混乱
ケイトの容態は日増しに悪化していた。金髪は既にすべて抜け落ち、ケイトは代わりにスキー帽を深々と被っていた。皮膚の一部にもすでに壊死が起こり始め、黒っぽいアザが何箇所かに現れ始めていた。
「昨日は、少し吐血したわ。」
細胞の壊死は既にケイトの胃の粘膜も侵し始めていた。今はまだ痛み止めが効いているが、さらに壊死が広まれば全身にのた打ち回るような激痛が襲い始める。
「す、済まない。僕のせいでこんなことに。」
「コーヘイ、あなたのせいじゃないわ。私の運が悪かっただけ。」
「いや、僕があんな実験を提案しさえなければ、こんなことには。」
「でも、あの時はあれが最善策だったわ。おかげで、ブラックホールの中で対消滅の連鎖が起きていることが実証された。これでノーベル賞は間違いなしよ。」
ケイトは、公平の前ではわざと明るく振舞った。しかし、その目には深い憂いと絶望の色が見て取れた。今のケイトにとっては、毎日病室を見舞ってくれる公平との短い会話だけが唯一の生きがいとなっていた。公平がいなければ、絶望に押しつぶされて自ら死を選んでしまったかもしれない。
そんな公平のもとに過酷な知らせが届いたのは、そのわずか数日後であった。
「じゃあ、どうしても戻らないつもりかね。」
Bファクトリーにある日本の研究棟では、津山主査官による面接が行われていた。
「これは、政府からの命令だ。拒否はできない。」
「それならば、辞表を提出するまでのことです。」
もう、同じやりとりが何時間も続いていた。公平には総理府から直接に核シェルター行きの発令が送られてきていた。日本原子核機構の所管は本来なら文部科学省であるが、今回は事が事だけに総理府から直々の命令として異動の通達が発せられた。
日本の核シェルターは関東の北部、那須高原の自衛隊演習所の地下にあった。核戦争が勃発した場合、東京は当然にその標的となる。どのような頑強なシェルターでも弾道ミサイルの直接攻撃を受けたらどうなるかは分からない。
そもそも平和主義を掲げる日本では、核シェルターなどというものに費やされる予算は限られていた。防衛予算のごく一部が機密費としてその維持管理に充てられていたに過ぎない。当然その収容力もアメリカやロシア、それにEU諸国に比べても格段に少ない。公平はわずか300人の候補者の1人として選ばれたのである。
「しかし、どうしてなんだ。巷じゃ、次のノーベル物理学賞の候補は君だというのがもっぱらの噂だ。ホルムシュタイン主査官からも君のことは何度も聞かされている。君は十分にシェルターに入る資格があると思うんだが。私も自信を持って推薦する。」
「それじゃ、主査が行かれればいいじゃないですか。」
「私か? それは無理だ。私は年齢制限に引っかかった。」
日本では、シェルター行きの資格者の年齢を45歳以下に制限した。何年、いや何十年シェルターの中で暮らさなければならなくなるのかも判らない。出来る限り若い人が選ばれるべきなのは自明であった。津山主査官の年齢は52歳、残念ながら非適格である。
「でも、私には、ここを離れることの出来ない理由が…。」
その時、公平の頭の中にはケイトの顔がチラついていた。彼女をここに残しては行けない。それは、即彼女の死を意味した。もう公平とケイトは離れて生きることのできない絆で結ばれていた。
「何だ、その理由というのは。もう施設の装置はすべて停止された。各国の研究員も次々に帰国し始めている。わが日本の研究団も来週には退去する。残っていても何もすることはないはずだが。」
「いえ、私にはブラックホールの最後を見届ける義務があります。物理学者として、この先あの怪物がどうなるのかどうしても見てみたいんです。」
「それは危険すぎる。仮にやつがDファクトリーのシールド壁を破れば、一貫の終わりだぞ。」
「そうなったら、もう地球上のどこにいても同じです。遅かれ早かれ、です。」
津山主査官は大きな嘆息を漏らしながら、椅子の背もたれに仰け反った。
ところが、その翌日、事態は急変した。出所はまたしてもあの大国、しかもその元首たる大統領自らが大演説をぶち上げてしまったのである。
「我々はいま人類存亡の危機に直面しています。CERNにおける粒子衝突実験の最中に発生したブラックホールが成長し、いまこの地球を飲み込もうとしています。我々は私欲を捨て、この国のため、そして全人類のために、自己犠牲の精神を発揮する必要に迫られています。皆さん落ち着いて行動してください。恐れてはなりません。恐怖は混乱を引き起こします。神は必ずあなた方の貴い行動に報いを与えられでしょう。今こそ全国民が一丸となって、国のために自らの果たすべき使命を全うしてください。合衆国は永遠です。」
ホワイトハウスから大統領の緊急声明が発表された。自国の強引な実験がブラックホールを生成させたことには一言も触れられず、これから起こると予想される大惨事についてのみ説明がなされた。
