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第一章:千年帝国の影

遥か千年の時を越え、三つの冠は均衡の名のもとに世界を繋ぎとめていた。だが、均衡とは、静止ではない。むしろ、その緊張こそが、世界に命を吹き込んでいた。


この物語は、均衡の終焉と、それによって暴かれる人間の価値観と欲望、国家の理念、そして滅びと再生の物語である。政治とは何か、経済とは何を支配し、そして人間性はどこまで理性を保ちうるのか――


本作は、皇帝ユリウス・レオーン、女元首アレッサ・サン・ヴァーレ、若き王ノラール・ドラケンという、三人の指導者たちの視点を軸に、崩壊と再編の過程を描いている。それぞれの理想と現実、信念と妥協が交差しながら、やがて誰も望まぬ火は世界を呑み込んでいく。


本作はフィクションでありながら、歴史と思想、戦略と経済の本質を問いかける作品でもある。現代を生きる我々にとっても無縁ではない問いが、ここにある。

挿絵(By みてみん)


《帝国年代記・第四十九書より》

「千年に及ぶ帝国の灯は、滅びにあらず。

だが、その光はもはや、照らすべき未来を失っていた」


この帝都には、夜がない。

黒曜石のように冷たい石畳を、昼のごとき魔導灯の光が貫いていた。

金で縁取られた議事堂の尖塔は、蒼い空を切り裂くように聳え、その下では衛兵たちの足音が、秒刻みのように規則正しく響いていた。

エストリア――アウステリオン帝国の心臓。

その中枢たる帝星殿の円形議場、その最上層に、若き皇帝ユリウス・レオーンの姿があった。

白銀の甲冑に帝印を刻んだ外套を纏いながらも、彼は戦場の英雄には見えなかった。

肩にかかる暗褐の髪は丁寧に結わえられ、薄い唇は沈黙を湛え、目元は凪のように静かだった。

だが――

その瞳の奥には、すでに未来のすべてが映っていた。

「……帝国通貨、テルマルの本日付市場価値は、対ヴァレン貨で一対三十八まで落ち込みました」

老年の財務卿が、震える声で読み上げた。

「信用は、かろうじて維持されています。だが、ザルベク・ノンヴァール・エレ=サンドの三港は本日、テルマルの受領停止を正式決定。帝国中央銀行への利払いも凍結。民間債務者の多くが……すでに破綻状態です」

その言葉に、議場の空気がわずかに揺れた。

議場には、元老院の貴族たち、実務官僚たち、軍部、そして地方州の代表たちが一堂に会していた。

彼らのほとんどが沈黙していたが、その視線には怯え、あるいは敵意が満ちていた。

ユリウスは、応えなかった。

広げられた地図を見下ろしている。

それは、大陸の半分以上を“かつて”支配していた帝国の記憶を描いていた。

(崩壊が、始まっている)

