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忘却薬「アムネシア」の悲劇・下

 終夜はぶら下げていた子どもを庭に捨てる。

 室内にいた子どもたちも終夜が来たことに気付いて駆け出してきて、あっという間に彼の周りは子どもだらけになる。

 明依は子どもと終夜のやり取りを、縁側に座って眺めていた。


「終夜、鬼ごっこしよ~」

「また今度ね。今日は長い時間遊べないから」


 冷たい風が頬を撫でる。外部的な感覚で、我に返った。そして明依は冷静に、客観的に、終夜とその周りの風景を見た。


 ただ、見ているだけで、満たされる気がする。

 記憶、というよりは、感覚。

 心の内側に思いを巡らせてみれば、この感覚は、日奈と旭に感じていたものと似ていた。

 温かくて、だけどどこか切なくて。抽象的すぎて、言葉という形にはできないのに、確かに心の内側にある、そんなもの。


 今日は遊ばないと言いながらも、終夜は少しの間、子どもに付き合っていた。

 まだ遊びたいと駄々をこねる子どもを背に、明依と終夜は保育園を出る。


 陽光はとっくに青みを隠して、江戸の街並みをオレンジ色に染め上げていた。

 明依は終夜の行くままに歩く。一言二言の会話をするだけで、特に何か話をすることもないまま。


 オレンジが完全に消えるころ。

 提灯の暖色が格子に反射する吉原の街は、燃えるように赤く染まっていた。


 正気に戻って眺めれば、圧巻。


 夜の訪れを手玉に取り、魅了する。

 息を呑むほど、目が眩むほど美しい、燃える街並み。


 同時に、遊女時代を思い出して少し苦しくなって。しかし、たくさんの人が知らない裏側に足を踏み入れている気がして、胸が少し弾む。


 明依は少し前を歩く終夜を盗み見た。


 浮く気持ちの夜。暖色の街。横顔。

 この感覚を、知っている気がする。


 我が強そうで、わがままで、だけど思いやりがある、〝終夜〟という人。

 素直に、本当に魅力的な人だと思う。


 だから、どうして自分が彼に愛されるに至ったのか。やはり明依には、全くもってわからなかった。


「終夜さんって」


 明依がそう切り出すと、終夜は振り向いて少し視線を下げた。

 余裕があって自然な、どこかぼんやりとした彼の表情。明依はぐっと圧される感覚を覚えて、それから勢いに任せて口を開いた。


「終夜さんって、その……女性、選びたい放題じゃないですか?」


 終夜は明依の一言に、話の続きを予測することが出来ないのか、ほんの少し眉間にしわを寄せて宙を眺めた。


「うん?」

「選びたい放題、ですよね?」

「……なんかいやだ。その話、明依とするの」


 終夜はそう言うと、今度は不快感を表すようにぐっと顔をしかめた。


 何がいやなのだろうと思った明依だったが、いやと言っているのに深く触れるのも可哀想だと思い直して、それから口を開いた。


「なのに、なんで私なのかなーって思ったんです」

「ああ」


 終夜は明依の言葉に納得したように呟いたあと、ふっと息を抜いて笑った。


「惚れたからじゃない?」

「……誰が?」

「俺が」


 はー、なるほどねー。と彼の言葉を心の中にいったんインストールした後、心の中で〝惚れた〟と〝俺(終夜)が〟が頭の中で結びついて、ひるんだ。


 まさかそんな直球な言葉を言われるとは、夢にも思っていなかったから。


「俺が、明依の図太くて真っ直ぐなところを、好きになった」


 心臓をバズーカで撃ち抜かれたような、錯覚。

 図らずも全校生徒の前でスピーチをすることになった時のような。

 初恋の彼と偶然二人きりになって、もう打ち明けてしまおうかと思う直前のような。


 平衡感覚さえなくなりそうなほど、自分自身を見失いそうになるほど、彼の一言に振り回されている。


 しかし終夜は、明依の反応には興味なさげに前を向いて先を歩いている。明依もその少し後ろを歩いた。

 どんな関係性だったのだろう。どんな風に話をして、どんな風に触れ合っていたのだろう。


 知りたい、というより、思い出したい。


「思い出したいです。終夜さんのこと」

「なんで?」

「多分私、終夜さんと一緒にいられて、すごく幸せだったんだろうなって思うから」


 自分で言っておいて、少し直球で言い過ぎたかと思った明依だったが、どうやら言葉程度で彼の気持ちを揺らすことはできないらしい。


「そうやってバカ正直に、何でも言葉に出すところ。明依のいいところだと思うよ」


 前を向いたまま、余裕のある態度で、彼は言う。

 まるで、相手にすらされていないような。

