忘却薬「アムネシア」の悲劇・中
江戸のにぎやかな街並み。
赤い格子。笑う遊女。
着なれない着物を身にまとった、楽し気な観光客。
明依は人が行き交う大通りを歩きながらちらりと後ろを見た。そこには無表情で歩いている梅雨と、笑顔を貼り付けている終夜。明依は思わず、ぐっと眉間に皺を寄せた。
見張られているのだろうか。裏の頭領と言えば、裏社会の一番ヤバい人だ。何を考えているかわかったものではない。
あの笑顔の裏にはとんでもない残酷な考えがあるのかもしれない。例えば、廓遊びをしすぎて個人的に金に困っているから、元・松ノ位を売りさばこうとしているとか。だけど普通に売ると後々面倒だから、自分の妻にしたってことにしてその後で。
それか普通に残虐的思考を持っていて、解消するあてを探していてたまたま目を付けたとか。
いやでも、わざわざ指輪まで用意しないよね、普通。
何にせよ、あの貼り付けた笑顔が意味深すぎる。
意図せず終夜への不信感を高めた後、明依は二人から視線を流して正面を見た。
「……すごい疑われようだな」
梅雨は冷静と面白いと哀れを5対3対2くらいの割合で混ぜて言う。
終夜の唇は不満げに引き締まっている。
「なんで俺あんなに警戒されるの?」
「腹の内が読めなくて怖いんだろ」
「だから、できるだけ怖がらせないように、穏やかに笑ってるつもりなんだけど」
「いや、それだろ。……そもそも遊女にとってはな、〝裏の頭領〟っていうのは見たことがある人間の方がめずらしいほぼ架空の人なんだ。それに裏社会を牛耳っている人間で、目の前で何かミスをすれば自分の首が飛ぶかもしれないって思ってる」
他人から自らの役職のイメージを聞いても、終夜は表情を変えない。それを見た梅雨はふっと息を抜きながら澄ました顔をする。
「あんまりグイグイいくと嫌われるぞ」
梅雨は日ごろの恨みとばかりに会心の一撃をねじ込む。
それを聞いた終夜は、吹っ切れたように不機嫌な表情をすっと引っ込める。そして涼しい顔をした。
「いいよ。もし本当に嫌われたら、洗脳してでも俺を好きにさせる」
「……お前、そういうところだぞ」
梅雨は澄ました顔をしっかりとゆがめ、しっかりと意思を持った声色で、しっかりと終夜の顔を見ながら言う。
しかし当の終夜は、「最終手段だよ」とあっさりと告げる。
「あーら、黎明。久しぶりだねえ」
親し気に響く女性の声に、終夜と梅雨は視線を移した。
「お久しぶりです」
立ち止まって頭を下げる明依を見ながら、老いた煙草屋の女将が煙管をふかす。
うっすらと上がる口角。すっと伸びた目元。そのすぐそばをふわりとくゆる煙は、彼女の髪と同じ色をしていた。
終夜は明依と煙草屋の女将を一瞥したあと、少し肩の力を抜いて懐に手を入れた。
「梅雨、午前中は付き合ってくれるんだっけ」
「付き合ってるんじゃない。付き合わされてるんだ」
梅雨はひとこと、ひとこと、音を認識させるようにしっかりと発音する。
しかし終夜の懐から出てきたものを見て、眉間にシワをよせた。
「道端でスマホを出すな」
「勘弁してよ。外界の学校じゃあるまいし」
「頭領のお前が吉原のルールを守らなくてどうするんだ」
勘弁してほしいのはこちらの方だと言わんばかりに、梅雨はため息を吐く。落とした梅雨の視線が、終夜のスマートフォンの画面をとらえた。
終夜のスマートフォンのロック画面上部には〝09:12〟の文字。
そのバックには、明依が映っていた。
満月屋二階の格子窓にセミのように張り付いている明依の写真。必死の表情から、本気で焦って打開策を模索しているところを終夜がおもしろ半分で写真を撮ったと推測したのだろう。梅雨は画面から視線をそらさずに口を開いた。
「……初めて黎明を懐の深い女だと思ったよ」
「それでー? ウチに嫁に来る気になったかい」
茶化すようにいう煙草屋の女将の発言に、終夜の表情は一瞬にして厳しくなった。
「また言ってる。黎明さんを困らせないでよ」
店先に出てきた女将の孫は、明依よりもいくつか若い。祖母に呆れたように言った彼は、困った顔で明依に笑いかける。
「今日もすみません、黎明さん」
