2.催花雨であればどれほど
終夜の自室の中。
梅雨と終夜は向かい合って座っている。
座敷牢にいたときよりも明らかにはっきり、鬱陶しい雨の音が聞こえていた。
「それで。俺は何をすればいい」
「数か月、女に化けてほしいんだ」
終夜という男はこういう冗談を平気で言いそうだ。
そう思った梅雨だったが、状況をなぞってすぐ、冗談ではないと判断した。
女でなければいけない仕事。
色仕掛けか、不意打ちか。
どちらにしろ、妓楼の遊女にまぎれろ、と言うことだろう。
「女に化けるなら、俺のような小柄な男は適任だろうが。どうしてわざわざ女に化ける必要があるんだ」
前提をそろえたうえで、梅雨は終夜に疑問をなげかける。
「陰には女もいる。実際、妓楼を見張るために配置されるのは、ほとんどが女の陰だ」
「女はダメだよ」
はっきりと言い切るからには、なにか理由があるのだろう。
梅雨は終夜の言葉の続きを待っていた。
「女は気まぐれだ。それに、有能な女は男よりずっとめんどうだ」
意外だと思った。
誰彼構わずわがまま放題やっていそうな男に、扱いづらい人間がいるなんて。
〝吉原の厄災〟
誰の手も及ばないほど大きく、抗うことも防ぐこともできない災いを。
すがる気持ちで神頼みするしかない不幸を。
人は〝厄災〟と呼ぶ。
吉原の厄災サマにも、人間らしい部分があるようだ。
「それが、わざわざ処刑寸前の適任者を助けた理由。わかってくれた?」
「わかった。数か月の条件なら、協力する」
「じゃあ、次。頭領のバカ息子、暮相がどうして吉原に戻ってきたのかだけど。あの男の目的は、自分を追放した吉原への復讐だ」
「……復讐のために自分から地獄に戻るなんて、ずいぶんご立派な人間だな」
「男は、女が絡むとバカになる。気をつけようね。お互いに」
余裕のある笑みを浮かべて、終夜は言う。
梅雨の頭の中には、遊女に入れあげる妓楼の男客たちが浮かんだ。
自分が女にうつつを抜かすような、おもしろみのある人間とは思えない。
同時に、あんな呆けたバカになるはずがないと確信していた。
「暮相は、顔も声も、何もかもを変えて吉原に戻ってきた。今は〝宵〟って名乗って、満月楼の経営をしている」
「たかが楼主に、吉原をどうこうできるとは思えないが」
「宵は必ず、吉原の中枢、主郭に足を懸けてくる。どんな手を使っても、対処しないといけない」
「それと俺が女に化けることに、何の意味があるんだ?」
「暮相は女に手を出さない」
暮相という人間はどうやら、自分とは違って相当おもしろみのある人間らしい。
「女に化けて、ある人についてほしいんだよ」
「ある人?」
「三浦楼・高尾大夫」
三浦楼・高尾大夫。
滅多に人前にあらわれないことで知られている女。
数少ない花魁道中も、歌舞伎の黒衣のような布で顔や頭を覆い隠している。
吉原の最高権力者、裏の頭領よりも、謎の多い人だ。
「高尾大夫につく理由は?」
「高尾大夫は当時、吉原を解放しようとする暮相に力を貸していた遊女だ。ことが進めば、二人は接触する可能性が高い。それに滅多に表に出てこない高尾大夫の側は、目立たないし」
「それで、最終的には暮相を吉原から追い出すってことか」
「いや、暮相を殺す」
終夜の言葉が心の中に落ちて、耳を疑って、真意を探ろうと終夜を見た。
旭と終夜は昔、裏の頭領の息子、暮相の世話役だった。
裏社会でそれは、家族という。
〝家族〟は、血統よりも強固に繋がり、いざとなれば命を預けると誓った存在。
「お前、兄貴を……。家族を殺すのか?」
「そうだよ。生きて吉原の外には出さない。完全に、息の根を止める」
あっさりとした終夜の言葉を聞いて、どうして自分が終夜の話を聞き入れようと思ったのか。梅雨は理解した。