 この感覚が寂しくて、だけど、どうしようもなくて。


 おそらく彼は、誰にでもこうやって距離を作り出す。


 〝明依〟は本当に、この距離を埋められていたのだろうか。

 自分の大切な感情を、笑顔の裏に隠してしまう、彼との距離を。


「いくよ、明依」


 でも彼は、全てわかっているみたいに、名前を呼んでくれる。

 きっと彼にDVの気質があったら、とっくに罠にはまってしまっているだろう。


 明依はギュッと握りこぶしを作って、それから指を解きながら、小走りで終夜の隣まで走った。


「……あのっ!」


 明依がそう言うと、終夜は明依に視線を移す。

 目と目が合うだけで嬉しいなんて、どうかしていると思う。


「夫婦なんですよね、私達って」

「そうだよ」

「じゃあその……手、繋いでもいいですか」


 明依の言葉に終夜は目を見開いて、それから笑った。


「うん。いいよ」


 終夜はそう言うと、左手で明依の右手を握って、半歩だけ先を歩く。

 盗み見た彼の顔は嬉しそうで。

 彼にこんな顔をさせているのが自分だという事実を、明依はまだ受け入れられない。


 思い出してみたい。

 だけどもしも。もしも、彼を思い出さなかったとしても。


 例えば明日起きて、また彼を、すっかり忘れてしまっているのだとしても。

 きっと何度でも彼に恋をする。

 その自信が、明依にはあった。


「帰ろうか、明依」


 一言に付随するのは、完璧な笑顔だった。

 恋人に見せるような、完璧な笑顔。


 成す術もなく、笑顔を返した。

 彼が大切な感情を、笑顔の裏側に隠していることに気付いているのに。


 石段を上がり切り、門をくぐり、主郭の中へ。

 正面に見える朱色の階段を上がって、廊下を歩いた。


 ここは来たことがある、ような気がする。

 遠い昔の記憶を探っているような、ほこりをかぶった、薄もやの中の記憶のような。そんな感覚。


「……ここが私たちの生活していた場所ですか」

「そうだよ」


 最上階の襖の向こう側。


 広い座敷のような部屋の中は、綺麗に整理整頓されていた。

 深く、濃い色をした木材。明度を抑えた茶棚。渋みを加えた緑色の畳。

 一枚板の重厚感のある背の低いテーブル。黄緑色クッション部分を濃い木枠が支えるソファ。

 色や形が、松の盆栽や畳の色とよく合っている。


 明暗と濃淡が、視覚的な安心感を与える部屋だった。


「……お邪魔します」


 明依は部屋の中に入って、辺りを見回しながら歩いた。

 それからふと天井付近で視線を止めて、眉をひそめる。


「……なんですか、コレ」

「婚姻届け」


 そう。部屋と部屋の境目、欄間に飾られているのは、婚姻届け。

 だから、どうして欄間に婚姻届けが飾ってあるのか、ということが知りたいわけで。


「喧嘩したらこの婚姻届けの下で仲直りする」

「なにかの宗教ですか……?」


 奉られた婚姻届けを見て思う。婚姻届けがここにあるということは、正式に結婚している、というわけではないのか。

 そりゃそうか。この人は社会の裏側を生きている人だから、婚姻届けを出すことはできないのか。


「俺さ、明依に感謝してるんだよ」


 急にそう言いだす終夜に、明依は婚姻届けから視線を移す。

 しかし彼はもう婚姻届けから視線を外していて、一枚板のテーブルのすぐそばにある三人掛けのソファに腰を下ろしていた。


「吉原に残って、こんな不安定な結婚生活を受け入れてくれて」


 何もわからない。 

 でもきっと、彼に感謝されるようなことはなにもない。自分がこの人の側にいたいと思ったのだろうと、何となくそう思った。


「おいで」


 終夜はそう言うと明依に手招きをする。

 取り返しのつかないことになりそうな予感がして、明依は少しためらった。


「何もしないから」


 そういう終夜の言葉を信じたのかは、自分自身にもわからない。

 明依はゆっくりと終夜に近付き、彼の隣に腰を下ろす。


 身体が、触れる距離にいる。

 心臓がうるさく鳴っている。

 もう、殺されるかもしれないという緊張感は少しもなかった。


 明依はすぐ隣にいる終夜を盗み見た。


 彼は背もたれに深く体を預けて、天井を見上げていた。

 ただ、ぼんやりとしたまま。

 大切な人に忘れられたことで傷ついているのは、終夜。

 終夜を襲っている事実に胸を痛めるのは、明依。


 お互いに、傷つけあっているだけなのかもしれない。

 せめて、いつ思い出すのか。それとも、もう思い出すことはないのか。

 それだけでも、わかったらいいのに。


