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02 空と灰色

「……うん、大丈夫。だれもいないよ」

 建物の角から顔をつき出したソラが、ジインを振り返る。

 そびえ立つ巨大なビルの群。遠い昔に打ち捨てられたそれらは未だかろうじてその荘厳さを残してはいるけれど、繁栄を極めたかつての傲慢さは雨と風と陽の光によって少しずつ削りとられ、道路の隅で砂と化していた。

 『貧困街』の東に位置する広大な廃墟の街。年々地盤が脆くなり、数十年のうちには下の空へ崩落するだろうと言われている旧文明の墓場だ。

「ほらね? だぁーれもいないでしょ」

 得意げに言いながら、ソラは両手を広げてくるりと回ってみせた。

 遠い昔たくさんの人や車が行き交ったであろう劇場前の大通りには、ジインとソラ以外生き物の気配が感じられなかった。

「大体さ、普段からこんなところ通るのなんて、オレたちぐらいだよ」

 このあたりは昼間でも滅多に人が通らない。通る必要がないのだ。電気も水も届かない廃墟はせいぜい倉庫にするくらいしか使い道がない上に、老朽化したビルは常に倒壊の危険を孕んでいる。そもそも地盤自体に崩落の恐れがあるということで、百年以上前に国政の中心がここから西の地へ移されたのだ。人々の生活は陸島の西部にある第一区を中心に成り立っており、ここは圏外も圏外、東のはずれの、とうの昔に捨て去られた土地だった。

 とはいえ、一度は首都として栄えた場所だ。道路はいまだ舗装された状態で残っているし、雨風の凌げる建物も数多くある。軒先が重なるほどに狭苦しく、物盗りや縄張り争いの絶えない『貧困街』から移り住む人がいてもいいように思うが、それでも人が寄り付かない要因として考えられるのは、人々の生活圏である市場とここを遮るように建つHOTEL=JESSICAの存在だ。

 HOTEL=JESSICAはその昔、ひどい病気が流行ってたくさんの人が死んだ曰くつきの場所だ。当時すでに廃墟だったホテルには家を持たない多くの人が住みついており、感染が新市街まで広がるのを恐れた政府当局はホテルとその一帯を封鎖して感染者もそうでない人もホテルに閉じ込めた。結果、治療はおろか食料さえ絶たれたホテル内は想像するだに恐ろしい悲惨な状況になったらしい。

 直後に起こった火事でホテルは“中身”ともども焼けてしまい、今ではすすけたコンクリートの骨組みだけがうつろにたたずんでいる。当時火をつけたのは政府の人間だという噂がまことしやかに流れたが、真相は謎のままだ。「片すのが面倒くさくてそのまま焼いちまったんだろう。まだ生きてる奴も大勢いたらしいが……まっ、変なもんうつされる前に燃えちまって、正直こっちは助かったってやつだ」そう言っていたのは風呂屋の親父だ。

 燃え上がる炎が夜空を赤く染め市場まで断末魔の叫び声が聞こえたという大惨事は、人々の目やら耳やらに深く焼きついてしまったのだろう。十数年経った今でも、当時のウィルスがまだ残っているとか、生きたまま焼かれた人の亡霊が出るとか、このあたりに死体を捨てると亡霊が乗り移ってゾンビになるとか、そういう類いの噂が絶えない。

 おかげで市場からホテルを挟んだこちら側一帯は、昼間でも人影まばらな隔絶された地域となっていた。ここで見かけるものと言えば、追いやられた浮浪者か人目をはばかる犯罪者、もしくは打ち捨てられた死体ぐらいだ。

 それでもソラたちが時折ここを通るのは、住処にしている廃工場と市場を一直線で繋ぐ近道だからだ。

「ね、ユーレイが出てきたらどうする?」

「捕まえてテレビ局に売っぱらってやる」

 幽霊だとかゾンビだとかそんなワケのわからないものよりも、生きている人間の方がよっぽど怖いというのがジインの言い分。たとえそういうものに出くわしても、走って逃げればいいというのがソラの意見だ。

 市場の喧噪から遠く離れたこの一帯が昼間でも薄気味悪いのはいつものことだが、晴れ渡った青空と陰気な灰色のコントラストがのっぺりとした絵のようで今日はとくに気持ちが悪い。生き物の気配がしないのに誰かの息づかいが聞こえるようで、なんだか変な感じだ。

 飛空船が一隻、遠くの空に浮かんでいる。

「で、どこらへんで見つけたんだ?」

「あの辺りで、空からふってきた」

「空……ってことはビルの上か? それとも風でまき上げられたか……」

 幅の広い通りをぐるりと見回しても、無駄に日当りのいいコンクリートには花はおろか苔すら見当たらない。

 前を歩いていたジインがソラを振り返る。

「なあ! おまえ、“におい”でわからないか?」

「におい?」

「花って匂いがするもんだろ」

「匂いって、どんな匂い?」

「そうだなあ……タバコ屋のばあさんの香水が、一番近いかな」

「げええ」

 しわだらけの醜悪な顔を思い出して、ソラは顔をしかめた。

 確かにばあさんは、いい香りと言えなくもない匂いを漂わせていた。わざとらしいほど甘ったるく、少しつんとしたあの匂い。

 それを思い浮かべて、ソラは空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 鼻腔を通り過ぎる空気は、それぞれのイメージを脳裏に浮かび上がらせる。

