5.催花雨であればどれほど
黎明が、松ノ位に昇格した。
「じゃあ治ったら、いろんな話をしようね。私、楽しみに待ってるから」
挨拶回りの帰り道。
満月楼まで付き添う梅雨が喋れないことを知ると、黎明は言った。
雑談の約束をして、なんになるんだ。
そう思った梅雨は、隣を歩く黎明を見た。
彼女はご機嫌そうに、前を向いている。
遊女のよくある、表向きの理由ではなくて、本当に話をしたいと思ってくれているのだろう。
だからか、黎明に誘われることは、悪い気分ではなかった。
段々と、黎明に興味が湧いていった。
梅雨が黎明に抱いた感情は、あの日。
処刑目前に見た小さな希望。終夜に抱いた気持ちに似ていた。
黎明がもし、真実を知ったら。
自分が吉原に来たことが〝宵〟の思惑だと知ったら。
大切な人が死んだ原因が自分にあると知ったら。
自分が今見ているものが夢幻城で、終夜によって造られたものだと知ったら。
黎明は、どうするのだろう。
もし自分が黎明の立場なら、と考えて、やめた。
黎明が事実を知って見る世界。
それは、過去に現世を〝地獄〟と表現し、誰かに殺してもらおうとしていた梅雨が、一番恐れている世界だった。
もしかすると黎明は、事実を知っても、今までを糧にして、これからを生きていくのではないか。
梅雨は人間の可能性を、黎明に見ていた。
そしてそれは、高尾も同じだったらしい。
「黎明は終夜への気持ちを、どこへ置くのだろうな」
高尾は、二人きりの平穏の中で言った。
梅雨は高尾を見た。
高尾はすだれと顔の布越しに外の風を感じているようだった。
彼女の口から〝黎明〟という言葉を聞くことが増えた。
「終夜は黎明に対する気持ちを、隠し通せると思うか?」
彼女の口から〝終夜〟という言葉を聞くことが増えた。
「お前が二人の立場ならどうする? 梅雨」
もし黎明の立場なら、その気持ちを、どこへ置こうか。
せめて伝えたいと思うかもしれないし、伝えてなんになるのかと思う気もする。
二人きりだった平穏な世界に、別の誰かが入り込むことが増えた。
それは当然、まもなく平穏な日常が終わることを示していた。
吉原の夏祭りが終わり、メンテナンスのための全面休園に入ると、吉原全体は避けられない抗争の中心地になった。
全て終夜の想定内。
同時に、〝宵〟の想定内。
二人の知能戦に巻き込まれた人間たちが、自らの意思だと信じて疑わずに、吉原の街で踊っている。
抗争の最中、梅雨は人気のない吉原の街を歩いた。
最後に吉原の街を、見ておこうと思って。
梅雨は終夜が通ったと思われる細道を通り、大通りを前にして止まった。
「とりあえずこっちに逃げよう!!」
つい先ほど合流したばかりの黎明と終夜を、梅雨は見ていた。
追っ手から逃げるために、黎明は終夜の手を握り梅雨の方へ、つまり終夜が現れた細道に身体を向けていた。
このままでは黎明と鉢合わせる。
梅雨はそう思っていながらも、一切焦りはしなかった。
終夜が黎明を引き止めることを、知っていたからだ。
梅雨の予想通り、終夜は小さく舌打ちをすると、黎明の手を力づくで引っ張り、大通りを走った。
「何してるの!?」
ごもっともだ。
目立つ大通りを行くより、裏道を走ったほうがいいに決まっている。
しかし終夜には、自分が通ってきた細道を使えない理由があった。
「そっちはダメ」
終夜を信頼している黎明はこのまま、終夜に言いくるめられるだろう。
梅雨は走り去る二人の背中をしばらく見つめてから、振り返った。
薄暗い細道の向こう側には、隙間に入り込もうと試みる太陽光。
梅雨は、ゆっくりと視線を落とした。
細道中にごろごろと転がる、死体。
混血の血だまり。
終夜が死の汚い部分を黎明に見せないように、最適と知りながらこの細道を利用しないことを、梅雨は知っていた。
終夜はこの期におよんで、まだ黎明に夢を見せ続ける気でいる。
梅雨は終夜の誤算が明るみになった三浦楼での一件から、終夜が黎明を止められなかった原因、誤算を考えていた。
梅雨が思う誤算は二つ。
一つは彼がいうように、女という生き物が男にとっては想定不可能だという要素。
そしてもう一つは、終夜自身が他人に与える好意的な影響を、過小評価しすぎているということだ。
いまさらどんなに的確な分析をしようと、取り返しはつかない。
来た道を引き返した梅雨は、終夜に指定された主郭の一室で事態の変化を待っていた。
終夜の予定通り、黎明は上から降ってきた。
抗争の理由、日奈と旭が死んだ原因、宵の正体、終夜の隠しごと。
全ての事実を聞いても、黎明は這い上がろうとしていた。
ぞっとするほどの苦悩を乗り越えようとする黎明の姿は、かつて、旭に感じた眩しさに似ていた。
だから、腹が据わったのだと思う。
黎明の行く道を守ってやりたいと思った。
悪い癖だと知っていた。
他人が自分の中に入り込みやすい体質であることも、よく知っていた。
でも今は、殺されかけさえした自分の気質を、愛しく思っている。
『じゃあ治ったら、いろんな話をしようね。私、楽しみに待ってるから』
