第三章:氷の裂け目
遥か北方、世界の果てとされる《ヴェル=カラ》氷壁―― その断崖を望む高地に、オルド族の風骨師たちは集っていた。
彼らは神官でも戦士でもない。 風と氷と空の流れを読む者たち。 自然の鼓動を言葉にする者。
彼らが、異変に気づいたのは十日前の夜だった。
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「風が鳴いていない」
老骨師が、薄く裂けた雪の表層に手を置き、静かに呟いた。
「いつもなら氷面を撫でる谷風が、東へ抜けてゆく。 だが今は、風が、反響していない。 音が戻らぬ。 ……氷が、声を失ったのだ」
それは、氷の底部で圧力が限界に達し、 **氷鳴り(クリオセイスム)**が沈黙に転じた兆しだった。
音が聞こえないのではない。 音が、“行き場を失っていた”。
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さらに、動物たちの動きが変わっていた。
越冬するはずの雪鹿が群れをなして南下し、 渡り鳥の進路が歪み、 地下を掘る氷鼠までもが巣を放棄していた。
若き観測手が報告する。
「獣たちが、“谷を恐れている”」
風が黙り、獣が逃げ、星が歪んだ。
老骨師は言った。
「氷が、もう“地の一部”ではなくなりつつある。 それは、地母が“契約を閉じる”時の兆しだ。 我らは、戻らねばならぬ。 名を取り戻しに」
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その言葉は、ただちに族長評議へと伝えられた。
だが、自然の兆しだけではなかった。
問題は、南の“帝国”が協定を破ったことである。
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帝国との「銀の約定」―― すなわち、年二度の銀貨と物資の供給は、通貨の暴落により途絶した。
テルマル銀貨は信用を失い、帝国は補給の継続を打ち切った。
それは、交易の終わりであり、言葉の終焉だった。
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「言葉が滅んだなら、風を送るしかない」
オルドの族長は静かに言った。
「帝国は風を読まぬ。 だが、風が沈黙したとき――それは我らの鼓動となる」
こうして、オルド族は“帰還”を決定した。
それは侵略ではない。忘れられた者たちの帰郷だった。
風が変わったのは、誰よりも早く、鷲たちだった。
氷の尾根を越え、群れをなして南へと降りるその動きは、伝令よりも早い警告だった。
だが人間は、風の変化を信じなかった。
風は目に見えず、言葉にできず、ただ肌を刺すだけだからだ。
グラド北哨所、標高三千メルト。
サクソニア最北端の軍事拠点にして、帝国との不可侵線を護る唯一の軍事斥候線。
その北には、“氷壁”と呼ばれる天然の防壁があった。
長く続く氷河が谷を埋め、峠を覆い、千年にわたり侵入を拒んできた白き城壁。
だがその日、氷は鳴った。
まるで地中深くに眠る獣が目を覚ましたように、
鈍く、深く、底のない響きとともに。
「聞こえたか……?」
斥候兵ルカ・エンデルは、氷の台地の上で足を止めた。
彼の背後には、風除けに積まれた雪壁と、凍りついた塔がある。
上官も、見張りも、遠くの大陸も――音が届くにはあまりに遠い。
しかし、彼の耳には確かに聞こえた。
氷が、割れた音を。
「嘘だろ……。これは、天変か……?」
凍える指が記録用の符冊を震わせる。
風が巻き、空が割れ、遠くから――地が啼くような轟音が届く。
そして、それは次の瞬間、目に見える現象となった。
氷の尾根が、ひとつ、崩れた。
最初は雪崩かと思われた。
だが違う。崩れたのは雪ではない。
青白い氷の奥、氷河そのものが、音もなく、ゆっくりと裂けていた。
「割れてる……っ。氷が、生き物のように……」
そこには空白ができた。
永遠に閉ざされていた“地形”の裂け目。
そして――そこに立つ者たちが現れた。
狼の毛皮をまとい、曲がりくねった長弓を背負い、
鉄器と革甲を混ぜた装備で全身を包みながら、
鋭い目をこちらに向ける騎兵の群れ。
「オルド族……」
かつての伝承、遊牧の民。
北氷原の彼方に住むとされた、風に乗る民族。
サクソニアでは既に神話の中の存在として語られていた彼らが、
現実となって姿を現した。
しかも、氷が彼らのために道を開いたのだ。
――そして、王国北辺、《ユル=スレイ》要塞地帯。
帝国との国境から遠く、氷壁に最も近い辺境地。
そこに駐屯する王国北第八軍――正式名称を「北縁氷線防衛隊」とするこの部隊は、数年前の“霜雷戦線”崩壊以後、再編されたばかりの半独立軍団であった。
指揮官グリフォス准将は、風骨師たちが氷の異変を報告してから、既に軍を警戒態勢に移行させていた。
王都からの命令はなかったが、彼には確信があった。
