第九章 灰色の魔女
夜の帳が降りる頃、古都アルノルドの地下水路では、灯火のような微かな光が揺れていた。
アレッサ・サン・ヴァーレは、かつて元首として国を導いたその姿ではなく、灰に汚れた旅衣と簡素なフードを纏っていた。誰の名も呼ばず、誰からも名を呼ばれず、彼女はただ、歩いた。共和国の瓦礫の下、忘れられた通路を通って。
かつての連邦元首は、今や亡命者、裏切り者、そして「話し続ける者」として生きていた。
地上では銃声が鳴り、サヴォリオ将軍の統制下で議会は形骸化し、各都市には軍政布告が貼り出されていた。
だが、地下にはまだ「耳を持つ者」がいた。
老いた神父、元議員、帝国に家族を奪われた少女兵、サクソニアの捕虜から逃れた技術者……。名もなき彼らが、アレッサの言葉に耳を傾けていた。
「帝国が、サクソニアが、敵であると叫ぶ者は多いでしょう。でも、私は言いたいのです。対話もまた武器になりうる、と」
彼女は火を囲んだ小さな集会所で、静かに語った。その声は震えていたが、どこまでも澄んでいた。
ある夜、灰に染まった封筒がアレッサのもとへ届く。
差出人は、エリオル・ヴァステール――帝国の貴族にして、かつて一度だけ会談を共にした男。彼もまた、戦争に疑問を抱く一人だった。
「帝国の一部に、まだ理が残っていると信じたいのです」と、彼女は誰にともなく呟いた。
彼女はエリオルに向けて書簡をしたためる。内容は明確だった。
――帝国軍による港湾封鎖の段階的解除。 ――限定的な通貨流通の再開。 ――非武装地帯の設置と中立監視団の派遣。
それは、すべてが妥協の産物だった。だが、彼女は信じていた。
「それでも、言葉を尽くす者が最後に勝つのだ」と。
アレッサは帝国とサクソニアの和平派との連絡網を使い、同時にノラール・ドラケンの元腹心とされた軍政官にも密使を送る。信頼はなかった。ただ、「今を終わらせたい」という共通の願いだけが、かろうじて彼らを結びつけていた。
その行動はすぐに裏切られる。
和平案の内容は、帝国内部の強硬派からヴァレンティアの軍閥へと漏れ、サヴォリオは「反逆者の復活」として地下拠点への弾圧命令を下す。
「共和国を売る女」としての名が、再び街に流布される。
それでも、彼女は言った。
「言葉を捨てたら、私もまたこの戦争の一部になる。私は、そうなりたくない」
ある夜、再び襲撃があった。仲間の一人が捕まり、残された者たちは、すぐに地下のさらに奥へと移動することを決めた。
燃え落ちる旧地下水路の上で、アレッサは一人立ち止まった。
「私は……誰の味方でもない。ただ、この世界に、終わり方を与えたい」
その声は、瓦礫の中の少女に届いた。戦場から逃れてきた子どもが、彼女のマントを引いた。
「あなたは、まだ王様なの?」
アレッサは首を振り、微笑んだ。
「違うよ。ただの語り部よ。でも、君が笑う世界を作れるように、少しだけ頑張ってるの」
それは、英雄譚でも、神話でもない、ただ一人の「語り手」の誓いだった。
戦火が止む気配はなかった。けれど、アレッサの言葉は、火の中でも、なお残り続けていた。
そして彼女は、最後の交渉に向けて、帝国とサクソニア両陣営へ歩き出す。
燃え残る都市の地下から、灰の中をさらに歩きながら。
それが、彼女の「正義」のかたちだった。
ヴァレンティア旧市街、第七層の地下水道。
かつて共和国が“都市の心臓”と呼んだこの迷路のような構造は、今では政府の崩壊とともに、民と記憶の逃げ場となっていた。
アレッサ・サン・ヴァーレは、かつて元首の座にあった女である。
だが今、彼女の肩を覆うのは名もなき旅装、足元を濡らすのは泥と灰だった。
彼女がその通路で出会ったのは、ひとりの女――
レナ・ヴィスカ、銃と手帳を持つ“伝令者”だった。
「……あんた、共和国の“灰”だな」
レナは言った。口元は笑っていたが、目は冷めていた。
「元首だなんだって肩書きは関係ない。あんた、何しにここ来たんだ」
「語れる者を探してるの」
アレッサの声は小さく、だが明確だった。
「剣で答える者が増えすぎた。私はもう一度、“語る場”を築きたい」
レナは短く息を吐いた。
「……ふうん。なら連れてってやるよ。
あんたが本当に“語る者”なら、きっとあの人も興味を持つだろう」
「あの人?」
「タリア。あたしたちの“座標”を持ってる女だよ。
自由も秩序も、全部燃えちまったあとに、まだ火を起こす方法を考えてる女さ」
レナは導く。水路を越え、空調管をすり抜け、共和国の裏肺とも言える旧地下ネットワークの奥へ。
その道中、アレッサは複数の“痕跡”を目にする。
・壁に刻まれた死者の名。
・封印された扉の上に残る、燃えかけた演説文。
・壊れた通信機に記された、識別コード“RE:ValensPEACE”。
「ここは、共和国が隠した“言葉の残骸”が眠ってる場所なのさ」
