第六章:断たれた商路
1. 海が黙した日
風が変わったのは――
まるで、誰かが夜のうちに世界の仕組みを塗り替えたかのように、突然だった。
ヴァレンティア南海岸の港町、ルミエラ。
いつもなら夜明けと共に鳴り響く港の鐘が、その朝は沈黙していた。
最初に異変に気づいたのは、沖を見張っていた老船頭だった。
海を睨みつけるように見つめながら、絞り出すように呟いた。
「……船が、一隻もいねぇ」
波はあった。風もあった。
だが、帆はどこにも張られていなかった。
埠頭には、出航を待つはずの荷車が止まり、
商人たちは箱の蓋を開けることなく、手を組んで座り込んでいた。
魚市場の台には、まだ朝獲れの銀鱗が並んでいたが、
誰ひとりとして、それを買おうとはしなかった。
港が止まり、海が沈黙した。
それは単なる交通の停止ではなかった。
それは、国家の“呼吸”が止まった瞬間だった。
ザルベクの港が帝国艦隊によって封鎖されてから、
ノンヴァール、エレ=サンド、そしてルミエラへ――
鉄の艦列は、確実に沿岸を飲み込み、貿易の喉元を締め上げていった。
帝国通貨テルマルの信用は崩れ、
ヴァレンティアの商人層は次々と破産。
物流が滞り、店は品を並べることをやめ、
街は日に日に“空っぽ”になっていった。
それでも誰も、口には出さなかった。
出せば、壊れてしまうからだ。
この沈黙が、もう後戻りできないものだと知ってしまうからだ。
「パンが買えない。米が届かない。薬もない。なのに――誰も戦ってなどいない」
若い女が、焼けたパン屋の前でそう呟いた。
彼女の腕には、やせ細った子が抱かれていた。
帝国の艦隊が姿を現しただけで、商船は動かなくなった。
帝国の命令がなくとも、人々の意志は折られた。
風は吹いていたが、帆は張られず、
海は広がっていたが、誰もそこへ出ようとはしなかった。
ヴァレンティア――かつて「自由の商都」と謳われたこの国家は、
その生命線である海を断たれ、
ただ、沈黙のなかで“当たり前”を失っていった。
そして、この日から始まる飢餓の連鎖が、
やがて街を焼き、政治を裂き、理想を沈めていくことを、
まだ誰も知らなかった。
2. 飢える共和国
ルミエラから北へ――
都市国家アヴィエルの市場は、早朝から人波に飲まれていた。
かつては豊かさと秩序の象徴だった石畳の広場。
だが今は、焦燥と叫びが空を震わせていた。
パン一斤、六銀貨。
乾燥豆一袋、十銀貨。
「昨日の、倍だぞ!」
「これじゃあ、紙切れと変わらん!」
額に汗を浮かべた母親が、抱えた子供の手を引いて泣き叫ぶ。
「食わせろ、子どもが飢えてる!」
「兵にばかり配るな! 帝国の犬どもめ!」
叫びは次第に罵声へと変わり、
市民たちは拳を振り上げ、通貨を地に叩きつけた。
かつて、連邦でも指折りの富裕自治都市とされたアヴィエル。
今、その広場では旧貴族の屋敷が破られ、
金箔を貼った家具が路上に転がり、
パン職人たちは鉄柵の奥から出てこなくなった。
「昨日の銀貨が、今日は半分の価値だ」
「明日はこの一袋に、家一軒分払うのか!」
そんな嘆きが、人々の唇を滑る。
屋台では、銀貨よりも小麦粉が取引の基準になりつつあった。
兵士に配給される黒パンを狙って、少年たちが兵の影をつける。
紙幣も銅貨も、価値を証明できない“音”でしかなくなっていた。
「帝国の通貨? 笑わせるな!
