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1.催花雨であればどれほど

 本来軽いはずの雨粒が、いくつにも重なり、屋根を叩きつけている。


 地を這うような重い音が響いていた。

 梅雨前線が停滞したことによる、バケツをひっくりかえしたような大雨。


 造花街・吉原。最奥にある城、主郭。

 わずかばかりの太陽の恵みをもらっただけの廊下は、沈んだ様子で、誰もが鬱々とした気分になっていた。


「はなせ!!」

「困ります!! 旭さま!」


 大声でわめきながら、二階の廊下を進もうとする旭と、彼を取り押さえようと必死の着物を着た男たち。

 その隣を、頭からつま先まで黒を(まと)った、ひとりの陰が通り過ぎる。


「お前ら、人の命をなんだと思ってんだ!!」


 旭の声を背に、ひとりの陰は迷うことなく廊下を進んだ。


 ほんのわずかだった太陽の恵みすらない廊下を、陰は歩いた。

 行灯はあっても、その光はわずか先を確認できる程度。


 法則に従って、極めて愚直に、磨き上げられた木の床を反射している。


 どこか遠くで雨音が聞こえるだけで、響く足音はひとつもない。

 こころもとない光に浮き彫りにされた影だけが、ひとりの陰が廊下を歩いていることを証明していた。


 陰はひと一人分だけひらいた襖をくぐり、座敷の奥でぴたりと歩みを止めた。


 陰が顔を覆う布越しに見つめているのは、座敷の中に設置された木造の牢屋。

 俗称、座敷牢。


 冷たい座敷牢の中には、目を閉じて格子に寄り掛かる、小柄なひとりの男がいた。


 暗がりの中、気だるい様子で寄り掛かっている割に、シワの少ない着物。

 それから、きちりと後ろでひとつに縛られた髪が、囚われた小柄な男の性格を表している。


 座敷のすみにぽつりと置かれた行灯が放つ光は、本体から離れるほどに色を失くしていく。

 光の末端は、座敷牢。


 一切の光が届かない座敷牢の内側は冷たい色をしていて、色相がきっぱりと分割されている。


 痺れを切らしたように、小柄な男は小さく息をつく。


 顔を上げて格子の向こう側にいる陰を睨んだ。


 いたるところを強く打ち付ける雨音が、幾重の壁に阻まれてぼんやりと届き、ふたりの沈黙の隙間を埋める。


 牢屋の外にいる陰は右の手を持ち上げると、自らの顔を覆っている布の額あたりを引っ掴んだ。


「処分されるんだって?」


 布が顔から離れようとする間中響く、衣擦れの音。

 音が消えてすぐ、座敷牢の中にいる小柄な男の目に、光が反射して、通り過ぎ、消えた。


 とりはらった布の下には、軽薄に貼り付けた笑顔。


 血生臭い裏社会で、〝吉原の厄災〟と呼ばれる若い男。

 名を、終夜という。


 幼い頃、短い期間施設で共に過ごした。

 ただ、それだけ。


 どうして吉原の裏側を束ねる、裏の頭領候補のひとりである終夜が、わざわざ変装をしてまで処分寸前の自分に会いに来たのか。


 ただ、それだけだった。

 牢屋の中の男に、それ以上、終夜に対する興味はない。


 だからあからさまに、溜息を吐く。

 めんどうだ。さっさと出て行けという意味を込めて。


 終夜は牢屋の中の男と視線を合わせるように、軽い動きで格子の前にしゃがみこむ。

 相変わらず、笑顔を貼り付けたまま。


「〝陰間にするには小柄すぎる〟は確かにそうかもね」


 牢屋の中の男の、空白の心の中に、なにかの感情が揺れた。


「じゃあ〝陰として生きていくには、才能がない〟って言うのは?」


 もう間もなく、牢屋の中の男は〝処分〟という名で死ぬ定めにあった。

 裏社会で。つながりや絆、なにより存在価値を示すことが善とされる世界の中で、自分自身の価値を表現しないからだ。


「ねえ、なんで?」


 まるで、自ら望んで座敷牢に入っているような言い方をする終夜。

 小首をかしげる彼の様子を視界の端で見た牢屋の中の男は、目を伏せた。


「俺が処分されることが、お前に何の関係があるんだ?」

