6.催花雨であればどれほど(完)
身体が動くことを確認して、病院を抜け出した。
一刻も早く、あの人に会いたいという思いだけで。
大門の外にある損料屋で、どこにでもある袴を手に取った。
吉原に入れるなら、身に着けるものなんて、なんでもよかった。
吉原の街は、活気にあふれていた。
壊れた場所を修繕したり、妓楼の模様替えをしていたり。
間違いなく、全てが前向きに動き出す吉原の街を横目に、梅雨は走った。
専用通路側へ行く時間も惜しい梅雨は、三浦楼の表玄関から中に入った。
「ええっ!? 梅雨ちゃん!?」
「おはようございます」
驚く遣り手たちを横目に、梅雨は一言発しながらさっさと廊下を駆け抜ける。
「アンタ、男だったのかい!?」
噂好きの妓楼の中はたった一つの大声で、騒ぎの中心地になる。
梅雨は返事をしないまま、廊下を走った。
「……なかなかいい男だね」
後ろでぼそりと告げる遣り手。
「ちょっと、イヤだよ、アンタあ」という、遣り手婆たちの盛り上がりを遠く背に、梅雨は思った。
別に悪い男で構わない。
無類の女好きでも、戦闘狂でも、作り笑顔の詐欺師でも。
たいして関わりのない人間からどう思われようと、別にいい。
いや、でも、あの人にそんな奴だったのかと思われるのは嫌だから、やっぱりいい男と噂しておいてほしい。
頭の片隅でそんなことを思いながら、梅雨は階段を駆け上がった。
そして高尾の部屋がある廊下へ来て、やっと落ち着きを取り戻す。
思い出したように、心臓が打っていた。
身体は〝対価を払え〟とばかりに、ここまで走ってきた疲労をまとめて押し付けている。
梅雨は息を整えながら、音のない空間に耳を澄ませた。
やはり、音はなにもない。
いつものことだ。
しかし、いつものことが、不安に思えた。
梅雨は息を整え終えてから、高尾の自室の前に立った。
口を開いて、やめた。
口を利けるようになった今、なにを、どんなふうに、どれくらい彼女に言うべきなのか、梅雨にはわからなかった。
彼女は〝女〟としての自分を必要としていたのであって、本来の〝男〟としての自分に用はないのではないか。
だとすれば以前と違う姿でここにいることは、彼女の平穏な世界を崩すことになるのではないか。
役に立ったのは、意外にも陰時代の経験だった。
考えるより先に、直感に任せて行動すること。
そのために日々、直感を磨いておくこと。
梅雨は自分の中で明確な結論が出るより前に、襖にほんの少しの隙間を開けて、中にいるであろう高尾に声をかけた。
「高尾大夫」
梅雨の直感は、自然体で話しかけること、だった。
襖の向こうから、息を呑む音が聞こえる。
「ただいま戻りました」
「……怪我はもう、いいんだな」
中から聞こえてきた声は、震えていた。
声色で、泣いていたのだとすぐに分かった。
頭の中に、今は亡き暮相が浮かぶ。
暮相は死んだ。
高尾が大切にしていた男は、高尾の選択した末路で、死んだ。
暮相という人間から派生する自分の感情にも、彼女の感情にも、気付かないふりをした。
「はい。大事ありません」
「そうか。よかった」
高尾の声色は、奉仕者の生存に安堵している。
顔が見たい。
しかし彼女はきっと、他人に弱みを見せられない。
「高尾大夫。ここを、開けてもいいですか」
「……今は、一人にしてほしい」
予想通りの言葉に、落ち込むことも、混乱することもなかった。
「わかりました」
梅雨はそう言って、高尾の自室の襖を閉めた。
まあ、そうだよな。他人に弱みなんてみせられないよな。
それが、高尾の言動に対しての梅雨なりの答えだった。
ずっと一人で戦ってきた。
だから彼女にとってこれは、いたって普通のことなのだ。
他人に弱みを見せるつもりなど、ほんの少しもない。
たとえ数日、数週間、数か月経ったとしても、彼女は他人に弱い部分を見せないだろう。
梅雨は一日中、襖の外で待った。
次の日も、また、次の日も。
よく理解できる。
自分自身が、そうだから。
人間はおそらく、孤独を乗り越えることができない。
あらゆる限りを尽くしてできることと言えば、孤独に慣れることだ。
彼女はまた、孤独に慣れようとしている。
慣れた感覚は、麻痺する。
麻痺した感覚は、感度を失い、感度を失った感覚は、人間の本来あるべき欲を低くする。
彼女はまた、なにも求めなくなる。
欲がなければ、幸せだろう。
でも、それなら一体。
俺はなんのために、生かされたのか。
