4.催花雨であればどれほど
永遠に続く気さえする、他人が介入する余地のない、ふたりきりの城籠り。
退屈と思った日々は、平穏に変わっていた。
陰にいたときとも、高尾を能天気だと思っていたときとも、まるで違う。
梅雨は、この生活に納得し、受け入れていた。
他人に踏み入られなければ、人の心が穏やかでいられることを知った。
しかし、ふたりきりの平穏は長く続かない。
知っていながら梅雨は、高尾と過ごす日々が一日でも長く続くことを願っていた。
生まれて初めて、心の底から。
ふたりきりの平穏が崩れることを予感させたのは、黎明の見事な花魁道中。
三浦楼から見下ろした黎明の花魁道中は、華やかだった。
「美しいな」
そういう高尾の隣で、梅雨は頷いた。
黎明を疫病神だと思っていたが、今回ばかりは感謝すべきかもしれないと思った。
変化のない三浦楼の中で、派手な催しを見ている気分になったから。
「どうだった? 黎明の花魁道中は」
終夜が高尾を訪ねて三浦楼に来たのは、それから一週間ほど経った頃だった。
「姐さんの血を継いだ、見事な花魁道中だったよ」
梅雨は、終夜と向かい合って座る高尾の斜め後ろから、二人のやりとりを見ていた。
どうして、気付かない方が幸せな事実に気付いてしまうのだろうと、梅雨は自分自身を恨んだ。
高尾は昔を懐かしんでいる。
その中にはきっと、ろくでもない幼馴染の面影があって、自分の面影はないことに、チクリ胸の内を刺された気持ちになる。
「しかし。黎明の花魁道中は〝宵〟の背を押したようなものだ。……お前も男だな。終夜」
戯けたように言う高尾に、終夜は貼り付けた笑顔を返した。
「確かに。俺は今回、黎明に少し気圧されたのかも。まあでも、こういうことを〝想定内〟にすることは、俺の得意分野なんだ。そのために、今日、ここに来た」
「何が言いたい?」
「条件が揃ったら、黎明を三浦楼に匿ってほしい」
「なんだ。寵愛でもくれてやるのか?」
「いやだよそんなの。面倒くさい。そうじゃなくて、吉原の外に出したいんだ。今の主郭に、宵の正体を見抜ける人間はいない。黎明が宵に言いくるめられたら、吉原は宵のものになる」
高尾は少し俯き、口を閉ざす。
ものの数秒で、顔を上げて正面から終夜を見た。
「私は了承しよう。これは、暮相の罪だ」
冷静を装った。
しかし、梅雨の心臓は、打ち付けるように鳴っていた。
〝暮相〟
心が、ざわつく。
解消の方法は、皆目見当もつかなかった。
高尾の口から初めて聞く、裏切った男の名が。
たかだか、名前ごときが。
冷静の一層内側に入り込んで、ペースを乱す。
「ただし。梅雨にも許可を取ってくれ。今ここに暮らしているのは、私だけではないからな」
高尾から呼ばれた名前に、梅雨は我に返る。
終夜は、なんだそんなことか。とばかりに笑顔を貼り付けて梅雨に視線を移そうとしていた。
梅雨はとっさに身構える。
今回は絶対に、お前の思い通りにはさせないぞ。という意思をしっかりと表示した。
「梅雨はどう?」
終夜はやはり貼り付けた笑顔で梅雨を見ると、小首をかしげた。
「高尾大夫は了承してくれたけど」
想定外の言葉に、梅雨は思わず息詰まった。
「梅雨はどう思う? 高尾大夫とは違う意見?」
〝高尾大夫〟と言えばなにも言えないと分かっていて、終夜はいう。
このクソ野郎と吐き捨てて、ぶん殴ってやりたい気持ちを抑える梅雨は、握りこぶしを震わせて、必死に持ちこたえていた。
高尾が了承しているなら、了承するしかない。
しかし、〝了承した〟と一切表したくなかった梅雨はただ、終夜を睨んでいた。
「だいたいさ、高尾大夫」
終夜はそう言うと、今度は高尾を見た。
