都合のいい社員扱いされた私が、先輩を地獄に落とすまで
年末の社内表彰式で、私はまたしても「年間もっとも存在感のない社員」というたすきを掛けられた。
会場は、東京・港区にある高級ホテルの宴会場だった。シャンデリアの光はまぶしく、客席にはスーツ姿の同僚たちがずらりと並んでいる。シャンパンのグラスが触れ合う音に、わざと抑えた笑い声が混じっていた。
そして私の隣では、田中真由美が両手で「年間MVP社員」のトロフィーを抱え、上品でやわらかな笑みを浮かべていた。
彼女はオフホワイトのスーツを着ていた。耳元のパールのイヤリングが照明を受けて揺れ、まるで職場ドラマに出てくる、上司からもっとも信頼される完璧な女性そのものだった。
彼女はマイクに向かって、軽く一礼した。
「会社の信頼に、心から感謝しています。正直に言うと、私たち企画部はとても寛容な部署です。五年間、たいした存在感もなく、黙って雑用ばかりしている人でも、ここではちゃんと面倒を見てもらえるんですから」
会場に、曖昧な笑いが広がった。
彼女がそう言った瞬間、その視線の端が私をかすめた。
次の瞬間、彼女のハイヒールが、私の足の甲を強く踏みつけた。
細いヒールが骨の上をえぐるように押しつぶし、痛みで指先が震えた。それでも私は笑顔を崩さなかった。屈辱に慣れきった人間のように、彼女の隣で静かに立っていた。
田中真由美は顔を少し下げ、私たち二人にしか聞こえない声で言った。
「小林葵。あなたみたいな人が丸の内の広告会社に五年もいられたんだから、感謝したほうがいいわよ」
私は何も言わなかった。
彼女は、私がもう諦めていると思っていた。
この五年間、私が何度も頭を下げ、何度も礼を言い、何度も企画書を彼女に渡してきたのは、私が弱くて、愚かで、野心がないからだと思っていた。
でも、彼女は知らない。
三十日後、彼女は都庁プロジェクトの報告会の壇上に立ち、自分の手で開いたその企画書によって、一歩ずつ地獄へ引きずり込まれることになる。
1
私は東京・港区にある、丸の内の街並みを見下ろせる大手広告企画会社で、もう丸五年働いていた。
この五年間で、田中真由美は私の企画書を六十七本盗んだ。
最初は、入社したばかりの頃だった。
当時の私は、企画部の新人にすぎなかった。毎日一番早く出社し、一番最後に照明を消して帰っていた。
自分の力を証明したくて、私は二週間かけて市場調査レポートを作った。渋谷、銀座、新宿の現地サンプルまで、自分の足で回って集めた。
レポートが完成した日、田中真由美は私の席まで来て、そっと肩を叩いた。
「小林さん、資料を送ってくれる? 私が一度見てあげる」
彼女は私の先輩で、企画部長からもっとも信頼されている人だった。
その頃の私は、職場にある「優しい罠」というものを知らなかった。
先輩が指導してくれる。それは幸運なことだと思っていた。
だから私は、レポートを彼女に送った。
翌日の朝会で、企画部長は会議室で田中真由美を褒めた。
「田中、この調査はよくできている。クライアントも満足していたよ」
田中真由美は微笑みながら一礼した。
「ありがとうございます。私は自分のやるべきことをしただけです」
私は会議テーブルの隅に座り、手元の議事録に目を落としていた。
タイトルも、データも、構成も、結論も、すべて私が書いたものだった。
けれど、そこには小林葵の名前など一文字もなかった。
会議が終わると、田中真由美は私を自動販売機の横に呼び出した。彼女は自分用にブラックコーヒーを一本買い、ついでのように私へ無糖の緑茶を一本買った。
「小林さん、若いうちはあまりこういうことにこだわらないほうがいいわ。入社したばかりで早く目立ちすぎるのは、よくないことなの」
私は冷たい緑茶の缶を握りしめ、うなずいた。
「ありがとうございます、田中先輩」
彼女は満足そうに笑った。
「分かっているならいいの」
二か月目、私は大型商業施設のオープニングイベント企画案を作った。
田中真由美はまたやって来た。
「この前の調査、クライアントに好評だったわ。今回のイベント企画も私に送って。失敗しないように、見てあげるから」
私はまた彼女に送った。
今度、彼女はタイトルだけを直し、表紙を差し替え、作成者欄を「田中真由美」に変えて、そのままクライアントに送った。
クライアントの反応はとてもよかった。プロジェクトチームを銀座の料亭に招待したいとまで言ってきた。
田中真由美は部署のグループチャットで私にメンションした。
「小林さんも来なさい。新人はたくさん勉強しないとね」
その夜、クライアントはずっと田中真由美と乾杯していた。
彼女は頬を赤らめ、笑いながら言った。
「このくらいの小規模イベント企画なら、私は一日で三本は作れます。うちの小林はまだ若いので、いろいろ勉強が必要ですけど」
テーブルの全員が笑った。
私も笑った。
それからというもの、田中真由美は毎月のように私の企画書を求めてくるようになった。
ある時は「修正してあげる」と言い、ある時は「参考にしたい」と言い、ある時は私がコンビニへ昼食を買いに行っている間に、私のパソコンから直接ファイルをコピーした。
