滅亡への序章
その2日後、Aファクトリーにあるホルムシュタイン主査官室で再度の対策会議が開かれた。
「仮にムッシュ・コーヘイの理論が正しいとしても、私の計算では、エクストラ・ディメンジョンにある並行宇宙の大きさが地球規模より大きい確率は100万分の1以下、このCERNの研究所内で消失する可能性の方がはるかに高いと思われます。ここは焦らず、もうしばらく様子を見るのが最善かと思います。」
最初に口を開いたのはミシェル主任研究員であった。彼は、自信たっぷりに公平に視線を向けた。
確かに彼の意見にも一理あった。確率論である。宝くじでも高額の当選金が当たる確率は、はるかに小さい。一生買い続けても当たらない人の方がずっと多い。
マルチ・バース(多宇宙)理論では、今我々が住むこの宇宙は、高次元空間に無数に浮かぶ宇宙の一つに過ぎないと考えられている。その大きさは、プランク長さ(10のマイナス33乗メートル)のものから何億光年の広さを有するものまで様々である。原子レベルの大きさの宇宙は文字通り無限にあるが、地球規模以上の大きさを持つ宇宙となると存在する可能性もずっと小さくなる。今、Dファクトリーにあるブラックホールと繋がっている並行宇宙も十分に小さいかもしれない。いや、むしろその可能性の方がずっと大きい。
「誰か意見は?」
ホルムシュタイン主査官が意見を求めた。ミシェル主任研究員は反論があるなら言ってみろといわんばかりに正面に向って自信たっぷりの視線を向けた。誰も反論を述べそうにない。と言うよりも、今となってはブラックホールを人類が持つ科学知識の範囲で消失させる手立てはなくなっていた。まさに運を天に任せるよりほか術がなかったのである。
しかし、一番末席に座っていた公平が、ゆっくりと手を上げた。
「確かに、そうかもしれません。でも、問題なのは、仮に並行宇宙の大きさが十分に小さくても、地球に壊滅的な打撃を与える可能性がないとは言い切れないということです。」
ミシェル主任研究員は、またかという表情で挑戦的な視線を公平に向けた。それを遮るかのようにホルムシュタイン主査官が尋ね返す。
「ミスター・コーヘイ、一体どういうことかね。」
「流動性の問題です。地球は単なる物質の塊ではありません。大気もあれば、海洋もある。大陸もあれば、地下にはマグマもある。仮にブラックホールがDファクトリーのシールドを破るようなことになれば、まずは最も軽く、流動性の高い地球大気を吸い寄せ始めるでしょう。私の計算では、仮に並行宇宙の大きさが野球ボールほどの大きさでも、その密度が十分に大きければ地球の全大気を吸い込んでもまだ対消滅は止まらないでしょう。その確率は5%よりも大きいと思われます。」
場に居合わせた全員がざわつき始めた。仮に地球大気の全てが、いやその3分の1でもブラックホールに吸い込まれれば、地球はもはや生物の住めない環境となってしまう。
地球が我々にとって安住の地でありうるのは、全て大気のおかげである。大気は我々が呼吸するための酸素を供給しているだけではない。大気のおかげで有害な紫外線や宇宙線が遮られ、大気の温室効果のおかげで地球全体の平均気温が15度に保たれている。その大気が全て剥ぎ取られたら、地球はたちまち死の星となる。
「最悪の事態を想定して、我々はすぐにでも準備を始めるべきだと考えます。」
公平は、既に頭の中で人類滅亡の危機までを想定していた。もはや何物もブラックホールの成長を止めることは出来ない。あいまいな確率論に期待して無駄に時を過ごせば、取り返しのつかないことになる。
それからも議論は延々と続いた。このまま静観すべきとするミシェル主任研究員と対策を打つべきとする公平の主張にそれぞれ何人かの研究員が同調した。天才科学者が何人も顔を付き合せて何時間も議論が続いている。それでも結論が出ない。それは、事態が既に物理学の世界から政治の世界へと移ったことを意味していた。
「分かった。明日、緊急のEU首脳会議の招集を要請する。どうするかの判断は政治家に任せよう。」
ホルムシュタイン主査官が力なく会議の終了を告げた時、既に日が変わっていた。
その日の昼過ぎ、ケイトの体の残留放射能のレベルが下がり二次被曝の恐れが少なくなったとして、ようやく面会が許された。公平は、静かにケイトの病室に入った。
「ケイト、大丈夫か。」
「コ、コーヘイ。ありがとう。心配してくれて。」
公平は、ゆっくりとケイトのベッドの脇にあった椅子に腰を下ろした。ケイトは見たところ何の変わりもなかった。2日間食事をすることを制限されていたため、少しやつれた感じが出ていたことを除けば、3日前のケイトと同じケイトがそこにいた。白い肌に、長く垂れた金髪、少しお茶目な感じの大きな目は、物理学者というよりはいたずら好きのロンドン娘という感じがした。
「それで、例のものはその後どうなったの。」
ケイトは、ブラックホールのことを尋ねた。大爆発の時に気を失ってから、その後のことはまだ聞かされていないようであった。
