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第七章:戦略の怪物

凍れる楯、砕けるとき ― 王国北第八軍の最期 ―

それは、“風”がまだ音を持っていた時のことだった。

氷壁ヴェル=カラの崩壊からわずか数日。

王国北縁の防衛線を担っていた北第八軍――通称「氷楯師団」は、オルド族の進軍を最初に受け止めた。

将軍グリフォスの指揮のもと、彼らは氷原に塹壕を刻み、雪上を駆ける影に備えた。

鉄と矢と魔導障壁が織りなす戦線は、かつてない激戦の地となった。

八日八晩に及ぶ防衛戦の末、オルド族の本隊は王国領土を貫通せず、主力の8割が帝国北辺へと流れるように誘導された。

それは、王国北第八軍が意図的に進軍路を開き、誘導し、捨て身の作戦を選んだからに他ならない。

だが、その代償は大きかった。

残されたオルド族の2割――

遊撃隊、遅滞部隊、そして最も苛烈な戦士たちが後方を攪乱するために残された彼らは、

王国防衛線の隙を突き、ついに北第八軍を圧倒し、突破する。

最後の報告を残して、グリフォス将軍と北第八軍は消息を絶った。

雪原に残されていたのは、風に裂かれた軍旗と、半ば埋もれた凍死兵の群れだった。

盾も槍も凍てついたまま、叫びをあげた姿勢のまま凍結した兵士たちが、

雪の中でなお、最後の命令を守るように前方を睨み続けていたという。

その結果、王国領はかろうじて直撃を避けたが、

北辺の幾つかの村と監視砦は陥落し、民の一部は南へと避難を始めていた。

王国の玉座には、もはや決断を猶予する時間は残されていなかった。



1. 氷壁より風が来る

サクソニア王国、冬至前。

北風はもはや風ではなかった。

それは氷を削り、肉を裂く“刃”だった。

凍てついた山間の砦では、砲塔が軋む音と共に、

警鐘も凍ったように鳴らず、ただ白い静寂が砦を包んでいた。

氷壁――ヴェル=カラは、もはや“壁”ではない。

それは崩れた。

千年もの間、サクソニアを外敵から護ってきた氷の神話は、音もなく砕けたのだ。

そしてその裂け目から、“風”ではない、“咆哮”が流れ込んできた。

オルド族――

雪原を這う白い死。

怒涛のごとき突撃、炎を纏った騎馬の群れが、夜の農村を呑み込んだ。

人々は抵抗すらできなかった。

火に包まれた納屋、崩れる塔、泣き叫ぶ声が次第に沈黙へと変わっていく。

灰だけが朝に残されていた。

報告は、凍りついた馬の腹の中に縫い込まれて届いた。

使者は途中で力尽き、馬も凍死していた。

中にあったのは、霜に滲んだ一枚の布――血と煤の染みが、かろうじて読める地名と数字だけを残していた。

「ニエル砦、壊滅」

「避難民、推定ゼロ」

「穀倉帯一帯、焼失」

ノラール王はその布を手にし、何も言わず目を閉じた。

怒りもなく、命令もなく、ただ沈黙。

それは祈りではなかった――

それは、王が“神に見捨てられた”と悟った者の沈黙だった。


2. 静かなる地図会議

王都ドラケンシュタインの作戦会議室。

真鍮の燭台が、戦場の地図にちらつく影を落としていた。

冬の風が窓の隙間から忍び込み、顧問たちのマントの裾を震わせている。

机の上には、王国全土を縁取る軍略図――その北端はすでに赤く塗り潰されていた。

「北は、もう塞き止められぬ……」

ひとりが震える声で呟くと、重苦しい沈黙が広がった。

「このままでは、王都の備蓄すら尽きる」

「民衆は飢え、兵士たちは凍え……国が干上がる」

ノラール・ドラケンは何も言わず、ただ地図に目を落としていた。

指が、ゆっくりと南端――帝国との国境をなぞり、

やがて静かに、地図上の一点に止まる。

そこは、「カレナ=ヴァル」――アウステリオン帝国の聖域とされる黒土の平原。

かつて祖霊が眠る地とされ、千年の間、誰も踏み入れぬ禁忌の領域。

「ここを越えねば……我が民は、冬を越せぬ」

「しかし、ここを越えれば――帝国は我らを敵とみなすだろう」

誰も返答できなかった。

重臣たちは互いに顔を見合わせ、ある者は祈りの印を胸元で切った。