> 「氷は割れる。そして、その裂け目から来るのは――風ではなく、刃だ」
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そしてその予感は的中する。
ヴェル=カラの裂け目が完全に崩壊し、数千の騎馬が吹雪の奥から現れた。
黒きオルド族――
かつて王国に滅ぼされた北方部族の末裔。
だが彼らは、サクソニアを焼こうとはしなかった。
氷壁を越えたその足は、まっすぐに帝国の北領へ向いていた。
グリフォスは、即座に判断を下す。
> 「ここで全軍をもって迎え撃てば、我らは壊滅し、
オルドは混乱の中で南へ流れ込み、我が王国の中枢を脅かすことになる。
だが――彼らが“帝国の喉元”を目指しているならば、
我らは“刃を受ける盾”となり、刃を導く鞘ともなり得る」
彼は部隊の再配置を命じ、一部の旧要塞地帯を意図的に明け渡す。
王国北辺の村落と緩衝地を放棄する代わりに、
オルド族の進軍路を明確に“帝国側”へと誘導したのだ。
---
その夜、グリフォスは密使を王都に送り、王直属評議会宛に報告をした。
> 「我が北第八軍は、オルド族の進軍を確認。
一時的に王国領土の一部を“渡す”形となるが、
これにより帝国北部の主要防衛線がオルド族に破られる可能性が高まる。
いまこそ、帝国を“火なきまま”斬る好機にございます。
帝国が北を押さえられぬ間に、我らは南西の接収未確定地帯に軍を進め、
領土の“合法的奪還”と帝国の勢力圏再編を成し得ます。
オルドは我らに刃を向けておらず、
彼らの怒りは帝国に対するもの。
これは、神の風――氷雷の導きでありましょう」
評議会に届いたこの文は、
一夜にして王国の戦略転換を促し、
王都では密かに「氷影作戦」と呼ばれる新方針が練られ始める。
---
こうしてサクソニア王国は、
“火を持たぬ”ままに“風を引き入れ”、
“雷を導く者”となる。
帝国はそれを知る術もなく、
北辺に迫る嵐を前に、ただ静寂を守るしかなかった。
それが、戦争のはじまりだった。
語られぬ言葉と、選ばれぬ剣によって始まる、火なき戦の――
前夜である。
その夜、グラド哨所から発された緊急報告は、
凍てつく夜風に乗り、王都ハルヴァインへと走った。
「氷壁、崩壊。オルド族斥候、侵入。北第八軍、連絡断絶中」
文書は、朝の議会の席に届く前に、
すでに王ノラール・ドラケンの元へ運ばれていた。
報告を読んだノラールは、ただ一言、呟いた。
「氷が割れたか……。
ならば次に割れるのは――我らの地図だ」
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そして、王国――サクソニアは、その動きをいち早く察知した。
軍部急進派は動いた。
「帝国は、北で手一杯になる。 いまこそ、“氷雷”の名のもとに南辺境を突くべきだ」
その決定は、“口にされぬ協定”と化した。 サクソニアとオルドは、名も交わさず、火も灯さず、 ただ――互いに進む道だけを、重ねた。
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こうして、帝国は西から“雷”を、北から“風”を受けることとなった。
火を掲げたヴァレンティア。 言葉を持たなかったサクソニア。 そして――言葉さえ棄てたオルド。
それらすべてが、今――帝国の境界を、 沈黙の中から包囲し始めていた。
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この夜、双光神殿の書記が日誌にこう記した。
> 「火が語り、雷が走り、風が黙した日―― それを我らは、戦争の始まりとは呼ばぬ。
だが、言葉の終わりとは、きっと―― このような音のない刻のことを言うのだろう」
王都ハルヴァイン。
まだ陽も昇らぬ黎明、霧の中で塔鐘が低く鳴った。
氷壁の崩壊報が届いた朝、軍政庁は急遽招集され、王ノラール・ドラケンは通常の謁見をすべて打ち切って、地図の間に姿を現した。
「氷が割れた。道が開いた。
これは天災ではない。“戦争の地形”が生まれたのだ」
彼の言葉に、誰もが息を呑んだ。
室内の中心に広げられたのは、国境線を描いた軍用地図。
だが、その線はすでに現実とずれていた。
“氷壁”と記された帯には、赤い染みのような印が刻まれていた。
軍務統括官ユリンが言った。
「北第八軍は、現在グラド哨所のさらに奥、補給限界線にいます。
斥候部隊との通信は途絶。突発的な撤退は困難です。
だが急行支援を送れば、オルドの主力とぶつかる可能性が――」
「支援は送らぬ」
ノラールの返答は、鉄よりも冷たかった。
「第八軍には、“凍結命令”を発する。
その位置で待機、敵に対して防衛戦を維持せよ。撤退命令は出さない。
彼らには“時間”を稼がせる」
参席者の間にざわめきが走った。
「それでは第八軍は……」
「全滅するでしょう、陛下!」
誰かが叫ぶ。
ノラールは応じない。