覚悟を決める間もなかった。
梅雨は高尾に許可もなく、一言断りを入れることもなく、襖を開けた。
顔布を取り払い、竹のすだれ越しに吉原の一風変わった喧騒に触れていた高尾が、入り口を見ながら目を見開いていた。
「……梅雨か?」
高尾は目を見開いて、こちらを見ている。
問いかけられて、自分が男物の地味な着物を着ていることを思い出した。
女装はできなくても、目立つことが嫌いでも、せめて梅雨だとわかる服装をしてくればよかった。
「高尾大夫」
梅雨の声を聞いてすぐ、高尾は顔を逸らした。
「すまないが、一人に、」
「俺は、あなたに生かされたんだ」
高尾の言葉を遮って言う。
恨み言でも吐き捨てるように。
それから梅雨は荒々しく、高尾の手首を掴んだ。
〝いいから黙って、話を聞け〟とでも、言いたげに。
「一人でいるのはさみしいって、言ったじゃないですか」
高尾の視線が揺れていることに気付いていた。
疲れ切っているのだから、壊れ物を扱うくらい大切にしたいのに、いつも冷静な彼女の気持ちを揺らしていることが嬉しいと思っているなんて、どうかしてしまったのだろうか。
吐いた息が、喉元で震える。
梅雨は震える喉元で息を吸った。
「俺は――」
溢れ出した言葉を定めるみたいに、梅雨は高尾を抱きしめた。
「俺は、あなたに会いたかった」
自分がどうして高尾を抱きしめているのか。
どんな思いを抱いてほしいのか。
これから先、どんな関係になりたいのか。
なに一つとしてわからなかった。
ただ、そうしたかったから、そうした。
これでは理性のない〝動物〟と、なにも変わらない。
「梅雨」
震えた声で呼ばれた名前に、梅雨はゆっくりと息を吐いて落ち着きを取り戻してから答えた。
「はい」
返事を聞くと、高尾は遠慮がちに梅雨の背に触れる。
その手は、震えていた。
「本当に……よく、戻ってきてくれた」
高尾はそう言うと、梅雨の背中の着物を力強く握りしめて、縋りつくように引き寄せた。
「おかえり、梅雨」
予想は、外れていた。
てっきり、死んだ暮相のことばかり考えているのだと思った。
しかし、彼女の涙の何割が亡き暮相に対するもので、何割が自分に対する心配が逆転した安堵のものなのか。
厳格な規定にのっとって、寸分の狂いもなく表示される科学技術があったなら、知りたいと思っただろう。
でも、残念ながら、人間の感情は数値化できない。
彼女はいつも、心をくれる。
帰る場所になってくれる。
「帰ってきますよ。あなたは、俺の心ですから」
名前のある関係じゃなくてもいい。
名前のある感情じゃなくてもいい。
でも、これから先、優しく背中に触れることが正解なのか。
もしくは、優しく頭を撫でることが正解なのか。
それとも、優しく口付けることが正解なのか。
もし、決まっているのなら、口にして教えてほしいと思った。
だから梅雨は、ただ一つだけある、自分の中の〝正解〟を口に出す。
「俺が、あなたの目になります。いままでも、これからも」
この気持ちは、欲を満たす恋人同士の浅はかなものでは決してなくて。
人生を共有する夫婦の愛情のようなものでは決してない。
焦がれていた。
ひとりで生きようとする、この人に。
寂しいだけで重なる関係は、浅はかだという。
本当に、そうだろうか。
ではどうして、進化の過程で〝孤独〟は消えなかったのか。
人間は、群れで暮らす生き物だからだ。
だったら、寂しさで繋がっていて、何が悪い。
梅雨は、ゆっくりと高尾の頭を自分の肩へ引き寄せた。
数年が経った今も、時々、思う。
ふたりの関係はなんなのだろうと。
着地する場所はあるのだろうかと。
高尾は抗争が終わってから、妓楼の外に出るようになった。
今日は健診日。
高尾を病院に送り届けた後、梅雨は暇を持て余して吉原の街を歩いていた。
大嫌いな梅雨の時期。
吉原は番傘の花で溢れていたが、今日はめずらしく天気がいい。
「ねえ、雪」
道を歩いていると黎明の声が聞こえて、梅雨はとっさに気配を消して人込みに紛れる。
そして歩みを止めて、黎明の声に耳を澄ませた。
黎明は甘味処の長椅子に座っていた。
その隣には雪が座っている。
二人とも真剣な顔をしている。
何か悩みごとだろうか。
一声、かけてみようか。
「……この団子の餡、絶対味変ったよね?」
梅雨は耳を疑った。
何の話をしているんだと黎明の手元を見ると、彼女の手には団子の串が握られていた。
