましいよな」

「ジインは意外と繊細だよね」

 他愛ない会話が壁や床にはね返り、幾重にも重なって闇に溶けていく。

 通路はゆるやかにカーブを描き、次第に進みたかった方向へ向かうようだった。

「こっちで当たりみたいだな」

 しかし喜んだのもつかの間、通路の先に目を凝らしてソラは小さく唸った。

「行き止まりだ」

 LEDライトを掲げて目の前を照らし出す。崩落した天井から雪崩れ込む大量の土砂が水路を塞ぎ、二人の行手を阻んでいた。

 急斜面を見上げ、二人はあからさまに落胆した声を上げた。

「うへえ、完璧に埋まってる」

「うっそだろ? ここまで来て……」

「……あ、でもちょっと待って」

 声の響き方に違和感を覚え、ソラは急斜面の上へと目を凝らした。

 崩れた天井と雪崩れる砂利の狭間。そこに漂う闇は他より一層深く、音を吸い込むばかりで返してこない。

 手をかざして空気の流れをみると、辺りの空気はどうやら天井の穴へと吸い込まれていくようだ。

「この穴、どこかに繋がってるんじゃないかな?」

 ソラの言葉に、ジインが、あっと声を上げる。

「じゃあこれが“チカテツ”に繋がってるっていう穴か?」

 二人は傾斜に近づいて、天井に開いた大きな穴を見上げた。

「穴っていうより、崖だなこれは」

 穴は車が二台並んで通れるほどの大きさで、そこかしこから枯れ枝のような鉄の芯が突き出ている。

 穴から水路に雪崩れ込む大小様々な大きさの瓦礫と砂利とが、まるで石の滝のようだ。

「わ、わ、わ」

 瓦礫の斜面を途中まで進んだソラが、バランスを崩して滑り落ちる。

 ぐらぐらと安定の悪い瓦礫は、どんなに慎重に登ってもほんのわずかな振動でがらがらと崩れてしまう。

「ダーメだ、これじゃアリ地獄を登ってるみたいだよ」

「板があればソリ遊びができそうだな」

「あっそれ楽しそう。って、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。どうする?」

 LEDの光を強くして、ジインが崖を注意深く見上げた。

「……あの辺りは足場がしっかりしてそうだな。ほら、天井の近くの鉄筋が突き出てるところ。あそこまで行けば鉄筋を足場に上まで登れるんじゃないのか? 問題はこの斜面をどう登りきるかだな」

「もっと勢いをつけて一気に駆け上がってみようか?」

「いや、それで派手に崩れたら危ない。……そうだな、おれが先に行って“力”で足場を固めるから、おまえはおれの踏んだ場所を覚えておいて――」

「同じところを踏んでいく?」

「そう。ケンケンパみたいに。できるか?」

「簡単だよ。ジインこそ大丈夫?」

「何が」

「前、あんまり見えないんでしょ?」

「うーん……まあ、どうにかなるだろ」

 軽い屈伸運動を終えて、よし、と意気込むと、ジインは深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら意識を集中した。すうっと眼差しの質が変わり、纏う空気の質が変化する。

 一層輝きを増したLEDの光がちりちりと揺らめき、床に落ちた影を揺らした。

「……行くぞ」

 動きやすいようLEDライトを口にくわえると、勢いをつけてジインは跳んだ。数段飛ばしで階段を駆け上がるように、弾みをつけて瓦礫を駆け上がる。

 身軽さにおいて、ジインはソラに勝るとも劣らない。もともとの機敏さもあるのだろうが、ジインの場合はそれに加えて魔法を使う。目に見えない力で補助しているおかげでジインの動きにはソラ顔負けの素早さと切れがあり、華奢な体つきにも関わらずそこらの大人にはまず負けない機敏さを有している。

 しかし、魔法にはリスクがある。強い魔法を長く使い続けると精神的疲労がかさみ、それが原因で一時的に魔法が使えなくなるのだ。

 魔法が使えなくなると、ジインの身体能力は著しく低下する。

 普段の何気ない動作にも無意識に魔法を使ってしまうため、元々の筋力が弱いのだ。

 魔法は便利で素晴らしい能力だけれど、弱点もある。

 だから、時々心配になるのだ。

 もし魔法が使えないような状況に陥った時、ジインは自分の身に迫る危険を自力で回避できるのだろうか。

 天井近くの大きなコンクリートの塊に到達したジインが、足場を確かめる。二人分の体重を支えるだけの強度があることを確認すると、ジインはソラを振り返りLEDライトを振った。