地図を見つめる眼だけが、すでに未来を描いていた。
しばらくして、重い沈黙を破ったのは、老筆官レニスだった。
「……陛下。王とは“全てを救えぬ者”でございます。
だが、だからこそ、“どこを切るか”を決める者でもある」
その言葉に、王は静かにうなずいた。
「北を捨てる。
それは冷酷ではない。“国を生かす”という判断だ。
私は、戦略に感情を持ち込まぬ。
だが……後悔はするだろう。
そして、その後悔すら“治世”として背負う」
政務を終えたあと、ノラールは王宮の最上階――東塔の天窓室へ向かった。
そこには、かつての王妃、セリュシア・ドラケンの肖像が飾られていた。
王の母。
剣を抜かず、敵国へ自ら降り、民を守った“炎の姫”と呼ばれた女。
その面影を前に、ノラールは立ち尽くした。
「ノラール、王になりたいのなら、民を愛しなさい。
でも、本当に王でいたいなら、民に裁かれる覚悟を持ちなさい。
愛されることと、正しいことは違うのよ」
幼き日、母に言われた言葉。
その時は意味が分からなかった。
だが今は、痛いほどに理解できる。
ノラールは窓を開け、北方の空を見た。
その先に、第八軍がいる。
そのさらに向こうに、オルド族がいる。
そして、誰も越えることのなかった“氷壁”が――もう、存在しない。
「母上、私は貴女のようにはなれない。
でも、貴女の信じた“民”を、生かす選択をしたい」
その声は、誰にも聞こえなかった。
ただ、氷の裂け目から吹き込む北風だけが、
王のマントを大きく揺らしていた。
西境地帯、カルン丘陵。
王都から東へ五十リーグ、小さな村が点在する冬枯れの谷あい。
その中でも、最も名もなき村のひとつに、少女ミナ・レイラはいた。
祖母と二人、粗末な藁の家で暮らす少女。
父は凍傷で、母は出産で命を落とし、家族は“祈り”だけを遺した。
ミナは読み書きができた。
それは父が生前に帝国から雇った巡回教師に教えさせたからだった。
だがそのことが、彼女を“戦場”に近づけることになるとは、誰も知らなかった。
徴兵令状が届いたのは、北境の氷壁崩壊の三日後だった。
「十五歳以上の健康な者を、王国第十補給部隊へ配属とする。
文官、記録係、伝令、看護助手、いずれも訓練後配属」
役人は形式的に告げると、馬を返し、村を去った。
ミナは静かに紙を受け取り、指先で撫でた。
「王国の名において」
その言葉が、紙の端に赤く刻まれていた。
祖母はミナの手を握り、震える声で言った。
「王の名で戦うのかい……?」
ミナは、首を横に振った。
「いいえ。私は、“私の名前”で行く。
祖母ちゃん、私の名前の意味、教えてくれたよね。
“ミナ”は、“耳を持つ者”――誰かの声を聴く者」
祖母は涙を流した。
だが止めなかった。
「ならば……どうか、王の声も、民の声も、
どちらも忘れずに……お行き」
ミナは小さな荷をまとめ、古びたノートを懐に入れた。
それが、彼女にとっての“剣”だった。
徴兵されたミナは、補給部隊の一員として後方の野営地に配属された。
記録係として名簿整理や食料配分を行う一方で、戦場の声を“紙に残す”仕事も任される。
「伝令が死ねば、記録が国を動かす」
上官はそう言った。
だが、ミナは理解していた。
「記録は、未来への祈り」
それは祖母が口癖のように言っていた言葉だった。
ある夜、同じ部隊の兵士がミナに声をかけた。
「おい、書記官。王ってどんな奴だと思う?」
ミナは、少しだけ黙ってから、こう答えた。
「……遠い名前。
でも、私の村を“燃やした名前”。
それが、私にとっての“王”」
兵士は苦笑した。
「はっきり言うな。お前、首が飛ぶぞ」
「記録係は、記すだけです。
真実も、嘘も、剣の音も、全部、残すだけ」
そのとき、ミナはもう決めていた。
剣は抜かない。
代わりに、“書く”。
言葉が消えかけた戦場で、言葉を拾い上げる者になる。
それが、ミナ・レイラの名が、この物語に刻まれる理由だった。
ハルヴァイン王宮、軍政庁・地政戦略室。
壁一面を覆う巨大な地図には、鉄製の矢印と、赤と黒の印が散りばめられていた。
その地図の前に立つのは、七人の男と一人の女――
いずれもサクソニアの軍と政を担う者たち。
そして、その中心に、王ノラール・ドラケンがいた。
彼は、鉄の指で赤い線をなぞった。
「ここが、旧帝国境。ナヴァエラの聖域地帯。
この地は、宗教上の不可侵領域だ。
だが、その“神の壁”が、今や我らにとっても遮断の線となっている」
沈黙の中、軍事顧問ルエン・マルヴァスが前へ出た。
「現在、帝国南部は貨幣の流通停止と反乱頻発により、行政機能が実質崩壊しております。
各地に分裂した貴族派が自警団を組織し、帝都からの統制も届いておりません。
よって、帝国はすでに“政治的死体”です」
誰かが息を呑んだ。
宗務院代表、神官エルメが異議を唱える。
「ですが、ナヴァエラは“神の降りし地”……。
仮に帝国が衰えても、聖域を越えることは……双光教典上の重大な禁忌です」
ルエンは即答する。