アメリカでは同時に全土に戒厳令が発せられ、全ての市民の外出は禁止された。治安を維持するため予備役を含めた全国防軍に出動命令が出され、文字通りの全ての街の角々に自動小銃を構えた兵士が立ち並んだ。
しかし、全てを極秘裏のうちに粛々と運ぼうとしていたヨーロッパ各国にとっては、このアメリカによる電撃的発表はまったく寝耳に水の話であった。急遽非常事態宣言を出し軍隊を展開させたが、ヨーロッパの主要都市ではすでに略奪や暴動が広がっていた。
何ヶ月か後に全人類に確実に死が訪れると分かった時、人間の理性は脆くも崩れ去った。法律はもはや無用のものとなる。犯罪は罰せられることもなく、契約は全て無効となり、通貨も無価値となる。たちまちの内に無秩序と混乱が街を覆い、法治国家はもろくも崩れ去った。
「な、何という愚かなことを。」
ホルムシュタイン主査官は、ヨーロッパ全土に広まりつつある混乱を目の当たりにして、ほぞを噛んだ。EU諸国には極秘裏にことを運ぶよう要請した。しかし、海の向こうにまでは手が回らなかった。いや仮に手を回していても結果は同じであったかもしれない。アメリカは隠すより明らかにする道を選んだ、ただそれだけのことである。
主査官が腹立たしく思ったのは、むしろ人間の愚かさと醜さの方であった。敬虔なクリスチャンを装い、毎週日曜日には教会で恭しく礼拝をしていた者たちが、ここぞとばかり殺戮と略奪を繰り返し始めたのである。神の前に跪いて祈りを捧げるあの姿は全部偽りだったのか。
インターネットでは、既に民間が運営する核シェルターへの入居権が破格の値段で売買され始めていた。事の真偽は不明であったが、販売している業者によれば、地下50メートルのシェルターには3LDKの広さで30年間暮らせるだけの設備と食糧が用意されており、既に世界の富豪約千人から登録の申請があったという。6万分の1の確率、それに高度な自然科学の知識、そんな栄誉ある選考試験にパスできる人はほんの一握りの一握りしかいない。愚かな金持ちどもは、価値の無くなった札束を握り締めて右往左往した。
ヨーロッパ各国の空港は閉鎖され、道路という道路には少しでもCERNから遠くへ逃げようとする市民たちの長い車の列が何十キロと続いた。人々は、一縷の望みを抱いて、ありったけの食糧を積んで地獄への逃避行の旅に出た。しかし、それももうすぐ終わる。
「コーヘイ、いよいよお別れね。」
ケイトはやつれた顔に憂いの表情を浮かべた。ケイトの病状はさらに悪化し、もう食事も喉を通らない状態になっていた。
「お別れって、どういうことだ。」
「明日、日本の研究チームも退去するって聞いたわ。」
「僕は、残る。日本には帰らない。」
公平は、窓の外に視線を移しながらそっと呟いた。
「帰らないって、どういうこと。あなた、核シェルター入りのメンバーに選ばれたのでしょう?」
ケイトは咳き込みながら、苦しい息の中で声を振り絞った。
「そんなことはどうだっていい。それより君とここにいたい。」
「私のことだったら気にしないで。どの道もう長くないだろうし。」
ケイトは既に自身の状態を理解していた。重度の放射能被曝患者の末路がどういうものか、物理学者の端くれならば大体の想像はついている。
「だからこそ、一緒にいたいんだ。」
「ダメよ。私の分まで生きて。生きて、それでノーベル賞をもらって、私の分も。」
「いや、もう終わった。全ては終わったんだよ。」
「終わった? 終わったって、どういうこと。」
公平は、その先のことを告げるのに少し躊躇した。そして、ゆっくりとケイトの前に一枚の紙を差し出した。万華鏡のようなカラフルな色に塗られたその紙はカロリーメーターの解析図であった。
「この解析図の右上を見てごらん。」
ケイトは言われるがままに視線を移すと、食い入るようにその箇所を何度も凝視した。
「こ、これは。ひょっとして…」
「そう、重力波だ。重力波らしい痕跡を検知した。」
公平の口から、またしても驚愕の事実が告げられた。アインシュタインは重力が波のように空間を伝わっていくと予言した。もし、公平の言うことが事実なら、またまたノーベル賞級の発見になる。
光も波の一種である。光線は一本の線のように見えるが、実際には波として伝わっている。波長の長さに違いがあるから光に色が生まれる。長い波長は赤、短い波長は青。さらに人の目に見えない紫外線やX線も波長の短い光の一種である。
重力も同じように、波となって空間を伝わるとされてきた。しかし、これまで重力波は発見されていなかった。空間の振動ともいえる重力波はあまりに弱く、今の人類が持つ科学技術では検知できないとされてきた。一体、公平はそれをどうやって検知したのか、いや正確には検知できたのか。
「干渉縞?」