「これまでの俺とアンタに関係はない。だけど、これから先に関係する」


 終夜はそう言うと、立ち上がり座敷牢の南京錠に鍵を差し込んだ。

 牢屋の中の男の、空白だった心中を、もう一度なにかの感情が揺れた。

 違和感、という名の、嫌な予感。


「人助けのつもりか?」


 牢屋の中の男は、目を伏せたまま、ぽつりとつぶやく。

 牢屋の中の男にある、違和感、という名の嫌な予感は、気だるい絶望に染まっていく。


「そんなつもりはないよ。俺を助けてほしいんだ」


 それから気だるい絶望は、一秒よりも短い尺度で、怒りに変わっていった。


 めんどくさい。本当にもう、何もかもがめんどう。

 嘘だ。本当は、面倒なのではない。

 ぼんやりとした心情が集約した先は一つ。


 これ以上、生き続けるのは、イヤだ。


 終夜が座敷牢の中に一歩立ち入った瞬間、牢屋の中の男は、終夜の懐から拳銃を奪い取った。

 牢屋の中の男はセーフティーを外して大きく数歩後ずさりながら、銃口を自分のこめかみにあてる。


 銃弾は寸分の狂いもないまま、脳幹を貫いて、即死。

 迷いなく、引金を引く。しかし、牢屋の中の男が終夜から奪った銃は、カチャと音がしただけ。


 ――装弾されていない。


 音に反射しないことで下した、予想外と現実を埋める、とっさの判断だった。


「残念。ハズレでした」


 牢屋の中の男は、すぐに軽薄に響く声に意識を向けた。


 自分を取り押さえようと腕を伸ばす終夜の右腕に、銃を持った右腕を絡める。足を前方へ踏み込んだ後、終夜の背後に回り、左手を彼の背中に当てた。


 まもなく関節が外れる微振動が来る、はずだった。


 とっさの判断だった。

 これまでの経験がものを言っただけの、反射と呼ばれるもの。


 死を前にして、自分の身を守ろうとしていると気付いたから、牢屋の中の男は力を緩めた。


 重心を落とす仕草、強く掴み返される腕、踏みしめる足の動き、顔面を手のひらで掴まれ奪われた視界。

 後頭部を強打したことで一瞬、空気が強く震える。


 かくして、牢屋の中の男は、終夜の全ての行動を見送った結末を向けた。


 牢屋の中の男は、ゆっくりと体の力を抜く。それでも身体のほとんどが直立のまま保たれているのは、終夜が牢屋の男の顔面を強く格子に押し付けたままでいるから。


 どうして処刑前に、無駄に動かないといけないんだ。

 もう、なんでもいいから、誰でもいいから、さっさと終わらせてくれ。


 溜息を吐き切った後、牢屋の中の男は気付いた。脱力しきっているはずの身体の中で、一つだけ力を込めている場所があることに。


 奪われては命取りになると、握った後は手放すことを固く禁じられた、銃。

 つまり、今、それを握っている右手。


 自覚してしまう。

 陰として生きたことが、骨の髄まで染みついていることを。

 身に染みて、悔しくて、それから銃を手放した。


「俺はアンタに才能がないとは思えないんだよ」


 終夜が力を緩めると、牢屋の中の男は、格子を背にずるずるとその場に滑るように落ち、尻を付いた。


「思いっきりやりやがって」


 俯いたとたんにこめかみを通る生ぬるい血液を感じて、もう何度目になるかわからないため息をつく。


「で? なんで殺されたいの?」

「……飽きたんだよ。生きることに」


 底のない心の内側の、ほんの上辺だけをすくって、言葉にする。


「〝飽きた〟ねえ」


 意味ありげに呟いたあとで、終夜はしゃがみ込み、牢屋の中の男の顔を覗き込んだ。


「〝生きる〟って行為を、深く考えすぎだよ」


 牢屋の中の男は、瞬きを一つした後で、正面にしゃがみこむ終夜を睨むように見た。


 貼り付いた笑み。

 光を反射しているだけの瞳。

 それから軽々しい言葉。


 軽々しく口にするな、と思うつもりだった。

 しかし、終夜の目を見ていると。言動の意図を探ってみると。裏側にしっかりと意味がぶら下がっている気がして。

 牢屋の中の男は、終夜から目をそらした。


「頭領の息子が生きてたんだ」


 牢屋の中の男は考えた。


