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第四章:動く三冠

ラルム市、旧帝国通商区。

その名は今や、ヴァレンティア共和連邦にとって“誤って残された帝国の影”を意味していた。

白い石造りの倉庫が並ぶ街路。

帝国時代には香辛料と金貨が飛び交った場所だが、今は薄汚れた自由民兵と失職した商人が睨み合う灰の地帯。

少年テオは、その倉庫街に入り込んでいた。

「……おい、ライアス、マッチ貸せよ」

「持ってきたぞ。こっちのが火が長持ちするんだ」

「でも、それ帝国製だろ?」

「だから面白いんじゃねえか。火つけてやれよ、テオ!」

ふたりの声は震えていた。

遊びではなかった。

恐れでもなかった。

ただ――子供の本能が、火の持つ“力”に魅かれていた。

テオが火を投げると、乾いた布が一気に燃え上がった。

火花が箱の奥へ、油が染みた木材に広がっていく。

誰かが叫ぶ前に、爆音が響いた。


翌朝、ラルム市議会ではすでに非常事態宣言が発せられていた。

ヴァレンティア首都、ラルム市・中央広場。

夕刻、街角に突然貼り出された一枚の声明が、都市の空気を変えた。

「人民の名のもとに、平和と自決の火を護る。

帝国とは、対話と公正の道を探るべきであり、

我々は再び、剣より言葉を、怒りより理を選ばねばならない。

――ヴァレンティア連邦 元首 アレッサ・アルヴィエンナ」


署名と印は、本物と見紛うほど精巧だった。

だが、知る者は知っていた。アレッサは今自宅に幽閉されている。


この声明は、軍閥の政治部門が市民感情を操作するために“捏造”した声明だった。


将軍ロマヌスは、参謀たちを前に冷笑を浮かべる。


「市民が元首を信じている間は、我々が信じられる。

この言葉は、本当に彼女が語ったか否かは問題ではない。

重要なのは、誰が“正義を先に掲げたか”だ」


参謀のひとりが言った。


「火を掲げる者が正しいのではない。

火に名前を与える者こそが――正義になるのですな」


軍閥は、“元首の理想”という仮面を被ったまま、軍を再編し、

民衆には「対話の構え」を、実際には「武力の準備」を進めていた。


そして、いつか“本物の元首”がこの声明に反論しようとしても、

その声が届く前に、戦火が都市を呑むだろうと、彼らは確信していた。


その夜、ラルム市郊外にて、自由市民団の長ライアスが新たな布告を発した。

「共和国は、帝国と交戦状態に入ったわけではない。

だが、帝国の影が再び我らの街に現れるなら、

我らは剣ではなく“火”で対抗する。

火は、自由の光だ!」

群衆の前で掲げられたのは、爆破事件で焼け焦げた鉄板。

テオが火を投げ入れた倉庫の扉だった。

少年はそこにいなかった。

ただ、その名が広場で誰かの口から叫ばれた。

「火を灯した少年に、共和国の祝福を!」


テオはまだ、どこかの裏通りに隠れていた。

火が燃えた瞬間の音が、まだ耳から離れない。

彼は、街角に落ちていた新聞の切れ端を見つけた。

『――テオ・レミオ、帝国への反抗の象徴として伝説化』

彼はその名前を読んで、涙を流した。

なぜなら、それは初めて「自分の名前」が、

自分の知らぬ誰かの“正義”に使われていたことを知った瞬間だったからだ。


サクソニア王国・北東辺境、アストラス氷原。

雪解けが始まるこの季節、氷は一瞬にして“聖域”から“戦場”へと姿を変える。

風は乾いていた。空は青白く、地平線には古の封印塔が点のように並んでいる。

その村では、古くから“出陣の祈り”が行われていた。

新兵となる若者は、村の神殿で“凍土封印の儀”に参列し、氷の守りを神に託す。

アデル・カイルは、その一人だった。


「跪け、アデル」

祈祷師の声に従い、アデルは氷の床に膝をつく。

手には剣ではなく、未使用の記録板を握っていた。

「お前は剣を抜くために来たのではない。

封印の“言葉”を受けるために来たのだ」

アデルは頷いた。

神殿の奥、巨大な氷柱の中に、古の紋章が淡く浮かんでいる。

その紋は、かつて“神が氷に眠る”とされた伝説の証。

祈祷師が灯火を掲げる。

「火は氷を裂くものなれど、言葉を凍らせてはならぬ。

サクソニアの兵よ、お前は剣ではなく、“秩序”を携えよ」

祈りの句が響く――はずだった。

だが、氷柱は応えなかった。

火をかざしても、光は差さず、氷は沈黙を保ったままだった。


「……神の封印が、答えない……?」

神殿の中に、薄い緊張が走った。

祈祷師は呆然と立ち尽くす。

アデルの背後では、他の新兵たちがざわめき始める。

それは、ただの奇異ではなかった。

サクソニアにとって、氷の封印が沈黙することは、

“神の守り”が断たれたことを意味する。

村の長老が、沈んだ声で言った。

「……火だ。

南で王が火を灯した。

その火が、氷の神を黙らせたのだ」

アデルはその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

だが、彼の手にあった記録板に、ひとつの命令が書かれているのを見つけた。

【命令】

「新兵アデル・カイル、南方戦線補給第七団へ配属。

任務は軍用書簡および衛生連絡記録の補助」


その夜、彼は母の元を訪れた。

「明日、出ることになった」

母は、それがいつか来ることだと悟っていた顔をした。

アデルは続ける。

「……神殿の火が、灯らなかった」

母は、それには答えず、彼の頭にそっと手を乗せた。

「剣を持たされるなら、

せめて“お前の言葉”だけは、誰かに届けなさい」

アデルは、記録板を見つめながら頷いた。

「俺が戻る時、

この言葉が、まだ誰かの中に残っているように」

それは、氷の中で聞こえなかった祈りの、

代わりに“誰かの胸へ届く”ための、小さな誓いだった。


帝都ザルベクは、静寂に包まれていた。

いや、それは“沈黙”というべきかもしれない。

かつて神の声が鳴り響いたはずの神殿広場には、もう祈りの音がなかった。

通りを歩く者たちは、火を避け、剣を避け、声を失っていた。

だが、その沈黙を破る者が、ひとりいた。


「聞け、民たちよ。

神は、もはや光で語られぬ。

火の中に、言葉はない。

だが沈黙こそが、神の最後の語りだ」

女預言者メリアは、神殿階段に立ち、両手を天に掲げていた。

彼女の周囲には、軍監視官の目を盗んだ市民たちが集まり、

まるで久しぶりに“誰かの声”に耳を傾けているようだった。

「皇帝は、沈黙の試練に応えていない!

