03 『ノラ』
「水、危なくないかな?」
前を歩くジインの足が心なしかいつもより速い。二、三歩駆けるようにして横に並ぶと、ソラはその横顔を見上げた。
『貧困街』の端を流れるドブ川は、少しの雨でも増水する危険な川だ。毎年雨期には必ず死体が上がる。もっとも溺れて死んだのか、死んだ後に放り込まれたのかは定かではないが。
「今の時期なら大丈夫だろ。それよりネズミに襲われないか心配だな」
「燃やしちゃえば? ぼぼーってさ」
「怖いことをさらっと言うな。それに生き物は燃やせない。燃えないんだ」
「どうして?」
「さあ……水分が多いからかな? よくわからないけど、生き物には火がつかない。そういえば生き物に接してる物も燃えにくいな。人の服とか」
「ふぅん。じゃあさ、死体は?」
「うーん、どうかなぁ。やったことないけど、多分……」
先に角を曲がったジインが突然立ち止まり、ソラはその背中に激突した。
「ったぁ! どうしたの、いきなり……」
ぶつけた鼻をさすりながら路地の先に目をやる。せまい路地の中程に、七、八人の少年たちがたむろしている。『ノラ』の群れだ。面倒な鉢合わせにジインが低く舌打ちする。引き返そうと踵を返すが、もう遅い。
「おい、待てよ」
あっという間に取り囲まれ、二人は背中合わせに少年たちと対峙した。見たところ歳は十から十五。自分たちと同い年くらいの、比較的若い小さな群れだ。
それでもこの人数で袋だたきに遭えば、無傷では済まない。
身構えながら、ソラは横目でジインを窺った。凛と背筋を伸ばし、少年たちを面倒そうに一瞥する双眸は冷静そのものだ。どこか気品さえ感じさせるその態度は、それだけで相手を威圧した。
思わず唇の端が上がる。こんな時は不安に思うよりも先に、ジインを自慢したい気持ちでいっぱいになる。
どんな時でもジインは慌てない。
ジインは、かっこいいのだ。
「めずらしい奴が来たな」
壁に寄りかかっていた少年がこちらへ近づいてくる。どうやらこいつがこの群れのリーダーらしい。
「――残か」
ジインが目を細めた。声音にはわずかに懐かしむ響きがあったが、ジインの表情は緩まない。少年たちの輪が割れ、残が目の前に立つ。ソラはぐっと構えを固くした。
背が、デカい。
仰ぎ見る姿勢になりそうなのを、ソラは上目遣いで睨むことでかろうじて回避した。
「久しぶりだな。ここしばらく姿を見なかったから、てっきり死んだもんだと思ってたが」
愛想の欠片もない切れ長の双眸が、じろりとジインを睨めつける。
「相変わらず細っこいな。そのなりにその顔で、群にも入らずによくもまあ無事でいられるもんだ」
「くだらない世間話はいいからこいつらどかせよ」
ジインの言葉を無視して、残はソラをあごで示した。
「そっちのチビは?」
「チビじゃない!」
一番言われたくない言葉にソラはいきり立った。
「オレはソラだ! 黒瀬ソラ。ジインの相棒だ、覚えとけ!」
相棒という箇所により力を込めて言い切り、ふん、と鼻息を吐く。
残が片眉を跳ね上げた。
「ソラ? ソラってまさか……あの時の赤ん坊か?」
「その、まさか」
「冗談。三年かそこらでこんなにでかくなるかよ」
「育て方がいいもんで」
おどけた口調でジインが肩を抱き寄せる。息子を自慢するようなその仕草に、胸の奥がざわりと疼いた。湧き上がる感情を押し隠しつつ、ソラはわずかに身をよじりさりげなくジインの腕から逃れた。
ジインのこういうところが、少し嫌いだ。
確かにジインはソラの育ての親だ。ソラの特殊な“体質”のせいで外見の年齢はそう違わないけれど、赤ん坊の頃に拾われた時からジインはソラの“父親”であり、“兄”であり、“母親”役でもあった。
今でも頭を撫でられれば嬉しいし、ごくたまに、ほんのちょびっとだけど、甘えたい時だってある。けれど自分はもう子どもじゃない。いや、年齢的には子どもだけれど、そういうことではなく。
ジインにとって“子ども”であることが嫌だった。
だから“相棒”。
深く息を吸い込んで胸を張る。ジインより頭一つほど低い背が少しでも大きく見えるよう、ぴんと背筋を伸ばした。
そんなソラを怪訝な顔でしばらく眺めてから、残は視線をジインに戻した。
「おまえ最近五番街で“仕事”してんだろ。あそこは俺らの縄張りだ」
「はっ、じゃあ名前でも書いておけば?」
「おまえのせいで俺らの食いぶちがずいぶん減った」
「知るかよ、そんなの。そっちの腕が鈍ってるんじゃねぇの?」
「弁償しろよ」
残の声は平坦で、脅すような響きはない。けれどどこか有無を言わさぬ強さがひそんでいた。
取り囲む少年たちの輪がわずかに狭まる。
「こっちは被害こうむってんだ……弁償しろ」
にじり寄る群れを一瞥して、ジインが忌々しげに舌打ちする。
「ふざけるな。おまえらに施すような金はねぇよ」
残が唇の端を歪めて嗤った。
「うそつけ。どうせ財布スる以外にもたんまり稼いでんだろ? ……そのケツでさ」
考えるより先に体が動いていた。かろうじて一歩下がった残の鼻先を拳がかすめる。さらに踏み出そうとしたところで、ジインに肩を押さえられた。