 裏の頭領・暁の息子。暮相という名の、たしか10ほど年の離れた男だったはずだ。

 当時の次代・頭領候補。終夜と旭が兄と慕った人。

 しかし暮相は、吉原から追放されて、自ら命を断った。

 もう5年ほど前の話だ。


 だから、なんだというんだ。

 都市伝説で好奇心を埋める、表社会の人間じゃあるまいし。


「死体偽造のなにが珍しいんだか」

「問題はそこじゃない。頭領の息子が今、吉原に潜りこんでるってところだよ」


 もう、大きく打つことはないと思っていた心臓が、トクンと確かに音を立てる。

 今、終夜に心情を見取られていることは、知っていた。


「大門のセキュリティを突破して」


 興味と関心。

 つまり好奇心というメカニズムが。転じて、生きる希望が、牢屋の男の内側で、わずかばかりに息を吸う。


「復讐のために、国に売るつもりで、吉原に戻ってきた」


 国に吉原を売る。

 〝売る〟と言ったって、吉原はもともと国の所有物だ。

 それを勝手にぶんどって、今の形が出来ただけのこと。


 しかし現在の吉原が、日本を支えていることは事実。

 たくさんの人の命を救っている。

 もし吉原が、国の所有物に戻ってしまったら――


 そこまで考えて、牢屋の中の男は、ほとんど無理矢理、思考を閉ざした。


「……俺には関係のない話だ」

「たくさんの人が死ぬよ」


 死ぬだけなら、まだ――


「死ぬならまだいい方だよね」


 心の内側を完璧に読み取ったように、終夜が言う。


「吉原がなければ、選択肢すらない持たない人間が出てくる。生か死を選べるって言うのは、幸せなことだよね」


 念を押すように。


「しかも、死ぬことを他人に委ねられるなんて。ねえ?」


 〝お前は幸せ者だ〟とでも、言いたげに。


「そう思わない?」


 牢屋の中の男は、終夜の問いかけに反応して勝手に動く思考を、止めずにいた。


 物心ついて吉原に来た人間の中には、外界こそ地獄だという人間がいる。


 極限の精神状態を課される陰。

 苦しくなり、自らを傷つける遊女。

 薬に手を染める人。

 親が恋しいと泣く、施設の子どもたち。

 生き永らえさせるくせに、不用品と判断されればあっさりと殺される。


 牢屋の中の男が持っていた結論は一つだった。


 どちらも、地獄。


 きっと現世のどこへ行っても、地獄は終わらないだろう。

 でも、心のどこかでは、〝この世界が地獄ばかりであるはずがない〟と思っていることも事実で。


 ではどこへ行けば、地獄は終わるのだろう。


 わからない。


 答えが、見つからない。

 見つからないから、諦めて。

 諦めたのに、また同じ考えが頭をよぎるから。

 もう、イヤになってしまった。


「アンタみたいな人間に、この街の地獄は辛すぎる。他人が苦しむことを、まるで自分のことのように感じる、感情豊かな人間にはね」


 わかったような口をきく。

 まるですべての感情をなぞったみたいな言い方で。


 しかし、終夜の言う通りだった。


 まだ、自分にだけ痛みが降りかかっていた方が、マシだと思える。

 痛みが蔓延して、互いに足を引っ張り合う地獄の中で、ヒーローになりたい訳じゃない。


 ただ、自分が、他人が苦しむ姿を間近で見ているのが、死にたくなるほど、息苦しいだけ。

 完全なるエゴだという自覚も、持ち合わせていた。


「どうせ死ぬなら、吉原の役に立ってから死んでよ。あと、数か月。ほんの少しの辛抱だ」


 施設にいた頃から、あれこれと言葉巧みに大人たちを騙そうとしていた終夜。

 彼は噂にたがわず、相当口の立つ人間に育ったらしい。


「吉原の役に立った後、まだ死にたいって思っていたら、俺がアンタを殺してあげる」


 物騒な言葉を吐く男の顔には、相変わらずぶれることのない笑顔が貼り付いている。

 牢屋の中の男はゆっくりと息を吐いて、同時に肩の力を抜いた。


「俺に、お前側につけって言うのか? 〝吉原の厄災〟」

「そういうこと。死ぬ前のもう一勝負。最後に俺に賭けなよ」