「残念ながら、不首尾だった。ブラックホールは今もDファクトリーの中で成長を続けている。恐らく大きさはもうミクロンレベル、肉眼でもみえるはずだ。」
「そう、これからどうなるのかしら。」
「主査官が、明日、緊急のEU首脳会議を要請することになった。俺たちの役目はもう終わった。舞台は政治の世界に移った。」
「そう。」
ケイトは少し寂し気に嘆息を漏らした。と言っても、一流の物理学者である公平やケイトにとっては、これから起きるであろうはずの地獄の惨劇はある程度の予想がついていた。いくら政治の世界が頑張ってみたところで、自然の驚異の前では無力である。あるのは混乱のみである。ケイトのため息は、事態の報告を前にして、右往左往するしかない政治家たちの心の内を代弁しているかのようであった。
「背中が痛いわ。少し起き上がってもいいかしら。」
ケイトは、ゆっくりと左手で上体を起こそうとした。手を貸そうと公平が手を差し伸べた、その時。
「キャー。」
ケイトの悲鳴が上がった。
「何なの。これ、何なのよ。」
見れば、ケイトの美しい金髪の一束がバサリとベッドの上に抜け落ちていた。その一部は公平の腕の上にも降り注いでいる。放射能被曝症の最初の兆候がもう現れ始めた。
「いや。いやよ。」
ケイトは、抜け落ちた髪を両手ですくいながら、全身をワナワナと震わせた。
「落ち着くんだ。ケイト。落ち着いて。」
「出てって。出てって。1人にして。早く、出てって。見ないで。」
ケイトは泣き叫びながら、抜け落ちた髪の毛を手当たり次第にあたりにばら撒き始めた。異常に気付いた医師が大慌てで病室に駆け込んできた。医師は素早く鎮静剤をケイトの腕に打つ。しばらくして、ケイトはぐったりとしてベッドの上に横たわった。半分意識の薄れたケイトの目尻から一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。
「先生、何とかならないんですか。」
公平は、無理とは分かっていても、一縷の希望の言葉を医師の口に期待した。しかし、医師は黙って首を横に振るだけであった。
その3日後、ベルギー国ブリュッセルにあるEU本部特別会議室。
円卓を囲む各国首脳の後ろには、秘書官だけが1人ポツリと座っていた。通常の首脳会議であれば、各国から百人を超える事務方や報道陣が詰めかけ、会場はまさにお祭り騒ぎとなる。首脳が席に着く頃には、事務方での調整があらかた終わり、共同声明の内容について最後の確認が行われるだけである。各国の大統領や首相は筋書きに沿って発言し、後はお決まりの儀礼的な握手と写真撮影を済ませるだけである。
しかし、今日はまるで様子が違っていた。事が事だけに、会議は極秘裏に進められなければならない。あらかじめ用意されたスピーチもなければ想定問答集もない。無論マスコミは完全にシャッタアウトである。スケジュール調整が間に合わず欠席している首脳も数名いた。
各国首脳にも、今日ここで報告される内容については事前に一切知らされておらず、ただとてつもない非常事態がCERNで起きたということと、マスコミにも絶対気付かれぬよう参集されたいということだけが伝えられていた。
定刻、本日の会議の議長を務めるホルムシュタイン主査官より、今回の事態の経緯とこれから起こると予想される大惨事についての報告が行われた。
「何? そ、それって一体どういうことだ。」
「そんなことが起きていたとは、わしは一切、聞かされとらんぞ。」
主査官の報告の途中にも、既に各国首脳の口からは混迷と怒りの声が上がり始め、場は騒然となった。立ち上がって拳を振り上げる者、腕組みをして考え込む者、皆それぞれの思いと仕草で、主査官の報告に反応した。
「それは、もう避けようもない事態なのか。間違いということはないのか。」
「仮に事実としても、我々にどうしろというのだ。」
「マスコミ発表はどうするんだ。それに国民には何と説明すれば。」
会議室内は、もう首脳会議の体をなしておらず、時間の経過と共に混乱だけが拡大していった。その混乱を鎮めるように、主査官からの提案が続く。
「私たちは何段階かの事態を想定して、それぞれのレベルに対応した対策を考えました。
まずフェーズ1。ブラックホールが間もなく消滅し、放射能汚染がCERNの研究所内に留まる場合です。この場合は、CERNにおいて放射能漏れ事故が起きたため原因が究明されるまで研究所を閉鎖することをマスコミ発表します。それ以上の対応は必要ありません。
次いでフェーズ2。ブラックホールが隔壁を破ってさらに成長を続ける場合です。CERNの外部に放射能が漏れ出すため、スイス国並びにフランス国にはCERNの周囲半径100キロメートルの住人に緊急避難を勧告していただきます。原子力発電所がメルトダウンを起こしたケースを想定してオペレーションを行っていただくとお考えいただければよろしいかと思います。
さらに運悪くフェーズ3まで至った場合。ブラックホールがさらに成長して地球大気を飲み込み始めた場合です。ここまで来るともう全ての人類が生き延びることは不可能となります。大気がなくなれば、地球上の生命の大半は死に絶え、地球はまさに死の星となります。この場合、全世界から選ばれた人々が世界各国にある核シェルターに入り、嵐が通り過ぎるのを待ちます。まさに現代版ノアの箱舟です。」