 もし思い出す見込みがないのなら。傷つけ合うだけなら。


 一緒にいない方が、彼のためではないだろうか。


「……離れてみますか?」

「いやだよ」


 当然のように、あっさりと。

 だけどどういう経緯で〝離れてみますか〟と問いかけられているのか、全てわかっているみたいに、彼は言う。


「もう、明依をこの部屋から出したくないなーって思ってるところなんだから」


 ぼそりと、そして唐突に、彼は重いことを言い出す。

 しかし、あまりにも彼らしい考え方だと明依は思っていた。


「忘却は、大切なものから順番に始まるんだって」


 きっとこれは、毒を打つ前の、仕込みのようなもの。


「俺の複雑な気持ち、わかってくれるよね」


 わかってくれるよね。

 わかってくれるなら、受け入れてくれるよね。

 彼の言葉によって、いつの間にか真っ直ぐに、抜け道のない完璧な通路が一本、心の内側できあがっている。


 懐かしい気がする。

 受け入れた先の末路も考えずに、この場の雰囲気にだけ飲まれて、受け入れたいという気持ちになる。


「言いくるめていい?」


 終夜そう言うと明依の頬に触れて、それから優しく撫でた。


「なるべく、苦しくないようにするから」


 理解し難いたくさんの情報を与え、思考のトルクを意図的に落とさせる。

 だからきっと、毒のように甘い言葉だと分かっていても、受け入れたいと思ってしまう。


「さっきは何もしないって、言ったくせに」


 自分が重症なのか、あるいは彼の方が何枚も何枚も上手なのか。


「男の〝何もしない〟は、信じちゃダメだよ」


 受け入れてはダメだと思うのは、倫理観。

 それなら受け入れたいと思うのはきっと、本能だ。


「ずっと一緒にいようよ、明依」


 自分が必要とされている感覚。

 錯覚のようで、そうじゃない。

 きっと彼は今持っている錯覚を、現実にしてくれるという、確信。

 たった一日一緒にいただけの男に対する、造られた信頼。


 終夜は明依の後頭部に手を回して、ゆっくりと自分の胸へと引き寄せた。


 ずっと、こうしたかったような気がする。

 もしかすると、これも洗脳のひとつなのかもしれない。

 ただ、頭の中で描いた情報は具現化されて、自分の中で事実になる。

 だから、受け入れた先にあるのはきっと、悲しい未来ではないのだろう。


「……終夜」


 呟いた名前が真っ直ぐ鼓膜を通り抜けて、それから真っ逆さまに心に落ちる。

 たった一言が、感情とも言えないたくさんの情報や感覚を連れてくる。


 知っている、気がする。

 きっとちゃんと考えれば、ちゃんとした答えが出てくる。


 すっかり自分の考えに耽っていた明依は、ふと自分にかかる体重に意識を戻した。


「ちょっと待って……」

「ダメ」

「待って、待って!! ちょっと時間ちょうだい! 頭の整理したいから!」

「冷静になられると困る」


 しかし終夜は全く明依の話を聞かない。

 押し倒そうと全力で体重をかけてくる終夜と、片手をソファについて全力で支えながら終夜を押し返そうとする明依の攻防戦が幕を開けた。


「絶対なにかあるから、私の中に!! 5分でいいから!!」

「5分は長い」

「じっ、じゃあ、1分でいいから!!」


 全力で叫んだことによって、力むことを忘れた明依は、あっさりとソファに沈む。


「1分も長いよ」


 終夜の背景に天井を見た明依は、絶望したあと、だんだんと腹が立って、眉間に皺を寄せた。


「待ってほしいって言ってるんだから、1分くらい待ってくれてもいいんじゃないの!?」


 明依はそう言いながら終夜と自分の間に足を差し込み、全力で自分から終夜を遠ざけようともがいた。


「いやだ。絶対に待たない」


 梅雨のように、〝このわがまま野郎〟と言ってやろうかと思ったが、それよりも先に足の間に身体を入れられて、パニックに陥る。


 突如、スパーーーンと、綺麗な音を立てて襖が開いた。

 明依は救世主が来たという直感に、襖の方向を見た。


「終夜、落ち着いて」


 入口には星乃が立っていた。

 彼女の左手には、茶色い濁った液体が入ったビーカーが握られている。


「……なに? 今、忙しいんだけど」

「全然忙しくない!! 暇してた!! 二人で!!」


 終夜の言葉をさえぎる明依の言葉に、終夜はむっとした表情をする。


「今のムカついた」


 そう言ってさらに明依を抑えつけようとする終夜に、明依は全力で抵抗し続ける。

 星乃は何の迷いもなく、攻防戦を繰り広げる二人のもとへ。