「今日もお元気そうでなによりです」
明依は大して気にしていない様子で首を横に振った。
まじかよ、と描いてある表情で梅雨は明依から終夜へと視線を移す。
終夜の持っているスマートフォンは、バキッ! と断末魔を上げた。
砕けたボディの金属が飛び散り、セミのような明依が映っていた画面は一瞬にしてブラックアウトする。
梅雨は唖然とした後、すぐに冷静さを取り戻した様子で口を開いた。
「落ち着けよ。ただの知り合いだろ」
「知り合いにしては距離が近いよ」
「それは本人同士の問題だ。もともと親しかったんじゃないのか。満月屋の馴染みの店とか」
いつもと同じ平坦な口調の梅雨は、いつもよりずっと早口。しかしそれからすぐに梅雨は、ため息のようにゆっくりと息を吐き切る。そしてすっと息を吸い込んだ。
「終夜、よく聞け。お前の好きになった女は、既婚者に平気で手を出す男を魅力的に感じるようなヤツなのか?」
しっかりとした意思を持った梅雨の言葉と目。しかし終夜は、真っ直ぐに明依を見ていた。
「そんなことはどうでもいい。俺、今もうアイツの存在が気に入らないもん」
「お前本当にめんどくさいヤツだな!!」
梅雨は、もう知るか! と言った様子で感情の全てを一息で吐き切る。
梅雨の監視が外れたと思ったのか、終夜はすぐに二人の元に歩き出そうとする。
しかし梅雨はとっさに終夜の肩に手を置いて、彼の動きを止めた。
「これ以上嫌われてどうする」
「……これ以上嫌われたら」
ぴたりと動きを止めた終夜にゆっくりと息を吐いた梅雨だったが、すぐに息を止めた。その途端、終夜の手が胸ぐらに伸びて、梅雨の身体はあっという間に前後にグラグラと大きく揺れた。
「忘れられている上に嫌われたら、俺は本当に明依を殺さないといけなくなる」
「さっきと言ってることが違うだろうが! 洗脳してでも好きにさせる話はどうした。揺らすな! はなせ!」
「耐えるから。こうやって」
「お前! 俺をサンドバックにするつもりで連れてきたな!!」
我慢の限界を突破した様子の梅雨が終夜の胸ぐらを掴み、全力で足技をかけようと終夜のふくらはぎあたりに足を絡めて体重をかける。
「ずっと言ってやろうと思ってたんだ。このわがまま野郎! 世界はお前中心に回ってるわけじゃないんだよ!」
片足を引き抜いた終夜は半歩身を下げて、上から全力で体重をかけ続ける梅雨の重みを踏ん張って耐えていた。
「俺の時間軸は、いつも俺中心に回ってるんだ」
「いつもいつも、ああいえばこういいやがって!!」
いい大人二人が道のド真ん中でバチバチの喧嘩を繰り広げようとする様子を、観光客は少し離れたところから興味深々で眺めていた。
明依は二人を俯瞰して眺めたあと、知り合いだと思われることだけは絶対に避けようとさっさと先を歩く。
明依が歩いているのを見た終夜は、すぐに梅雨から手を放して明依について行く。
梅雨は着物の襟元を整えながら舌打ちを一つして、しぶしぶと言った様子で終夜の後に続いた。
「もうお前一生忘れられてろ。そして嫌われてろ」
「洗脳してでも思い出させて好きにさせる」
綺麗に360度回転して元の考えに戻ってきた終夜の言葉に、綺麗な360度回転に付き合わされた梅雨は思わず立ち止まり唖然とした表情を見せた。
「ねえ、明依」
そして終夜は、まるで世間話の前置きのようにさらりと明依に声をかける。
「……なんでしょうか」
明依は少し低い声で振り向きもせずに返事をする。
「どうして、星乃のところに行ったの?」
「どうしてって、そんなの……」
すらすらと出ていた言葉が、詰まる。
これから先の言葉が、言葉になる前の事実や感情が、何も出てこない。
まるで、記憶の回路がプツリとそこで切れているみたいに。
いつも星乃がいる元地獄屋の建物を出たことは、ちゃんと覚えている。なんだか浮いた気持ちだったような。
それからすこし頭が痛んで、明依は思わず顔をしかめて頭に触れて立ち止まった。すぐに引く予感のする痛み。記憶が飛んでいる部分に触れているのかもしれないと、明依は冷静に考えていた。
「ごめん。もういいよ、明依」
明依が立ち止まったことで追いついた終夜が、明依の肩に触れようとしてやめた。