部署の人たちは、少しずつそれを当たり前のこととして受け入れていった。
田中真由美の話になると、皆は「能力が高い」「成果が多い」「クライアント受けがいい」「企画部のエースだ」と言った。
私の話になると、皆は「真面目」「静か」「よく働く」「でも少しセンスが足りない」と言った。
田中真由美はよく、オフィスで大きな声で電話をしていた。
「山本部長、ご安心ください。企画書は今夜お送りします。私が自分で手掛けますので、御社には必ずご満足いただけます」
電話を切ると、彼女は隣の同僚に笑いかけた。
「また小林の企画よ。少し直せば使えるわ。あの子、頭はたいしたことないけど、出してくるものだけは便利なのよね」
同僚も調子を合わせて笑った。
「それも田中先輩のご指導がいいからですよ」
「指導なんてしていないわよ」
田中真由美はコーヒーを飲みながら、目を細めて笑った。
「あの子は人間プリンターみたいなものよ。そこに置いておけば企画書を吐き出してくれるの。ねえ、そういう人って便利でしょう?」
その声は大きすぎず、小さすぎず、オフィス全体に聞こえる絶妙な音量だった。
私は自分の席に座ったまま、パソコン画面を見つめていた。
画面に映っていたのは、次の企画書の初稿だった。
2
三年目、私はシニアプランナーに昇格した。
田中真由美と同じ立場になった。
彼女は明らかに面白くなさそうだった。
その頃から、彼女はあの手この手で私の粗を探すようになった。
私が提出した企画書に対して、彼女は部署会議で必ず問題点を指摘した。
「このフォント、統一されていないわ」
「このデータは少し古いんじゃない?」
「このアイデアは日本市場ではもう時代遅れね」
「この表現は高級感が足りないわ。うちの会社の水準には見えない」
彼女の指摘は一つ一つ細かく、まるで本当に真剣に指導しているかのようだった。
企画部長はいつも場を取りなした。
「田中も君のためを思って言っているんだ。小林、先輩の厳しさを理解しなさい」
私はうなずいた。
「はい。ありがとうございます、田中先輩」
会議の後、田中真由美は私を階段の踊り場に呼び出した。
彼女は腕を組み、見下ろすように私を見た。
「小林さん、先輩として言うけれど、あなたの実力でシニアプランナーはまだ早いわ。部長があなたの真面目さを見て、慰めみたいに枠をくれただけ。自分に本当に力があるなんて、勘違いしないでね」
私は目を伏せた。
「分かっています。私には、まだ田中先輩に学ぶことがたくさんあります」
彼女は満足した。
「分かっているならいいの。来月の自動車ブランドの年間発表会企画、ちゃんと作りなさい。できたらまず私に送って。前みたいに、クライアントからクレームになりかけるようなものは困るから」
本当は前回、クライアントはとても満足していた。
でも私は説明しなかった。
「はい、田中先輩」
その自動車ブランドの企画案のために、私は二晩徹夜した。
発表会の会場、メディア展開、SNSでの事前施策、オフライン体験エリア、KOLリスト、予算配分。
一つ一つの項目を、私は少しずつ磨き上げた。
完成すると、いつものように田中真由美へ先に送った。
翌日の昼、彼女からメールが返ってきた。
「全体としては悪くないわ。ただ、細部はまだ調整が必要ね。私が先に整えて、そのままクライアントに見せておくわ。あなたがまた直す手間も省けるでしょう」
その「調整」によって、企画書の作成者はまた彼女一人になった。
クライアントの反応は非常によく、案は採用されただけでなく、追加予算までついた。
企画部長は会議で田中真由美を大きく褒めた。
「田中、今回もよくやった。さすが企画部の柱だ」
田中真由美は謙虚に微笑んだ。
「チーム全員の努力です。特に小林さんも、いろいろ手伝ってくれました」
企画部長は私を見た。
「小林もよくやった。いいサポートだった」
私は少し笑った。
「ありがとうございます、部長」
その夜、会社には私と田中真由美だけが残って残業していた。
窓の外では、丸の内のオフィスビルが一棟ずつ明かりを灯している。終わりのないガラスの森のようだった。
田中真由美はコンビニのコーヒーを手に、私の席まで来て、パーティションに寄りかかった。
「小林さん、今日も私があなたをかばってあげたのよ」
私の指はキーボードを打つのを止めなかった。
「ありがとうございます、田中先輩」
「部長、もともとはあなたに小さな案件を一つ任せるつもりだったみたい。でも私が言ったの。小林さんはまだ未熟だから、あと二年は私の下で学ばせたほうが安全ですって。部長も納得していたわ」
私は画面を見つめた。
「はい。これからも努力します」
彼女はコーヒーを一口飲んだ。
「遠慮しなくていいのよ。そういえば、来期の文旅都市開発の大きな案件、部長が私をリーダーにするって。あなたはその時、私の補助に入りなさい。企画部分は多めに任せるわ。うまくいったら、先輩はあなたを悪いようにはしないから」
「はい」
彼女はハイヒールの音を響かせて去っていった。
その音は、誰もいないオフィスに一歩ずつ反響した。