 部屋の中を恐る恐る覗いた梅雨は、うろたえた様子を見せていた。


「……お前、よくそんな真顔で入っていけるな」


 感心しすぎて唖然とさえしている様子の梅雨が放つ言葉を拾った明依は、今度こそ救世主が来たとばかりに入り口を見た。


「梅雨ちゃん! 梅雨ちゃん!!」


 明依に必死の様子でそう呼ばれた梅雨は、唖然としたまま明依に視線を移した。


「なんとかして!! 私もう多分思い出して、」

「明依、これ飲んで」


 終夜と明依は、同時に星乃を見る。

 勢いよく近付くビーカーに、明依は思わずビーカーを持つ星乃の手首を握った。


「なに!? なにそれ! いやだ!! なんか汚い液体!! 濁ってるし!!」


 ほぼパニックになっている明依は、直球な言葉と渾身の力で星乃のビーカーを押し返す。

 なんなら全部こぼしてくれないかという気持ちが前に出て、強めに星乃の手を揺らしていた。


「落ち着いて。生薬が入ってるから、濁っていて当たり前よ。……終夜。自律神経にアプローチする。わかったら明依を抑えてて」


 終夜はすぐにはっとして、それから星乃の手を握る明依の手を握った。

 あわよくば揺さぶって全部こぼしてやろうという考えは無に帰った。


「梅雨ちゃん、助けて!! ……いやだ!! やだ!! 飲みたくない!! まだ心の準備もできてないのに!!」

「これ飲んだら思い出すかもしれな、」

「もう終夜、大っきらい!!」

「……大嫌い」


 終夜は明依からの痛恨の一撃を受けて、力を緩めた。


 三人の過激な攻防戦に取り残されていた梅雨は、戦意喪失した様子の終夜を見て我に返る。そして、もみくちゃになっている三人に近付いた。


「それを飲んだら、黎明は終夜を思い出すんだな!……邪魔だ、どけ!」


 梅雨はそう言うと、ソファの背もたれ側から、役立たずになった終夜を腕で押しのけ、明依の両手首を握った。


「なんで無理矢理なの!? 心の準備させてって言ってるだけじゃん!! 短気なの!?」


 さっきまで思い出してみたいと心の底から願っていたが、こんなきったない液体を飲むくらいなら、全然思い出せなくていい。とあっさりと鞍替えする明依。


 しかし梅雨に全力で押さえつけられて敵うはずもなく、無理矢理上を向かされて完全に喉から胃が完全に一直線になった状態で、匂いや味を感じる間もなく液体が入り込む。

 飲み込む、という動作もないままに、液体が食道を通って胃に落ちる。


 鼻から息が抜けて、薬がとんでもなくまずいことを認識した。


 ハーブをぐちゃぐちゃにして煮詰めたような。

 とにかく、人間が飲んでいい味ではない。


「うっ……まっず……!!」


 思わず出た一言に星乃はビーカーに残りの液体がないことを確認しながら口を開く。


「味まで考えている時間はなかったから」


 吐きそう。

 吐きたい。


「吐いたらダメよ。しばらくしたら気分の悪さは消えるから。我慢して」


 絶対に身体に入れてはいけない味がするが、星乃が言うのなら本当に体のためになる薬なのだろう。


 星乃と梅雨が離れたあと、明依はぐたりとその場に横になった。

 意図せず終夜の膝枕をされているが、全く気にならないほど気分の悪さと戦っていた。


「……きもちわるい」


 終夜は〝大嫌い〟を未だ引きずって放心していた。

 しかし、自分の膝の上には、気持ち悪いと訴える愛すべき人がいる。


 終夜は満身創痍の様子のまま、明依の頭を撫でた。


 先ほどまで頭の整理がしたいと思っていたのに、何一つ考えられない。


 梅雨は明依の様子を伺い、恐る恐る星乃を見た。


「なんか、朝よりもっと体調悪そうじゃないか……」

「不快感は、これからゆっくり消えていく」


 星乃の言う通り、気分の悪さは時間が経過すると共に消えてきた。


 気分の悪さが和らいだ後、明依は冷静に思考を巡らせる。

 なぜか頭は冴えている気がした。


 まず、今日訪れた場所を思い返してみる。


 大門。

 大通り。

 裏道。

 大見世の妓楼。

 清澄の小間物屋。

 団子屋。

 施設。

 主郭。


 全ての記憶の中に、終夜がいた。

 忘れていたことが信じられないくらい膨大な、終夜との思い出。それから派生する感情。


 見える世界が、色付いていく。

 彼を忘れて、どうやって生きていくつもりだったのか、もう思い出せないくらいに。


「終夜」


 鼓膜を通る自分の声は、懐かしい音をしている気がした。

 はっとした様子の終夜は、起き上がる明依の様子を真摯に見つめていた。


「……確かに、私たちの出会いは、〝ずぶぬれになった私を終夜が拾った〟だね」