「んーそうかな? 雪は一緒だと思うけど」
「いや、絶対変わったって。鼻から抜ける感じが違うの。抜いてみて。鼻からふーって」
黎明は目を閉じて少し上を向いて指揮者のように串と、握っていない手を宙で彷徨わせていた。
この女はバカなのだろうか。
梅雨がそう思っていると、明依はしぶしぶと言った様子で手を下ろした。
「仕方ない。終夜にジャッチしてもらおう」
梅雨は途端に終夜が哀れに思えた。
実際に終夜が団子を食べて「わからない」なんて言ったら、黎明は「わからないなら食べないでよ」と理不尽にキレるのだ。
黎明と雪が次から次に美味しそうに団子を食べているのを見て、梅雨は思わず声をかけた。
「おい」
「あ、梅雨ちゃん」
「俺に食わせろ」
梅雨の言葉に、黎明は隠す気もなく嫌な顔をする。
「なんだ、その顔は。理由言え」
「だって梅雨ちゃん、舌バカじゃん」
「は? 俺のどこが舌バカなんだ」
「この前、グレープジュース飲みながら『このリンゴジュースうまいな』って言ってたじゃん」
それは確かに、とぐうの音もでない梅雨をよそに、雪は笑いながら明依を見た。
「梅雨ちゃん、舌バカとかいうレベルじゃないよね? 明依お姉ちゃん」
コイツ。黎明に似てきやがって。どうせならおしとやかだった雛菊に似ろよ。と思った梅雨は、静かに黎明と雪を睨んだ。
「終夜だ。おーい」
梅雨は黎明の視線の先を見た。
終夜がそばで立ち止まると、黎明は立ち上がった。
「終夜、これ食べてみて」
そして勢いよく、持っている団子を終夜へ差し出す。
終夜は勢いよく口元に運ばれた団子を、慣れた様子でぱくりと口に含んだ。
もぐもぐと団子を頬張る終夜は、少し上を見上げながらしっかりと味を感じている。
「変わったよね?」
「変わってなくない?」
「わからないなら食べないでよ。返して!」
ほらな。と思った梅雨は深いため息を吐き捨てる。
「もう食べちゃったよ」
終夜は慣れた様子で返事をする。
終夜と黎明の関係性は、間違いなく、二人がたぐりよせた結末だった。
二人が笑い合う未来なんて、誰が想像できただろう。
「これでも飲んで落ち着いて」
「冷たっ……!」
終夜は、黎明の頬にラムネを押し付けていた。
文句を言っていた黎明も、冷たいラムネを受け取って、終夜に笑顔を向けている。
二人の仲がいい様子を、雪は大人びた笑顔で見ていた。
「梅雨が明けたら夏か~」
「暑くなるよ。今年も」
黎明の言葉に、終夜は穏やかに返す。
ありのままのお互いを、受け入れ合っている。
惹かれ合っているというよりも、必要としていた。
お互いがいない人生は考えられないだろうと、外から見ていて思うくらい。
前世でよほどひどい別れ方をしたのだろうか、なんて、非現実的なことを思うくらい。
梅雨は自分が思わず笑顔を浮かべていることに気付いて、背を向けた。
「じゃあな」
「あれ、もう行くの?」
不思議そうにする黎明に、梅雨は背を向けたまま答えた。
「俺はそんなに暇じゃないんだ」
「ばいばーい。梅雨ちゃん」
「だから、梅雨ちゃんっていうな」
黎明の間抜けな声に返事をしつつ、梅雨は歩く。
「ねえ、ふたりとも」
しかし、黎明が声を抑えて言うから、梅雨は歩きながら耳を澄ませた。
「梅雨ちゃん、ラムネ飲んでも『このアップルソーダうまいな』って言うのかな」
ぼそりと聞こえた黎明の一言に、雪と終夜が笑った。
「それはないんじゃない?」
「今度試してみる?」
あいつら。
聞こえていないと思って好き放題言いやがって。
そう思った梅雨だったが、おそらく今戻って文句を言うと、高尾を長く待たせることになると思い、口をつぐんだ。
終夜と黎明を見ていると思う。
きっといつか、収まるところに収まる。
梅雨は遠くから、すでに病院の前に立っている高尾を見つけて、小走りで駆けた。
せめて、催花雨ならよかった。
これからくる猛暑に、酷く警戒するための雨ではなくて。
鬱屈とした気持ちにさせる雨ではなくて。
せめて、厳冬から春の訪れを知らせる、開花をうながす、豊かな雨なら。
不快な固有名詞。
今は、くだらないと思う。
仲間が呼んでくれるなら、それでいい。
「おかえり、梅雨」
「ただいま戻りました」
あなたが、そう呼んでくれるなら。
(完)
短編を短編として書く能力が欲しい。
あと、次は異世界恋愛みたいな、ハイファンタジーみたいな話を書こうと思っています。
2025/07/19 野風まひる