第二章:自由の街と崩れゆく市場
《双光教典・風灯節書より》
「人は二つの光を信じる。
一つは、自ら灯す炎。
一つは、他者から授かる太陽。
だが忘れてはならぬ。
どちらも燃え尽きる時がある」
ヴァレンティア・ラルム――共和国最大の都市であり、双光教と議会制の聖地。
その市場に、今、静かに火が灯り始めていた。
まだ夜明け前。
商人たちが屋台の布を引き、朝焼けの赤に染まる石畳に品を並べる。
魚、果物、帝国香草、異国の絹布、壊れた機工部品。
だが、いつもの賑わいはない。
人々は無言で、ちらちらと隣を見やり、手に持った紙幣を握りしめる。
帝国通貨テルマル。
昨日まで、そこそこの価値があった。
今朝、それを受け取る者はいなかった。
「すまんね、姉ちゃん……テルマルじゃ、うちも買い戻せんのよ」
果物屋の老婆が言った。
「じゃあ……この子の朝飯はどうしろってのよ」
若い母親が、怯えた顔の幼女を抱えていた。
その場の空気が凍る。
誰もが感じていた。
何かが始まる前の、わずかな静けさ。
そして、その沈黙を最初に破ったのは――怒号だった。
「帝国人だ!」「こいつらのせいで飯が買えねえんだ!」
通りの向こうで、木箱が投げられる音がした。
叫びとともに、帝国語訛りの商人が殴り倒される。
「違う、私は――! わたしも、この街の住人だ!」
言いかけたその声は、石の雨と怒りの咆哮にかき消された。
市場の片隅に設けられていた両替屋も、もはや機能していなかった。
「ヴァレン貨でなければ、交換もできません! テルマルは終わったんです!」
その叫びに、群衆の一人が怒鳴り返す。
「だったら俺たちの命も終わりだろうが!」
セクション②:アレッサの目と耳
市場から程遠からぬ高台に、共和国元首アレッサ・ロヴァルディは立っていた。
灰色のマントを風に巻きながら、彼女は眼下の喧騒を見つめていた。
傍らには、情報官イオリ・ヴァン=セグリスが控えている。
「これは、まだ“暴動”とは呼べません」
「なら、何?」
「信仰の崩壊です」
イオリの言葉に、アレッサは小さく頷いた。
「通貨は“信じる”ことで成立する。帝国が崩れれば、価値も共に沈む。
そして、我々の通貨も――それに連なる“信”の連鎖にあった」
彼女は掌に握ったヴァレン貨を見下ろす。
その紙幣の裏には、双光神の紋章とともに、こう書かれていた。
「言葉こそが、すべての契約の始まりなり」
「私たちは、帝国が沈んでも“言葉”だけは残ると思っていたのよね」
その言葉が、思った以上に苦く響いた。
イオリが言う。
「サヴォリオ将軍の部隊が市場近辺に移動しています。
表向きは治安維持ですが、武装民兵を導入する口実と見られます」
「議会は?」
「対立が激化しています。
帝国派(妥協容認)と連邦主義派(排帝主義)が分裂寸前。
中間派は沈黙し、すでに言葉は機能していません」
アレッサは低く息を吐いた。
「この国の柱が“言葉”である限り、それが倒れれば共和国も終わる」
「……元首、ではどうなさいますか」
しばらく黙ってから、彼女は言った。
「まだ間に合う。
言葉を信じる者が、たった一人でも、声をあげれば」
共和国議会、双光の座。
半円形の議場は、かつて「言葉の神殿」とまで称された場所だった。
だがこの日、その神殿に満ちていたのは、秩序でも理性でもなく――怒りだった。
「妥協すべきです。帝国との交渉再開を! 通貨の信用を回復させねば!」
「妥協? あんな腐った政体と? 帝国人が我々の店を支配していた時代に戻る気か!」
「我々が自由を得たのは、剣ではなく“言葉”のおかげだ!」
「その“言葉”を聞いてくれる耳は、もう帝国には残っていない!」
対立する声が、互いを遮るようにぶつかり合う。