 古びたコンクリート。埃の浮いた水たまり。午前中の風。錆びた鉄筋。

 どれも何の変哲もない、いつもの匂いだ。

「うーん……それっぽいのは、ないなぁ」

 何度か場所を変えて探してみたが、それらしき匂いは見つからなかった。

「まっ、そう簡単にはいかないか」

 手を腰にジインががりがりと頭を掻く。

 その時、




 ――……。




「え?」

 奇妙な感覚に、ソラは思わず振り返った。

「どうした?」

「うん……なんか、誰かに呼ばれたような気がして……」

 あたりを見回す。そこは南北に伸びる大通りのほぼ真ん中で、足元には歩道の段差、横には斜めにひしゃげた道路標識があるだけで、見渡せる範囲にはアスファルトと鉄とコンクリートしかない。

「近くに誰かいるのか?」

 ジインの声が鋭くなる。もし銃を持った奴らと出くわしたら大変だ。

 しばし耳を澄ましてみて、ソラは首を振った。

「ううん。車の音もしないし、人の気配もないよ」

 そう、誰もいないはずなのに――。

 まぶたを閉じ、些細な音も拾えるよう耳の後ろに手を添えて、ソラは感覚のすべてを耳に集中した。

 風の囁き。雫のしたたり。転がる空き缶。空を行く飛空船のかすかなモーター音。踏みしめる砂の軋み。ジインの息づかい。衣擦れ。

 辺り一帯の音を浚ってみても、さっきの奇妙な感覚はきれいさっぱり消え去っていた。

「風で流されてきた市場の音を拾ったんじゃないのか?」

「うーん……」

 首を捻る。確かにそういう可能性もなくはない。けれど、さっきのそれは物音というより――。

「……もしかして、ユーレイとか?」

「えっ?」

 ジインの呟きに、ソラの頬がひくりと強張る。深刻な面持ちで腕を組むと、ジインはさらに声をひそめた。

「ここから……近いよな、HOTEL=JESSICA。まさか、ついに聞こえちゃったとか……?」

 憐れむような目で見られて、ソラは慌てて首を振った。

「ちょっ、ちがうよ!」

「おまえ、昔から勘がよかったけど……そっち方面の感覚、ついに目覚めちゃったんだ……」

「“そっち方面”って何!? ちょ、なんで遠ざかるの!? やめてよ!」

 変な汗をかきながら、違うからと腕を振る。

 幽霊を見たことは一度もない。そういう類いのものを見ることができるのは、そういう素質のある一部の人たちだけだとジインから聞かされていた。「大丈夫だよ、おまえには霊感ないから……」まだ幼い頃、真夜中のトイレへ一緒に行って欲しいと頼む度に、となりで眠るジインが半分寝言のように呟いた台詞だ。「レイカンないからだいじょうぶ、レイカンないからだいじょうぶ……」実際にそう呟きながら一人で用を足した深夜のトイレで、幽霊に出くわしたことは一度もなかった。

 だから自分には本当にそういう素質がないのだと安心していたのに。

 じりじりと後じさっていたジインの視線がふとソラの足元に落ち、その双眸が驚愕に見開かれた。

「あああっ!! 排水溝から白い手がっ!!」

「ぎゃああっ!!」

 脅威の跳躍力で、ソラは足元の排水溝から思いきり飛び退いた。

「どっ、どこどこどこ!? どこに手っ!?」

 ゴキブリよりも素早い足使いで道の端まで後じさり、辺りを見回す。

 ゾンビなら飛び蹴りで倒せる自信があるが、なにせ幽霊は透け透けなのだ。

「なに、どこ!? どこに手が……」

 くっくっという笑い声で我に返る。小刻みに肩を震わせるジインに、ソラはまなじりをつり上げた。

「……ジインッ!! 騙したな!!」

「あはは、ごめんごめん。いや、でもほんとに何の音――……」

 ジインがふと動きを止めた。その視線の先に目をやって、ぎくりとする。

 道路の端にある、小さな排水溝。

 そこから覗く、小さな白い――……。

「ゆ、指っ!?」

「――違う」

 ジインがゆっくりとしゃがみ込む。恐る恐る近づいて、ソラはあっと声を上げた。

 鉄格子の狭間で、ひらひらと揺れているのは――。

「――花びらだ!」

 急いで排水溝をのぞき込む。前髪がふわりと浮き上がり、まつ毛が震えた。乾きそうになる目をしばたかせながら目を凝らすと、奥の壁面にも一枚ひっかかっている。

「すごい風だな」

 排水溝からは風が吹き出ていた。けっこうな勢いだ。格子で震えていた花びらがついに耐えかねて、ソラの頬をかすめて空へと昇っていった。

「やっぱり、この近くにあるのかな」

 期待に胸が膨らむ。立ち上がりかけたソラの腕を、ジインが掴んだ。

「違う……この奥だ」

「え?」

「外から花びらが入り込むには、この風が邪魔になる。花びらは風に乗って……たぶん、この下から来たんだ」

「この下? 地下に花が咲いてるってこと?」

 もう一度排水溝をのぞき込む。怪物の喉笛のような深い暗闇は途中で折り曲がり、その先は知れない。

 こんなところに、本当に花が……?