「わざわざ聞かなくても、梅雨は高尾大夫がいいならいいんだよ」
そうだけど、そうじゃない。
このクソ野郎。
いつもいつも、いいように使いやがって。
絶対にいつかぶん殴ってやるからな。
そんな思いで梅雨は終夜を睨む。
「そうなのか? 梅雨」
高尾がこちらを見ていることに気付いて、梅雨はまた息詰まり、そうだけど、そうじゃないことを説明できないまま、不服そうにこくりと頷いた。
「じゃ、この話はおしまい。それで。考えてくれました? 吉原の解放」
「何度来ても、私の考えは変わらない。答えは、否。私は協力しない。三浦屋で黎明の面倒を見る代わりに、キッパリと諦めることだ」
終夜は少し不服そうな様子で息をつくと、小さく頷いた。
「やっぱり、そうなるよね。まあ、仕方ないですね。いいよ、それで」
「すまないな、終夜」
立ち上がる終夜に、高尾はそっと声をかけた。
「謝るくらいなら協力してくれていいんだけど」
「梅雨を私の側においてくれたことには、感謝する。ありがとう」
高尾の言葉に、特別に驚きはしなかった。
お互い様だ。
感謝している。
高尾と全く同じ気持ちでいる自信が、梅雨にはあった。
終夜はちらりと梅雨を見た後、高尾へ視線を移す。
「好奇心を忘れ、変化を恐れたら、人間はおしまいだよ」
「構わない。人間は、無為自然の中で移り変わるものだ」
終夜は少しの間高尾を見ていたが、気だるそうに出入口に身体を向けた。
「お邪魔しました。また来るよ」
終夜が部屋を出てからは、麻酔のような沈黙が流れていた。
梅雨は姿勢を変えずに座る高尾を盗み見た。
彼女が自分を大切にしてくれていることは知っている。
ただ、何の理由に紐づいているかは知らない。
使用人として気を許してくれているのか。
妹のように可愛がっているのか。
あるいは、一人の男として――
そこまで考えて、やめた。
きっと、高尾が自分を大切にする理由を知る日は来ないのだ。
たがいの心の穴を埋めた。
その事実だけで、もう、充分なはずじゃないか。
『暮相』
その名前が、頭の中に響く。彼女の声で。
暮相のことに気を取られていた。
しかし、そうでなくても、満月楼・黎明の来訪に、心ひとつ動かされることはなかっただろう。
「不躾なお願いと承知の上で申し上げます。……高尾大夫と話をさせていただけませんか」
先代、吉野大夫を母に持つ女。
当代裏の頭領・暁が愛した遊女の娘。
〝宵〟と名を変えて戻ってきた暮相の、有力な手札。
同時に、終夜の最後の手札であり、諸刃の剣でもある。
黎明が吉原に来てから、水面下では全てが静かに、そして確実に動いていた。
梅雨は自分がその歯車の一部であることを、理解していた。
この女さえいなければ――
そう思ってすぐ、反発する自分の心の声に耳を澄ませた。
この女がいなければ、高尾に出会うことはなかった。
それどころか、すでに自分はこの世にいないだろう。
本当の平穏を知らずに死ぬところだった。
それは今となれば、少しもったいない。
恨むべきなのか。感謝するべきなのか。
黎明としっかり目が合う。
梅雨はしばらく黎明から目をはなさなかった。
これが、満月楼・黎明。
高尾との出会いが衝撃的だったからか。
それとも黎明自身に素質がないのか。
梅雨には黎明という遊女が、高尾の隣に並ぶ〝松ノ位〟にふさわしいとは、少しも思えなかった。
一瞬にして興味が失せた梅雨は、黎明からさっと目をそらして表玄関を去った。
終夜は黎明のどこに可能性を見ているのか。
どう考えても、買いかぶりすぎだ。
黎明は松ノ位になれない。
終夜は、吉原に居たいという黎明の未練を断ち切るために、肩口から胸にかけて切り裂いたのだという。
黎明は、三浦楼にやってきた。