明依はそんな終夜の様子に、知らないふりをする。
そんな二人を、梅雨は側でじっと眺めていた。
大門。
大通り。
裏道。
大見世の妓楼。
小春屋。
清澄の小間物屋。
たくさんの場所を回った。胸を締め付けるなつかしさと思い出。
しかしその中に、終夜はいない。少しの面影すら、感じることはできなかった。
「高尾大夫の健診の時間だ。俺はもう行く」
「えっ、もう……?」
そう言って帰ろうとする梅雨に、さすがに〝二人きりにしないで。緊張するから〟という直接的に警戒している言葉を彼の前で言うわけにもいかずにぼそりと呟いた。
「ありがとう梅雨」
「じゃあな」
お願いだから行かないでという気持ちと、でも高尾大夫の健診なら仕方がない、という気持ちが行ったり来たりしている間に、相変わらず別れ際があっさりとしている梅雨の姿は見えなくなった。
ぽつりと二人だけの世界に閉じ込められて、静まり返ったような錯覚。
しかし意識をやると、やはりいつもどおりの喧騒の中。
気まずい。気まずすぎる。初対面、といってもこの人からすると初対面ではないのだろうが、滅多に表に出てこないで、吉原の全権を握っている〝裏の頭領〟になんて声をかければいいの。
二人きりはもうデートだ。どこに行けばいいんだ。大見世の妓楼か。いや、元遊女と二人で妓楼はないか。それとも何とか割烹とかドレスコード大前提、個室大前提の超高級料理屋。
そもそも、リードしてあげるべきなのだろうか。絶対女慣れしていると思うのだが、リードしたらプライドが傷つく可能性があるのでは。いや、そもそも。変なことすると首が飛ぶ可能性があるわけで。
「団子でも食べようか」
頭の中でぐるぐると解決しない思考を巡らせていた明依は、吉原の全権を握っている彼から出た〝団子〟という単語に親近感がわいて感動にも似た感覚を覚えていた。
「団子は嫌い?」
あっさりと問いかけているが、きっと彼はその答えを知っているのだろうという直感。
「……好きです」
「じゃあ、行こう」
裏社会のボスも普通に団子とか食べるんだ。いや、待て。もしかするといきつけの超高級和菓子店の団子かもしれない。
どこまでも警戒する明依だったが、終夜が選んだ団子屋は満月屋の裏手にある明依の行き付けの団子屋だった。
「ああ、黎明。久しぶりだね、いらっしゃい。終夜くんもね」
いつもの女将が、いつも通り、個室に通してくれる。
「雪は一緒じゃないのかい?」
「今日はいないよ。たまには明依と二人で来たいと思って」
「相変わらず仲良がよさそうで羨ましいねえ」
団子屋の女将はそう言うと、団子をテーブルの上にコトリと音を立てて置いた。
いつも三人で団子を食べに来ていたということなのだろうか。
楽しみにしていた団子に手を付ける気にならずに、明依は団子屋の中を見た。
明依の思い出の中には主に雪と、それから日奈と旭。どこにも終夜の面影は見当たりそうにない。
「私達って、どうやって出会ったんですか?」
「雨の中、外で寝てる明依を俺が拾った」
当然という様子であっさり告げる終夜。明依はしばらくの間、終夜の言葉に含まれた裏側の意味を考えていたが、残念ながら明確な情景は想像の中でも描けそうにない。
しかし、彼が冗談を言っているようには見えなくて。
「……それは飼っていらっしゃるペットのことなんじゃ」
「違うよ。俺と明依の出会い」
「……いや、それは無理がありますよね」
「本当だよ。雨の日に主郭門前から大通りに続く石段を転がり落ちて瀕死の明依を、俺が拾った」
「えっ、なんでですか……?」
「何から話したらいいんだろうね」
そりゃ雨の中、石段を転がり落ちて瀕死の状態になるまでには相当いろいろなことがあったのだろう。
明依は自分の持っている記憶と照らし合わせてみたが、そんな大事件が起こった覚えはない。
もしかすると、この人と関わってから人生は波乱万丈を極めているのかもしれないと思うと、明依は途端に記憶を取り戻すことが怖くなった。
「旭と日奈のことは覚えてるよね」
明依ははっと息を呑む。
どうして二人の名前をこの人が。
「友達だったんだよ。俺もあの二人と」