「よし、とりあえずここまで来い」

「りょーかい!」

 ぴっと敬礼し、たっぷりと助走距離を取ると、ソラは勢いをつけて崖に突進した。

 一歩、二歩、三歩と、ジインが通ったとおりの箇所を足場にして瓦礫を蹴る。見えない力に支えられた瓦礫は、コンクリートで塗りかためたようにびくともしない。

 小石ひとつ転がすことなく、ソラは急斜面を駆け上がっていった。

 楽勝、楽勝。

 そう思った矢先、

「おわっ!?」

 最後の一歩でわずかに足を踏み外し、ずぼっと砂利に足が突っ込む。

「危ない!」

 仰け反るように傾いだ体を、伸ばしたジインの手がかろうじて捉えた。

 胸ぐらを掴まれ、そのままぐいと引き上げられる。

「あ、危なかったぁ……」

 ジインに抱きついて、ソラはほうっと胸を撫で下ろした。

 蹴り落としてしまった瓦礫がさらに下の瓦礫を巻き込み、雪崩が小さな連鎖を生み出していく。

 ガラガラと転がっていく石を不安げに見下ろしていると、頭上からギギギ、と嫌な音がした。

 まるで巨大な鉄の扉が、軋みながら開いていくような――。

 ジインの顔が凍りつく。

「――掴まれ!!」

 庇うように抱きすくめられる。次の瞬間、恐ろしい轟音が二人を呑み込んだ。

 崩れる――……!!

 硬く目を閉じて歯を食いしばる。

 巨大な岩に頭をかち割られるイメージが脳裏をよぎった。

 一秒、二秒、三秒……。

「……?」

 数秒経っても、覚悟していた衝撃はない。

 まぶたに光を感じて恐る恐る目を開ける。LEDライトが今までにないほど強烈な光を放ち、辺り一帯を照らし出していた。背中にごつごつとしたコンクリートの壁が当たる。ジインの肩の向こうを、巨大な岩が転がり落ちていった。手を伸ばせば届く距離だというのに、その音はまるで分厚いガラスを隔てたかのように遠く鈍い。