吉原に住む大勢のために、命を預けると誓った家族を殺す覚悟を、垣間見たからだ。
「男は女を前にすると反応が遅れるって、科学的に証明されている。一瞬の隙を見て、目のひとつでもつぶしてほしいんだよ。俺一人だと、負けるから」
「……意外だな、終夜。お前は吉原になんて、全く興味がないのかと思ってたよ」
「全然興味ないよ、俺は。でも、旭は違うらしい。みんなが自由になる吉原を願っている。さっきも梅雨のことを聞きつけて騒いでたよ。『お前ら、人の命を何だと思ってんだ』って」
梅雨は、たいしたことのない幼少期をなぞった。
旭は幼少期から、何も変わらない。
懐かしく思った。しかし、自分の中に溜まった生暖かい感情を、つまり〝旭らしいな〟という言葉を、吐き出そうとは思えなかった。
「目的が旭のサポートなら、俺は、お前じゃなくて旭に賭けていることになるんじゃないのか」
「細かいことは気にしない」
終夜はやはり、あっさりした様子で受け流す。
「忙しくなるよ、梅雨。死にたいと思うヒマもないくらいね」
相変わらず軽薄に聞こえる、終夜の声。
どうしてこの男は自分が死ぬかもしれない未来を語っても、軽薄な態度を取っていられるのだろう。
どうせ持て余していた命だ。
死ぬ前に、この男に賭けてみてもいい。
「じゃあ早速行こうか、梅雨」
終夜に連れられて、吉原の街を歩いた。
番傘を叩きつける雨音はうるさいし、足は濡れて気持ち悪い。
着物に泥が跳ねるところも気に入らないし、水を吸った着物は重い。
体温を奪って冷たい。
これから暑くなるくせに、振り回されている気がして気に入らない。
全部ひっくるめて、憂鬱な気持ちになる。
〝梅雨〟。
どうしてこんな辛気臭い名前を選んでしまったんだろう。
終夜はなんの変哲もない、吉原にはよくある武家屋敷のような建物の前で足を止める。
門をくぐり敷地内に入る終夜に、梅雨も続いた。
終夜は梅雨の肩を後ろからがっちり掴むと、引き戸の玄関の前に梅雨を立たせた。
「なんだ」
「いいからいいから」
終夜が、梅雨の正面にある引き戸の玄関を開く。
梅雨は思わずうろたえた。
正面には、待っていましたと言わんばかりに、穏やかな笑みを浮かべて廊下に座る白髪の女がいたからだ。
「はじめまして。お会いできて嬉しく存じます」
梅雨は女の丁寧なお辞儀を、首ごと視線で追った。
自分はこれから、この人に一体、何をよろしくされるというのだろう。
ここはどこだ。
そしてこの女は誰だ。
なんて返事をすればいい。
静かに困り果てた梅雨は終夜を見たが、彼はいつも通り笑顔を貼り付けているだけ。
「あらあ……。次は、なんと申しましょうかしら」
梅雨は、困った口調で言いながら顔を上げる女に視線を戻した。
「大ッ変に、口数の少ないお方のようですから」
綺麗な笑顔を貼り付けた女は、口調と態度とは裏腹に、高火力の嫌味を、梅雨の目をしっかりと見ながら吐き捨てる。
「……はじめまして」
なにが正解なのかわからないまま言う梅雨に、女は笑みをたやさずに口を開いた。
「てっきり、私とお話をされたくないのかと。ご丁寧に、どうもありがとうございます」
それから、沈黙。
梅雨はもう一度、終夜を見た。
終夜はどうぞと言わんばかりに手のひらを女性の方へ向ける。
入れという意味だろうか。それ以外にないよな。
そう思った梅雨は、張り詰めた雰囲気の中、土間に足を踏み入れる。
女と終夜に見張られる中で草履を脱ぎ、それから、中に入る為に足を上げた。
「家主に促されるまで入らない!」
女はピシッと空気を張るような声で言う。
梅雨は足を草履の上に戻して、背筋を伸ばした。
「まずは要件を伝えましょう。それが、マナーでございます」
マナー?