終夜に連れられて、大きな傷も癒えないまま。
切られてから日が経たずに動けるのだから、終夜は黎明に相当気を使って傷を作ったに違いなかった。
吉原の外に出ることを、黎明は拒絶しているのだと聞いた。
異常性癖所持者なのだろうか。
こんな地獄に、未練があるなんて。
「黎明。ほとぼりが冷めるまでこの妓楼にいるといい。陰の目からは、梅雨が守ってくれる」
そういう高尾の言葉で、黎明は梅雨に視線を向けた。
勘違いするな。不本意だ。主がそうしたいというからするだけだ。
梅雨はしっかりと意味を持って、黎明を睨んだ。
黎明はおびえた様子を見せる。
他人の機嫌に振り回される。
ほら、この女はやはり、松ノ位にふさわしくなかった。
そう、思っていたのに。
「私はまだ、この街にいたいです」
吉原の外に出られる。
遊女にとって最大の幸福を無条件に与えられる状況で、黎明はしっかりと、自分の口で拒絶した。
明らかになにか、意味を持って。
「安心していい。足はつかない。ほとぼりが冷めた頃に、名前を変えてひっそりと生きていけばいい」
「私はこの街で、堂々と生きていきたい」
高尾の促しにも、まっすぐに意見する。
どうして地獄にいることを望むのか。
まっすぐな言葉を吐くのか。
本当に、気でも狂ってしまったのだろうか。
「傷があるからって、私の価値が無くなるわけじゃない。前例がないなら、自分で作ります。だから私の人生を、勝手に決めないで」
黎明は、松ノ位にふさわしい人間じゃないはずだ。
自分の望まぬ状況で、他人から誘導されている状況で、真っ直ぐな言葉を吐ける人間じゃないはずなのに。
「黎明。お前はその傷を、客に何と説明する?」
高尾の問いかけに、梅雨は予測を働かせていた思考を止めて、思わず黎明に視線を移した。
なんだ。俺はこの女の、なにを見落としている?
黎明の言葉に、態度に答えがあるはずだ。
見落としたなにかが、必ず。
注意深く観察する梅雨をよそに、黎明は、ごく自然に、笑った。
「心から愛した人に付けられた傷だと話します」
〝心から愛した人〟
それは、旭か。
宵か。
それとも、終夜か。
なにもわからない。
どこで誤算が生まれたのか、どうして笑っていられるのかさえ。
おそらく終夜にも、わからないだろう。
この座敷はもう、黎明という遊女の独擅場。
黎明の雰囲気に流されず、余裕を持って見守っているのは、高尾だけだった。
どうやら高尾には、黎明の感情経路がわかるらしい。
「俺は黎明を吉原から追い出してほしいと言ったんだ」
「かわいい子には旅をさせよという言葉を知っているか、終夜」
高尾の言葉を聞いた終夜は、大きく一歩を踏み出した。
梅雨はすぐに二人の間に立つ。
押しのけようとする終夜の手首を掴んだが、終夜の手はすぐに、胸ぐらに伸びた。
「離せよ。死にたいの?」
終夜は完全に、冷静さを欠いていた。
梅雨は胸ぐらに伸びた終夜の手首を、ゆっくりと掴む。
正面からしっかりと、終夜の目を見た。
落ち着け、バカ。
計画が倒れたらどうする。
「女の子に手出すなんて、みっともないと思わないの!?」
誰が〝女の子〟だ。
お前は黙ってろ。
そう思った梅雨だったが、黎明は必死になって終夜を引き離そうと腕を掴んでいた。
得体の知れない終夜に関わるのは、怖いだろう。
それなのにどうして、終夜に歯向かうのだろう。
また一つ、黎明がわからなくなる。
「離せ」
覚悟を持ったあと、梅雨は軽く首を振った。
終夜の動きは、全て見えていた。
黎明を押しのけるところも、足が払われるところも。
梅雨は考えた。
終夜が死ぬのは困る。
終夜が戦えなくなることも。
暮相を止められる可能性があるのは、終夜だけだからだ。