我らの王は、剣を抜かずに何を待つ!」

群衆の一部が叫び、メリアはそれに応えようとした――

が、その瞬間、衛兵たちが彼女を取り囲んだ。

「帝都法に基づき、宗教扇動罪で連行する」

「神の声を聞く者を連行するとは、

帝国もいよいよ“火”を恐れたのか!」

彼女の最後の言葉は、広場にこだました。

その後、衛兵たちが口を塞ぎ、彼女を連れて行った。


その数刻後――

帝宮、沈黙の間。

皇帝ユリウス・レオーンは、深紅の玉座に静かに腰かけていた。

宰相セラフィオンが奏上する。

「ヴァレンティアでの爆破事件、サクソニアの境界線封鎖、

そして神殿預言者の扇動……帝都は、揺れております」

ユリウスは、しばらく黙った。

そして、声を絞るように言った。

「それでも、我はまだ“開戦”とは言わぬ」

「陛下、もはや火は広がっております。

言葉が追いつく前に、剣が交差してしまうのです」

「……ならば、言葉を、先に走らせろ」

セラフィオンは一瞬、言葉に詰まった。

だがユリウスの言葉は続いた。

「神が沈黙しているなら、

我らが“静けさの名において”剣を置かねばならぬ」

「それでは、神が我らを見放したと、民は……」

「それなら、我が“火に耐える者”であることを示せばよい。

剣を抜かぬことは、弱さではない。

それは、“神の沈黙に答える覚悟”だ」


夜が更ける。

皇帝の言葉は、まだ誰の耳にも届かない。

だがこの日、帝国は密かに、

“信仰回復作戦”――リュヴェナ進行の準備に入る。

正式な開戦布告ではなかった。

しかし――その一歩は、確かに「火の道」へと向けられていた。


風は変わっていた。

それは季節のものではなかった。

熱でもなく、冷気でもなく、

――血と鉄と火薬のにおいを含んだ風。

それが、三つの国の国境へ、同時に届いていた。


【1】サクソニア南前線・灰峡谷哨所

アデル・カイルは、灰に覆われた前線地帯で、銃の整備をしていた。

数日前に配属されたばかりの彼にとって、戦争はまだ“遠く”にあった。

だが、上官の一言で、それが覆される。

「帝国の偵察兵が哨戒線を越えた。

我らが『第一発』を撃たねば、彼らは“自衛”の名で攻め込んでくるぞ」

アデルは問う。

「こちらが先に撃ったと記録されれば、戦争になるのでは?」

上官は苦笑する。

「サクソニアには“記録官”がいる。

“正しい順番”で報告されるさ」

銃を構えたアデルの指が、震えていた。


【2】ヴァレンティア=帝国境界・ラルム南門

ライアス指揮の自由市民団は、帝国境監視塔への“返答攻撃”を決定していた。

「我らは共和国議会の命を受けたわけではない。

だが、帝国が我らを“無政府の群れ”と侮るなら、

その偏見に火で返してやる!」

民兵の一人が叫んだ。

「でも、これで帝国に口実を与えることになるのでは?」

ライアスは、青と銀の旗を掲げた。

「この旗が、共和国の“炎の宣言”だ。

誰が始めたかではない。誰が“火を恐れぬか”が重要だ」

砲が鳴った。

監視塔の一部が燃え上がる。

その映像は、後に帝国報道で「正義への侮辱」として拡散されることになる。


【3】帝国西防衛線・リュヴェナ山道

帝国第九騎士団の隊長レオナートは、出陣の命を受けていた。

名目は「信仰保全のための局地行動」。

しかし、命令文の余白には、赤インクでこう書かれていた。

「撃たれた場合、“報復”せよ。

先に撃たれずとも、“光を奪われた”と記録せよ」

レオナートはそれを読んで、黙って剣を鞘に収めた。

「我らは、火を持って光を守る」

部下の兵が言った。

「火と光は、同じものなのでしょうか?」

レオナートは答えなかった。

だがその夜、帝国の旗は山道に掲げられた。

それは、帝国の神が沈黙する中で振るわれた、“初めての剣の影”だった。


ナヴァエラ高原の中央、廃墟となった双光神殿は、

かつて三国すべてが祈りを捧げた“沈黙と火”の聖域だった。

火と光、夜と昼、神と王の間を仲立ちする場。

いまそこに集ったのは、三つの国の“言葉を残そうとする者たち”だった。