なんだ。これから何が起きるんだ。
そう思って梅雨は、終夜を見た。しかし終夜は、やはり笑顔を貼り付けているだけ。
「さあ、どうぞお入りになってください。お伝えしたいことがたくさんございますから」
ここは、吉原の遊女に日本舞踊やマナーを教えている場所だった。
師範の教えは、〝全ての振る舞い、それから息遣いにさえ、女性らしさがある〟という座学から始まった。
それから梅雨は日夜、徹底的に〝女性らしさ〟を学んだ。
美しく座る動きから、指先一つの動かし方まで。
日常動作を学んだあとは、踊り、茶道、華道、三味線。
稽古の徹底ぶりは、花魁にでもさせられるのだろうかと思うほどだ。
梅雨は新しく学ぶものに対して、その都度、理論を構築した。
どうしてそう動かすのか。
自分が納得する理論を、徹底的に。
たくさんの花を見て、総合的に〝こういう置くのがいいだろう〟と、推測して飾っているだけ。
師範が弾く三味線の音を聞き、自分と音の響きの差を埋めているだけ。
それらの行為に、感性などひとつもない。
徹底的に考察し、実行し、改善する。
コツを掴むのは、昔から得意だった。
「やっぱり。俺の見立ては大正解だ」
梅雨は終夜のその一言で、容姿だけでなく性格まで加味した上で計画に選ばれたのだと知った。
数か月間、同じことを繰り返せば、どこからどう見ても女にしか見えない〝梅雨〟が完成していた。
「梅雨」
縁側を歩いていると、後ろから声をかけられた。
数か月も同じことを繰り返していれば、突発的に女性域の声帯を使うことにも慣れていた。
「はい」
「うん。今のは合格。……梅雨」
「なんでしょうか、終夜さま」
隙あらば終夜は〝梅雨〟〝梅雨〟と、呼ぶ。
食事中でも、風呂に入っていても、歩いていても、走っていても。
その度に梅雨は、女性らしく返事をしなければならなかった。
梅雨は縁側を去る終夜の後ろ姿を眺めた後、庭へ視線を落とした。
庭石の上を、雨が跳ねている。
立派な松の木から滴る水が、水面を大きく荒らしていた。
終夜はどうやら、絶対に人を信用することができない性分らしい。
例えばこれから数十年かけて、完璧な女性のふるまいを骨身にしみこませたとする。
それでも終夜の疑り深い性格を前にしては、おそらく無意味。
〝男として生まれた〟という根本的事実が、存在している限りは。
外に出るのも億劫な雨。
何度も何度も呼ばれて、聞きなれてしまった。
しかし夏を引き連れてくる〝梅雨〟を考えるだけで、憂鬱な気持ちになる。
どうして〝梅雨〟なんて鬱陶しい名前にしたんだろう。
もっと別の名前に――
「梅雨」
「はい」
考えごとをしていたにしては、
数か月前にテキトーにつけた名前にしては、
反応速度は申し分なかった。
しかし、今の自分が発した一言は、終夜の御眼鏡に適うことものではなかっただろうと、梅雨はなんとなく察していた。
「梅雨。今日からおしゃべり禁止ね」
声を出す前の、息が抜ける音に違和感があった。
それは、本当に意識して聞けば、かろうじて掴み取れる程度の、かすかな違和感。
小さな違和感さえ、終夜は認めないらしい。
急に今日から喋るなと言われても。と思った後で、意見することをやめた。
なにを言っても、一度決めた終夜の意見が覆ることはないと、梅雨はこの数か月で学んでいた。
極めて、合理的。
不随する理由が、しっかりとある。
だから梅雨は、終夜の突発的な変更に付き合うのは嫌いではない。
ただ、〝人の気も知らないで〟という呆れた気持ちで、わがまま野郎、と心の中で吐き捨てるにとどめている。
数か月の辛抱だ。
吉原で助かる人間がいるなら、それでいい。
心の内側で、崇高にも思える自己満足をなぞった後、梅雨は息をつく。
息をついたその瞬間から、喋ることをやめた。
「今日から高尾大夫の所に行くよ」
とある日の、朝。
しかも終夜の発言から一時間もしないうちに、高尾のいる三浦楼の前へ到着した。
身支度を整えることで精一杯で、心の準備をする間など一切なかった。
口をきけないから、文句の一つも言えない。
梅雨は灰色とも紫ともとれる薄い色の着物に、藍色の帯を巻いて街を歩いた。少しでも、目立たないように。
肩先まである髪は後ろでまとめ上げ、飾りのない質素な簪で飾った。目立ちたくなかったからだ。
「ここは専用通路」
人気のない裏通り。
終夜はどこにでもある裏口の引き戸を指さした。
「高尾大夫に話はつけてある。ここからは梅雨一人だ。専用通路に入ったら、突き当りの階段を一番上まで上がって。そうしたら、正面に襖がある。何も言わずに開けていいよ。それからは三浦楼で生活してもらう」
梅雨は終夜の目を見て、こくりと頷いた。
「よろしく頼むよ」
終夜はそう言うと梅雨に手を差し出した。
珍しいこともあるものだ。梅雨はそう思って、終夜の顔を見た。
終夜は相変わらず、笑顔を貼り付けている。
梅雨は、終夜の手をしっかりと握った。
今の動きは少し、女性らしさを欠いていたという自覚はあった。
「お互い、悪運が尽きませんように」
梅雨が頷こうとしたとき、終夜はさらに口を開いた。
「今日から何年かかるかわからないけど」
今まで明確に働いていた思考が、ぴたりと止まった。
『何年かかるかわからない』?