昨日は靴が買えた。今日は紐すら買えん!」
誰かが叫ぶ。
その声に呼応するように、群衆の中で小競り合いが生まれた。
配給所の列に割り込んだ青年が引き倒され、怒号が上がる。
「配給はまだか!」
「今渡さなきゃ、明日は死人が出るぞ!」
暴動と略奪は、もはや点ではなく面へと広がっていた。
街角では酒場が焼かれ、工房が破られ、
警備隊はすでに追いつけず、見て見ぬふりをする者すら出てきていた。
銀貨の代わりに、肉一切れを担保に物が動く街。
価値の崩壊は、秩序の崩壊を意味していた。
だが人々は、まだ戦わない。
「帝国を討て!」と叫びながら――
誰も、剣を持ってはいなかった。
それは怒りではなく、諦念に近い絶望だった。
彼らの叫びは、通貨より軽く、剣より脆かった。
そしてそれが――
ヴァレンティアの都市が、いかにして自壊していったかの、静かな始まりだった。
3. 統治という名の沈黙
ヴァレンティア連邦の議場は、連日、怒声と拳の音が響き渡っていた。
罵倒、恫喝、椅子を蹴る音――
理性の場であるはずの空間は、いまや怒りと憎悪の劇場と化していた。
「交渉しろ? 笑わせるな!」
「屈するのか? 帝国の狗になる気か!」
「民が飢えているんだぞ! 法案を通せ、今すぐに!」
和平案を記した一通の文書が、議事堂の中央に読み上げられた。
それは、軟禁中の元首アレッサが私邸から密かに託した声明だった。
「――我々が本当に戦うべき相手は、帝国ではありません。
飢えと、混乱と、分断です。
帝国との対話の道を、最後まで探るべきです。
血を流す前に、まず“言葉”を――」
文書を読み上げた使者は、顔を上げられなかった。
沈黙。
だがそれは一瞬だけだった。
「その理想論で何が救える?!」
「市場では芋一つ買えやしない! 綺麗事が人の腹を満たすか!」
「“言葉”より“力”が物を言う時代だ! 目を覚ませ!」
罵声の奔流が議場を包み込み、和平派の議員は次々と声を失っていった。
協調を訴えた穏健派も席を立ち、残されたのは、
怒りと恐怖の前に“言葉”を棄てた者たちだけだった。
議会は、もはや元首の声すら届かぬ場所となった。
こうしてアレッサの和平案は正式に否決され、
彼女の名は、次第に「裏切り者」の陰影のもとに語られ始めるのだった。
4. 鉄と銃を持つ者
陽が傾くころ、アレッサは静かな書斎に一人いた。
窓の外には港の灯がかすかに滲んでいたが、そこに響くはずの鐘の音も、
市民のざわめきも――今日は、聞こえなかった。
かつて、この部屋は共和国の“心臓”だった。
元首の印章が、法を決め、言葉が未来を築く場所だった。
だが今、その机には、軍の印が捺された厚い文書の束が無言で置かれていた。
扉が軋みを立てて開き、サヴォリオ将軍の副官が現れた。
「ご署名を。これは、共和国の非常事態措置です」
彼の言葉は、命令でもあり、通告でもあった。
アレッサは視線を落とした。
文書には、“港湾都市における自治権の一時停止”
“民兵団の治安管理に関する無条件承認”
そして――“議会の介入を認めない”という条文。
「……これは、わたしの見た憲法ではない」
かすれた声でそう呟いたとき、返ってきたのは無言だった。
「この文面、わたしの許可を得ずに修正されている。
こんなものに、私が署名すれば――共和国そのものが、沈む」
アレッサはペンを握る手を止めた。
が、もう一度扉が開いた。
サヴォリオ将軍が現れた。無言のまま、文書に目を落とす。
「共和国にはもう、議論している暇はない」
そう言って彼は、机に片手をついた。
そして続けた。
「正義を語りたいなら、剣を持ってからにしていただきたい、元首殿」
その声に、挑発はなかった。
ただの“事実”のように、静かだった。
アレッサはしばらく視線を落とし、
指先を震わせながら、ペンを再び取った。
「……これは、わたしの意志ではありません。
ただ――この国の血を、少しでも減らすための“犠牲”です」
乾いた紙に、サインのインクが滲んだ。
署名を終えた瞬間、何かが胸の奥で千切れたように思えた。
だが、それでも涙はこぼれなかった。
サヴォリオは文書を無言で手に取り、彼女に一礼すらせず去っていった。
扉が閉まり、再び部屋に沈黙が戻った。
アレッサは、ゆっくりと椅子に沈み込む。
窓の外では、民兵団の列が街を囲み、港の入り口には鉄柵が組まれていくのが見えた。
銃が“秩序”を名乗り、言葉が“混乱”と呼ばれる時代。
そのはじまりを、彼女は――
黙して、見つめるしかなかった。
5. 密書と裏切り
夜明けの光は、鉄格子を透かして淡く差し込んでいた。
ヴァレンティア南端、静まり返った元首邸――