レナは言った。
「でも、タリアはそこから“生きてる言葉”を探そうとしてる。
つまり、あんたに用があるんじゃなくて――
あんたの“声”に用があるのさ」
通路の最後、古い鉄扉の前で、レナが振り返る。
「タリアに会えば、あんたはもう“政治家”には戻れない。
ここから先は、物語じゃなく“現実”に足突っ込むんだからな」
アレッサは一歩前に出る。
「それでも、語るために来た。
言葉を信じる者がひとりでもいる限り、私はそれを捨てたくない」
扉が開く。
火の光が射し、そして、灰色の魔女が待っていた。
旧ヴァレンティア市街、地下の廃棄防衛壕――
かつて“戦時指令庁”と呼ばれたこの空間は、今や誰にも記憶されぬ、忘却の空洞だった。
だがその夜、そこには光があった。
炭のにおいが残る簡素な火床、そしてその周囲に、数人の影がいた。
彼らは「残党」ではなかった。
「逃亡兵」でも「ならず者」でもない。
彼らは“選んでここにいる者たち”――自由を自分で定義し直した者たちだった。
アレッサ・サン・ヴァーレがその空間に入ったとき、誰一人、立ち上がらなかった。
タリア・カンナ=ヴェント――「灰色の魔女」と呼ばれる女が、焚き火の火を見つめたまま言った。
「共和国の元首が、亡命もせず、死にもせず、火の中をくぐってここに来たとはね」
「逃げていたら、私は私ではなくなる。
この国は死んだかもしれない。でも、まだ“語れる場所”はあると思いたいの」
アレッサの言葉に、焚き火の向こうの影が微かに笑った。
「言葉の国……か。俺たちは銃と靴底の音でしか語れない」
ヴァンス・エルヴァンが言った。
かつて情報部にいたこの男の声は、乾いていて鋭かった。
「言葉を信じられるほど、あんたらは裕福だったんだな」
続けたのはモラ・セイン。
彼は床に伏して弾薬を磨きながら、声だけで語る。
「だから私は来たのよ」
アレッサは、ゆっくりと膝をつく。
「この手で築いた共和国が、剣に屈した。
でも、その灰の中にまだ残る“灯”があるなら、それを拾いたい」
「拾う、じゃなくて、“燃やす覚悟”はあるのか?」
最後に声を発したのは、ルーグ・ジハン。
本を閉じ、眼鏡越しにアレッサをじっと見た。
「我々は、理念のために立ち上がったわけじゃない。
“生活”を、国や軍や歴史じゃなく、自分の言葉で語り直すために闘ってる」
タリアが立ち上がる。
その目には疲れと、確固たる意志が宿っていた。
「貴女が語る未来に、私たちの歩幅が合うかはわからない。
けれど、まだ“語る場”があるなら、剣よりもそちらを選ぶ理由にはなるわ」
アレッサは深く頷いた。
「私は、“語りの場”が剣に勝つ瞬間を信じる。
それが、どれほど小さな灯火でも」
その夜、廃壊された共和国の地下で、
国家にも歴史にも拾われぬ者たちが、炎を囲んだ。
彼らの声は記録されなかった。
だがその火は、やがて「灰燼の協定」へと続く小さな焔となる。
銃の重さを知り、
逃げる民の列に加わり、
それでも語る言葉を手放さなかった者たちが――
“新しい語り”の始まりに立ち会っていた。
「ここが……“交差点”になる」
タリア・カンナ=ヴェントは、古びた布地の地図に指を這わせた。
灰色の指先が止まったのは、峡谷と山脈に挟まれた一点――黒鉄峡谷。
アレッサはその名を聞いた瞬間に顔をしかめた。
「そこは……帝国と連邦のあらゆる“敗残兵”が潜む混乱地帯。地理的にも通行不可能に近い」
「だからこそ、我々が“生き延びる選択肢”として通らざるを得ない」
ルーグ・ジハンが言った。
「評議会は、サヴォリオはいや、アレッサの行方を追っている。だが北側は雪崩地帯、西は軍政区域、南は交易閉鎖区域。つまり、連中が貴女を探すには、“黒鉄”を通るしかない」
その頃――サヴォリオ・デュラン将軍の執務室。
副官が無表情に報告する。
「アレッサの消息が、旧第七通信帯で途絶しました。
最後の記録は、ヴァレンティア市街地下網、廃系統ルートZ-θにて――」
サヴォリオは壁の地図に目をやる。
「……黒鉄峡谷か。よりにもよって、あの“軍も足を踏み入れぬ死地”へ行ったか」
「追いますか?」
「いや、我々は“追跡”などせぬ。共和国の汚点を“片づける”のだ。そのために、あの軍も足を踏み入れぬ死地の中へも踏み込むしかない」
サヴォリオの目が光る。
それは信仰でも忠誠でもない――**統治者としての冷徹な“必要”**だった。
そして峡谷へ。
タリアたちは、峠の東に陣を張る。
火は使えず、通信も届かず、ただ地形と知恵だけが彼らを守る。
「帝国も連邦も、ここを避け続けた理由がある。
でも、今この時だけは――我々が先に語らねば、剣が先に吠える」
ヴァンスがつぶやく。
そしてその頃、サヴォリオ軍の先遣隊が峡谷に足を踏み入れていた。
風の音が鋼を震わせる――戦は、言葉より先に、足音として始まっていた。