第五章:第一の戦火
序幕:波濤の予兆
南方の港湾都市、ザルベク。
かつて「風の交易門」と呼ばれたその港に、帝国の軍旗が翻ったのは灰色の朝だった。
鋼鉄の艦列が湾を塞ぎ、桟橋には帝国兵が静かに並ぶ。
その整然とした姿は、あまりに冷たく、静かだった。
進駐の名目は「秩序回復」と「交易安定」。
だが、港町の人々にとって、それは征服の幕開けに他ならなかった。
「帝国の通貨が使えなくなった?」
「ザルベクが独自通貨を発行した?」
町中にささやきが満ちる。
商人たちは旧テルマル銀貨の価値を疑い、新通貨の切替を拒んでいた。
市場では、パン一斤が昨日の倍の値で売られ、
だが、それでも買う者はいない。
「これは、ただの飾りだ」
ひとりの老婆が銀貨を指ではじいた。
「この小さな丸に、腹は満たされぬ」
通貨の信用が失われ、物流は麻痺し、港は沈黙に包まれる。
兵士たちは整然と街路を巡回するが、誰も彼らに目を合わせない。
セラフィオン将軍は城館の一室で報告書を読みながら、眉をひそめていた。
「飢餓と混乱は、武よりも早く人の心を壊す」
彼の言葉に、部下は黙してうなずいた。
帝国皇帝ユリウス・レオーンは、遠く帝都にあって、「経済圏の再統合」「帝国の共同体再生」を唱えていた。
だが、ここザルベクで見えるのは――
飢え、怒り、沈黙、そして恐怖だった。
「我らは、正義の名で進駐した。
だが、彼らにとって我らは“刃”でしかないのかもしれぬ」
セラフィオンは窓から港を見下ろし、つぶやいた。
そこでは、一人の少年が帝国兵に投石し、母に抱き止められて泣いていた。
それは「秩序の回復」の風景ではなかった。
セラフィオンの命令
帝国軍第七軍団――その先鋒を率いていたのは、司令官セラフィオン・ヴァリウスであった。
ザルベクに入る前夜、彼は海上の司令艦でひとり、灯を消した地図を見つめていた。
「秩序回復」と書かれた進駐命令の巻紙が、まだ開かれたまま揺れている。
「正義の名の下に街を制圧しろ、か……」
セラフィオンは静かに呟き、海図の上に拳を置いた。
彼は理知の将であり、闘犬ではなかった。
ユリウスの理想――“力による安定”の必要性は理解していた。
だが、都市に剣を持って入ることが、果たして「秩序」と呼べるのか――
彼はその葛藤を、自らの中で飲み込んでいた。
翌朝。
帝国軍がザルベクの波止場に入港すると、
白い甲冑に身を包んだ兵たちは無言のまま整列し、町の息を詰まらせた。
セラフィオンは旗艦から降り立ち、顔を上げずに命を下す。
「兵を分け、市場と港湾を制圧せよ。
混乱を鎮め、商人たちに“帝国の秩序”を思い出させろ」
その命令は、粛々と実行に移された。
だが、街は――静かには従わなかった。
市場に帝国兵が足を踏み入れた瞬間、
商人たちは品台を蹴倒し、怒声を上げた。
「その銀貨が、どれほど腐っているか知っているか!」
「通貨じゃねえ、呪いだ、あれは!」
剣を抜かず、盾で押し返すように命じた兵士たちだったが、
背後から投げられた魚の腐片が一人の軍装を汚し、緊張は一気に高まった。
騒然とする街路。
逃げ惑う子供、叫ぶ老婆、剣を抜こうとする若き士官――
「やめろ、手を出すな!」
セラフィオンが駆けつけ、剣を抜きかけた部下を制止したその瞬間、
街の鐘が突如響いた。
“帝国の侵略”を告げる、ザルベク伝統の警鐘だった。
それはまるで、占領ではなく「侵攻の開戦」を知らせる号砲のように街全体へと広がっていった。
セラフィオンは立ち尽くす。