 魔法だ。

 ジインが魔法で守ってくれている。

 目には見えない壁が二人を包み込み、降り注ぐ石を遠ざけてくれているようだった。

 闇を過る石の数が次第に減り、轟音が静まっていく。

 ふいにLEDの光が消えた。止まっていた周りの空気が融解し、砂まじりの風が二人を襲う。髪に肩に、パラパラと小石の雨が降り注いだ。

「ソラ……大丈夫か」

「うん、なんとか……ジインは? 今の魔法、かなりきついんじゃないの?」

 魔法はその規模が大きければ大きいほど、精神に負担がかかる。今のように降ってくる岩から身を守るなんて、相当負担が大きいはずだ。

 LEDの弱々しい光が照らし出した白い横顔に、思わず息を呑む。

「ジイン、すごい汗だよ!」

 長い距離を三日三晩走り抜いてきたようなその顔色に、ソラは慌てた。

「ど、どうしよう。どこか横になれるところへ、」

「大丈夫……」

 吐息にさえ疲労を滲ませながら、ジインがおざなりに呟く。

「でも、」

「いいから、とりあえず登るぞ」

 鉄筋を足場にのろのろと崖を登りはじめたジインを支えながら、ソラは仕方なくコンクリートの突起に手をかけた。

 邪魔な岩が除かれたおかげか、崖を登ること自体は思っていたほど難しくない。

 気がかりなのは、ふらふらと危うい手つきのジインの体調だ。

 けれど確かに、崖を登りきらないことには体を休めることもできない。

 何度か足を踏み外し、手をすべらせながらも、ジインはどうにか崖を登っている。

 このまま無事に登りきってくれれば……。

 ふいに辺りが真っ暗になり、ジインの輪郭がぐらりと傾いだ。

「っ!」

 腕を伸ばし、寸でのところでその体を受け止める。ぐったりと力尽きたジインを抱き寄せながら頭上を見上げると、すぐ先に崖の終わりが見えた。

「ジイン、オレに掴まれる? がんばって、あともう少しだから」

「……ご、めん……」

 ジインの腕が緩慢な動きで首に回される。細い体を抱えて、歩けば数歩の距離をどうにか片手で登りきる。

「つ、いた……」

 上層の平らな場所へジインを引きずり上げると、崖から離れた場所へその身体を横たえて脱いだ上着を頭の下に敷いた。

「ジイン、大丈夫?」

 濃厚な闇の中、不規則な呼吸に顔を近づける。

 だいじょうぶ。

 唇がそう動くのを確認して、逆にざわりと胸が騒いだ。




「思い知ったかよ、ノラ犬」

 容赦のない靴底が、ジインの頭を踏みつける。

 真昼でも薄暗い路地の最奥。ジインを取り囲む少年たちは、男と呼ぶにはまだ若すぎるけれど、幼いソラからすればなけなしの空を遮るほど大きく、にやにやと獲物を見下ろすその顔は肉食獣そのものだった。

 蹴られ殴られ散々に嬲られたジインは、もうぴくりとも動かない。

 そのジインを唯一助けられる自分は、足がすくんで動けない。

 狂気の滲む少年たちの眼光と、「来るな!」と叫んだジインの声が、鉛で出来た足かせのように足に巻き付いてソラを一歩も動けないようにしていた。

「そっちのチビはどうするよ?」

 ドラム缶の影でソラはびくりと震えた。一斉に向けられた視線に、がくがくと足が震え出す。

「ほっとけよ、そんなクソチビ……ああ、ついてねえな」

 ぽつぽつと雨粒が降り始めた空を見上げ、少年が舌を打つ。

「おい、ノラ犬」

 胸ぐらを掴まれ、ジインの体が浮き上がる。

 頭を仰け反らせ、声も無いままだらりと四肢を垂らしたその姿は、まるで壊れた人形のようで。

「二度と俺たちに歯向かうんじゃねえぞ」

 胸ぐらを掴んだ腕を高く掲げて、少年が手を離す。どさりと重い音を立てて、ジインはそのまま地面に落ちて潰れた。

「また遊んでやるよ、ノラ犬ちゃん」

 靴先で体を小突き、下卑た悪態を吐きかけながら、降り出した雨に追われるように少年たちは去って行った。

 その足音が路地の向こうへ完全に消えてから、ようやくソラは震える声を絞り出した。

「ジ……ジイン……?」

 ボロ切れのような姿に変わり果てたジインへ、恐る恐る近づく。

「ジイン……ねえ、おきてよ」

 意識を失うほどに痛めつけられた体に触れることが恐ろしくて、ソラはその傍らでただ繰り返し名前を呼んだ。

「ねえ、ジイン……ねえってば……!」

 大粒の雨が汚れた白い頬を濡らしていく。

 か細い呼吸は雨音で今にもかき消されてしまいそうだ。

「や……やだよう……しんじゃ、やだよう……っ!」

 視界がゆらゆらと滲む。

 雨粒がまぶたに落ちて、ジインがかすかに身じろぎした。眉根が寄せられ、傷ついた唇からうめき声がこぼれる。

「ジイン!」

 腫れ上がったまぶたの下からのぞいた夜色の瞳に、ソラは深く頭を足れた。

「……ごめん、なさい」

 うつむいたまま、絞り出すように呟く。手のひらに爪を立てるようにして、膝の上で強く拳を握った。

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」

 喉の奥が引きつり、耳の裏が痛くなる。耳障りなすきま風に似たすすり泣きが、食いしばる歯の合間から漏れた。雨よりも大粒の涙が鼻水と混ざって、鼻先からぽとぽと落ちる。

 手に暖かいものが触れた。

 血と泥で汚れた指先が、そっとソラの手を覆っている。

 どんなに傷ついてもなお、降り注ぐ雫からソラを庇うその指は、今のジインの姿そのもので。

「大丈夫、だよ……」

 掠れた声で呟いて、ジインは微笑んでみせた。




 忌々しい記憶に、ソラはぎりりと唇を噛んだ。

 あれは、完全に自分のせいだった。

 ジインと街へ出るのが嬉しくて、周りに気を配るのを忘れた。結果、チンピラ崩れの奴らと出会い頭に衝突し、奴らがストレスを発散するための口実を与えてしまった。

 あの時の自分はまだ幼く脆弱で、理不尽な暴力に太刀打ちできるだけの力も勇気も持ち合わせていなかった。無駄に視力のいい両目で、自分の代わりにジインがいたぶられる様を為す術もなくただ見ているしかなかった。