今やそれは、アレッサ・レルネシアにとって“檻”でしかなかった。
書斎の窓から見えるのは、囲いに立つ兵の影。
そして、毎朝のように読み上げられる、議会の“決定報告”。
そのどれもが、軍への協力。
そのどれもが、武を正義と呼ぶ内容。
アレッサは膝の上で組んだ手を解き、かすかに息を吐いた。
胸の奥に棘のように残る言葉があった――
「正義を語りたいなら、剣を持ってからにしていただきたい」
それは、サヴォリオの“宣告”だった。
そして、それはもう、共和国における唯一の“正義”として機能し始めていた。
アレッサは鏡の前に立った。
かつての演説で纏った青銀の外套――それを手に取り、そっと袖を通す。
「……誰かが、“言葉”を捨ててはいけない」
声は震えていた。だが、その震えは、恐怖ではなく、怒りだった。
夜――
アレッサは密かに使者を呼び寄せた。
顔を隠し、影の中に身を溶け込ませるようなその男に、彼女は一通の文を託した。
「この国はまだ、対話できる。帝国の中にも、理を知る者がいる」
それは、帝国の高位貴族であり、和平派として知られるエリオル・ヴァレンスト宛の密書だった。
内容は、明確なものだった。
・帝国による港湾封鎖の即時解除
・テルマル通貨の限定的流通再開
・対等な立場での経済再交渉の開始
その代わりに、ヴァレンティア側も港の管理権の一部共有や、軍備制限を受け入れる――
それは、誇りを削る“譲歩”だった。
だがアレッサは、誇りよりも生きる道を選んだ。
使者はうなずき、影のように去っていった。
アレッサは机に伏し、静かに祈った。
「どうか――言葉が、まだ届きますように」
数日後――
報せが届いた。
「返答です」と侍女が震える手で差し出した封筒。
アレッサはそれを受け取り、封蝋を割った。
「理解を示します。帝国の一部に、あなたの声を届けましょう」
――エリオル・ヴァレンスト
震えるような安堵が、胸を満たした。
“まだ、終わっていない”
アレッサは立ち上がった。
すぐに行動を開始した。
密使の再派遣、和平派議員への再接触、都市連絡網の再編――
軟禁の壁の内から、彼女の“再起”は動き出していた。
だが――
その動きは、見られていた。
ある夜、部屋の扉が激しく叩かれた。
「アレッサ・レルネシア殿。命令により、あなたは国家反逆の嫌疑で拘束されます」
現れたのは、サヴォリオの直轄部隊だった。
その手には、見慣れた紙が握られていた。
アレッサが震えながら視線を移す。
それは――
彼女がエリオルに宛てた密書、その原本だった。
「……どうして」
その問いに、返答はなかった。
ただ、サヴォリオの副官が、冷たく言い放った。
「女王を演じて悦に浸るには、少々、時代が違ったようですね」
アレッサの視界が、ぐらりと揺れた。
「わたしは、裏切ってなど……!」
だが、もはや何も聞かれてはいなかった。
外では、誰かが民衆にこう叫んでいた。
「元首は帝国と通じていた! 国家を売る女だ!」
炎が上がる。
言葉は、踏みにじられ、燃やされ、
そして――
彼女の名は、“裏切り者”として刻まれた。
6. 暗殺未遂
深夜――
ヴァレンティア元首公邸、その白い壁が、黒い闇に染まり始めていた。
風が止まった刹那、屋根を越える影が動いた。
闇の中から現れたのは、顔を布で覆った無言の男たち。
その手には、帝国製の短銃が握られていた。
カチリ――
最初の音は、銃の安全装置が外れる音だった。
次の瞬間、銃声が弾けた。
木の柱が裂け、火花が壁を走り、
侍女が悲鳴を上げたかと思えば、背後で何かが倒れる音がした。
アレッサは、咄嗟に振り返る。
目の前で、忠実な女官の一人が胸を撃たれ、血の花を散らして崩れ落ちていた。
「陛下、走って――!!」
忠義の近衛兵が飛び込んできた。
彼は盾のようにアレッサを庇いながら廊下を駆ける。
「密通路へ! 地下へ急げ!」
扉を蹴破るように開け、細い階段へ身を投げた瞬間――
背中でもう一発、銃が火を噴いた。
鋭い痛みがアレッサの肩を走る。
「くっ――!」
血が、階段の石を赤く染める。
彼女は歯を食いしばり、壁に手を這わせながら、それでも進む。
「裏切り者を吊るせ!!」
「元首は帝国に膝をついた!」
「言葉を捨てた女に、共和国を任せられるか!」
――叫び声が、外の広場から響いていた。
だが、彼女は耳を塞がなかった。
それが自分の罪の重さであり、背負うべき声だったからだ。
地下への扉が閉じる直前、
背後で最後の近衛兵が、敵に向かって突進し――
その体ごと、扉を押し閉じた。
「元首、お行きください。言葉が消える前に――!」
バン!