 明依がそう言うと、終夜はゆっくりと息を吐き切って背もたれに深く体重を預けた。


「……よかった」


 そして片手で自分の顔を覆い隠し、ゆっくりと俯いて、もう一度息を吐いた。


「……明依が俺のことを忘れたままだったら、どうしようかと思った」


 終夜の声は、震えている。

 これほど無防備な終夜を見るのは、初めてかもしれない。


「ごめんね、終夜」


 明依はそう言って終夜を抱きしめようと腕を伸ばしたが、途中で動きを止めた。

 明依の動きを予測して、受け入れようと背中に伸ばしていた手に力を込めていた終夜は、明依が動きを止めたことで視線を上げる。


「そうだ、終夜。私、妊娠してるんだって」

「……は?」


 間抜けな声を出して、目を見開く終夜。

 相変わらず無表情の星乃に、自分の耳を疑った様子で二人を交互に見る梅雨。


「……妊娠」


 終夜はぼそりと呟いて、また黙る。しんと静まり返って数十秒後に、やっとまた明依の目を見た。


「……明依のお腹の中に、俺の子がいるってこと?」


 頭を悩ませるほどの難問を出しただろうかと思いながらも、真剣な様子の終夜に明依は笑顔で口を開く。


「それ以外なにがあるの?」


 明依がそう言うと、終夜はやはりまだ信じられない様子でぼんやりとしていた。

 終夜と明依をよそに、梅雨は本気で焦った様子で一歩踏み出し、星乃を見た。


「おい、大丈夫なのか!? さっき激しく動いてたぞ! 今日一日、結構な距離歩いたし」

「赤ちゃんって、意外と強いの。意識はなくても、ちゃんと生きようとしている。でも、しっかり病院で検査した方がいい」

「……そうか。じゃあ、とりあえず大丈夫そうなんだな」


 星乃の返事に梅雨は安心した様子を見せて、それから焦った様子で硬い無表情を作った。


「出産……育児……」


 終夜はぼそりと呟いてから唐突に立ち上る。

 何事かと見上げる明依をよそに、懐に片手を突っ込んでスマホを取り出した。


「……本、買わないと」

「さっき壊したろ」


 梅雨の言う通り、終夜の手にはバキバキに画面が割れて立ち上がることを放棄したスマホがある。


「……そうだった。じゃあ、誰かに頼んで外界に買いに行ってもらおう」

「今何時だと思ってるんだ。こんな時間に店が開いてるわけないだろ。ちょっと落ち着け」


 明依は完全に取り乱した終夜を信じられない気持ちで見ていた。


「じゃあ、今の俺に何ができるの?」

「早く寝て朝が来るのを待つんだな」


 あっさりと冷静に言い放つ梅雨に終夜は珍しく「そっか」と同意を見せる終夜。

 梅雨は疑うような視線を向けながら「大丈夫かお前」と言ったが、今の終夜に返事をする余裕はなさそうだった。


「おめでとう、終夜」


 空気を裂くような星乃の声色を掴んだあと、終夜は言葉の意味を心に落とし込んでいる。

 少なくとも明依にはそう見えた。


「……ありがとう」


 終夜はぼそりと呟いて、それから俯いて、笑った。


「……星乃も、梅雨も。いつも俺を助けてくれて、ありがとう」


 随分と素直な言葉に、星乃と梅雨は顔を見合わせる。

 星乃は柔らかい笑顔を浮かべて、梅雨は呆れたような顔をした。


「〝じゃあこうやって子育てして~〟ってテキパキ言われるものだって思ってたんだけど……」


 まさかこんなに喜んでくれるとは思っていなかった明依は、まだ気持ちの整理がつかないまま。

 終夜は唐突にソファに膝をつくと、明依を優しく、それから強く抱きしめた。


「……明依。俺、こんなに幸せでいいのかな」


 あまりに穏やかな終夜の声に、明依は目を見開いた。


 終夜の顔が見られないことが、少し残念。

 きっと彼は今、凄く綺麗な顔で笑っているだろうと思ったから。


 明依は返事をする代わりに、終夜の背中に腕を回した。


「とりあえず、採血させてくれる?」

「いや、空気読めよ」


 空気を読まずに言う星乃に、梅雨はすぐさま突っ込んだ。


「最優先事項だから」


 しかし星乃は、あっさりとそう言うと、もう明依の左腕を掴んで血管の位置を確認していた。


「別に明日でも、」

「いや、今日にしよう。もしものことがあったら大変だから。血を預けたらいいよね?」


 終夜はさっと明依から離れて立ち上がり、茶棚の戸を開いた。


「注射器も採血管もここにあるよ」

「……なんでそんなところにあるの?」


 三年近く一緒に暮らしている場所に、よく使う茶棚に、まさか注射器が隠されているとは思いもしなかった明依は、恐怖と久しぶりに感じた本領発揮の終夜らしさに脳みその処理が追い付かない。