私は手を止め、パソコンの中にある隠しフォルダを開いた。
フォルダ名は「業務記録」。
その中に、さらに一つのサブフォルダがある。
名前は「田中真由美」。
私はそれを開き、新しい文書を作成した。
文書名は、その日の日付にした。
2023年4月12日。自動車ブランド年間発表会企画の最終版が田中真由美に持ち出された。メール保存済み。
それから私は、別の暗号化された表計算ファイルを開いた。
そこには、すでに多くの行が並んでいた。
私は最新の行に入力した。
番号、43。
企画名、某自動車ブランド年間発表会企画。
引き渡し日、4月12日。
引き渡し方法、メール。
備考、田中真由美が「悪いようにはしない」と発言。
保存。
暗号化。
閉じる。
パソコン画面の冷たい光が、私の顔を照らしていた。
私は泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、そのまま次の企画書を書き続けた。
3
五年目、会社に超大型プロジェクトが舞い込んだ。
東京都主導の「スマートシティ・デジタルアップグレード計画」。
予算は百八十億円。
東京中の広告業界、ITコンサル業界、都市開発業界が、このプロジェクトに注目していた。
企画部長は大きな会議室で決起集会を開いた。
「このプロジェクトを取った者は、年末に事業部副部長候補へ直行だ。さらにプロジェクト利益の分配もある」
会議室に、息をのむ音が広がった。
田中真由美の目が光った。
彼女はスクリーンに映し出されたプロジェクト名を見つめていた。まるで、すでに自分が個室のオフィスに座っている姿を見ているようだった。
会議が終わると、彼女は真っ先に私のところへ来た。
「小林さん、このプロジェクトは絶対に取らなきゃ。最近の仕事は一度置いて、この提案書に集中して。必要な資料やリソースがあれば、遠慮なく言いなさい。先輩が全力でサポートするわ」
私は彼女を見た。
「田中先輩。このプロジェクトは、私が自分でリーダーをやりたいです」
彼女は一瞬固まった。
それから笑った。
物分かりの悪い後輩が、幼稚なことを言い出したとでもいうような笑いだった。
「あなたがリーダー?」
彼女は一歩近づき、声を低くした。
「小林さん、先輩として言うけれど、このレベルの案件、見たことある? どの階層の人とやり取りするのか分かっているの? 都庁の審査委員、区役所の担当者、財団法人の専門家、協力企業の代表。そういう人たちを相手にして、あなた対応できるの?」
私は何も言わなかった。
彼女は手を伸ばし、私の肩を軽く叩いた。
「言うことを聞きなさい。あなたは一番大事な企画部分を担当すればいいの。外部への報告、関係調整、クライアント対応は先輩がやる。成功したら、あなたの功績もちゃんと残してあげるから」
私はまだ何も言わなかった。
彼女の顔色が沈んだ。
「何? 今さら羽が生えたつもり? 先輩の言うことも聞けなくなったの?」
彼女の声が冷えた。
「忘れないで。この五年間、あなたがどうやってここまで来られたのか。私が面倒を見てあげなかったら、あなたがこの会社に今日までいられたと思う?」
私は言った。
「田中先輩。私は、ただ試してみたいだけです」
「試すですって?」
彼女はついに声を荒らげた。
「これは試していい案件じゃないのよ。失敗したら、企画部全体が恥をかくの。身の程をわきまえなさい」
隣の席の同僚たちが、こちらを見た。
田中真由美はすぐに声を落とした。けれど、その口調はさらに鋭くなっていた。
「小林葵、はっきり言っておくわ。このプロジェクトのリーダーは私がやる。あなたは協力しなさい。成功したら、二百万円のボーナスを申請してあげる。協力しないなら……」
彼女は冷たく笑った。
「今後、この会社でまともなプロジェクトを一つも受けられないと思いなさい。私は本気よ」
私たちは十秒ほど見つめ合った。
最後に、私はうなずいた。
「分かりました、田中先輩。私が提案書を作ります」
彼女はようやく満足した。
「それでいいの。来週の月曜には初稿を見せて」
4
そこからの一か月、私はほとんど会社に住んでいるようなものだった。
チームは六人。
毎日十六時間働いた。
朝八時にオフィスへ入り、深夜二時にようやく退社する。コンビニのおにぎり、缶コーヒー、エナジードリンクの空き容器が、会議室のゴミ箱に山のように積まれていった。
すべてのデータ、すべてのモデル、すべての都市動線分析、すべての住民行動予測を、私は一つ一つ磨き上げた。
渋谷、新宿、品川、豊洲、六本木。いくつもの主要エリアのデータを何度も照合し、東京の過去十年間の再開発事例も参照した。
目は赤くなり、指はこわばった。
田中真由美は毎日一度、「視察」に来た。
「進捗はどう?」
「問題ありません」
「急いで。都庁のほうがかなり急かしているわ」
「分かっています」
彼女は来るたびに、私の背後に立ってしばらく画面を見ていた。
時にはわざと身をかがめ、文書のタイトルをのぞき込んだ。
時には机の上の草稿を手に取り、二ページほどめくってから、何気ない顔で戻した。