「教典より、飢えた民が先に死にます」
ノラールが手を上げ、口を開いた。
「私が問いたいのは、“正義”ではない。“可能性”だ」
彼は地図にひとつの印を打った。
「補給路を南へ延ばし、帝国の放棄地に配給所を設置。
名目は『戦災救済と食料管理』――“再秩序の火”を灯す」
参謀のひとりが呟いた。
「……つまり、“侵略”ではなく、“救済”の仮面をかぶった進軍……」
ノラールはその言葉に応じない。
ただ視線だけで全員を見渡し、言った。
「神は、風と火と沈黙のうちに語るという。
ならば私は、“風”と“火”を使って沈黙を破る」
宗務院のエルメが悲痛な顔で言った。
「それでは陛下……あなたは、“神の代弁者”ではなくなる」
「かまわぬ。
私は神を捨てたわけではない。
ただ、“今、ここにいない神”より、隣で飢えている民を選ぶ」
部屋に、氷のような静寂が落ちた。
その会議の直後、ノラールは書斎に一人こもり、母の書き遺した手記を開いた。
「神と火のあいだには、人という裂け目がある。
その裂け目に橋を架けた者を、王と呼ぶ。
その橋が崩れたとき、王はただの火種となる」
ノラールは閉じた本に、手を添えた。
「橋ではなく、道になる」
命令は即日下された。
「ナヴァエラ方面、進軍準備。
第一波は補給部隊と工兵隊。
“救済と秩序再建”の名目にて、帝国南方に進出せよ」
これが、火の始まりだった。
夜は冷たかった。
だが、その冷たさはもはや季節のものではなかった。
それは――“罪の夜”だった。
ナヴァエラ聖域、帝国最南の巡礼地。
かつて双光神が舞い降りたと伝えられる地に、焚き火の列が伸びていた。
その炎は、戦火ではなかった。
しかし――侵略の最初の音だった。
「火を焚け」
その命を下したのは、サクソニア王ノラール・ドラケン。
彼自身が前線の丘に立ち、遠く石柱の間を見下ろしていた。
ナヴァエラの聖柱は、千年以上風雪に耐え、
一切の戦火に触れたことがなかった。
それが、彼の足元にある。
「この火は、誰のためのものか?」
誰に問うでもなく、ノラールは呟く。
「神か、王か、民か。
あるいは、もう何者でもないのかもしれぬ」
火は、確かに民を温める。
だが同時に、祈りを焦がす。
最初に声を上げたのは、宗務院の随行司祭だった。
「ここは、聖域です。
王よ、火を入れることは――神の領域を侵すことに等しい」
ノラールは振り返り、静かに言った。
「神は今、どこにいる?」
司祭は言葉を失った。
「我らは神の名で生きてきた。
だが神は、飢えた子に麦を与えず、凍える者に火を与えなかった」
「それは……試練です」
「ならば、私は試される側ではなく、火を渡す者でありたい」
彼は焚き火に手をかざし、その熱を感じた。
その夜、帝国聖域に火が灯った。
報せは、あっという間に広がった。
帝国側、リュヴェナ防衛州の都市では、
「サクソニア軍、ナヴァエラを占拠」「聖柱に火」「神官拘束」などの情報が錯綜した。
その全てが、ひとつの言葉に収束していった。
“戦争”
その夜遅く、ナヴァエラ神殿の地下から、ひとりの男が連れてこられた。
白髪混じりの長髪、深紅の法衣。
帝国神殿長、ファウスト・メリク。
「貴様がこの地に火を入れたというのか」
ノラールはその目をまっすぐに見返した。
「我らは“道”を作るために来た。
神が沈黙した時、その代わりに火を灯しただけだ」
ファウストは吐き捨てた。
「神の代わりになれるとでも?」
「なれぬ。だが、沈黙に焼かれるよりは、火に焼かれるほうがましだ」
神と王の論争は、それ以上続かなかった。
焚き火の音だけが、夜の帳に滲んでいた。
その夜、記録係の少女ミナ・レイラは、焚き火の向こうに立つ王の背を見つめながら、
手帳にこう記した。
「火は、神を呼ばなかった。
王は、神の名を語らなかった。
ならば私は――その間に立つ言葉を、書き残すしかない」
ナヴァエラ聖域、軍幕の中。
火が静かに揺れる薄暗い空間で、王ノラール・ドラケンと、帝国神殿長ファウスト・メリクは対峙していた。
ファウストは椅子に縛られてはいなかった。
それが、ノラールの意志だった。
「口を封じられた者の言葉ほど、火より強いものはない。
だから私は、司祭に座ってもらい、“語らせる”ことを選んだ」
ノラールはそう語りながら、テーブルの上にパンと温酒を置いた。
「捕虜の処遇としては、手厚すぎるかもしれんが、
言葉を交わすには、飢えと寒さが邪魔だろう」
ファウストは応じなかった。
ただ、燃える焚き火の方をじっと見ていた。
「……あの火は、“敬虔”ではない。
それは“制圧”の火だ。
民を暖めることと、祈りの場を奪うことは違う」
「それでも、民は暖かさを選んだ」
ノラールは答えた。
「彼らは神に祈った。だが、神は沈黙した。
だから私は火を焚いた。
民を救うために、神の座を――空けたままにした」
ファウストはかすかに顔を歪めた。
「貴様は、“神の座”を侮辱した。
神の沈黙とは、裁きの予兆だ。