武断派ですら沈黙し、王の言葉の続きを待っていた。

ノラールは立ち上がる。

その影は燭火の壁に長く伸び、揺れた。

「我は、征服者ではない。だが、我は王である。

民が飢えて死ぬと知りながら、王が動かぬことを、歴史は“慈悲”とは呼ばぬ」

拳を握る音が、唯一の答えだった。

「南へ進発する。資源を確保し、民を生かす。

千年の掟を破ってでも――命を繋がねばならぬ。これは侵攻ではない。

これは、民を守るための……最後の防衛だ」

その目には、戦略家の冷静も、支配者の野心もなかった。

ただ、王としての“責任”が刻まれていた。


3. 王の孤独

夜。王都ドラケンシュタインの執務室。

地図は広げられたまま、誰もいない部屋の中で火の粉だけが揺れていた。

ノラールは、ひとり地図の前に立ち尽くしていた。

焚き火の灯が彼の顔を照らし、壁に映る影がゆっくりと揺れる。

その影の中で、彼の瞳はどこか遠くを見つめていた。

「我らは……侵略者になるのか」

声は低く、かすれていた。

それは誰にも聞かれることのない、自らへの問い。

地図の北には、かつて王国を護っていた防衛線の名残――

“北第八軍”の印が、黒く塗り潰されている。

「グリフォス……よくぞ、道を塞いでくれた」

「お前たちがいなければ、王国は北から壊れていた」

ノラールはゆっくりと膝を折り、地図の上に手を置いた。

「だが……その代償が、あまりにも大きい」

凍てついた報告書、焼かれた村の名、記録に残らぬ兵の顔。

全てが、彼の脳裏に浮かぶ。

窓の外には、難民たちが身を寄せ合い、毛布の下で震えていた。

子どもの泣き声、飢えに倒れる母の影。

それらが、ノラールの胸を刺し続けていた。

「我が母ならば……どうしただろうか」

その言葉を口にしたとき、彼の声はわずかに震えた。

かつて、母王妃セリーナは言っていた。

「王は、最も冷たく見える時こそ、最も熱く民を想え」

「だが……母よ。私は今、心が裂けるのだ」

聖域を越えれば、帝国との戦争は避けられぬ。

その一歩が、王国に千の矢となって返るやもしれぬ。

それでも――越えなければ、民は冬を越せない。

「歴史が我を暴君と記すなら、それでよい。

だが、私は……今を生きる民の王でありたい」

拳を固く握りしめ、ノラールはゆっくりと立ち上がる。

その姿には、苦悩の影と共に、確かな決意の光が宿っていた。

「民の命を繋ぐために、私は血の地を踏む。

それが……王として背負うべき咎ならば、喜んで受けよう」

彼は静かにつぶやく。

「夜明けに伝令を。南への進軍する」


4. 南へ

翌朝、大広間には兵と官が一堂に会していた。

戦装束の者もいれば、昨夜の報せで眠れぬまま出てきた者もいた。

空気は重く、蝋燭の灯もどこか震えて見えた。

その中央に立ったノラール王は、静かに口を開いた。

「我が命により、王国軍全軍は南へ進発する」

その声は、かすかに震えていた。

「目的は――侵略ではない。

あれは、我らの民が生きるための黒土である。

冬を越す糧を確保しなければ、王国は干からびる。

我々は、“存続のための戦”を始める」

言葉が落ちた瞬間、広間には沈黙が満ちた。

兵たちは、うなずきもせず、ただ無言で王を見つめていた。

その目には、北第八軍の最期が焼き付いていた。

報告にあった、凍りついたまま絶命した兵士たち。

雪に埋もれた軍旗。

そして――誰にも届かぬまま風に消えた、最後の命令。

その惨状を、伝令たちは語らなかった。

だが、兵は知っていた。皮膚の奥にまで凍みていた。

王の言葉は正しい。

だがその声には、ほんの僅かに“断ち切るような悲痛”が滲んでいた。

「命を守るために剣を取れ」と言いながら、

その顔には、守ることに“剣を使う痛み”が刻まれていた。

誰も異を唱えなかった。

だが、それは服従ではなかった。

その矛盾――慈悲を語る王が血の道を選ぶという矛盾――を、兵たちは黙って受け取った。

そして、その沈黙の中に、ひとつの決死の色が芽生えた。

“もしこの戦が、王すら望まぬものならば――

我らが代わりに、それを終わらせてみせる”