 半信半疑のソラの鼻先を、風がふわりとかすめた。

 ほのかに甘い匂い。あまり嗅いだことのない匂いだ。ババアの香水よりもずっと優しく、繊細な……。

「……花の匂いだ!」

「当たりだな」

 ジインがにやりと笑う。でも、とソラは首を捻った。

「花って、陽の当たるところに咲くんじゃないの?」

「さあな。地下に咲く花なんておれも聞いたことないけど、もしかしたら突然変異か何かでそういう花があるのかもしれない。もしくはどこか外から吸い込まれて、風に乗ってここまで来たのか……この排水溝がどこにつながっているかなんて見当もつかないけどな」

「この風、どこから来てるんだろう?」

 排水溝からの風はかすかに湿って暖かく、空から吹く風のような瑞々しさはないけれどよどんで腐った匂いもしなかった。他の排水溝も調べてみたが、奥が埋まったり塞がったりしているのだろう、風が出ているのはここだけだ。

 排水溝はソラの肩幅より狭く、とても人が入れる大きさではない。

「どこか地下に下りられるところってないのかな……“チカテツ”の入口とか?」

「どこも鉄格子とシャッターが下りてるか、崩れて埋まってる」

「じゃあビルの中に地下へ下りる階段とかないかな」

「ここらのビルはヤバい奴らが隠し倉庫に使ってるらしいから、ヘタに入らない方がいい。……うーん、旧文明の地下探索か。なんだかオオゴトになってきたなあ」

 しゃがんだまま頬杖をつくジインの袖を、ソラは慌てて引っぱった。

「行こうよ、探そうよ! せっかくここまで来たんだから、手ぶらで帰るんじゃもったいないよ!」

「うーん……」

 軽くまぶたをふせて、ジインが首筋に手をやる。考えごとをする時のジインのクセだ。

 きっとあるかどうかもわからない花を探し続けるのと、さっさとあきらめて“仕事”へ行くのと、どちらがいいかを考えているのだろう。

 ソラはそっと唇をかんだ。

 ジインは頭がいい。大抵のことは知っているし、何でもできる。計算も速いし、漢字もたくさん読める。どこから調達してくるのか、たまに新聞を束で拾ってきては真剣な顔で読みふけっている。手先だって器用で、ソラがあめ玉をひとつ盗るあいだにジインは三人分の財布を盗むことができる。ソラが他の『ノラ』より少しばかりいい暮らしができるのも、すべてジインのおかげだった。

 そしてジインは無駄なことを嫌う。確かな場所もわからない花を探しまわることは、ジインにとっては無駄以外の何ものでもないだろう。

 だからきっと、宝探しもこれでおしまい。

 無駄を省くことは生きていくにはしかたのないことだと自分に言い聞かせてみても、しぼんでいく気持ちは止められない。

 思わずため息をつくと、ジインが真剣な顔でぽつりと呟いた。

「ドブ川の横穴なら……」

「……え?」

 ジインの白い指先が、こつこつとアスファルトを叩く。

「ほら、ドブ川の堤防に横穴があるだろ? 奥が崩れて“チカテツ”と繋がってるって話だ。ちょっと遠回りだけど、これ排水溝だろ? それなら水の流れをたどった方が見つけやすいかも」

「え……探しに行くの? 地下に、わざわざ?」

「なんだよ、止めるのか?」

 逆に問われ、ソラは激しく首を振った。

「やめないやめない! ……でもいいの? “仕事”に行かなくて」

「一日くらい休んだってバチ当たんないだろ。おれたちの場合、むしろ“仕事”に行くほうがバチ当たりそうだし」

「でも、もしかしたら花なんて見つからないかもしれないよ?」

「なんだよ、めずらしく弱気だな。まっ、正直おれもいい予感はしないけどさ。あちこち散々探しまわった挙げ句に、結局なにも見つからないっていう可能性のほうが高いと思う。でも……」

 言葉を切って、ジインが顔を上げる。

「簡単にあきらめたら、オトコがスタるだろ」

 そう言ってジインはにかりと笑った。めずらしく子どもっぽい笑顔で、大人びた顔が急に幼く見える。

「幻の花を求めて地下探検か……ふふっ、わくわくするな?」

 吸い込んだ空気で胸が膨らむ。声を上げて笑い出したいのをこらえながら、ソラはジインに負けないくらいの笑顔で大きく頷いた。




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