主査官がここまで説明を進めたとき、バンというテーブルを叩く大きな音とともに、ギリシャの大統領が立ち上がった。
「バカバカしい、何が現代版ノアの箱舟だ。こんな茶番にはもう付き合っていられん。だいたい、これはお前たち先進国が始めた実験だろう。素粒子だか、物理学だか、何かは知らんが、わが国は最初からこの計画には反対だった。あんな訳の分からん機械に何億ユーロも注ぎ込んで。おかげでこっちの財政は火の車だ。お前たちだけで何とかしろ。」
ギリシャ大統領は、フランス大統領とドイツ首相に向って繰り返し指差ししながら大声を張り上げた。
「そうだ、そうだ。」
それに、スペインとポルトガルの首脳が呼応した。
「お静かに、お静かに。まずは落ち着いてください。」
ホルムシュタイン主査官が、額に噴出した汗を拭いながら、繰り返し場の喧騒を鎮めようとする。憮然とした表情のまま、ギリシャ大統領はどっかと席に着き、脇を向いてしまった。
「で、もしフェーズ3に至ったとして、核シェルターには何ヶ月くらい入っていればいいのかね。」
場が少し落ち着くのを見計らったようにフランス大統領が質問した。しかし、フランス大統領はこのノアの箱舟を少々甘く見すぎていた。
「それは、ブラックホールが消失した時の状態にもよりますが、仮に地球大気が完全になくなっていたとすれば、シェルター内で生き延びた人類によりテラフォーミング、つまり地球を再び人の住める環境に戻す計画を実行していくことになります。それには、何十年、いや何百年かかるか分かりません。」
「な、何と。わが国の核シェルターは1万人の人間が1年間暮らせるだけのキャパしかない。そんな何十年、何百年もシェルターの中でもぐらみたいな生活をするなんて想定外の話だ。」
フランス大統領が言うのももっともであった。世界各国が有する核シェルターは核戦争を想定して作られている。核戦争が起きた場合、いわゆる核の冬が続くのは長くても2~3年である。放射能レベルが下がるまで辛抱すればいい。
しかし、地球大気が剥ぎ取られた場合、それを元に戻すのははるかに長い時間と労力が必要となる。まず植物プランクトンを海で増殖させ、酸素や二酸化炭素を発生させていく。地球がかつてのように温暖で生き物の住める環境に戻すには何百年かかるか分からない。いや成功するかどうかすら、怪しい。もしうまくいかなければ、人類は永遠にシェルターから出られない。シェルター内の酸素と食糧が尽きる時、やはり滅亡という運命が待っている。
「ミスタープレジデント、おっしゃる通りかもしれません。しかし、たとえ生き残れる確率が万に一つでも、我々はあらゆる限りの手を尽くすべきです。このまま座して時を過ごせば人類には確実に滅亡という道しか残りません。どのような困苦の時代が待ち受けていようと、我々はこの文明を次の世代につないでゆかなければなりません。」
フランス大統領は、あきらめるかのように大きな嘆息を漏らしながら、椅子の背もたれに頭を当てて天井を仰いだ。
「首脳の皆様には、この後一刻も早くご帰国いただき、極秘のうちにシェルターに入る方々の人選を始めてください。無論マスコミには一切漏れないよう注意してください。万が一漏れでもしたら、それこそ収拾がつかなくなります。何しろ、60億もいる人類のうちシェルターに入れる可能性のある人は全世界を足し合わせても10万人に満たないかもしれません。
人選をどのように進めるかは、無論各国の主権に委ねられることになりますが、EU科学技術委員会としましては、以下の点をご考慮いただけるよう勧告いたします。
まず、シェルターに入れる人は健康で若い男女に限定してください。特に重篤な感染症や遺伝病を持った人は絶対避けてください。シェルター内で滅亡するリスクが高くなります。もう差別だ、人権だなどということは言っていられません。我々は、この苦難の時期をどうやって生き延びるかを、まず第一に考えなくてはなりません。それには若くて強靭な生命力と精神力を持った人々を選ぶしかありません。宇宙飛行士の人選をする以上に難しいものとお考えください。
それと、重要なのは、医学、工学、生物学など自然科学の知識のある人々を優先いただくということです。我々に必要なのはとにかく生き延びるために必要な知恵です。どのような立派な経歴を持った人も、どのような大金持ちの人も、この際関係ありません。これから訪れる時代には、経歴もお金も無価値のものとなるからです。
私の説明は以上です。皆様と、皆様の国民の幸運をお祈り申し上げます。」
ホルムシュタイン主査官は、静かに、そして空しさの気持ちを抱きつつ最後の辞を述べた。
各国首脳の口にも、もう言葉はなかった。事の重大さに抗し切れず秘書官に支えられながらやっとのことで立ち上がる者、無言のまま目を閉じて何分経っても微動だにしない者、怒りを抑えきれずに椅子を蹴倒して退室する者、皆それぞれの思いを胸にその場から散会した。