兵たちは敬礼もせず、ただ静かに、立ち尽くしたまま命令を受けた。

まるで、すでに“別れの儀”を終えた者たちのように。


5. 鉄と秩序の足音

第一軍団が、かつて曖昧に“解放された”とされた緩衝地帯を越え、

ついに帝国領との明確な境界線を踏み越えたのは、その三日後のことだった。

黒土の大地が、鉄靴に震えた。

早朝の霧の中、静かに、だが確実に、兵列は南へと広がっていく。

軍律は徹底され、略奪は厳禁。

食糧庫は封印され、避難民は補給部隊により収容された。

ノラール王は進軍に際し、こう兵に告げていた。

「これは占領ではない。整備だ。

耕された地を荒らすな。

手にした剣は民を切るためではなく、彼らの糧を守るために使え」

その言葉を聞いた時、多くの兵は目を伏せていた。

彼らの胸にあったのは、北の第八軍の記憶だった。

雪と血に沈んだ戦友たち――

報復の命すら出ぬまま、捨て石として凍てついた屍となった仲間たち。

彼らの犠牲があったからこそ、今こうして前に進めていることを、誰よりも彼ら自身が知っていた。

「グリフォス……あんたの仇を討ちに行くんじゃない。

俺たちは――生き残った分、ちゃんと“生きる”んだ」

誰かが呟いた。

別の者は、胸の内にしまった子どもたちの似顔絵を握りしめていた。

故郷の炉端で待つ妻の名前を、誰にも聞かれぬよう心の中で唱えていた。

「生きて帰る。全員でな」

それは誓いではなく、“祈り”に近かった。

だが――帝国から見れば、その祈りは、軍靴の轟音と共にやってくる“侵略”そのものだった。

帝国の哨戒兵は、彼らの前進を見て、叫びを上げた。

「サクソニア軍だ――聖域を越えたぞ!」

その報せが届く前に、ノラールはすでに知っていた。

この一歩が、もはや“理想のための戦”ではなくなることを。

黒土の下から、誰かの怒りが、恐れが、

“怪物の影”のように立ち上りはじめていた。

それでも――兵たちは、進んだ。

自らの手が守るものが、祖国で待つ命であると信じるために。

そして、倒れた仲間たちに顔向けできるように、生きて還るために。


6. 王の独白

夜、カレナ=ヴァル南方・野営地。

仮設された幕舎の中。

静寂の中に薪がぱちりと弾ける音だけが響いていた。

王ノラール・ドラケンは、膝の前で揺れる炎を見つめていた。

その光は赤くもなく、温かくもなかった。

ただ、暗闇の中で何かを“問い返す”ように、時折明滅していた。

王は、小さく呟いた。

「誰かがこの火を――“聖域を焼いた火”と呼ぶだろう」

その声には、怒りも誇りもなかった。

ただ、灰色の風のように、深く沈んでいた。

「だが私は、この火が……凍えた子の命を救う火であると祈りたい」

拳が膝の上で小さく震える。

「もしそれが、己を欺く言葉でしかないのだとしても――

それでも、私は……」

王の声が、火にかき消される。

そのまま、祈るように目を閉じた。

そのとき、遥か南、帝国都市ティリウムの聖堂では――

白衣の神官たちが沈痛な顔で、報せの巻紙を見つめていた。

「サクソニアの王……ノラール・ドラケン。

聖地を軍靴で踏みにじり、神の地を野営地に変えたと?」

一人の老神官が顔を覆った。

「彼はかつて“正しき王”と呼ばれていたはず……

それがなぜ、神の地に火を放つような者となったのか」

聖職者たちは交互に口を開いた。