黎明が言った言葉を思い出して、その願いを叶えてやれないことを、少し申し訳なく思った。
主郭の最上階。
初めて立ち入った頭領の居住区は、もの寂しい雰囲気を持っていた。
こんな場所に、ずっと一人で暮らしていたのだろうか。
三浦楼で感じた孤独を思い出し、それから裏の頭領・暁の人生を思った。
高尾は真っ直ぐに、暮相と向き合っていた。
同じだから、よく分かる。
他人に弱みを見せられない人間だ。
高尾は、本当の意味で過去に決別しようとしていた。
だから、なにをすべきか、定まっていた。
「本気で勝とうと思うなら、冗談抜きで目くらいはつぶさないといけない」
『一瞬の隙を見て、目のひとつでもつぶしてほしいんだよ』
計画を話したときと、同じ言葉を終夜が言う。
それが、合図だった。
『生きて、必ず、話をしよう』
高尾の言葉を思い出して、意図して、意識をそらした。
それは今思い出すと、自分の使命すら忘れてしまう、言葉だったから。
身体に穴が開いたことは知っていた。
臓器に傷がついたことも知っていた。
水が血液凝固を拒んで、死に向かっていることも、全部知っていた。
梅雨は横たわったまま、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。
全身が水にぬれていて、気持ち悪い。
でも、雨よりマシだった。
雨は泥が跳ねて汚いし、雨水を吸った着物は重い。
雨よりはマシだ。
心が、少しは軽い。
もう、起き上がる必要はないから。
約束は果たした。
吉原のために尽くした。
きっと、誰かを救った。
だからもう、直接的に自分のためにならないことは、なにも考えたくない。
頭の中を、思い出で埋めた。
ほとんどすべてが、高尾との出来事。
水を裂いて響く、一人分の足音。
目を開く。
まず映ったのは、人工物。
晴れた日の、美しい夜空だった。
「一人で歩いたら、危ないですよ」
視界の端に座る〝誰か〟に、梅雨は言った。
「お前の着物は、よく目立つ」
初めて交わす言葉は、普段おたがいに思っていて、言わないこと。
川の流れのような、穏やかで凛とした口調。
しっかり顔を見ることができなかった。
顔を見てしまうときっと、今、凪いでいる気持ちが、不安定に揺れるとわかっていたから。
「転んだらどうするんですか」
想像通り。
言葉を交わしただけで、穏やかな気持ちの後ろから、なにかの感情が出たがっていた。
「お前がいる」
「今の俺は、あなたを守ることさえできそうにない」
怒りだった。
本当に、静かな怒り。
自分が原因で、一人で歩かせてしまったこと。
つまり、心になってくれた高尾の目になるという誓いを、破っていること。
もう、『お前がいる』と言ってくれる彼女の力になれないこと。
つまり、もう、自力で動けないこと。
そこまで考えて思った。
もっと強ければ。
もっと強ければ、心配をかけることも、一人で歩かせることもなかったのに。
人生最後の日は、どこかおかしい。
迷いなく、血の付いた梅雨の手に触れようとする高尾の手を、梅雨はさえぎるように握った。
前にもこのやりとりをした。
いつだったか。
意識が混濁している頭の中で、ぬるい思い出にひたる。
そうだ。
雨に打たれて熱を出したときだ。
お互いに、ひとりは寂しいと気付いた日のこと。
結局、生涯、彼女の目になることはできなかった。
「あなたにお仕え出来て、俺は本当に幸せでした。高尾大夫。役目は果たしました。どうかこのまま、死なせてください」
でも、幸せだったから。
もうなにも、思い残すことはない。
本当に、心の底からそう思ったから、梅雨はもう一度、ゆっくりと目を閉じた。
「お前も、私をおいて行くのか?」
予想していなかった言葉に、梅雨は目を開いた。
『一人は、さみしいものだな、梅雨』
『お前も寂しかったろう』
『これからは私が、お前の心になろう』
『梅雨を私の側においてくれたことには、感謝する』
同じことをしようとしている。
彼女を傷つけたと非難した暮相と、全く同じことを。
彼女の孤独を理解しているのに。
彼女に必要とされている事実が、胸を打って、嬉しくなる。
しかし。
いや、しかし。
このまま死なせてほしいと懇願しておいて、たった一言で鞍替えしたとなるとそれは違うのでは。
むしろここでこのまま死んだ方が、美しい散り際なのでは。
そんなことを思いながらも、梅雨の中で答えは決まっていた。
息を吐き捨てた。
なんてザマだ、と思いながら。
「……助けてください」
「ああ、必ず助ける」
梅雨の言葉を聞いた高尾は、笑顔を浮かべた。
そして、血や水に濡れることに構いもせず、梅雨の上半身を起こした。
守りたい人に、助けられるなんて。
心にほんの少し余裕を持っていられたのはそこまでで、起き上がった瞬間に、鈍い頭痛に襲われた。
血を失い過ぎたと、意識のどこかで思っていた。
次に梅雨の意識が浮上したのは、外界の病院。
起きて一番に思ったことは、生きていた。
そして二番目に思ったことは、あの人に会いたい。