中央の壇に立つアレッサ・ロヴァルディは、両手を軽く上げた。
その動きだけで、場は静まり始める。
「……皆さん。私たちは、今、国家という“船”の上にいます。
嵐の中にある船では、舵を奪い合うのではなく、航路を共に確認すべきではありませんか」
沈黙。
だが、その沈黙を破ったのは、一人の男の足音だった。
サヴォリオ・デュラン将軍。
鉄製の胸甲に深紅の肩章。
軍務評議会の“象徴”であり、共和国が有事に委ねる「剣」そのものであった。
彼はアレッサの言葉に、まるで笑うような口調で返した。
「元首殿。私は軍人として言わせていただきます。
航路というものは、風と潮の力によって変わるもの。
だとすれば、今の共和国は――帝国という難破船に巻き込まれかけているのでは?」
「その船には、かつて我々が共にいたのです。
我々の市民も、商人も、言葉を交わし、誓いを立てた」
「ならば、裏切ったのはどちらか。
民が飢え、紙幣が紙切れになり、街に火が上がっても――なお“対話”を信じろと?」
「はい」
アレッサは即答した。
「民が飢えているからこそ、剣ではなく“秩序”が必要です。
怒りは、正義にはなりません。
それはただの――“復讐”です」
サヴォリオの目が細まる。
「ならば、元首。あなたの“言葉”でこの民を救ってみせてください。
我々が“剣”を抜く前に」
そう言って、彼は自席へと戻った。
だがその足取りは、すでに答えを知っている者の歩き方だった。
イオリがアレッサの背後に忍び寄り、低く告げる。
「奴は動き始めています。
密かに“統制民兵”の結成案を提出し、軍港への武装補給も開始。
議会での発言はただの“儀礼”です」
アレッサは目を閉じた。
「儀礼でも、まだ“言葉”が残っている限りは、諦めないわ」
「……信じておられるのですね、“言葉”を」
「信じてるの。
そうしなければ、私は“剣”に屈した最初の元首になるから」
イオリ・ヴァン=セグリスは、かつて帝国に忠誠を誓っていた。
それは“仕方なく”という言い訳が通る時代ではなかった。
彼の父は帝国治安局の書記官であり、母は帝国軍の前線補給部の従軍事務官だった。
「私は帝国の言葉で育った。
そして今、共和国の“沈黙”の中で、言葉の遺体を片付けている」
彼はそう独白する。
誰に向けた言葉でもなく、ただ口の中で呟きながら、闇に紛れて歩いた。
その夜、イオリは南第三区の地下倉庫群へ潜入していた。
そこは“閉鎖された物資保管庫”とされていたが、実態は――軍閥系の傭兵団の集結地だった。
「五十名規模の集団が、日没後に武装移動。
傭兵契約書の出資元は匿名だが……間違いなく、サヴォリオの関与」
イオリは小型の記録符を手に取り、魔導記録を確認しながら息を吐いた。
「こんなものを知ったところで、誰が止められる……?」
だが、止めねばならなかった。
アレッサのためでもなく、共和国のためでもない。
それは、自分の母がかつて言った一言が、脳裏にこびりついていたから。
「剣で築いた国は、いつか剣に裏切られる。
でも、言葉で築いた国は、誰かがそれを憶えてくれる」
同時刻、街では“火種”が燻っていた。
エルディス広場。共和国最大の商業街区の一角。
夜のとばりの中、誰とも知れぬ若者が声をあげていた。
「帝国人を追い出せ! あいつらが通貨を腐らせた! 我らの家を奪った!」
彼の言葉は、演説ではなかった。
ただの叫び、怒り、混乱。だがそれは、通貨よりも価値を持つ“共鳴”を生んでいた。
「正義は、我ら自身の手にある!」
誰かが叫んだ。
石が飛ぶ。
ガラスが割れる。
帝国人商館のひとつに火が放たれた。
火の粉が、冬の乾いた風に煽られて舞い上がる。