 採血セットを受け取った星乃は、軽くそれらを見て手に取った。


「……こっ、怖い……」

「チクっとするだけで終わるから」


 自分の肉に沈む注射針を見るべきか見ないべきか。悩んでいる間に針が刺さる。

 星乃は、びっくりするくらい採血が上手だった。


 二人の様子を、終夜と梅雨は少し離れたところで見ていた。


「お前」


 自分への呼びかけと察したのか、終夜が梅雨を見た。

 梅雨は何食わぬ顔で、明依と星乃の様子を見ている。


「あんな顔で笑えるようになったんだな」


 事実だけを淡々と述べるように、平たんな口調でいう梅雨は、それから隣にいる終夜に視線を移した。


「ちょっと見直したよ」

「……梅雨。もしかして……」


 終夜はぼそりと呟く。その様子を梅雨は彼にしては柔らかい笑顔で聞いていた。


「俺に惚れたの?」

「……は?」


 梅雨は、信じられないと書いてある顔で終夜を見た。

 当の終夜は、困ったように眉をひそめている。


「ごめん。ちょっとさすがに……。先約あってさ。子どもできたんだ」

「おい!! 誰が、」

「産まれたら見せてあげるね」


 あっけらかんと話す終夜に、梅雨はわなわなと身を震わせた。


「お前なんか大ッ嫌いだ! もう二度とお前とは関わらない!!」


 梅雨はそう言うと大きな足音を立てて、部屋から出て行った。


「梅雨ちゃん……」


 振り回してしまったことへの申し訳なさと、それから終夜の自由奔放っぷりに申し訳なくなった明依は、近々絶対に謝りに行こうと誓って、彼の名前を呟く。


「……って言いながら、一週間もたてば終夜に振り回されてる」


 星乃はそう言いながら採血管を振ったあと、それをビーカーに入れて立ち上がった。


「慰めて来てあげよう。終夜にいじめられて、梅雨が不憫だから」


 明依は着物を整えてから、帰る星乃を見送るために立ち上がった。


「ありがとう。星乃ちゃん」

「どういたしまして。ここまででいいよ。無理しないようにね」


 星乃はそう言うと、振り向きもせずに部屋を出て襖を締め切った。


 明依はゆっくりと息を吐いてソファに座る。

 終夜はすぐに隣に座ると、明依の膝に頭を預けた。


 今日は一日、凄く疲れた。

 もう何もしないで眠りたい。そう思って、少しの間ぼんやりする。


「ねー、明依」

「どうしたの?」

「……帯でお腹締め付けてると、苦しくない? 洋服、取り寄せようか」

「別に、苦しくないよ」

「そっか。今は気分悪くない?」

「悪くないよ」


 明依が終夜の頭に手を添えると、終夜は気持ちよさそうに目を閉じる。

 こうやっておとなしくしているときだけは、結構可愛いかったりする。


「子どもができたらさ」

「うん」

「明依の〝一番〟を子どもに奪われるってことだよね」


 ちょっとふてくされた様子で言う終夜に明依は思わず笑った。


「奪われるって……。うん……まあ。……でも一番って、そんなに大事かな?」

「大事だよ。自分の努力で手に入らないものは好きじゃない。だから、ちょっとだけ気に入らない」


 終夜はそう言うと、明依の腰に腕を絡めた。


「でも、めちゃくちゃ待ち遠しい。……男の子かな、女の子かな」


 あまりに典型的な父親の言葉に、明依は微笑みながら返事をする。


「ね。楽しみだね」