彼は思った。

まだ何も始まっていないようでいて、すでに、何かが音もなく終わりつつある。

「皇帝陛下」

重々しい声が響いた。

声の主は、財閥派筆頭のルクレイナ・ヴァン・アルマ公。

南方の大商人連合の統括者であり、事実上の“経済貴族”と呼ばれる女性だった。

その黒衣には一切の装飾がなく、ただ彼女の存在そのものが帝国財政を握る力を示していた。

「これまでにも帝国は、五度の財政危機と三度の通貨暴落を経験しております。

だが、そのたびに我々は市場の力を信じ、回復を果たしてきました。

今回はそれに……魔導的流通網の拡張、つまり“経済魔方紙幣”の導入もございます。

なれば、南方都市の独立は一時的な“通貨の避難”にすぎず――」

「それは逃亡だ、アルマ公」

遮ったのは、軍参謀総長、セラフィオン・グライフだった。

彼の声は低く、静かで、それでいて圧倒的だった。

「通貨を拒否するとは、すなわち主権を拒否すること。

あの三港が独自通貨を発行し、我らの紙幣を焼いたことは、もはや……戦端を開いたに等しい」

「我々は戦を望んでいません。あくまで市場原理の――」

「帝国が望まぬとも、世界が戦を始めたのだ」

セラフィオンの言葉に、議場がざわめいた。

そのとき、ユリウスがようやく、口を開いた。

「この議場には百を超える正義がある。 だが、いずれも……民の飢えを救えはしない」

沈黙。

「明朝、第一布告を発する。

帝国南方三州に対し、秩序回復のための軍政介入を行う」

誰かが息を呑んだ。

「我らが守るのは、帝国の威光ではない。 帝国が果たすべき“約束”だ。 民に法を与え、道を敷き、火を分け与える――千年のあいだ積み上げてきた、我らの義務を」

その瞬間、帝星殿の天井に吊られた大時計が鳴った。

刻限を告げる冷たい音が、千年の石の壁に響いた。


議場を出たあとのユリウスは、帝星殿の西回廊をゆっくりと歩いていた。

その歩みには迷いはなかったが、静かすぎる。 靴音すら響かぬほど、彼の中では何かが凍っていた。

夜は明けかけていた。 空の色はまだ鈍い紫で、東の端がわずかに白んでいる。

だがこの都には、夜がない。 魔導灯が無数に灯り、昼と変わらぬ光が、すべての影を消していた。

(私は……本当に、正しいのか)彼は自問した。

言葉にはせず、心の奥底だけで。

帝星殿の壁には、歴代皇帝の肖像画がずらりと並んでいる。

その中の一枚――鋼鉄の眼差しで前を見据える、ひときわ巨大な男。

ユリウスの父、ルオ・レオーン。 帝国を再建せんとし、結果として内戦と分裂を引き起こした暴帝。

(父上、貴方の行いは過ちだったのか……それとも、正しすぎたのか)

あの人は強すぎた。だから民はついていけず、臣下は恐れ、世界は耐えきれなかった。

ユリウスはあの人の背を知っている。 あの巨大な背中に、幼き自分が置き去りにされた夜のことを――

「皇帝とはな、命じるものではない。黙ってその痛みを背負う者だ」

「その重みを知らぬ者に、王冠を戴く資格はない」

十歳の頃の記憶だ。 あの夜、父はひとりで北境の出兵を命じた。

背後にいる母の涙に気づきながら、振り向かなかった。

今、自分がその“背”を持ってしまったことに、ユリウスは気づいている。


「陛下……」静かな声が背後からかかった。

セラフィオン・グライフだった。

彼は老いてなお、剣を佩き、胸には双頭の鷲章を留めている。

「……やはり、軍を動かすのですね」

「はい。誰かが、決めねばならない。

国家が揺れている時に、民は自分の正義を信じようとする。

だが正義が百あれば、国は千に裂ける」

セラフィオンは黙ってその言葉を聞いた。

「私は、父とは違う」

そう言いかけて、ユリウスは一度言葉を止めた。

「……否。違わぬかもしれない。だが、“方法”は選びたい。

武威ではなく、秩序によって。恐怖ではなく、約束によって」

老将は、それでも言葉を返さなかった。

だが一歩、彼に近づいて言った。

「それでも、結果は血を呼びます。

それでも、貴方は進むのですか」

ユリウスは頷いた。

「進まねば、もう後ろも崩れていく。 我々には、選択肢がなかったのではない。選べるだけの“時間”が、もう残っていなかったのだ」

セラフィオンの瞳に、一瞬だけ、哀しみが宿った。

「ならば、私は祈りましょう。 この決断が、正義の始まりであることを」

ユリウスは、その言葉に初めて微笑んだ。

「“戦は終わらずとも、正義は始まる”――そう言った哲人がいた」

「それは詩です、陛下」

「そう。だが……時に、詩だけが国家を救うこともある」


その夜、ユリウスはひとり、帝都北端の聖機殿せいきでんを訪れた。

帝国の信仰――大機構教(メカナス信仰)において、この場所は神意の中枢とされる。 だがそれは、神が人を裁くのではなく、国家そのものが神の意志の器であるという、逆説的な信仰だった。

聖堂の中は、極めて静謐だった。黒曜石のような石床に、灯はない。

ただ天井の一点、金属で象られた円環の隙間から、蒼い月光だけが降り注いでいた。

ユリウスは、祈りの姿勢を取る。

が、その姿はまるで神に跪く者というより、人間として立ち尽くす者に近かった。

「……神よ」

その声は、聖堂の天井にも届かないほどに小さかった。

「我は、まだ“正しさ”というものを持ち得ぬ。

ただ、滅びゆくものを、黙って見ていることもできぬ。

我が剣が、誰かを傷つけると知っていても、振るわねばならぬときがある。

それでも、これは正義と呼べるか?」

答えはない。

だが彼は知っていた。

ここに来て、答えを得ようとしたことそのものが、甘えだったと。

「皇帝とはな、命じる者ではない。 沈黙を引き受ける者だ」

父の言葉がまた、耳に蘇る。

あの夜、血の粛清が行われた。

民のためと謳われたその改革の裏で、何百という命が失われた。

あのとき父が見せたのは――

人を“導く”という名の暴力だった。

(私は、同じ道を歩いているのか)