その声とともに、扉は閉じられた。
静寂。暗闇。
アレッサは、血の滴る肩を押さえながら、冷たい石の通路を這うように進んだ。
地上では、共和国が「元首の裏切り」を喧伝し、
火が上がり、銃が吠え、憎しみが声を掻き消していく――
だが彼女は、なお生きていた。
共和国の地下へと、言葉を携えて消えたのだ。
その傷が癒えるころ――
この地下から、“真の声”が再び響くとは、
まだ誰も知らなかった。
7. 理想は地下に沈む
ヴァレンティア南区の旧軍参謀庁――
今やそこは、共和国の“臨時政権”の心臓となっていた。
長机の上には、地図と人員配置表。
壁には、民兵団各師団の展開図。
そして、かつて“共和国旗”が掲げられていた場所には、今――
サヴォリオ将軍の軍帽が、影のように置かれていた。
「議会、黙ったままですな」
副官の一人、グラーノが地図を指しながら言った。
「むしろ静かでありがたい」
もう一人の副官、ミレッジが嘲笑気味に応じる。
「“緊急防衛評議会”、便利な名前だ。
議事録も、拍手も、投票も――すべて省ける」
将軍サヴォリオは、長椅子に凭れたまま微笑もせず、ただ一言つぶやいた。
「国家というのは、最後には“誰が声を持っているか”で決まる」
「して、今の共和国に“声”を持つ者は?」
グラーノの問いに、ミレッジが肩をすくめた。
「民兵の指揮官。つまり、閣下ですよ」
一同に、軽い笑いが広がる。
その間にも、窓の外では、重装歩兵の行軍の音が地面を震わせていた。
「ルミエラ、ザルベク、ノンヴァール――
全港に夜間巡察を展開済みです。逆らう商人はいません。
叫んでも、誰にも届かんと悟ったのでしょうな」
「……そういう者から、革命は生まれる」
不意にサヴォリオが呟いた。
副官たちが一瞬だけ静まり返る。
「だが、革命を起こすには“旗”がいる。
“言葉”が要る。いま、この国に旗はない。言葉も死んだ」
「元首の話でしょうか?」
ミレッジが探るように聞いた。
サヴォリオは応じない。
ただ、書類の束から一通の紙を取り出した。
それは、“アレッサ・レルネシア”という名が書かれた――もはや無効とされた通達書だった。
「この名前は……遠からず、教科書からも消えるだろう」
「噂では、地下でまだ生きてると……」
「噂は“火”のようなものだ。
制すか、利用するか――それだけだ」
サヴォリオはそれを破ると、無造作に灰皿に投げた。
「共和国は、言葉で支配される時代を終えた。
これからは、“命令”で統治する」
その声が、まるで国家そのものの意志のように響いた。
外では、民兵が拡声器で叫んでいた。
「午後六時以降の集会は禁止とする」
「通貨の再交換は、軍の管理下でのみ行う」
「帝国製通貨の所持者は、即刻届け出よ――さもなくば反逆罪と見なす」
――街にはもう、言葉ではなく“命令”が降っていた。
共和国の上に、火薬と血と、鉄の理が降臨していた。
だが、どこか、誰かが、まだ信じていた。
「戦わずに終わらせるために、誰かが“言葉”を語らねばならない。
私は、そういう“最後の誰か”でありたいのです」――アレッサ
その声は、まだ消えていなかった。