それは、まるで“自由の炎”と呼ばれるべきものの、悪夢の再現だった。
アレッサの執務室。
その報告を聞いた時、彼女は書きかけの便箋の手を止めた。
「……始まったのね」
「はい。エルディス広場で最初の火が上がりました。
複数の帝国系店舗が襲撃を受け、死者も確認されています」
イオリの声には怒りがなかった。
だが、その無感情さがむしろ恐ろしかった。
「言葉が、死んだのです」
「違うわ」
アレッサは立ち上がる。
「言葉は、殺されようとしている。
でも、まだ……私は生きている」
夜の闇は、本来、静謐であるはずだった。
しかしその夜、ヴァレンティア・ラルムの空を照らしたのは、星ではなく、火だった。
炎は帝国人街区から上がった。
それは一つの商館から始まり、隣接する倉庫、取引所、そして――宿舎へと連鎖していった。
「帝国人を許すな!」
「血を流させろ!」
「奴らは我々の自由を奪った!」
声が飛ぶたびに、火の粉が舞い、怒声が裂かれるたびに石が飛ぶ。
帝国人商人の中には逃げ出そうとした者もいたが、出口は既に塞がれていた。
少女の手を引いた中年の男が、地面に倒れ、群衆に蹴られる。
少女の叫びは、誰にも届かない。
まるで都市そのものが、言葉を喪った獣のようだった。
広場の西端で、ひとりの男がそれを見下ろしていた。
サヴォリオ・デュラン将軍。
彼はこの火を止めようとはしなかった。
「これでようやく、議会も黙るだろう。
言葉が通じぬ相手と語るなど、国家の自殺に等しい」
隣の副官が問う。
「これは“自発的な暴動”と記録されるのですか?」
「当然だ。誰が導いたかなど問題ではない。
重要なのは、民が“敵”を定めたという事実だ。
その怒りに応える政体こそが、正当性を持つ」
副官はうなずいた。
「では、次は――?」
「港を封鎖しろ。外交官団の残党を拘束。
双光の座への通達文も準備せよ。
共和国の名において、沈黙する者たちに代わって剣が語る時が来た」
その報を受けたアレッサは、夜の中庭でひとり立っていた。
月は陰り、星もなかった。
彼女の顔を照らすのは、遠くで燃える都市の赤光だけだった。
イオリが静かに現れる。
「帝国大使館から、最後の使者が逃れました。
ただ、民兵が追っています。……無事は望めません」
「それで、共和国は?」
「まだ息をしています。ですが、脳は停止している。
議会は本日、臨時閉会を宣言しました」
「言葉が……止まってしまったのだ、とアレッサは心の底で認めざるを得なかった」
アレッサは低く呟いた。
「正義とは、火を灯すものだと信じてきた。
でもそれは、“人を焼く火”ではなかったはず」
「燃やしたのは民です。貴女ではない」
「いいえ」
彼女はかぶりを振る。
「燃やしたのは、私の“理想”よ」
夜明けが、来なかったかのような朝が訪れた。
灰が空に舞い、鳥は鳴かず、人は語らず。
ヴァレンティアは“自由の街”ではなくなった。
そして、都市の中心部に設けられた帝国広場跡地に、
一枚の紙が貼り出された。
【非常統治令】
本日をもって、共和国政府は治安維持のため臨時統治機構を発足。
議会は一時凍結。武装警備団による市民保護を開始する。
署名――サヴォリオ・デュラン。
その下に記された文言は、こう締めくくられていた。
「自由は、守られるべき秩序の中にある」
リュヴェナ港。
朝霧が濃く、視界はほとんどなかった。
旧倉庫区画にある一棟、封印された交易倉庫の奥に、小さな灯がともる。
その灯の下、共和国元首アレッサ・ロヴァルディは、古びた木箱に腰を下ろしていた。
隣には、情報官イオリ。
正面には、帝国側の使者――エリオル・グレイス。
彼は杖を突きながらも、背筋はまっすぐだった。
白髪と黒衣の対比が、彼の言葉に重みを与えていた。