声を発せぬときこそ、神は最も明確に語っている」
ノラールの声は、冷たく、澄んでいた。
「裁かれることを、恐れてはいない。
私が恐れているのは、“沈黙に慣れた世界”だ」
「貴様が語る“民”は、魂を失った群れだ。
信仰なき秩序に、永続はない」
ノラールは一瞬、沈黙した。
そして――
「それでも、私は剣を抜いた。
魂の無い群れであっても、飢えて死ぬよりは、未来に進ませたい」
焚き火が、パチ、と音を立てた。
ファウストは目を伏せた。
「……私はお前を赦さぬ。
だが、理解はする。
お前の“火”が、ただの野心ではないことは」
「それだけでも、語り合う価値があった」
ノラールは席を立ち、天幕の外へと出た。
彼の背に、ファウストの低い声が届く。
「王よ……
貴様が火を灯した日、神もまた、“炎の沈黙”を選ばれた。
その意味を、いつか知るだろう」
その夜、少女兵ミナ・レイラは記録手帳にこう書いた。
「王は神を殺さなかった。
神も王を裁かなかった。
二人はただ、火を前にして、黙っていた」
帝都ザルベク、王宮・沈黙の間。
かつて戦勝の報告や即位の祝賀が朗々と響いたこの広間には、
今、ただ重苦しい静寂が横たわっていた。
中央の玉座に座る男――皇帝ユリウス・レオーンは、
“神なき報告書”を読み続けていた。
「ナヴァエラ聖域、サクソニア軍が占拠。
双光神殿、焚火被害。神官団、拘束。
地元民、食料支援により一部“受容姿勢”。」
報告書の文面は冷たい。
感情も正義もなく、ただ事実だけが連ねられている。
その内容こそが、ユリウスにとっての最大の苦悩だった。
「これは、“開戦”です」
そう口にしたのは、老宰相セラフィオンだった。
「王が焚いた火は、明らかに神域を汚した。
聖なる秩序への挑戦に他なりませぬ。
陛下の御名が沈黙してはなりません」
ユリウスは、玉座の上でわずかに首を振った。
「私は“名”を使わぬ。
名とは、最も早く“意味”を失うものだからな」
「では、どうなさるおつもりで?」
「言葉で戦う。
この国が“帝国”である限り、我々は“秩序を編む者”であり続けねばならぬ」
その夜、ユリウスは書庫に籠もり、古文書をめくっていた。
一冊の頁に、目を留める。
「正義が剣に乗ったとき、
帝国は“名前”ではなく“声”によって生き延びた」
彼は静かに呟いた。
「声なき正義を語る者に、“応答”を返すのが我らの務めだ」
翌朝、帝国軍第九軍団に動員命令が下る。
内容は「聖域周辺の“警護”」。
だが、その実態は――反攻準備だった。
同時に、宗務庁を通じ、サクソニア王国への“形式的通告文”が作成された。
その文には、こう記されていた。
「帝国は、神の地に火が焚かれた事実を確認した。
これは、神への冒涜にとどまらず、沈黙に対する宣戦である」
ユリウスは、通告文に自ら署名したあと、天幕の外に出た。
空は曇り、風は東から吹いていた。
「王が火を灯すならば、私は風になる。
火を煽るためではない。
火が燃え尽きたあと、“語る場”を残すために」
帝国辺境・ナヴァエラ旧信徒村――かつては双光教の巡礼者でにぎわった集落。
今は、サクソニア軍の“秩序再建区域”とされたその場所に、火が揺れていた。
それは配給所の焚き火ではなかった。
民家の軒が焼け落ち、畑が踏み荒らされ、納屋が略奪された跡の、余火だった。
「我らは正規軍じゃない。
“神の代わりに裁く”ために剣を持ったんだ」
そう口にしたのは、義勇兵隊長ガルツ・フリン。
元は北部の鍛冶屋。
家族をオルド族の略奪で失い、復讐のために自ら志願して剣を取った男。
その怒りと悲しみは、“制御”という言葉を拒絶する。
彼の一団は、“秩序再建”という名のもと、
協力を拒んだ村々に圧力をかけていた。
「神に仕えた村は、サクソニアに背いた証だ」
「火を焚くのは、再生の儀式だ」
「この村は、“王の名において裁かれる”」
その正義は、もはや王の名を離れ、“私怨”の名を借りて燃え広がる。
その行為が報告されるまで、ノラール王は事態の全容を知らなかった。
彼の元に届いた文書にはこうあった。
「民兵団、第三支隊による無許可制圧。
村民十余名の焼死を確認。“裁き”の名を標榜。
義勇兵の再編・統制急務」
ノラールは、天幕の中で文書を見つめながら、
誰にも聞こえぬように呟いた。
「正義が剣を持ったとき、
その剣がいつ“言葉”を忘れるか……私は恐れていた」
ミナ・レイラは、その村のひとつに記録係として同行していた。
彼女は、自らの目で焼かれた納屋を見た。
泣き叫ぶ老婆と、黙って佇む子どもたちを見た。
その夜、彼女は日記にこう書いた。
「王の名で村が燃えた。
でも、それを焚いたのは“怒り”だった。
ならば私は、怒りよりも先に、名前を書き残す者でありたい」
翌朝、ノラール王はミナの報告書を読んだ。
そこには、ただの軍事記録ではなく、
“名を失った人々の声”が綴られていた。
「サーヤ・エルン、七歳。納屋にて焼死。
レミス・ファン、三十二歳。祈りの間にて頭部を負傷。
