04 闇の中で
へどろがこびり付いた緑色の壁に、その穴はぽっかりと口を開けていた。
光が届くのは入口からせいぜい数歩先まで。そこから先には夜より深い闇が充満していて、何も見えない。じいっと目を凝らしていると、闇がゆらゆらと動いているような、あるいはじりじりとこちらに迫ってきているような、そんな錯覚に襲われる。
ドブ川の横穴は、地獄の底まで続いているように見えた。
「暗いな」
「てゆうかクサいよ」
穴をのぞき込むジインの後ろで、鼻をつまんだソラが間の抜けた声を出す。
暗緑色の汚水には得体の知れない残骸がぷかぷかと浮かび、生き物もいないのに時折ぶくくと泡が立った。あたり一帯に充満している濃厚な異臭は、元が何なのかをまるで悟らせないほどに混ざりあい、その正体を隠している。
「このあたりで花の匂いはするか?」
「ううう、そんなの臭くてわかんないよ」
「だよな」
ぬるぬると足場の悪い川のほとりをひととおり探索してから、ジインは小さなライトを取り出した。LEDの光をアクリルで拡散させる玩具同然のライトだが、LEDは電球よりも簡単に“光らせる”ことができるから便利なのだとジインは言う。
とうに充電の切れたライトは、ジインの意志ひとつで容易く点灯した。
「行くぞ」
「うん」
本で読んだ多くの冒険者がそうだったように、ソラは期待と不安で胸をドキドキさせながら未知なる領域へ足を踏み入れた。
何歩も進まないうちに、ほんのりと暖かい空気が全身を包み込む。外から見たほど闇は深くない。
真ん中に水路をはさむ地下道はところどころで崩れており、大小様々な石がころがって狭い足場をさらに歩きづらくしていた。
「水に落ちたら終わりだな」
「でもそんなに深くなさそうだよ?」
「これだけ“何か”混ざってれば、汚水が口に入っただけでアウトだろ」
「病気になって死んじゃう?」
「そっ。熱で脳みそが溶けるか、ゲロとゲリで体中の水分がなくなって死ぬんだ」
「うええ、こわーっ。ドブ川じゃなくて“ドク”川だね」
「壁とかにもあんまり触らないよう気をつけろよ」
「りょーかい」
鼻をつまんだまま敬礼する。
ありがたいことに、奥へ進むにつれて異臭は次第に薄れていった。そのかわりに、もう何十年も人を通したことがないであろうカビ臭い空気が、その手触りさえあるかのように重く沈殿している。
入り口の光が遠ざかり、闇が濃くなってきた。前を行くジインの輪郭がだんだんとぼやけて曖昧になる。どろりとした闇の中で揺れるジインの黒髪。ぱきっとしたその黒はわずかな光を集めて弾き、べとつく黒に混ざらない。黒にも種類があるのだ。新しい発見にソラは少し嬉しくなった。
「あっ!」
何かに蹴つまずいたジインを後ろから支える。LEDの光が途切れ、互いの姿が闇に呑まれた。その途端、さほど気にならなくなっていた異臭が一気にその濃度を増し、ちょろちょろと響く水の音がやけに耳障りに感じた。
ジインがほっと安堵の息を吐く。
「おー、あっぶね。もう少しでドク川にダイブするとこだった」
「大丈夫?」
「ああ……悪いな」
暗闇に響く、二人分の息づかい。ただの呼吸なのに、ジインと自分とではそれぞれ音が微妙に違う。これも新しい発見だ。
LEDが再び点灯する。
「サンキュ、助かった」
振り返ったジインの瞳がすぐ目の前でぴかりと光る。濃厚な闇の中で見るジインの瞳の色はいつもより鮮やかだ。
ジインの瞳の色を言葉で説明するのは少し難しい。
わずかに緑みがかった、深い青。ほとんど黒に近いのに、どこまでも澄んでいて底がない。澄みきった冬の夜空に似たこの不思議な色が、ソラは大好きだった。
「ソラ、おまえこんなに真っ暗でも見えるのか?」
「うん。このくらいの光があれば、けっこう奥まで見えるよ。ジインは?」
「全然だめ。目が慣れたらもう少し見えるかと思ったんだけど、やっぱり夜道と地下道じゃ暗さが違うな。こんな灯りじゃ、二、三歩先が限界」
少し考えてから、ジインはソラの肩をぽんと叩いた。
「よし、おまえが先に行ってくれ」
「えっ? 灯りはどうするの」
「おれがつけておくよ。ちょっとやりにくいけど、できなくはないから」
ジインからライトを受け取る。LEDの光はジインの手を離れる時わずかに揺らいだが、ソラの手の中でもちゃんと光り続けている。
ふざけて駆けまわったりする時を除いて、ソラがジインの前を歩くことは滅多にない。いつもはそのとなりか、後ろについて歩くことがほとんどだ。ましてやこんなふうに先導することなど、おそらくこれが初めてだろう。
ジインの役に立てるんだ。
使命感に心が弾む。
「肩、つかまっても大丈夫か?」
「あ、うん。つかまりなよ、またつまずいたりしたら危ないからね」
「それもあるけど、このほうがライトつけやすいからさ」
「へえ、そうなんだ」
嬉しさを押し隠しつつも、陰気な通路にそぐわないうきうきとした気分でソラは歩きはじめた。
「もう少ししたら、左に大きな石があるよ。……そこ、水で濡れてるから、滑らないように気をつけて」
過剰なほどに気を配りながら、ソラは自分の“特殊体質”を心から嬉しく思った。
ソラは視力がいい。“いい”、なんてものではない。人並みを遥かに越える視力は、遠くを過ぎる飛空船の乗客の顔が識別できるほどだ。
それだけではない。ジインには聞こえない小さな物音がソラには聞こえるし、普通なら到底嗅ぎ分けられない匂いをソラは嗅ぎ分けることができる。体力、筋力に関しても同様で、ジインとそう変わらない細腕で大人ひとりを軽々持ち上げることができるし、助走をつけずに跳んでも二階の窓に手が届く。
怪我や傷はできたそばからすぐ治り、病気らしい病気は患ったことがない。
そして何より驚くべきは、その成長速度だった。ジインが赤ん坊のソラを拾ったのはつい三年前のこと。それなのに今のソラは十三歳のジインよりほんの二、三歳下にしか見えない。最近では一日に何センチも背が伸びることはなくなったが、それでも十歳近く離れているはずのジインの背丈に、日に日に近づきつつある。
なぜこんな体質なのかはソラにもジインにもわからなかった。けれど、たった二人でこの街を生き抜くには願ってもない能力だ。ずば抜けた五感は危険の多いこの街でとても役に立つし、見た目を裏切る腕力と傷つかない体があれば、大人だって怖くない。
そして何より、ジインの相棒であるためにソラは“特別”でなければならなかった。
なぜなら、ジインが“特別”だから。
手を触れずに物を動かす。念じるだけで炎を起こし、灯りを点す。
普通の人にはない、不思議な力。
ジインのような力を持つ人間を、“魔法使い”と人は呼ぶ。