 終夜はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、ぐっと伸びをする。


「疲れたって思いながらでも、とぼとぼ歩いてたら、いつかどこかにはたどり着くよ」

「……お前ひとりの力で、この腐った街が変わるとは思えない」

「俺は、賭け事に滅法強い」


 終夜はそう言うと、腕を放るように下す。

 そして、牢屋の中の男に背を向けた。


 吉原の厄災。

 過去、吉原の要として育成され、現在、吉原の敵だと言われる男。

 これから吉原の裏側では、間違いなく、終夜への風当たりは強くなる。


 それなのに、この男の話に乗ってみたいと思ったのは、死よりもマシだと、現代では役に立ちはしない生存本能が告げているからか。

 もしくは、吉原で最後に笑うのはこの男に違いないと、ここ数分の会話で、感情に起因するよう回路を組み立てられたからか。


 終夜は牢屋の戸を開けてから、振り返る。


「そろそろ答えて」


 まるで、これから下す決断を知っているみたいに。


 『どうせ死ぬなら、吉原の役に立ってから死んでよ』

 そうかもしれない。

 〝どうせ死ぬなら〟。

 人生はきっと、そのくらいがちょうどいい。


「協力してやってもいい」


 牢屋の中の男はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、着物の汚れをはたいた。


「よかった」

「俺は、何をしたらいい?」

「その前に、俺はアンタをなんて呼んだらいい?」


 陰になって一番に失うもの。

 それは、名前だ。


「吉原の権力者は、陰が名を奪われることを知らないのか?」

「もちろん知ってるよ。だから、なんて呼べばいいのか聞いているんだ」


 牢屋の中の男はすこし眉をひそめた。


「好きに呼べばいいだろう。数字でも、形でも。別に何でもいい」

「〝()(たい)(あらわ)す〟っていうよ。自分で決めなよ。自分の人生くらいは」


 決めろ、と言われれば困ってしまう。

 名前なんて別にどうでもいい。(いち)でもいい、(まる)でもいい。


 困ってから、気付いた。

 今の今まで、他人の判断で生きることが、当たり前になっていたという事実に。


 陰の所属の名前と数字で呼ばれ、仕事を与えられて、こなして、次の指示を待っていただけ。


 事実に気付いて、では自分で決めてみるかと思ったはいいものの、やはり、名前なんて何でもよかった。


 どんな名前にすればいいのだろう。


 ゆっくりと息を吐く音、弛緩する横隔膜、誘発されてしぼむ肺。

 体内から押し出されて、皮膚表面の熱を吸い取る血液。

 吐くほど嗅いで来た、血液独特の匂い。

 畳にふわりと落ちた行灯の光、座敷牢との明暗、質の悪い木の格子の反射。

 遠くにかすかに聞こえる、低く重たい雨音。


 雨音。春を奪う、大雨。

 大雨。停滞した、梅雨前線(ばいうぜんせん)

 梅雨。梅雨。


梅雨(つゆ)でいい」


 名前なんて、本当に何でもよかった。


「じゃあ今からアンタは死んで、〝梅雨〟になる」


 あの人に出会うまでは。


「よろしく、梅雨」


 雨は、嫌いだ。


「じゃ、まずは死体偽造から」


 身体が濡れるし、

 着物に泥は跳ねるし、

 憂鬱な気持ちになるから。




 ―――催花雨であればどれほど―――


6月中に梅雨が終わるなんて思わなかったんです……。(言い訳)

5話くらいで終わると思います。(野風まひるの〝このくらいで終わる〟を信じてはいけません。)

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― 新着の感想 ―
まひるさま!! 番外編の更新!しかも梅雨ちゃんの物語だなんて最高です! この先をまだ読んでいないので違っていたらすみません 急いで続きを読みたいけど興奮する気持ちを残しておきたくてついつい… 「あの人…
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