四週目、私は倒れた。
重い風邪で、熱は三十九度まで上がった。
一人で病院へ行き、点滴を受けた後、医師から少なくとも三日は休むように言われた。
私は企画部長に休みを申請した。
企画部長は言った。
「小林、しっかり休みなさい。プロジェクトも大事だが、体はもっと大事だ」
田中真由美は部署のグループチャットにメッセージを送った。
「小林さん、しっかり休んで。残りの作業はこちらで先に進めておきます。全体の進行を止めないように、今できている部分を私に送ってください」
私はワンルームのベッドに横たわり、スマホの画面を見ていた。
それから起き上がり、パソコンを開いた。
私は彼女に案を送った。
最終版ではない。
二週間前のバージョンだった。
見た目には、すでに完成度が高かった。構成は美しく、データも十分で、論理も人を引きつけるだけの力があった。
けれど、本当の核心部分は入れていなかった。
彼女からは、ほとんど即座に返信が来た。
「受け取りました。ゆっくり休んで」
私はパソコンを閉じ、また眠った。
病欠三日目、熱は下がったが、体はまだ重かった。
午後、私は会社へ行った。プロジェクトの進み具合を確認したかったからだ。
オフィスの入り口まで来た時、中から田中真由美の声が聞こえた。
「はい、山本委員、ご安心ください。提案内容は、前回おっしゃっていた都市連動の方向性に完全に合わせています。ええ、私が直接見ています。チームは一か月まるまる徹夜同然で作業しました。お褒めいただき恐縮です。はい、では明日の報告会で」
彼女は電話をしていた。
私はドアを押し開けた。
オフィスにいた数人が、同時に私を見た。
田中真由美は、私の席に座っていた。
私のパソコンは開かれていて、画面にはあの提案用パワーポイントが映っていた。
彼女は電話を切った。顔に一瞬だけ不自然な色が浮かんだが、すぐに笑顔になった。
「あら、小林さん。どうして来たの? もう少し休んでいなさいって言ったでしょう?」
私は言った。
「だいぶ良くなったので、様子を見に来ました」
「ちょうどよかったわ」
彼女は立ち上がり、私に席を譲った。
「あなたの提案書を見ていたところよ。いくつか調整が必要ね。でも全体としては悪くない。土台はよくできているわ」
私は座り、画面を見た。
提案書はすでに別ファイルとして保存されていた。
ファイル名はこうだった。
スマートシティ提案_田中真由美_最終版。
私は尋ねた。
「田中先輩が修正したんですか?」
彼女は自然な口調で答えた。
「少し構成を変えただけよ。明日、都庁で報告するのに合うようにね。あなたはまだ病み上がりでしょう。こういう雑務は気にしなくていいの。明日は私が報告に行くから、あなたは家で休んでいなさい。いい知らせを待っていて」
オフィスの他の人たちは皆、頭を下げたまま何も言わなかった。
私は言った。
「明日、私も一緒に行きたいです」
田中真由美は眉をひそめた。
「あなたが行って何をするの? まだ体調が戻っていないのに、都庁の人にうつしたらどうするの。それに、ああいう場ではあなたが行っても座って聞いているだけでしょう。意味がないわ。契約が取れたら、祝勝会に来ればいいの」
私はまだ何か言おうとした。
けれど彼女は、すぐに遮った。
「はい、この件はこれで決まり。みんな忙しいの。時間を無駄にしないで」
彼女はコップを手に取り、ハイヒールの音を響かせて出ていった。
私は自分の席に座ったまま、パソコン画面を見つめていた。
カーソルは「田中真由美_最終版」という文字の後ろで、点滅していた。
隣の若い同僚、小島がこっそり近づいてきた。
「小林先輩、怒らないでくださいね。田中先輩は、ずっとああいう人ですから」
私は彼を見た。
「ああいう人って?」
小島は言葉に詰まった。
私は少し笑った。
「大丈夫。慣れているから」
私はパソコンを閉じ、荷物をまとめて会社を出た。
会社のビルを出る頃には、もう夜になっていた。
港区の高層ビルの間を抜ける東京の夜風は、刃物のように冷たかった。
スマホが震えた。
田中真由美からのLINEだった。
「小林さん、さっきは少し言い方がきつかったわね。気にしないで。先輩として、あなたのため、プロジェクトのためを思って言ったの」
すぐに二通目が届いた。
「明日の報告がうまくいったら、あなたの功績もちゃんと一番に記録してあげるから」
私は返信しなかった。
まもなく、三通目が届いた。
「そういえば、あなたのパソコンにある提案の原本ファイルを送ってくれる? 今夜もう一度整理したいの。一番完全なバージョンをお願い」
私はそのメッセージを、長い間見つめていた。
それから文字を打った。
「分かりました、田中先輩。すぐにお送りします」
ただし。
私があなたに送るのは、副部長の椅子へ続く提案書ではない。
あなたのためだけに書いた、地獄へ続く企画書だ。
5
家に帰ると、私はパソコンを開いた。
ハードディスクの中には、三つのバージョンの提案書があった。
一つ目は、二週間前のもの。
すでに田中真由美へ送ってある。
二つ目は、本当の最終版。