後ろの足を引いて持ち直そうと試みるが、強い力で腕を押し込まれ、バランスを崩した。
一瞬で思考を切り替えて、体を捻る。
終夜の手が簪に伸びている動きも、見えていた。
簪を抜き取られることも、終夜の動きの方が早いことも、理解していた。
正気に戻らせなければ。
まずは、動きを止める。
振り下ろされる簪に、左手を伸ばした。
左手に穴が開くくらいで、終夜を止められるなら――
終夜の動きは、完全に止まった。
梅雨は穴が開くはずだった左手を下ろしながら、視界の端に映った〝誰か〟に、嫌な予感を感じていた。
「……なんでお前がここに居るんだよ」
終夜の言葉を合図に、梅雨はゆっくりと視線を移した。
心臓が打ち付けている。
そこにいたのは〝宵〟。
暮相だった。
気付けなかった。
夢中になっていたからか。
それとも、暮相が完全に気配を消していたのか。
「俺の守りたい人が、ここにいるから」
膜を張った内側で、生きたまま喰われているような、じわじわと犯されていくような感覚だった。
大きくなった感情は、膜を破って心の内側をのた打ち回る。
自分が裏切った女の前で、〝守りたい人〟なんて。
一体どんな気持ちで、戯言を吐いているんだ。
どの面を下げて、いまさら。
彼女の視界に、暮相がいる。
殺してやりたいと思った。
情け深い高尾をとことん裏切った、暮相を。
「手を上げろ」
暮相の言葉に、終夜は従う。
自分まで冷静さを欠いたら、緻密な計画は、全て終わる。
〝兄〟を前にして目的を思い出し、正気に戻った終夜を見た梅雨は、意図してしっかりと一呼吸置いた。
「そのまま離れて」
暮相は、終夜に指示を出す。
梅雨はさっと身を起こし、〝宵〟に向かって軽く頭を下げた。
それから、高尾に視線を向ける。
高尾はゆっくりと一度頷いた。
〝それでいい。よく、落ち着いて対処してくれた〟
梅雨はその態度を心の中にしまい込むと、邪魔にならないように高尾から少し離れたところに立った。
「黎明はこれから、松ノ位に上がる」
暮相のために積み上げた吉原解放の糸口を、暮相の目の前で、暮相を殺そうとする弟に託す。
「お前にとっては誤算か? 宵」
高尾は、挑発的な表情を浮かべて、真っ直ぐに暮相を見る。
暮相は、〝宵〟とは少し様子をかえて、薄く笑う。
「何の話でしょう」
本音を隠して探り合う二人を、梅雨は見ていた。
高尾は楽しそうに笑っている。
どうして彼女が笑っているのか、わからない。
どれだけ彼女を理解しても、離れて行く。
終夜が去り、黎明が去り、それから暮相が去った部屋の中で、二人だけの時間が流れていた。
「梅雨」
いつものように名前を呼ばれて、梅雨は高尾の側に歩いた。
「危険な目に合わせて、すまなかったな」
なにをいまさら。
「お前に怪我がなくて、本当によかった」
大切にされている。
それだけでよかったはずなのに、暮相に対する気持ちを前にすると、それすらかすんで見える気がする。
人間は恐ろしい。
次から次に、欲しいものが出てきてしまうから。
なにかが欲しいのに、自分が求めているものがなんなのか、梅雨にはわからなかった。
高尾の決断は、水面下で構築された盤面を、たった一手でひっくり返した。
高尾の期待。
終夜の失策。
暮相の誤算。
すべてが絡まり合い、造花街・吉原は、夏祭り明けの抗争に巻き込まれていく。
もう間もなく、終わってしまう。
「梅雨」
梅雨がもう一度高尾を見ると、彼女の手には終夜が引き抜いた簪があった。
側に寄って、しゃがむと、高尾は梅雨の頭に手を伸ばした。
「生きて、いつか必ず、話をしよう」
高尾の言葉に、頷くことができなかった。
6話までのびます。(平常運転)