 その時のすべてをソラは仔細に記憶していた。苦痛に歪むジインの顔も、喉の奥で押し殺された悲鳴も、肉を打つ鈍い音も、路地に立ち込める生臭い匂いも、土で汚れた肌も、そこに滲んだ血の色も。

 そのすべてを記憶して、決して忘れない。

 それが幼いソラにできる唯一の、自分に対する罰だった。

 その日を境にソラの体は激変した。四肢は伸び、筋骨は発達して、わずか数ヶ月後にジインの肩へ背が届くほどに成長したのだ。

 それはまるで、焦燥にかきたてられるような変化だった。

 あの時、自分さえいなければジインは逃げ切れたはずだった。

 足を引っ張ったのは自分。ジインをあんな目に遭わせたのは、この自分だ。

 そしてジインを助けられるのも、自分しかいなかったのに。

 ふがいない自分と、ぼろぼろになっても「大丈夫」と笑うジインを思い出す度に、ソラの臓腑は燃えたぎる炎で焼かれるようだった。

 あんなことは、二度としない。二度とさせない。

「……ソラ、生きてるか?」

 目を閉じたまま、ジインが呟く。疲労で掠れてはいるが、差し迫った感じはしない。ほっと胸を撫で下ろして、ソラは応えた。

「うん、生きてるよ」

「崖、崩れたな」

「うん、崩れたね」

「もうちょっとで、死ぬところだった」

「うん、死ぬところだった」

「危機一髪だな」

「うん、危機一髪」

「大冒険だな」

「ほんとにね」

 呑気な口調がおかしくて、どちらからともなく二人は笑った。

 互いの笑い声で、緊張の糸がゆるむ。次第に大きくなる笑いがさらなる笑いを誘い、しまいには二人で腹を抱えて笑い転げた。

「ほんとに死ぬかと思った! ていうか一瞬死んだと思った!」

「いやーおれが魔法使いでほんとによかったよな! じゃなかったら今頃潰れてぺしゃんこだぞ!?」

「うっわ、怖ぇえ! 魔法使いバンザーイ!」

「バンザーイ!」

 一歩先もろくに見えない暗闇の中で、場違いに明るい二人の声がこだまする。

「ははっ、はははは……はぁ」

 笑いの余韻が、そのままため息へと変化する。脱力し、ずるずるとその場で溶けるように倒れ込むと、

「疲れた……死にそうに疲れた」

「お腹減った……死にそうにお腹減った」

 交互に言って、口をつぐむ。

 濃厚な闇の底から、さらさらと流れる水音がした。

 長い沈黙の後、ジインが小さく呟く。

「生きててよかったな」

「うん……生きてて、よかった」

 かみしめるように言う。命の危機に直面し、それを寸でのところで回避したという実感が、今ようやく脳に到達したようだ。

 本当に危ないところだった。

 一歩間違えれば、今頃は二人揃って冷たい瓦礫の下敷きだったのだ。

 生きててよかった。

「……あれ? そういえばおれ、LEDはどうし、っ」

 ふいに顔を歪めて、ジインが額を押さえた。

「ッつ――……」

「大丈夫?」

「ああ……ちょっと力を使い過ぎただけだ。少し休めば、大丈夫」

 両手で顔を覆うと、ジインは深いため息を吐いた。

「脳みそがズキズキする……明日は一日寝込みそうだ。……ったく、これだけ苦労して花が見つからなかったら本当に洒落にならない」

 深呼吸をひとつすると、ジインは空中に拳を突き上げた。

「くそっ、骨折り損のくたびれ儲けなんてまっぴらごめんだ! こうなったら、意地でも花を見つけてやる。待ってろよ、花!」

「待ってろよ、花!」

 半ばやけくそ気味に言って、ソラも拳を上げた。




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