一つ目より三十パーセントほど精緻で、データは五十パーセント更新されていた。さらに、核心となる技術モジュールが一つ追加されている。
動的リスク予測モデル。
そのモデルは、私が外部の技術顧問と一緒に構築したものだった。
都市の人流、交通、天候、災害リスク、商業活動密度に基づき、各エリアが各時間帯にどれほどの運用負荷を受けるかを予測できる。
このモジュールについて、私は誰にも話していなかった。
三つ目は、田中真由美のために用意したものだった。
それは一つ目より、はるかに華やかに見えた。
パワーポイントのアニメーションは洗練され、グラフは美しく、文章は高級広告会社らしい雰囲気をまとっていた。どのページも、一目見ただけで「この案は強い」と思わせる作りになっている。
けれど、その核心データは間違っていた。
私は東京大学で数学の博士課程にいる従兄に頼み、二種類のデータモデルを作ってもらっていた。
一つは本物。
もう一つは本物に見える偽物だった。いくつかのパラメータを少し変えるだけで、最終結論が正反対になる。
その二つ目のモデルを、このバージョンに入れておいた。
さらに重要なのは、この提案書のすべてのページに、不可視の電子署名を埋め込んでいたことだった。
署名の内容はこうだ。
本提案の著作権は小林葵に帰属し、許可なき使用は著作権侵害にあたる。
私はあらかじめ、すべての原始ファイル、修正履歴、メールのやり取り、タイムスタンプ、ファイルアクセスログを会社の法務部に提出し、内部备案を済ませていた。
三十七本目の企画書から、私はただ記録していただけではなかった。
証拠の鎖を組み上げ始めていたのだ。
田中真由美が盗んだのは、一本の提案書ではない。
番号が振られ、時系列が明確で、彼女を確実に釘付けにするための資料庫だった。
それらを確認した後、私は三つ目のバージョンを彼女に送った。
メール本文には、こう書いた。
「田中先輩、これがすべての原始ファイルです。お疲れさまです。明日、頑張ってください」
彼女はすぐに返信した。
「受け取りました。任せて」
翌日、私は家で休まなかった。
都庁の報告会場近くにあるカフェへ行った。
窓際の席に座ると、大楼の入り口が見えた。
午前九時半、田中真由美の車が到着した。
彼女は紺色のスーツを着て、公文書用のバッグを持ち、顔を上げて建物の中へ入っていった。
その瞬間の彼女は、まるで頂点に立つ直前の人間のように見えた。
十時、私のスマホが震え始めた。
業界のLINEグループに、誰かがメッセージを送っていた。
「今日、東京都スマートシティ案件の報告会らしい。十数社が現場に来てるって」
別の誰かが返信した。
「田中真由美も行ってるんだろ? この案件は絶対取るって言ってたらしいじゃん」
「さっき入っていくの見た。かなり気合い入ってたな」
「あの会社、スマートシティ分野はそこまで強くないよな? 彼女の案ってどこから出てきたんだ?」
「さあな。また誰かの頭を借りたんじゃないの」
グループには、意味ありげなスタンプがいくつも流れた。
私は通知を切り、別の画面を開いた。
会社の内部監査システムが、自動で同期してくるアクセス記録だった。
私は誰のパソコンにも不正アクセスしていない。
ただ、法務部に著作権备案を申請し、私個人の業務パソコンに対するファイルアクセス記録の保存も申請していただけだ。
田中真由美は、私の席に座った時、誰にも知られていないと思っていた。
彼女は知らなかった。
USBを挿した時も、ファイルを開いた時も、別名で保存した時も、メールで送信した時も、すべてタイムスタンプが残っていたことを。
報告は十時半開始のはずだった。
十時四十分、業界グループが突然騒がしくなった。
誰かが、ぼやけた写真を一枚送った。
会場内部らしかった。
演壇に一人の人影が立っていて、その背後の大型スクリーンは真っ黒になっていた。
「事故った!」
「何があった?」
「田中真由美が報告している途中で、スクリーンが突然暗転した。その後、ファイルの出所説明と証拠比較が流れ始めたらしい」
「何の証拠?」
「詳しくは分からない。現場は撮影禁止だって。中にいる友人の話だと、彼女が提案を盗用した証拠っぽい」
私はコーヒーを持ち上げ、一口飲んだ。
苦かった。
でも、その苦さがちょうどよかった。
十一時、私のスマホが鳴った。
企画部長だった。
私は電話に出た。
「小林! 今どこにいる?」
彼の声は焦っていて、怒りも混じっていた。
私は落ち着いて言った。
「家で休んでいます。どうかしましたか、部長?」
「田中が問題を起こした! 報告会の現場で、彼女の提案書はファイル署名と原著作者が一致しないとその場で判定された。さらに、彼女が勝手にファイルを転送した記録まで出た。今すぐ会社に来なさい。すぐにだ!」
「分かりました、部長」
私はゆっくりコーヒーを飲み干し、会計を済ませ、タクシーで会社へ戻った。
6
会社に着いた時、フロア全体が騒然としていた。
誰もが小声で噂していた。
私が入ってくると、全員の視線が奇妙なものに変わった。
企画部長室のドアは開いていた。
中では、田中真由美が泣いていた。