ユリウスは唇を噛み、拳を固めた。

神殿の空気がひどく冷たく、そしてどこか――孤独だった。


一方そのころ、帝都の外縁――貧民区にある小さな市で、老婆が紙を燃やしていた。

燃えているのは、テルマル紙幣。

「……これで、少しは暖かくなるわ」

彼女の隣で、幼い孫娘が首を傾げる。

「ばあば、お金を燃やしたら、買い物できないよ」

「できないよ。だから燃やすの。あったって意味がないのなら、せめて火になってくれれば」

少女は、焚き火に浮かぶ炎を見つめていた。

そこに書かれた金色の鷲が、ひらひらと舞いながら、やがて灰に変わる。

「ばあば、皇帝さまって、どんな人?」

「さあね。見たこともないよ」

少しの間、老婆は沈黙してから続けた。

「でも……昔、井戸を掘ってくれたって話は聞いた。あの人だけは、民の言葉に耳を傾けたって」

「じゃあ、良い人なんだね?」

老婆は、静かに笑った。

「良いか悪いかなんて、私らにはわからないさ。

でも、あの人が命じた時……兵たちは、泣きながら従ったんだと」

少女は火を見つめたまま、何も言わなかった。

その目には、炎ではなく、これから燃える何かの影が映っていた。



翌朝、帝都エストリアの空に、異なる三つの鐘が鳴った。

第一の鐘は、軍務省の開戦信号。

第二の鐘は、神殿からの戒厳祈祷開始。

そして第三の鐘――それは、**皇帝ユリウス・レオーンの「第一布告」**を告げる鐘だった。

鐘の音は、都のすべての塔、すべての街角、すべての心を震わせた。


《第一布告・抜粋》

アウステリオン帝国皇帝ユリウス・レオーンは、

帝国南方三州ザルベク・ノンヴァール・エレ=サンドに対し、

秩序回復と主権の維持を目的とした軍政介入を開始する。

本行動は侵略を目的とするものではなく、

帝国の誓約に基づく義務である。

帝国軍に与えられた命令は一つ。

正義を、戦火に沈ませるな。


広場には、すでに市民たちが集まっていた。

誰もが知っていた。この布告は、戦争の始まりであることを。

だが、誰も声を上げなかった。

叫びも、嘆きも、歓声もなかった。

ただ、祈りだけがあった。

祈り――それは敗者のものではない。

祈りとは、いずれ“歴史”と呼ばれる何かが、自分の側につかぬとしても、なお未来に託す最後の術である。


同時刻、帝国西方・第七防衛州の集兵所に、一人の若者が到着していた。

カイオ・ネルス、十八歳。

農村出身。文字も読めず、剣もろくに扱えない。

だが、布告が下ったと聞き、荷車に乗せられてここへ来た。

「これが……戦か」

目の前で、兵士たちが鉄靴を打ち鳴らし、訓練をしている。

煙と油と汗の匂い。

叫びと怒号と号令の応酬。

「母さん……」

カイオはポツリと呟く。

彼の手には、母から渡された古い布袋があった。

中には、干し肉と、薄い羊皮紙に書かれた一文。

「どんな命令でも、人であることをやめるな。

人のまま帰っておいで」

彼はその言葉を胸にしまい、隊列へと足を踏み出した。


その頃、ユリウスは帝星殿の玉座に立っていた。

誰もいない、静かな玉座の間。

軍も出た。布告も出た。旗も翻った。

だが、まだ「戦」は始まっていない。

戦とは、命令ではない。

人々の心が、それを“受け入れた瞬間”に始まる。

「……私は、正義を始められるか」

ユリウスは、空虚に問う。

その答えを知るのは、おそらくこの先に死ぬ者たち、そして生き残る者たちだ。


《帝国史断章・末文》

歴史の扉は、剣で開かれる。

だが、その先に広がる道は、血で書かれるのではなく、

沈黙と記憶と、時に、涙で綴られていく。


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