シェル・アミーナ、十六歳。剣を向けられて命乞い。
いずれも帝国民。“秩序下”における民間人」
ノラールは、書類の最後に添えられた小さな文を見つけた。
「王の名は、剣の重さにも似ています。
でもその重さを支えるのは、名前の記録です」
彼は長く、静かに目を閉じた。
夜明け前、戦場の空気は灰色に染まる。
ナヴァエラ旧集落、再編基地跡地。
その片隅で、焚き火の火が静かに揺れていた。
炎は小さく、煙は低く、周囲にいた者たちも無言だった。
ノラール・ドラケンは、視察のためにこの地を訪れていた。
報告書では「再建地」。
だが実際は――“火の傷跡”だった。
焼かれた民家。焦げた祈祷布。
剥がれ落ちた祖霊像の破片。
それらを見下ろすノラールの前に、一人の少女兵が進み出た。
「……ミナ・レイラ、補給部隊記録係」
彼女の声は、よく通った。だが震えていた。
「書記か。お前の報告、読ませてもらった」
ノラールはそう言いながら、じっと彼女を見つめた。
「王はすべてに目を通すのですか?」
「言葉を残す者の書いたものはな。
火は燃えて消えるが、言葉は残る。
……時に、それは火よりも強い」
ミナは、ほんのわずか唇を噛んだ。
「ならば、今ここで――私は“言葉”を投げてもいいですか?」
ノラールはうなずいた。
「王の名で、私の村は燃えました」
静寂。
兵士たちが一斉に顔を上げた。
だがノラールは動じなかった。
「……私の名は、剣より重い。
それを知る者にこそ、語る資格がある」
ミナは、手にしていた手帳をぎゅっと握りしめた。
「王の名前が、正義の名になるなら、
私は、その“名がつけられなかった者たち”のために剣を抜きます」
「……それが、お前の正義か?」
「わかりません。
でも、名もなく焼かれた人たちの声を、
誰かが“記す”まで、私は“剣”ではなく“耳”でい続けたいんです」
ノラールの瞳が、かすかに揺れた。
「ミナ、“耳を持つ者”。
ならば問おう。
私は、お前の声を、ちゃんと聴いているか?」
少女は一拍、黙った。
そして、小さく、けれどはっきりと答えた。
「はい。でも、“答えて”はいません」
その言葉は、王にとって“剣よりも鋭かった”。
ノラールは、焚き火の前に座り込んだ。
マントを整えることもせず、ただ肩を落とし、呟いた。
「私は、語るのが怖かった。
名を呼ばれ、裁かれるのが、怖かった」
ミナは、そっと自分の手帳を差し出した。
「だから、代わりに書いておきました。
王がいつか、言葉を取り戻せるように」
ページにはこう記されていた。
「王が剣を置く日、
それは、最初の“名前”を呼ぶ日だ」
ノラールは、それをそっと閉じた。
「お前が、“王を裁く言葉”を持つ日が来たなら……
その日こそ、私は初めて王になるのかもしれぬ」
ナヴァエラ臨時宗務幕舎――仮設された白布の天幕に、双光神の紋章が薄く浮かぶ。
かつての神殿を失った司祭たちが、王命により集められた。
「この地は神の座。
火を焚いたその時点で、王は神に背いたのです」
神官長マーヴェスの言葉は、重く、鋭く響いた。
対面するノラール王は、天幕の中央にただ一人立ち、
沈黙のまま、神官たちを見渡していた。
「双光典礼第一書に曰く――
『光の場所に火を持ち込む者、その手は凍るべし』
陛下、貴方の手は、もう凍えています」
他の神官たちも声を重ねた。
「王が火を使うなら、我らは剣を抜く」
「秩序を名乗るならば、信仰の上に立つべきです」
「民のためと言いながら、神を奪った」
ノラールは、静かに目を伏せた。
「……それでも、私は火を焚いた。
凍えた民に、祈りの代わりに火を渡した。
神の言葉が降らないなら、私は沈黙に道を開くしかなかった」
「沈黙とは、神が最も強く語るとき。
陛下はその語りを“聞かぬふり”をしたのです」
「ならば問おう」
ノラールの声が、はっきりと響いた。
「神が沈黙する中で、餓死する子を救えという命は、どこにある?」
誰も答えなかった。
「私は、神を否定したのではない。
神の沈黙と民の悲鳴――その間に立ったのだ。
そしてその裂け目を、“火”で埋めようとした」
神官長マーヴェスは長く息を吐いた。
「それは、王の“義”です。
だが、我らの“正義”ではない」
「ならば、我らの“正義”は、ここで分かたれたということだな」
「はい。王と、神の名のもとに生きる者とは、道を異にしました」
神官たちは立ち上がり、礼をして去った。
宗務院の高位神官団の離反。
それは、戦火の中で信仰が王から剥がれる瞬間だった。
その夜、ノラールは母の残した手記を読み返した。
「信じるとは、従うことではない。
争うことでもない。
ただ、“沈黙を渡りきること”」
彼は閉じた本をそっと机に置いた。
「私は沈黙を渡りきれなかった。
ならば、渡れなかった者のために、橋を架けよう」
それが、彼の火だった。
風向きが変わった。
それは、戦場における“予感”ではなく、戦略上の“警告”だった。
ナヴァエラ前線本営――灰と土の仮設指令所にて、