「これは、教義の挑戦だ」

「神威を脅かす侵略者だ」

「帝国は、この冒涜に正義の裁きを下さねばならぬ」

民の間でも噂は広がっていた。

「サクソニア軍は、ナヴァエラの聖碑を塗り潰した」

「聖泉を汚した。神官を拘束した」

「彼らは“火と鉄”で神を試そうとしている」

――だが、ノラールは知らなかった。

いや、知らぬふりをしていたのかもしれない。

この焚き火が、敵地から見れば“冒涜の狼煙”にしか見えぬことを。

そして同時に、それが――

飢えた兵を、凍えた民を、かすかに暖める最後の光であることを。

帳の中、王はその火の影を、額に宿した。

「我が正義が誰の心にも届かぬとしても……

それでも私は、燃やす。

この火が、命を繋ぐなら――私は、焼かれることを選ぶ」

外では、夜の風が吹いていた。

それは帝国と王国の間を隔てる境界の風――

誰にも答えぬまま、燃える火を遠くへ運んでいた。




再建者の布告 ―ノラール軍政の実相―


帝国南部・ヴァル=ニア旧市街――

市場の広場にサクソニアの軍政旗が掲げられてから、わずか三日。

瓦礫と灰に埋もれていたこの都市の中央広場には、再び人々が集まっていた。

軍政官イゼル・マルクは、長身を黒い外套に包み、淡々と布告を読み上げた。

「本日をもって、本都市の行政はサクソニア王国南部防衛評議の監督下に置かれる。

地租は三分の一に軽減され、代替として公共奉仕義務を課す。

また、教育令に基づき、8歳以上の男女は週3日の就学を義務とする」

言葉が終わる前に、群衆の間からざわめきが起こる。

「学校だと?」

「子どもに読み書き? ここは帝国だぞ!」

「神官の仕事じゃねぇのか!」

だが、軍政官は臆せず続けた。

「書を知る者は、剣を持たずとも道を切り開ける。

サクソニアの未来は、我らの子らの手にある」

沈黙が落ちた。

子どもたちは新たに配られた木簡を握りしめ、硬い顔の父母の背中から首を伸ばして見つめていた。

一人の老婆が、マルクに問いかけた。

「兵隊様。これは……救いか、それとも支配かね?」

マルクは答えた。

「それは、学ぶ者が決めることです」


汚された神土 ―帝国宗務院とユリウスの葛藤―


帝都アルセリア・双光神殿 地下評議室

香炉から立ち上る煙の中、重く響く杖の音と共に神務長老ミカルが言った。

「サクソニアの兵が、ナヴァエラの神域を踏み荒らした。 これは侵略ではない。“冒涜”である。 帝国は、沈黙していてはならぬ」

他の司祭たちも一斉に声を上げる。

「聖域は神の地、民のものではない」

「このままでは神罰が下る」

「皇帝は何をしておられる!」

その最中、ユリウス・レオーンは、広間の外の控え室に佇んでいた。

壁の奥で響く声は聞こえていた。だが、彼はただ静かに、手元の銀製の小像――双光神の幼子像を見つめていた。

侍従が声をかける。

「陛下。聖職者たちは報復の布令を望んでおります。

“帝国が神の地を護る意志を示さねば、信仰そのものが揺らぎます”と」

ユリウスはそっと立ち上がると、ただ一言だけを口にした。

「ならば、我は神か? 民か?

神を守って民を滅ぼすのが、帝の責か?」

それは誰にも答えられぬ問いだった。

彼の心は、火薬よりも重い沈黙で包まれていた。

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