彼の命令は正しかったはずだ――
だが、今この街で鳴っているのは、秩序の音ではなかった。
それは、帝国が“正義の顔をしてやって来た”ことへの拒絶の音だった。
風の中に、彼は聞こえた気がした。
「ここにあるのは、正義ではない。
お前たちは、“ただの力”だ」と。
街の反発と抵抗
帝国兵が市場へと進み、通路を制圧していくと、
最初に響いたのは、剣ではなく――嘲笑だった。
「帝国軍が来て、何をするつもりだ?」
「商人を殴りつけて“秩序”と叫ぶのか?」
冷えた声が、一人、また一人と増えていく。
「盗賊どもを追い払う? それとも――
我らを盗賊扱いするつもりか、帝国様よ!」
罵声はだんだん熱を帯びていった。
兵士たちは整列を保ちながら、ただ無言で周囲を睨む。
だがその沈黙が、逆に人々の神経を逆撫でした。
市場の空気が重く、粘ついたものに変わる。
商人が棚の下から硬貨をかき集める動きも、
老婆が果物を握りしめる手の震えも、いつしか――敵意に変わっていた。
兵士の一人が、前に出た。
「退け、ここは帝国の命により――」
その言葉が最後まで届くことはなかった。
「言葉はもう、通じねえよ!」
群衆の奥から、何かが飛んだ。
それはトマトだったのか。
あるいは石か。
それとも、ただ怒りを込めて握られた拳の形をした“絶望”だったのかもしれない。
砕けた音と共に、ひとりの兵士が顔を押さえて倒れた。
その瞬間、音が変わった。
空気が、ひっくり返った。
商人の一人が、倒れた露店の脚を掴み上げ、振り回す。
野菜が潰れ、硬貨が散り、陶器が砕ける音の中で――
市民たちは一斉に動いた。
鉄棒、木の柄、食器棚の骨――
手に取れるものすべてが、武器になった。
誰かが叫んだ。
「暴動だ!」
すぐに返されたのは、兵士の怒号だった。
「鎮圧しろ!」
命令と同時に剣が抜かれる。
市場の片隅では、子供の泣き声が響く。
その声さえ、血の匂いにすぐかき消される。
帝国兵たちは最初、盾を掲げて防御に徹しようとした。
だが、次々と投げられる陶器、椅子、熱せられた油が、彼らの顔と鎧を打った。
ある兵が、咄嗟に剣を抜き、打ち返した。
それが――**本当の意味での“最初の一撃”**だった。
次の瞬間、市場は火を吹いたように混沌と化した。
血がはね、叫びが飛び、剣が振るわれる。
人と人とが押し合い、潰れ、地に倒れる。
それはもはや、「秩序回復」ではなかった。
それは、帝国が掲げた“正義”の仮面が、初めて割れた音だった。
ユリウスの苦悩
その報せが帝都に届いたのは、灰色の午後だった。
皇帝ユリウス・レオーンは、宮廷の広間にいた。
書簡を受け取った近衛官が、沈黙のまま一礼し、後退する。
彼は文を開き、目を走らせた――
そして、短く吐息をついた。
「……また暴動か」
その声には怒りも驚きもなかった。
ただ、乾いた紙のような静けさがあった。
広間に残っていた侍従官が、一歩前へ出る。
「ザルベク港にて、市場占拠中の第七軍が暴動に遭遇。
民衆が一斉に蜂起し、数名の兵が負傷。
群衆鎮圧の際、一時的に“流血”を伴いました」
ユリウスは眉を寄せることもなく、
そのまま指を額に当てた。
「……“流血”とは、誰の?」
侍従官がわずかに口ごもる。
「帝国兵、民間人、双方に……詳細は、まだ――」
ユリウスは目を閉じた。
まるで、その一瞬で彼がすべてを理解したかのように。
「私は、力ではなく法を。武ではなく約束を掲げた」
かつて、そう誓った。
あの即位の日、群衆の前で。
「正義は剣の先にあらず。