 一番を取られたくないと言いながら、産まれてくるのが待ち遠しい。

 その気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合っているのだろうと思うと、なんだか可愛らしくて。


「ありがとう、明依。俺の側にいてくれて」


 間接的にも、直接的にも、大切にしてくれるとわかる人が側にいるのは、とても幸せなことだと思った。


「こちらこそ、私を選んでくれてありがとう。終夜」

「どういたしまして」


 終夜はそう言うと柔らかく笑って身を起こし、明依にキスを落とした。

 それから終夜は少し唇をはなして、もう一度唇を重ねる。

 何度か続く行為に、夜の深まりを感じていた。


「……終夜」


 自分でも感じる、湿るような声色。

 終夜は見つめていた明依からふと視線をそらした。


 そして、さっと身体をはなす。


「寝ないと」

「……は?」


 終夜は唐突にそう言うと、立ち上がり明依の手を引いた。


「寝よう、明依。日付越えたよ。子どもがお腹にいる分、明依の身体にも負担がかかってるんだから、今までより規則正しく寝ないと」

「えっ、今なの……?」


 明依はもやもやした色付いた気持ちをくゆらせたまま、手を引かれるままに立ち上がる。


 さすがに、これで何もありませんはないよね。

 寝室で続きがあるんだよね。


 そう思った明依だったが、終夜は明依が布団に横になったことを確認すると、布団をばさっと全身にかける。

 一瞬で電気が消えて、彼自身も明依の隣にすっぽりと収まった。


 シンと静まり返る寝室。

 音という音が消える。


 子どもの話をしていたのは約一分前。


 この一分で、どうやって気持ちの切り替えをしろというのだろうか。

 逆にどうやって彼は気持ちの切り替えをしたのだろうか。


 なんなら外着なんだが。


 いや、さすがにこんなところで放置はないだろうと思っていた明依だったが、しばらくすると隣からスースーと気持ちがよさそうな寝息が聞こえてくる。


 明依は天変地異が起きたくらい信じられない気持ちで身を起こして、暗がりの中で目を凝らす。


 間違いなく終夜は眠っていた。


「……なんでこの状況で眠れるの……?」


 明依はもやもやした気持ちを抱えたまま呟くが、誰もその一言を拾ってはくれなかった。


 しかし、今日一日彼を振り回したのは事実。

 きっと終夜は相当疲れていたのだろうと思うと、今日くらいは振り回されてやってもいいかと思った。


 ぐっと身を寄せると、反射的に終夜が抱きしめてくれることを、明依は知っていた。

 それを利用して、終夜との距離を近付けて、残り少ない二人だけの時間を、存分に感じる。

読んでくださってありがとうございます。

この話とは関係ないけど、私は高尾大夫と梅雨の関係性が、結構気に入ってる。

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― 新着の感想 ―
あちらこちらにこれはあの時の!がちりばめられてて読んでいて楽しかったです! 最後の終夜がかわいいw それと明依、妊娠おめでとー! 前回お返事いただいて、舞い上がりながら何かリクエストできればって考えて…
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