化粧は崩れ、髪も乱れていた。普段の優雅な先輩の姿は、もうどこにもなかった。
企画部長は私を見ると、手招きした。
「小林、スマートシティの提案は、いったい誰が作ったものなんだ?」
私は言った。
「初稿と核心案は私が作りました。田中先輩が修正してくださると言って、その後は……」
「嘘よ!」
田中真由美が叫んだ。
「提案は私が主導したものよ! あなたは少し資料を集めただけじゃない! 小林葵、あなたがそんな人だとは思わなかった。手柄が欲しいからって、こんな卑劣な手段で私を陥れるなんて!」
私は企画部長を見た。
「部長、私のパソコンには全工程のファイルがあります。各回の修正履歴も含めて。必要であれば、今すぐ出せます」
企画部長が口を開く前に、田中真由美がまた叫んだ。
「きっと偽造したのよ! 彼女は前から私を陥れようとしていたんです!」
部長室の外には、人だかりができていた。
私は静かに言った。
「田中先輩。昨日の午後四時二十三分、あなたは私のパソコンで自分の社用メールにログインして、この提案書を競合会社の佐藤社長へ送りませんでしたか?」
田中真由美の顔が、一瞬で白くなった。
「な……何を言っているの?」
「私のパソコンには自動ファイルアクセスログがあります。会社の法務部にも备案されています」
私は彼女を見た。
「確認しますか?」
企画部長の顔が完全に沈んだ。
「田中。君は提案を競合にも送ったのか?」
「送っていません! 彼女が私を陥れているんです!」
私はスマホを取り出し、法務部から同期されていた記録ファイルを開いて、企画部長に渡した。
記録には、はっきりと表示されていた。
昨日午後四時二十三分、田中真由美が私のパソコンを使用し、自分の社用メールにログイン。
午後四時二十六分、「スマートシティ提案_田中真由美_最終版」というファイルを添付し、外部メールアドレスへ送信。
受信者メモには、こう表示されていた。
佐藤社長――競合会社。
メール本文は一文だけだった。
佐藤社長、こちらがご依頼のものです。残金は約束通り、夫の口座へお願いします。
企画部長の手が震え始めた。
田中真由美は飛びかかるようにスマホを奪おうとした。
企画部長は彼女を押しのけた。
「田中真由美。君は本日付で停職だ。会社の調査結果を待ちなさい」
田中真由美は私をにらんだ。
その目は、私を引き裂こうとしているようだった。
私はただ静かに彼女を見返した。
五年。
五年かかって、彼女は初めて私の前で恐怖の表情を見せた。
7
それから三日間、会社は完全に混乱した。
田中真由美の件は爆弾のように広がった。
私たちの会社だけではない。東京の広告業界全体が、その話を知ることになった。
誰かが報告会の映像の一部をネットに流した。
映像はすぐに削除されたが、多くの人がすでに保存していた。
映像の中で、田中真由美は提案内容を説明していた。
彼女は壇上に立ち、自信に満ちた声で、優雅な姿勢を崩さなかった。
けれど説明の途中で、大型スクリーンが突然ファイル出所の比較画面に切り替わった。
第一部分は、私が五年前から保存していた企画書のバージョン記録だった。
すべてのファイルには、作成時間、修正時間、作成者情報、メールのやり取りが残っていた。
第二部分は、田中真由美が作成者情報を改ざんした記録だった。
第三部分は、彼女が私のパソコンを使ってファイルをコピーし、自分の名前で別名保存したアクセスログだった。
第四部分は、彼女と競合会社の佐藤社長とのメールのやり取りだった。
金額まで明記されていた。
三百万円で提案を売却。
第五部分は、彼女がオフィスで「小林葵は人間プリンターみたいなもの」と言った録音だった。
第六部分は、彼女がクライアントに贈り物をし、不正なリベートを受け取っていた記録表だった。
それが流れている間、田中真由美は壇上でパソコンを閉じようとした。
だが、それは報告システムが自動的に呼び出した法務証拠であって、彼女が手で止められるスライドではなかった。
彼女は電源を抜こうとしたが、スタッフに止められた。
最後に、彼女は演壇の横に崩れ落ちるように座り込み、両手で顔を覆った。
客席には、東京都のプロジェクト審査担当者がいた。業界の専門家がいた。すべての競合会社がいた。協力企業の代表もいた。
全員が見ていた。
三日目、会社は全社員向けに公告を出した。
調査の結果、元シニアプランナー田中真由美は在職期間中、長期にわたり同僚の成果物を侵奪し、さらに会社機密の漏えい、不正なリベート受領等の重大な規定違反に関与した疑いが確認されました。よって、同人を解雇処分とし、法的責任の追及を含めて対応を進めます。
公告が出た時、田中真由美は人事部で退職手続きをしている最中だった。
彼女は立っていられないほど泣いていたらしい。
誰かが自分を陥れたと言った。
警察に通報すると言った。
人事部長は、その場で警察に通報した。
警察が来て、彼女を連れていった。
著作権侵害、営業秘密の漏えい、不正なリベートに関する疑いで、さらに調査が必要だったからだ。
その日の夕方、企画部はとても静かだった。