ノラール・ドラケン王は新たな報告を受けていた。
「リュヴェナ方面より、帝国第九軍団進発の兆候あり。
先行斥候部隊との接触が数件。
一部で、戦旗掲揚と“祝福なき出撃”の儀が行われた模様です」
“祝福なき出撃”――
それは帝国において、神官団の不在を意味する軍事行動。
つまり、“皇帝の命”によってのみ動く剣の証だった。
ノラールは、報告書を無言で見下ろしていた。
その背後には、地図。
帝国とサクソニアの境界線に、赤と黒の釘が並んでいた。
ルエン参謀が進み出る。
「帝国の反攻は不可避です。
このままでは、ナヴァエラは火と血に包まれる」
「……だからこそ、ここで止まる」
ノラールの答えに、幕僚たちは目を見開いた。
「進軍は凍結。
我々の“火”は、ここまでとする。
次に燃え上がるなら、それは“王の火”ではなく、“誰かの業火”だ」
「しかし陛下、それでは占拠地が戦場に――!」
「火は、燃えすぎれば暴れる。
私は秩序のために火を使った。
ならば、秩序を崩す前に“火を止める”のが、王の責務だ」
その夜、ノラールは単身でナヴァエラの旧神殿跡を訪れた。
瓦礫の間に、一輪だけ咲く花を見つけた。
灰に汚れながらも、まっすぐに天を向いた黄色い花。
彼は膝をつき、花を前に手を組んだ。
「私は王として、火を使った。
でも、人として、この花に“名”を与えたい」
その言葉は、誰にも届かない祈りだった。
そのころ、帝国第九軍団はすでに“再占拠”の名のもとに進軍を開始していた。
夜陰に乗じた斥候、補給路の遮断、
そして、ナヴァエラに向けての“火の回復”――
帝国にとっての火は、“信仰の灯”だった。
だがそれは、サクソニアにとって、
新たな戦火の始まりを告げるものでしかなかった。
夜の帳が降りる頃、ノラール・ドラケンはただ一人、
ナヴァエラ旧神殿跡の傍らに設けられた小さな焚き火の前にいた。
炎は控えめに燃え、煙は音もなく天へと昇っていく。
兵も、幕僚も、神官もいない。
それは、王と火と――沈黙だけの時間だった。
「この火は、誰のためだったのか」
ノラールは低く、誰にともなく呟いた。
「民のため?
秩序のため?
母のため?
――それとも、私自身のため?」
炎がパチ、と音を立てた。
その一瞬、誰かが応じたような錯覚に陥る。
だが、返事はなかった。
焚き火は、言葉のないまま、ただ“燃える”だけだった。
ノラールはゆっくりとマントを脱ぎ、王冠を外した。
「王冠は、重かった。
だが、火のほうがもっと重い。
それは、燃えた者の名を残すからだ」
彼は、ミナ・レイラの記録帳から一枚の紙を取り出す。
「王が剣を置く日、
それは、最初の“名前”を呼ぶ日だ」
「私は……まだ剣を置いていない。
名前も、まだ呼んでいない」
ノラールは火の前に跪き、指先で灰をすくった。
それはナヴァエラに生きた、名もなき誰かの家の残骸。
祈りの跡。
罪のかけら。
「私が王である限り、正義は常に他所にある。
だが、それでも私は、名を知りたい。
この灰が、誰のものか。
この火が、誰を焼いたか」
風が吹き、火が揺れた。
ノラールはそっと目を閉じた。
母の声が、遠くから聞こえる気がした。
「王とは、“火の名を背負う者”よ、ノラール」
彼は微笑んだ。
「そうだな。
私は、火の名を、背負ってしまった」
その夜、彼は一通の手紙を記した。
宛先は――“未来の王”とあった。
「お前がこの王冠を継ぐ日、
もしまだ火が燃えているなら、
次は“水”を選べ。
それでも民が凍えるなら、“名前”を与えてやれ。
無名の者を王にするな。
無名の声を黙らせるな。
私の名は、ノラール。
罪の名であり、火の名である。
だが、どうか。
次の名は、“生き延びた者”の名であってほしい」
彼は手紙を封じ、火のそばに置いた。
火はやがて、その手紙の端を焦がし始めた。
だが、すべてを燃やしはしなかった。
まるで火もまた、“その言葉を残すこと”を選んだかのように。
ナヴァエラ西端、川辺の臨時協定地。
その地は、帝国とサクソニアがともに選んだ、唯一“血が流れなかった境界”だった。
冷たい水が流れ、灰色の空が凍りついた大地を覆う。
そこに、ふたつの国の使節が向かい合っていた。
サクソニアからは、王の代理として参謀ルエンと宗務副官レティア・ヴォルス。
帝国からは、宰相補佐エグザ・ミルテスと聖堂使役者マルティオ。
そして、中央に用意されたのは――かつて聖域で交わされてきた「双光契約書」の再刻板。
契約には“神の名による誓言”が必要だった。
だが、今ここには――どちらの神官も、祈らなかった。
「始めてください。帝国代表より、願います」
ルエンが静かに言うと、エグザが表情を曇らせながら答えた。
「本来であれば、我らは“祝聖の詞”を以て契約を開始すべきでした。
だが、今や神は我らのどちらの火にも応えぬ。
よって、この契約は、“祈りなき和平”として記録されます」
「……同意します」
レティアも苦々しく頷いた。