ヴァレンティアからは外交使節ラッセールと神学士アデルミナ。

帝国からは使節補佐ファルマと記録官カイロス。

サクソニアからは宗務補佐レティア・ヴォルスと若き神官アイン。

かつて三国の神官たちが同じ祈りを唱えた中央祭壇に、

いまは、灯されていない燭台がひとつだけ置かれていた。

それは「対話の火」。

火が灯されれば会議は始まる。

灯されなければ、沈黙が続く。


「誰が火を灯すのか?」

ファルマが問い、場が凍った。

「帝国は、神の名を汚された。

火はもはや“正義”ではなく、“侮辱”の象徴だ」

ラッセールが応じる。

「ヴァレンティアでは火は自由の灯火だ。

だが、それを帝国は“テロ”と呼ぶ。

ならば、火は政治の具だ」

レティアは、そっと前に出た。

「サクソニアは……火を使った。

だがそれは、民を生かすためだった。

私たちは、“裁かれる火”を灯したのではない」

アデルミナが一歩前に出る。

「では、“誰のための火”なのかを問いましょう。

神のためか? 王のためか? 民のためか?

それすら語れないなら、火は、灯さぬほうがいい」

そのとき――

若き神官アインが、無言で燭台に火を近づけようとした。

だがその瞬間、風もないのに、燭芯がふっと倒れた。

まるで、“火が拒絶された”かのように。


沈黙。

その沈黙が、誰よりも雄弁だった。

神殿の上部に彫られた旧語が、雨水に濡れて光っていた。

「火に語らせるな。

語るべきは、火の前に立つ者の“名”である」

レティアがゆっくりと布を取り出し、燭台に被せた。

「神が火を拒んだのではない。

我々が、“火の意味”を忘れたのだ」


会談は解散された。

記録はされなかった。

誰も声を出さなかった。

だが歴史には、こう記されることになる。

「この日、三国は語り合おうとした。

しかし、火も、神も、名も、彼らをつなげなかった。

それが“最初の沈黙”である」


時代が進み、すべての戦火が灰になった後。

ある一人の歴史家が残した手記が、後世に“真実”として読み継がれていくことになる。

その冒頭には、こう記されていた。

「三国戦争の始まりについて、我々は何度も問われた。

宣戦布告の日付を?

最初に剣を抜いた者の名を?

だが、戦争はそのようには始まらなかった。

戦争は、言葉が失われたときに始まったのだ。」


預言者メリアの声が消された日、

少年テオの名が“火の象徴”になった日、

アデルが祈りのない出発を選んだ日、

レティアが燭台に布をかけた日。

それらは、いずれも“戦争”ではなかった。

だが、すべてが“言葉の消失”を告げる予兆だった。


「歴史とは、時として“沈黙の地層”から発掘される。

誰が命じたのか、誰が仕掛けたのか、

そうした問いよりも遥かに深く、

『誰が語らなかったのか』

『何が語られなかったのか』

それこそが、開戦の“綻び”である」


神官たちは祈りを唱えず、

王たちは“布告”を避け、

民たちは“火”を真実と信じた。

そして、“誰も戦争を始めていない”というまま、

三つの軍が剣を抜いていた。


最後に、歴史家はある記録官の文を引用している。

それは、少女兵ミナ・レイラが残した断片的な記録だった。

「私は、戦争が始まった日を知らない。

でも、“剣を持たされて初めて黙らされた日”を覚えている。

誰かが私に命令したのではなかった。

誰かが私の声を奪ったのではなかった。

私自身が、声を発しないことを“選んだ”。

だから私は、戦いではなく“綻び”を記録する。

いつか誰かが、それを“始まり”と呼べるように」


この手記は、後に「綻びの記録」と呼ばれ、

三国戦争の第一史料として研究されることになる。

だがその記録の最後に、歴史家はこう書き記していた。

「真実は、誰かが声を失った時に始まる。

だから記録者は、戦いを記すのではない。

“誰が沈黙したか”を記す者である。」

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