終夜は明依の返事を待たずに、優しい笑顔を浮かべる。
それはまるで、彼なりの最大限の配慮のような。
この気持ちを、知っているような気がする。
そんな配慮をしてほしくなかったと思って、何度もそれに救われた、そんな感覚。胸の内が温かくなってそれから切なさを残してひいて行くような。
「本当はこの場所にも、俺と明依の思い出があるんだよ」
明依は団子屋の空気を肌で感じてみた。
この団子屋の女将は、満月屋に来た時からよく知っている。
どの記憶のどの部分に、この人がいるのか。
彼との記憶全てが抜け落ちているのか、それとも今持っている記憶の中で彼だけが〝そこ〟にいないのか。
何も思い出せない。何もわからない。わからないけれどきっと、この人は自分にとって大切な存在だったのだろうという直感。ただそれを言葉という形にできない。
団子を食べ終わって外に出ると、冷たさを残した風が肌を撫でて通り過ぎて行った。
何も言わずに少し離れて隣を歩く。
居心地が悪い、というよりも決まりが悪くて。でも、心地はいいような。ただ、慣れていないだけのような。もう少し近づいて歩いてもいいのにと思う、不思議な感覚だ。
二人は門前に〝雛菊保育園〟と書かれた看板と立派な門を通り過ぎて、武家屋敷のような造りをした広い建物を正面に見据えた。
「ここは覚えてる?」
「覚えています」
覚えているも何も、ここは職場のようなものだ。
日奈の遺志を継いで作った保育園。
「ああーっ! 終夜~!!」
終夜に気付いた子どもたちは、ぱっと顔を輝かせて終夜の元へと走る。
明依は思わず顔をひきつらせた。
どう考えても、子どもが好きそうな様子には見えない。
「久しぶり」
しかし明依の予想に反して、終夜は軽く腕を広げた。勢いよくタックルする子どもに、強く衝撃を受けた様子の終夜は、一歩身を引いて受け止めてからその場にしゃがみこむ。
そして子どもたちの肩に触れて、一人一人の名前をしっかりと呼んで、目を合わせて話をしている。
今日今まで見せなかった豊かな終夜の表情は、子どものレベルに合わせているように見えて。
なんだ。意外と子ども好きなんだ。
彼の柔らかくて優しい笑顔に、胸がキュンと鳴った。この感覚を、覚えている気がする。
「あっ、明依!!」
5歳くらいの生意気そうな男の子が一人、玄関先に仁王立ちで立っている。
その子どもは終夜に目もくれずに明依に向かって走り出した。
明依は受け入れてあげようと手を広げたが、その直前で終夜が男の子と明依の間に手を伸ばす。
「うわっ!!」
「10年早い」
終夜は彼の腹部に腕を回してあっさりと抱き上げた。
明依は行き場のない腕を広げたまま、彼と同じ目線に顔がある少年を見上げた。
「はなせよ、終夜!!」
「もう捨ててこよ~っと。人のモノ横取りするようなヤツは~」
終夜はそう言いながら男の子をひょいっと肩に担ぐと、建物に沿って庭へ回る。
明依はやっと腕を下ろして、終夜と少年のやりとりを眺めていた。
「人のモノってなんだよ!! お前が捨てられろ!!」
二人の現状に的確すぎる言葉を吐く残酷な子ども。
それはさすがに大打撃なのではと思う明依をよそに、終夜は顔面に綺麗な笑顔を貼り付けた。
「ああごめん。手が滑った」
終夜は肩から滑らせるように子どもを落とした。
「うわあ!!」
しかし本気で焦った声を出した少年の身体は、地面にぶつかるより前に帯を掴んだ終夜によって重力に逆らう。
呆然とする少年をよそに、終夜は勝ったとばかりに帯を揺らす。男の子はブランコのように前後に揺れた。
子どもたちは楽しそうに「どこに捨てるの~?」と言いながら終夜の周りに集まっている。
なんて大人げない人なんだ。
そんな感想を抱いて、ぽつりと心に浮かぶ。
以前に、誰かとこんな光景に憧れたような気がする。
子どもの頃の夢物語か。大人になって読んだ物語の中か。それとも、それとも遊女時代の妄想か。
こんな日常を幸せというのだと思ったことがあるような。
しかしそれは、記憶と呼べるものではなく、感情としてぽつりと内側にあるだけのもの。
明依はもやもやとした気持ちを抱えたまま、終夜と子どもたちを追いかけた。