「双光神に代わる名を持たぬ我らは、今ここで
“神なき和平”を試みるしかない」
沈黙が流れる。
一枚の石板に、帝国使節が名前を刻み、サクソニア側も応じる。
しかし――儀式は、どこか“形骸”に過ぎなかった。
マルティオ司祭がふと、呟いた。
「火は燃え、祈りは消えた。
ならばこの協定は、“灰の契約”と呼ばれるのだろうな」
ルエンは目を細めた。
「灰でも、残るなら意味はある。
問題は、“言葉さえ残さない火”のほうだ」
その夜、契約の記録を受け取ったノラール王は、刻まれた文面を見つめながらこう呟いた。
「契約が氷のように凍る日、
火を選んだ者は、“名”を凍らせて生きるしかない」
そして帝国皇帝ユリウスのもとにも、その契約が届いた。
彼はそれを開かずに、ただ手の中で転がした。
「神の名を記せぬ契約とは――
まるで、沈黙に印を押すようなものだ」
サクソニア補給拠点・ナヴァエラ後方野営地。
早朝、まだ霜が草を覆う頃、少女兵――ミナ・レイラは、荷をまとめていた。
手帳、記録巻子、書きかけの報告草案。
それらを小さな革鞄に詰めながら、彼女は王の姿を思い出していた。
焚き火の前で言葉を失っていた王。
正義の名を背負いながらも、少女の問いに“沈黙で返した”王。
そして彼が残した一言――
「お前が、“王を裁く言葉”を持つ日が来たなら……
その日こそ、私は初めて王になるのかもしれぬ」
「どこへ行く」
声がした。振り返れば、参謀ルエンだった。
ミナは小さく頭を下げる。
「任務を離れ、許可された範囲で“民の記録”を取りに行きます」
「それは、“王命”か?」
「違います。私の命です。
言葉が剣より重くなる日が来るなら、その準備をしたいのです」
「……剣は捨てるのか?」
ミナは短剣を抜き取り、刃を紙にかざした。
「この刃が記録よりも重くなった時、
私はこの国のために、剣を置きます」
ルエンは何も言わなかった。
ただ、懐から古びた短巻を差し出した。
「かつて、王がまだ王でなかった頃に書いたものだ。
“言葉を選ぶ者”に読んでほしいそうだ」
ミナはそれを受け取ると、胸に抱いて歩き出した。
彼女の旅は、誰も記さなかった道だった。
焼けた村の跡。
名もなき墓標。
避難民の声なき群れ。
彼女はその一つひとつに、言葉をあてがっていった。
「名を残すことは、命を残すこと」
「記録とは、次に誰かが“選べるようにする”ための灯」
「王の名を背負うのではなく、その名の意味を問う旅」
ある村で、彼女はひとりの子どもに出会った。
その子は、名前を持たずに生まれたという。
ミナは手帳にその子の姿を描き、こう記した。
「私はこの子に名前を与えない。
それは王の仕事だ。
私はただ、“この子が名を持たずにいた時間”を記録しておく」
数日後、彼女はひとつの祈りを聞いた。
老女が火に向かって言っていた。
「火よ、名を燃やすな。
火よ、言葉を焦がすな。
火よ……この地に、もう“王を殺させるな”」
ミナは、その祈りを日記に書き写した。
そして最後のページには、こう記した。
「私は、“火を渡された民”である。
私は、“言葉を失った王”を見た。
私は、“名を失った祈り”を聞いた。
そして私は、それらすべてを記録する者でありたい。
これは、火と灰の王国に生きた、
“一兵卒の記録”である」
雪が静かに降っていた。
ナヴァエラの冬は、すべてを無言で覆い隠す。
火も、血も、叫びも、祈りも――名すらも。
サクソニア第十補給部隊が撤退したあとの野営地跡。
そこに、誰かが埋め残した帳簿と、ひとつのノートが残されていた。
それは、無名の兵士の記録だった。
【記録断章/不明兵士・未署名】
「ナヴァエラの夜は、音が消える。
火も叫びも、すべて雪に吸われていく。
最初の夜、私は名前で呼ばれた。
二日目、番号で呼ばれた。
三日目には、誰にも呼ばれなくなった」
【断章】
「王の名は、剣の上に乗っていた。
神の名は、火の奥に沈んでいた。
私の名は――ここにはなかった」
【断章】
「ある日、補給係の少女が話しかけてくれた。
『名簿に名前がありません』と。
私は、たぶん笑ったと思う。
名がなければ、死ぬときも静かだ。
だから私は、書いておく。
私は、“ここにいた”。
名前はないが、確かに、“火の中に”いた」
帳簿の最終頁には、ミナ・レイラの署名があった。
【追記/記録係:ミナ・レイラ】
「本記録は、未登録兵士の手記を基に再編したものです。
彼の名は不明です。
だが私は、彼が“言葉を遺した”ことを記しておきます。
名がなくとも、生きた証は残る。
王の名を記すのではなく、
誰にも名を呼ばれなかった者たちの“記録”として、本帳を収めます」
その帳簿は、後に帝国とサクソニアの歴史家によって「ナヴァエラ灰記」と呼ばれ、
第三戦域における最も信頼できる記録資料の一つとなる。
だが、そこには“勝者”の言葉も、“神”の言葉も記されていなかった。
あったのは、ただ――
火と氷の間にいた名もなき者たちの、言葉なき名簿だけだった。