「帝国は、貴国を敵とは見なしていません。
だが、敵でないことが、“安全”を保証するものでもありません」
アレッサは頷いた。
「こちらも、帝国を味方と思ったことはありません。
けれど、敵より先に、対話を拒んだことはない」
エリオルは微笑する。
「それが、共和国の誇りであり、脆さでもある」
「……そして、それは人間そのものの在り方でもある」
イオリが懐から文書を取り出す。
「これが我々の提案――“秩序再協定案”です。
帝国通貨の限定信認、交易路の復旧、監視団の受け入れ……。
一時的とはいえ、再び“言葉”に賭ける枠組みです」
エリオルは文書に目を通し、静かに言った。
「――これは、まだ国家ではない。
だが、“未来”の設計図ではある」
アレッサの目がわずかに潤んだ。
「貴方の皇帝は、これを信じてくれるの?」
「彼は、“語られる限り、国は死なない”と信じている。
貴女と似ています」
アレッサは笑った。
そのときだった。
銃声。
壁が砕け、破片が飛び散る。
イオリがアレッサを抱きかかえ、地面へ倒す。
エリオルは杖を引き抜き、魔術結界を展開する。
外で、足音が複数。
「こっちだ! 中にいるぞ!」
イオリが叫ぶ。
「逃げてください! これは……軍閥側の仕業です! 密会が洩れていた!」
アレッサが血の気の失せた顔でイオリを見る。
「あなたは……?」
「行ってください、元首。貴女の“言葉”が生き残るなら、共和国はまだ死んでいない!」
彼は結界の穴から拳銃を構え、外へ飛び出した。
次の瞬間、銃声が再び響く。
アレッサとエリオルは、霧のなかへ姿を消した。
その夜の出来事は、共和国の公文書には記録されていない。
密会も、襲撃も、イオリの名前も。
ただ、翌朝の港湾地区に残されたのは、血の跡と、燃えかけた文書の切れ端だけだった。
それには、手書きでこう書かれていた。
「剣より先に、言葉を選ぶ者が一人いれば、国家はまだ国である」
翌朝、双光議事堂の正門は開かれなかった。
広場に集まった市民たちは、いつものように報告を聞き、代表たちの声に耳を傾けようとしていた。
だがその日、何の宣言もなかった。
代わりに、高台の塔から投下されたのは――赤い布に記された一枚の命令書だった。
【共和国臨時統治令】
本日をもってヴァレンティア連邦共和国の議会は凍結され、
治安維持の責務は「双光保護軍統制評議会」に移譲される。
議会代表制は、緊急措置期間中は留保される。
貴族、商人、自由民の権利は新たな憲政合意に基づき再設定される。
署名:サヴォリオ・デュラン
その下に、かすれた金のインクで刻まれていた文字――
「自由は、秩序の盾に守られねばならぬ」
共和国議会内。
封鎖前の最後の会議で、アレッサはただ一言を残した。
「皆さん、私はこの国を“言葉”で築こうとした。
けれど、剣を信じる者たちは、それを瓦礫だと言った」
彼女は、演壇に置かれた双光の書を開いた。
「神は言葉をもって光を生み、 人は沈黙によって火を呼ぶ」
「私は、光の方を信じたい」
その瞬間、兵士たちが入室し、アレッサは“健康上の理由”で自邸へ“静養”となった。
彼女の書斎からは、本が運び出され、通信機が取り外され、
代わりに“親族の看病”を名目とした監視兵が二人つけられた。
イオリの行方は知れず。
密会の事実も、消えた。
言葉も、また消えた。
書斎の扉が閉じられたあと、アレッサは窓の外に広がる灰色の空を眺めていた。
かつて“自由の空”と呼ばれたその天蓋に、今や一羽の鳥も飛んでいない。
書棚から、一冊の古い書を取り出す。
『共和国憲章――初版』。創立時の記録。
そこに書かれていた第一条を、彼女は静かに読み上げた。
「市民は言葉を持つ。それが、唯一の剣である」