民を導くのは法と理であると、私は言ったのだ」
だが今、その「正義」は、群衆に投石され、
帝国兵の盾に血を浴びせながら――地に落ちた。
ユリウスはゆっくりと椅子に身を沈めた。
広間の天井に彫られた天使の浮彫が、今は嘲笑に見えた。
「……ザルベクの市民は、“帝国の正義”など求めていない」
声は低く、どこか遠かった。
「彼らが望んだのは、明日食えるパンと、今日を傷つけられずに生きることだった」
沈黙が広間に満ちる。
「その手を握るより先に、我らは剣を持っていた。
――それが、全てだ」
部下が沈黙する中、ユリウスは立ち上がった。
「法は、空腹を満たさぬ。
理想は、火薬の代わりにはならぬ。
“正義”が民に届くには、余りに遠すぎるのか……」
そして、ふと笑った。
「いや、そもそも。
私は“誰の正義”を語っていたのだ?」
誰にも答えられなかった。
天使の彫像が、なお天井から世界を見下ろしていた。
港湾都市の炎
ザルベクの朝――
それは、重く垂れ込めた鉛色の雲と、夜の余熱を残す焼けた石畳に始まった。
帝国軍第七軍団の司令官セラフィオン・ヴァリウスは、司令本部に詰めたまま夜を明かしていた。
灰にまみれた書状が彼の机を覆っていた。
「ノンヴァールでも……暴徒が?」
副官の報告を受けた瞬間、彼は立ち上がった。
「詳細を!」
「昨夜、港湾税徴収所が襲撃され、火が放たれました。
兵が鎮圧に動いたところ、住民数百人が集結し……いまも制圧には至っていません」
セラフィオンは顎を引き、深く息を吐いた。
その空気には、硝煙の匂いが混じっていた――ザルベクのものだ。
昨夜、兵を引かせ、再調整を命じたばかりだった。
「報復ではなく回復を。威圧ではなく対話を」
――そう判断したのは、彼自身だった。
だが、結果はどうだ。
夜のうちにザルベクの一角が再び燃えた。
倉庫街で、住民の手によって火が走り、港の船も一隻が沈んだ。
そして、その報告が届いた矢先――
「……エレ=サンドからも、です」
伝令の声は、まるで呪文のようだった。
「帝国軍の進駐に反発した市民が、港倉庫に放火。
炎が広がり、停泊中の商船十数隻が全焼。
避難民と兵が交錯し、犠牲者多数」
「なぜだ……」
セラフィオンは低く呟いた。
「我らは、統一と秩序のために来たのだ。
それが、どうして“敵”として迎えられる?」
彼の視線の先、窓の外に広がるザルベクの街並みには、煙がまだ上がっていた。
夜通しの騒乱の後、路地には焦げた野菜と血の混ざった泥がこびりつき、
ひしゃげた鎧と割れた盾が兵舎前に積まれていた。
その横を、老女が震える手でパンを拾っていた。
彼女の目は――兵士を見ても、何の感情も映さなかった。
怒りでも、恐れでもない。
ただ、“諦め”だけだった。
「このままでは、全てが崩れる……」
セラフィオンは唇を噛みしめ、命じた。
「全軍に通達。鎮圧態勢に移行せよ。
暴動には、断固たる対応を」
それは、彼自身の理念への裏切りだった。
“力は最終手段”
“兵の剣は民の盾であれ”――
その教えは、燃え盛る三港の火と共に消えかけていた。
やがて夜が明けるころ、ザルベク、ノンヴァール、エレ=サンド――
三つの港が、炎に染まっていた。
それは都市の灯ではなかった。
帝国の“正義”が、最初に殺したものの残火だった。
その報せは、帝都の皇帝にも届く。
ユリウス・レオーンが掲げた「約束」は、
暴徒の叫びと焼けた書簡の灰にまみれ、
ついに、戦火にかき消された。
戦争は――始まってしまった。