さすがに一流の物理学者、ケイトは瞬時に重力波が作り出す微かな縞模様の意味を解析した。
「そう、干渉縞だ。重力波は2つの方向からやって来ていた。それがぶつかりあって空間の揺らぎが増幅され、干渉縞ができた。だからエネルギー痕が検知できたんだ。通常の状態だったらまず見落としていただろう。運がよかったとしか言いようがない。」
干渉縞。光を2つのスリットがあいた板を通すと、その向こう側にあるスクリーンには、ちょうど2つの波がぶつかった時にできるような縞模様ができる。それは光が波のように伝わっている重要な証拠となる。重力波に干渉模様が出たということは、重力波が2つの方向からやって来たことを意味していた。一つは、我々の住むこの地球自身から、そしてもう一つはブラックホールの向こうにある別の世界から。
エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙は、我々の世界からは直接には観測できない。その存在は我々の世界で起こる現象から間接的に確認することでしか知ることはできない。その一つが重力波の検出であるとされてきた。重力だけは、次元を超えて伝わると予想されていたからである。そして、その予想どおり、エクストラ・ディメンジョンからの重力の漏出を検知した。公平は、その微かな空間の揺らぎのエネルギーを捉えたのである。あのシルトゼーで水鳥が起こした波模様、それを捉えたのである。
しかし、公平の顔色はなぜか冴えなかった。そして、次に公平の口から出た言葉こそ、わが地球の、いやわが太陽系の、いやわが銀河系の運命をも決定付けるものとなった。
「この重力波に対する僕の計算が間違いでなければ、エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙の大きさは我々の銀河系をも凌ぐ大きさである可能性が極めて高い。」
ケイトの口はポカンと開いたまま閉じることはなかった。野球ボールほどの大きさでも地球を壊滅させるのに十分と思われていたものが、一銀河よりさらに大きい可能性があるという。向こうの世界の大きさが銀河ほどもあるということは、我々の銀河系の全てがブラックホールに飲み込まれるまで対消滅の連鎖は止まらないということを意味した。
公平が「終わった」と言ったのは、そういう意味だったのである。
「もう、どこへ逃げても同じだ。すべては、あの穴に吸い込まれる。」
「そ、それって、人類が滅亡するっていうことじゃない。で、もう委員会には報告したの。」
「いや。報告はしていない。報告しても無駄だ。誰も信じないだろう。いや信じたくもないだろう。」
公平は、大きな嘆息を漏らした。
「それで、あと地球に残された時間は?」
「さあ、それは僕にも分からない。しかし、これだけは確かだ。君に残された時間よりは間違いなく短い。」
その時、CERN全館にけたたましい警報音が鳴り響いた。
「Dファクトリーのエネルギーレベル上昇。警戒レベル5発令、全館12時間以内に退避。警戒レベル5発令、全館12時間以内に退避。」
8時間後、CERNヘリポート。
「ムッシュ・コーヘイ、何をしている。早く乗れ。もうすぐシールドが破れるぞ。」
爆音が響く中、ミシェル主任研究員の怒鳴る声が響く。この瞬間、ヘリポートから最後のヘリが飛び立とうとしていた。既に大半の研究員たちは退避し、周辺の街にも人影は全くなかった。
公平は、無言で首を横に振った。
「バカな考えは捨てろ。」
ミシェル主任研究員の怒声が続く。公平は最終ヘリを見送る側の一団の中にいた。ホルムシュタイン主査官とそれに付き従う数名の研究者たちもその中にいた。
「ミスター・コーヘイ。本当にこれでいいのかね。」
ホルムシュタイン主査官は静かに尋ねた。主査官も年齢制限に引っかかった1人である。60過ぎの主査官は核シェルター入りのメンバーから外れた。ノーベル物理学賞10個をもらってもまだ足りないほどの偉大な科学者も、人類の生き残りという大義の前では選外とならざるを得なかった。主査官は、CERNの最高責任者として、その最期を見届けるという非情な決断を自らに下した。これは、ある意味、物理学者としても最高の栄誉であったのかもしれない。
一方、ミシェル主任研究員は既にフランス国の核シェルター入りメンバーに選ばれていた。年齢の差がこれほどまでに非情な差別を生み出すとは。わずか20年ほどの差が人の運命を大きく左右した。公平が日本の核シェルター入りの切符を手にしたことをミシェル主任研究員は津山主査官から聞かされ、最後の説得工作を続けてきた。しかし、公平の心が揺らぐはずもない。公平は静かにヘリポートに背を向けた。
待ち切れなくなった最終ヘリは、爆音を上げながら宙高く舞い上がった。そこに乗った人々は、ミシェル主任研究員も含め、無論公平の最終計算結果を知る由もない。