誰ももう「田中先輩」とは言わなかった。
誰も私を見ることができなかった。
私は自分の席に座り、パソコンを開いた。
あの隠しフォルダに、新しい記録を一つ追加した。
2023年11月7日。スマートシティ提案最終版を移交。罠作動。証拠の鎖、完成。
私は保存し、閉じた。
窓の外の東京の空は灰色だった。
けれど私は初めて、空気がきれいだと思った。
8
田中真由美が解雇された後、私は彼女が抱えていたすべてのプロジェクトを引き継いだ。
企画部長は私を呼び出して話をした。
「小林、今回の件は……つらい思いをさせた」
私は何も言わなかった。
彼は私を見て、ため息をついた。
「会社は君を企画部副部長に昇格させ、スマートシティプロジェクトの責任者にすることを決めた。できるか?」
私は言った。
「できます」
「よし」
企画部長は私の肩を叩いた。
「しっかりやりなさい。会社は君を悪いようにはしない」
その言葉を、私は何度も聞いたことがあった。
以前はいつも、田中真由美が私に言っていた。
彼女はその言葉を言うたびに、私のものを持ち去った。
けれど今回、私は初めて、他人の口から本当に自分に向けられた約束を聞いた。
数日後、私は田中真由美が使っていたオフィスへ移った。
そこは床まで届く窓のある個室だった。
ここからは丸の内の通りが見え、遠くには皇居の緑地が見えた。その向こうには、光を反射する高層ビルが並んでいた。
田中真由美が夢にまで見た場所だった。
荷物を移している時、私は引き出しの奥に一つの写真立てを見つけた。
写真には、田中真由美とあるクライアントが写っていた。
彼女はとても晴れやかに笑っていた。
私はその写真立てをゴミ箱に捨てた。
彼女が使っていた椅子に座り、彼女が残していったパソコンを開いた。
パソコンは情報システム部によって初期化されていて、きれいに何も残っていなかった。
私は自分のメールにログインし、あの隠しフォルダを開いた。
田中真由美フォルダの最後の文書は、こういう名前だった。
スマートシティ提案事件まとめ。
私はそれ以上、何も書かなかった。
フォルダを閉じ、新しい空白文書を開いた。
そして、次の企画書を書き始めた。
9
一か月後、スマートシティプロジェクトは正式に契約締結となった。
私たちの会社が受注した。
祝勝会は銀座の高級ホテルで開かれた。
宴会場には深紅のカーペットが敷かれ、天井のシャンデリアは細かな雪のように光っていた。
私は新しく買った黒いドレスを着て、主賓席に座った。
企画部長がクライアントに私を紹介した。
「こちらが当社の新任副部長、小林葵です。今回のプロジェクトの本当の総責任者でもあります。提案の核心部分は、すべて彼女がチームを率いて完成させました」
クライアントがグラスを掲げた。
「小林副部長、若いのに実に優秀ですね。さあ、一杯どうぞ」
私は立ち上がった。
「ありがとうございます」
私はグラスのシャンパンを一息で飲み干した。
宴も進み、私は化粧を直すために化粧室へ向かった。
廊下で、私は田中真由美を見た。
彼女はホテルの清掃員の制服を着て、ゴミ箱の横にある金属製の手すりを拭いていた。
彼女も私に気づいた。
私たちは十数メートルの距離を挟んで、見つめ合った。
彼女は雑巾を握ったまま、呆然と立っていた。
かつての彼女は、いつもハイヒールを鳴らして私の席の横を通り過ぎていった。自分の領地を巡回する女王のように。
今の彼女は灰色の制服を着て、髪を適当に後ろでまとめ、顔色は悪く、視線は逃げていた。
私は口紅を塗り直し、彼女に微笑んだ。
そして、そのまま踵を返した。
宴会場へ戻ると、音楽が流れていた。
誰かがダンスを提案した。
皆がはやし立て、私と企画部長に最初の一曲を踊らせようとした。
踊っている途中で、私は入口に人影があることに気づいた。
田中真由美だった。
彼女は半分開いたドアの向こうから、宴会場の中を見ていた。
長い間、見ていた。
それから顔を伏せ、清掃カートを押して去っていった。
10
その後、私は田中真由美があのホテルで清掃員として働いていると聞いた。
彼女の件は東京の広告業界に広く知れ渡り、まともな会社はどこも彼女を採用しなかった。
彼女は小さな広告会社の面接を受けようとしたが、相手が身辺調査をするとすぐに断られた。
さらに小さな制作会社にも行ったが、面接の機会すらなかった。
最後に彼女は、あまり厳しい身辺調査を必要としない仕事しか選べなくなった。
スーパーの品出し。
飲食店の皿洗い。
ホテルの清掃員。
そのホテルの仕事も、遠い親戚に頭を下げてようやく紹介してもらったものらしい。
私はまた、彼女が夫と離婚したことも聞いた。
提案書を売った一件のせいで、夫の勤め先にも影響が出た。
姑は毎日のように彼女を罵り、夫は耐えられず離婚を切り出した。
子どもは夫側に引き取られた。
彼女は月に一度だけ、面会できることになった。
ある日、私は六本木の商業施設で彼女を見かけた。
彼女は子どもを連れていた。
子どもはアイスクリームを食べたがり、店の前から動こうとしなかった。
田中真由美は値札を長い間見ていた。