声は誰にも届かない。だが彼女は、記した。
その言葉を、記憶のなかだけでは終わらせぬように。
アレッサはその夜、書きかけの一通の手紙を完成させる。
「誰かがいつか、双光の記憶を思い出すなら。
私はこの沈黙の中に、最後の“語り”を置いていきます。
剣ではなく言葉を、信じたことを。
それだけが、私が自由であった証です」
同時刻、サヴォリオは軍政庁にて演説を行っていた。
「帝国との戦争は、すでに始まっている。
だが我らは、ただの暴徒ではない。
これは“秩序の戦争”であり、“正義の戦争”である。
剣によって守られぬ自由に、価値はない」
都市は沈黙した。
石畳を歩く兵の足音が、双光の鐘よりも高く響くようになった。
かつて「共和国は言葉の都市」と呼ばれたヴァレンティア・ラルムは、
この日を境に、“剣の都市”へと名を変えた。
リュヴェナ旧街の片隅に、ひとつの裂け目がある。
それは爆撃の痕ではない。
かつて、双光革命の際に、銃撃戦があったとされる石壁の破れ――
今ではほとんど誰も通らない、崩れた通りの影。
だがその石壁には、誰の手によるかもわからぬ詩の断片が刻まれていた。
「この街は、言葉でできていた。
剣は、その声を怖れた。
声を封じた者は、光を得たが、影を宿した。
だが、影もまた、誰かの光になれたかもしれない」
時は流れ、共和国という名は、教本の片隅に残るだけとなった。
しかし、密かに語られる名前があった。
“アレッサ”――
最後に剣に屈せず、言葉を捨てなかった女。
“イオリ”――
名もなく消えた忠誠者。
“エリオル”――
帝国の中で、言葉を捨てなかった賢者。
彼らの物語は、もはや記録ではなく、祈りのような形で残っていた。
ある夜、幼い子が父に訊ねた。
「ねえ、お父さん。共和国ってなに?」
父は少しだけ考え、そして答えた。
「それはね――“言葉が人を守っていた時代”のことだよ」
「今は?」
「今は……剣が人を守ってる。でもね、
時々、剣も怖くなるんだ。だから、まだ、言葉が必要なんだ」
「じゃあ、また共和国ってできる?」
父は笑った。
「うん。できるさ。だって、こうしてお前が、“話してる”じゃないか」
月の光が、石壁に刻まれた詩を照らす。
誰にも知られず、誰にも読まれず、
だが確かに――言葉はそこに、在り続けた。
《交易商人ナシムの手記より》
「言葉の値段」
年代記録:共和国暦1054年・火の月・第十二日
地点:ヴァレンティア・ラルム郊外、フレスカ小路・東市門前
かつて、通貨は信用であった。 そして、信用は――“言葉”であった。
帝国では金と銀が価値を持った。 連邦では票と議席が信頼を担保した。
だが我々、商人はもっと単純だった。
「信じるに足る者の約束」こそが貨幣だった。
私はかつて、帝国香草と砂糖を運び、双光広場で五百テルマルの取引をした。
あれは、今でも夢に見る美しい交渉だった。 相手の商人は言った。
「信じてくれ、我が娘の明日を担保にしても払おう」
私は握手をした。そこに契約があった。
だが今、テルマルは紙だ。 ヴァレン貨もまた、紙だ。 誰も“名前”を語らなくなった。
誰も“誰の娘”かを尋ねなくなった。そして、火が上がった夜。 市場が燃えた夜。
私の帳簿の上に、あの時交わした“名前”たちはすべて、灰となった。
私は今日、商売を畳む。だが、最後に記す。
貨幣の価値は、金ではない。 市場の価値は、量でもない。
人が“誰かのために語る”という行為が、経済そのものだったのだ。
剣は奪う。 沈黙は忘れさせる。 だが記せ。
名を、物語を、誓いを。
それが残れば、また誰かが市場を作る。
そしてその時――きっと、私はまたあの広場で、娘の名前を語るだろう。