「ソラ」
「ふざけんな! ジインがそんなことするわけないだろ!」
ぎらつく空色の双眸に、少年たちがわずかにひるむ。全身から怒りを滲ませて、ソラは唸った。
「変な言いがかりしやがって、偉そうになにが縄張りだ……! 人様にたかってんじゃねえよ、てめえの食いぶちぐらいてめえで稼ぎやがれこのハエ野郎!」
「よしよし、よく言った。落ち着け」
なだめるジインの声音が余計に神経を逆撫でる。こんな時でも感情を乱さないジインの冷静さが、今は逆に腹立たしかった。
殺気を増した群れを手振りで制して、残が低く舌打ちする。ソラの肩をしっかりとつかんだまま、ジインは静かなまなざしを残に向けた。
「おまえも落ち着けよ、残。勝てないケンカをふっかけるなんて、らしくないぞ」
もとは思慮深そうな面長の顔が、今度は嘲笑に歪んだ。
「勝てないだと? たった二人でずいぶんと強気だな。それとも、そっちのチビがおまえを守ってくれるのか?」
「チビって言うな!」
吠えるソラの隣で、ジインが呆れたように苦笑いした。
「図体の割に子どもっぽいんだな。そうやって荒れるのはおまえの勝手だけど、やつあたりはやめろよ。みっともないぞ」
「やつあたり、だと?」
「イラついてる原因はあれだろ?」
ジインがあごをしゃくる。少し離れた場所に、群れの仲間であろう少女たちが立っていた。そのなかの一人の腹が、着込んだ服の上からでもわかるほど大きい。
「……父親は?」
ジインの問いに、残の双眸がぎらりと光る。
「おまえには関係ないだろう」
その剣幕に、ジインは肩をすくめた。
『ノラ』の少女が妊娠することは珍しくない。避妊具なんて気の利いたものはこの街にないし、横行する売春や強姦で可能性はいくらでもあった。
産むにせよ何にせよ、医者にかかるにはまとまった金が要る。
群のリーダーである残が医療費の調達に躍起になるのも当たり前だ。
たとえ医者に診てもらえたとしても、医療設備の不十分な『貧困街』での出産はそれこそ生死に関わることだ。
無事に子どもが生まれた後も、赤ん坊のための清潔な水や食料はどれも高額で、生活はさらに苦しくなるばかり。
短く息を吐き、ジインが目をふせた。子どもが子どもを育てる苦労は、ジインが一番よく知っているはずだ。
それでも、ここで同情するわけにはいかない。
「縄張りの使用料……払ってもらおうか」
空気が強張る。ソラは取り囲む少年たちの顔をゆっくり見回した。みな必死の形相をしている。当たり前だ。これは遊びなんかじゃない。
これは今日を生き抜くための、命がけの取引なのだから。
ちらりと少女に目をやって、ジインが大げさにため息を吐いた。
「仕方ないな」
ポケットから何かを取り出して、一番近くの少年に差し出した。無防備に伸ばされた少年の手をジインが素早く掴む。
「あっ!」
前のめりに倒れ込む少年の背を踏み台にして、ジインが跳んだ。反動で地面に顔から突っ込んだ少年がくぐもった悲鳴を上げる。その後を追って、ソラも抜群の跳躍力を生かして別の少年の頭に手をついた。少年たちの輪を軽々と飛び越えると、ジインはきれいにコートを翻して言った。
「そんなもん払うわけねえだろ!」
べーっと舌を出すと、二人はそろって駆け出した。石のひとつでも飛んでくるだろうと身構えた背中に聞こえてきたのは、意外な声。
「残! なんで止めるんだよ」
思わず振り返ると、何人かの少年が不満げに残を囲んでいた。
「いいから、放っておけ」
力なく腕をたらしたままの残と目が合う。
きっと、ジインとまともにやりあっても勝ち目がないことを知っているのだろう。“らしくない”とジインが言ったとおり、考えなしに人を挑発するような人間ではないのかもしれない。
絶望に似た色が見え隠れするその瞳から目をそらして、ソラは踵を返した。
「待って!」
突然の少女の声に、その場の全員の動きが止まった。
あのお腹の大きい少女だ。
少女は黒目の大きな瞳を瞬かせ、ためらいがちに口を開いた。
「九呼を……九呼をどこかで見なかった?」
ジインがわずかに首をかしげる。
「クコ? ……ああ、あのちょこまかしたチビのことか」
「あの子、“赤ん坊のためにお金をたくさん作ってきてやる”って出かけたまま……もう二週間経つの」
二週間。
ジインの横顔がわずかに曇る。残が顔を背けた。ジインと少女のやり取りを黙って見ている少年たちの顔には、先ほどの勢いは微塵も感じられない。
そう、みんなわかっているのだ。
二週間。
それは、この街では絶望的な数字だ。
「――わかった」
凛と響くジインの声が、暗く沈んだ空気を震わせた。
「見かけたら、道草食わずにさっさと姉貴のところに帰るよう伝えておくよ」
真夜中の澄んだ空気を思わせる静かな声音。どこか人を落ち着かせる響きのそれは、張り上げてもいないのに路地の隅までよく通り、すうっと耳に染み込むようだ。
よどんだ空気が、わずかに晴れる。
少女に背を向け、去りかけたジインが再び振り返った。
「……朱世!」
少女が顔を上げる。
「体、気をつけろよ」
朱世はわずかに驚いた後、ぎこちなく微笑んでうなずいた。