この男、〝数か月〟と言わなかったか。
「じゃあね。梅雨。ファイトー」
おい、ちょっと待て。
話が違うだろうが。
約束に反した終夜に対して、〝喋らない〟という約束を律儀に守ったのが運の尽き。
あたふたとしている間に、終夜は行ってしまった。
あのクソ野郎。そう思った梅雨は、終夜と握手を交わした右手を見た。
舌打ちをしたい気持ちを消化するべく、梅雨は右手を三浦楼の外壁にすりつけて、ついでに着物にもすりつけた。
どうしよう。
どうしようもないか。
もう、ここまで来てしまったんだから。
梅雨が引き戸にふれると、途端にカチャと音がした。
どこにでもある引き戸と同じように、力を込めれば右に開いた。
息を呑んだ。
一体誰が、簡素な引き戸からこの景色を想像できただろう。
土間の横幅は、大男三人が縦に並んでもあまりあるほど広い。
土間から廊下の高さは、数段重なった御影石が埋めていた。
正面にある左右に開け放たれた金色の襖は、何段も等間隔に奥まで続いている。
最奥には朱塗りのやぐらのようななにかが小さく見えていた。
すぐにわかった。
ここは特別な来訪のための、つまり、高尾の上客のための玄関なのだ。
梅雨は入り口の戸を閉めると、深い茶色をした廊下を踏みつける。
梅雨は今自分が脱いだ下駄を見た。
もし客が来たら、まずいよな。そう思い辺りを見回したが、靴を入れる場所はなさそうだ。
『思いやり。それが何より大切な、真っ先に考えるべきマナーでございます』
師範の言葉を思い出した梅雨は、御影石の後ろに下駄を隠した。
襖を通り、先を進む。
朱色や金色。
派手な色を使っているのに、洗練され、落ち着いた雰囲気を持っていた。
寺にいるのかと思うほど、厳かな雰囲気をまとっている。
どれだけ耳を澄ませても、音ひとつ聞こえない。
今は夜中だったろうかと、一瞬気を迷わせるほど静かだった。
不気味なくらいの静寂は、緊張感を引き出させた。
開け放たれた金の襖をいくつも超えると、玄関ほどの広さの場所に出た。
朱色のやぐらだと思っていたものは、複雑に絡んで遥か上まで続く階段だった。
一本の複雑で太い柱のようにも見える。
吹き抜けた空間には、格子窓から太陽の光が入っている。
空気中の小さなほこりに光が反射して、キラキラと光っていた。
10段ほどの階段を上がって、数歩歩き、左側にある10段ほどの階段をあがって、また数歩歩き、また左側にある階段を上がる行動を繰り返した。
階段を上がり切ると、暗い廊下が顔を出した。
濃い茶色の廊下の先には、締め切られた金の襖がポツリとある。
あの先に松ノ位・高尾大夫がいるのか。
一体、どんな人だろう。
どうして人前にあらわれないのだろう。
どうしていつも、顔を隠しているのだろう。
それは、なにも知らないからこそ、なんとなく発生した、必然的な興味だった。
しかしその興味は、襖に近付くにつれて薄れていく。
代わりに考えたのは別のこと。
万が一攻撃された場合、どう立ち回ろうか。
締め切られた襖の先の間取りはどうなっているのだろう。
陰時代の名残。
今は、考える必要のない、無駄な思考だった。
終夜に言われた通りに、声をかけずに襖を開ける。
息を呑んですぐ、心臓が一度、大きく音を立てた。
暗い色の布で顔を隠した女が、正座の形で座って、真っ直ぐにこちらを見ていた。
布で顔は見えない。
しかし、正面から見つめられていることはわかった。
「よく来てくれた」
ただ、それだけ。
それだけのことなのに、座敷の中には、まぎれもない威圧感。
「私は三浦屋の松ノ位。高尾だ」
凛と打つ音、川の流れのように穏やかな声色。
この座敷の空気は、重い。
時間の流れや光さえ、歪んでいるのではないかと思うほどに。