最後に、彼女はそれを買った。
お金を出す時、彼女の手はひどく震えていた。
子どもはアイスクリームを食べながら尋ねた。
「ママ、いつになったら前のオフィスに戻れるの? 僕、ママのオフィスでパソコン触りたい」
彼女はうつむいたまま言った。
「もうすぐよ。もうすぐ」
子どもはまた尋ねた。
「パパが、ママは泥棒だからオフィスがなくなったって言ってた。本当なの?」
彼女は何も言わなかった。
ただ、子どもの手を強く引いて、足早に去っていった。
私はブランド店の入口に立ち、彼女の背中を見ていた。
彼女はずいぶん痩せていた。
背中も少し丸くなっていた。
歩く姿には、かつてのように顔を上げ、ハイヒールを鳴らし、オフィスで大声で電話していた勢いはなかった。
あの頃の田中真由美は、もういなかった。
11
今年の会社の忘年会も、あのホテルに決まった。
宴会場はきらびやかだった。
私は今年、「年間最優秀プランナー賞」を受賞し、賞金五百万円を手にした。
壇上で挨拶をする時、私は白いスーツを着て、スポットライトの下に立っていた。
私は客席に向かって一礼した。
「会社に感謝します。チームに感謝します。これからも、よりよい企画を生み出せるよう努力してまいります」
客席から大きな拍手が起こった。
その拍手を聞きながら、私はふと五年前のことを思い出した。
あの時の私も、同じように壇上に立っていた。
首には「年間もっとも存在感のない社員」というたすきが掛けられていた。
田中真由美は私の隣に立ち、私の足を踏みながら、あなたみたいな人間が会社に残れたことに感謝しなさいと言った。
散会の時、私はエレベーター前でまた彼女を見かけた。
彼女は清掃カートを押していた。カートの上には、空のシャンパングラスと皿が載っていた。
彼女は頭を下げ、横をすり抜けようとした。
私は声をかけた。
「田中先輩」
彼女の体がびくりと震えた。
ゆっくり顔を上げる。
私は彼女の顔を見た。
彼女は少なくとも十歳は老けて見えた。
「最近、どうですか?」
私が尋ねると、彼女の唇が震えた。しばらくして、ようやく声が出た。
「ええ……なんとか」
「それならよかったです」
私は少し笑った。
「そういえば、息子さんはお元気ですか? もう小学生だと聞きました」
彼女の目元が、一瞬で赤くなった。
「元気です……小林副部長、お気遣いありがとうございます」
エレベーターが到着した。
私は中に入り、振り返って彼女を見た。
「田中先輩」
私は言った。
「これから人のものを取る時は、先に一言聞いたほうがいいですよ」
彼女の顔が真っ白になった。
私は続けた。
「聞かずに取るのは、盗みと言います」
エレベーターの扉がゆっくり閉まった。
最後に見えたのは、その場に立ち尽くし、肩を震わせている彼女の姿だった。
12
今の私は、毎日車で出勤している。
車は新車の赤いレクサスだ。
その色は、田中真由美がかつて一番好きだと言っていた色だった。
彼女は以前、オフィスで言っていた。
副部長に昇格したら、赤い車を買って、会社の地下駐車場に乗りつける。皆に見せつけるのだ、と。
結局、彼女は買えなかった。
私が買った。
私は通勤の途中で、彼女が働いているホテルの前を通る。
時々、少しだけ速度を落として、入口を見る。
たまに、清掃員の制服を着た彼女が、ホテルの前を掃いているのが見える。
東京の冬は寒い。
彼女は厚いコートに身を包み、ゆっくりと動いている。
ある雪の日、私は彼女が滑って転ぶのを見た。手にしていた箒が地面に落ちた。
彼女は立ち上がり、服についた雪を払い、箒を拾って、また掃除を続けた。
私はアクセルを踏み、その場を離れた。
車内は暖房がよく効いていた。
ラジオからは古い歌が流れていた。
私は小さくそれに合わせて口ずさんだ。
会社に着くと、私は地下駐車場に車を停めた。
受付の女性は私を見ると、すぐに立ち上がってお辞儀した。
「小林副部長、おはようございます」
「おはようございます」
私はエレベーターに乗り、階数ボタンを押した。
エレベーターの鏡に、私の顔が映っていた。
体に合ったスーツ。
清潔なメイク。
静かな目。
五年前、ただ頭を下げて「はい」と言うことしかできなかった新人は、もうどこにもいなかった。
エレベーターの扉が開いた。
私はオフィスへ入った。
床まで届く窓の向こうに、東京の街並みが朝の光の中で広がっていた。
私はパソコンを開いた。
パソコンの横には、今年の業界大賞のトロフィーが置かれている。
受賞した提案は、私が作ったものだった。
著作権欄には、私の名前だけが記されていた。
スマホが鳴った。
ヘッドハンターからだった。
「小林副部長、ご検討はいかがでしょうか。先方の会社は、現在の三倍の年収に加えて、ストックオプションも用意すると言っています」
私は窓の外を見た。
空は青く、日差しは明るかった。
私は言った。
「もう少し考えます」
電話を切った後、私はコーヒーを一口飲んだ。
そして、新しい空白文書を開いた。
画面の上で、カーソルが点滅している。
私は次の企画書を書き始めた。




