非情
準備はすぐに始められた。まず、強力な電磁場を作り出すためのEM装置がDファクトリーに運び込まれた。Dファクトリーのモニタールームは既に強い放射線に汚染されているため、作業はシールド越しに遠隔操作で行われる。ファクトリー内のモニター画面でブラックホールの状況を確認しながら、作業は慎重に進められる。万が一にでも、EM装置がブラックホールの膠着円盤に捉われるとあの鉛のカプセルと同じ運命が待っている。
「オーライ、オーライ。もう少し右だ。よーし、そのあたりでいいだろう。」
公平の指示の下、ケイトと数人のスタッフたちが忙しく立ち働く。ことは1分1秒を争う。この瞬間にもブラックホールは成長を続けている。時間が過ぎれば過ぎるほど、成功の確率は低くなる。
「コーヘイ、準備はどうだ。」
その日の午後、ホルムシュタイン主査官自らが準備の状況の視察に現れた。
「順調です。この調子であれば、明日にでも実験が始められると思います。」
「そうか。よろしく頼む。この研究所の、いやここだけではない、全人類の運命が君たちの双肩にかかっている。」
主査官の激励の言葉に、公平とケイトは鳥肌が立つのを覚えた。まさに主査官の言うとおりであった。もし、公平の理論が間違っていたら、そしてこの実験が失敗したら、地球はおろか太陽系の全てが跡形もなく消えてしまうことになるかもしれない。公平とケイトは3日続きの徹夜の作業を敢行した。
3日後、対策チームの一団が見守る中、公平たちの実験が始められた。
「出力装置よし、カロリーメーターよし、EM装置問題なし、モニター画面感度良好。」
モニタールームの隣室の設けられた臨時のオペレーションルームの中に、公平の声が響く。
「準備が完了しました。まずは、3Tev(テラ電子ボルト)から始めます。」
公平の合図に、ホルムシュタイン主査官が静かに頷いた。
「中性子ビーム発射。」
公平が出力装置のタッチパネルに触れた次の瞬間、カロリーメーターに微かな閃光が走った。LHCから発射された中性子のバンチがブラックホールのすぐ脇で衝突し崩壊した。次の瞬間、ケイトがEM装置を操作し強力な電磁波を発生させる。本来なら、中性子の衝突で対生成を起こした陽子と反陽子は一瞬のうちに対消滅を起こして消えるはずであったが、公平の予想した通り、ブッラックホールの近傍では時間の進みが遅いため、反陽子の消滅までにわずかばかりの猶予が生じた。
ケイトは、その瞬間を捉えて電磁波を発射する。これなら早撃ちガンマンでなくてもOKである。強力なマイナスの電荷を負荷された反陽子は、その反発力でブラックホールの中へと照射された。まばゆい閃光と共にカロリーメーターにそのエネルギーの流痕が映し出された。
ゴクリ。その瞬間を見守る一団の誰からともなく喫唾する音が聞こえた。果たして結果は…。
「ブラックホールのエネルギー量3%低下。」
オペレーターが読み上げる数値にドッと歓喜の声が沸いた。この瞬間、公平の理論が証明された。
人類が始めてブラックホールをそのコントロール下に置いた瞬間である。物理学の世界がひっくり返った。何百年に1度あるかないかの大発見が実証された。まさに歴史的瞬間であった。
反物質の塊をブラックホールの中に打ち込むことによってブラックホールのエネルギーレベルが低下したということは、ブラックホールの事象の地平線の向こう側で対消滅が起きていることを証明したことを意味する。こちら側から送り込んだ反物質と向こうの世界にある反物質が反発しあい、対消滅が部分的に制止されたのである。
「エネルギーレベルを5Tevに上げて続けます。」
公平は、興奮冷めやらぬ声で次の中性子ビームの照射に入った。再び閃光が輝き、それに呼応するようにケイトの指が動く。
「エネルギーレベル5%低下。」
オペレーターの声が響く。今度は、カロリーメーターに表示されたブラックホールの色もはっきり変わった。中心辺りを赤々と染めていたエネルギー分布の色が僅かにオレンジ色になり、エネルギーレベルの低下はモニターでもハッキリと確認できた。
「大成功だ。」
ホルムシュタイン主査官の興奮した声がオペレータールームに響く。最初は半信半疑だったミシェル主任研究員もゆっくりと、しかし相変わらず無愛想な表情で賛辞を送る拍手をした。
その後も、反物質の投入は続けられブラックホールのエネルギーレベルはどんどん低下していった。
しかし…。その先には、恐ろしい落とし穴が待っていた。この未知の怪物は、予想だにしていなかった反撃を開始してきた。
「だめです。エネルギーレベル20%で、変化なしです。」
オペレーターの声が空しく響いた。先ほどまで順調に減っていたブラックホールのエネルギーレベルであるが、あと20%というところで急速に減少に歯止めが掛かった。
「一体どうしたんだ。先ほどまでは順調にエネルギーレベルが下がっていたというのに。」
ホルムシュタイン主査官が、心配そうにカロリーメーターの表示を覗き込む。ブラックホールのエネルギーレベルを表示した万華鏡のようなグラフからは赤い色は既に消え、エネルギーレベルの低い黄色や黄緑色の表示が拡大していた。しかし、そこから先はいくら中性子ビームを照射しても目立った変化が現れなくなった。
公平は、腕組みをしたまま考え込んでしまった。
「ひょっとすると、中性子コアかもしれません。」
「何? 中性子コアだって。」
ホルムシュタイン主査官の顔色が変わった。
「済みません。まだ私の理論も完全には確立されているわけではありません。まだお話していなかったことが…。」
「話していなかったこと? そ、それは大事なことなのか。」
「いえ、まだ私にも何とも。主査官、主査官もご存知のように、超新星爆発の後には中性子星が生まれることがありよますよね。」
ホルムシュタイン主査官は、そんなことは百も承知とばかりに、黙って頷いた。
超新星爆発とは、太陽の数百倍もの質量を持つ巨大な恒星が燃え尽きる時に起きる。星は、水素やヘリウムを燃料にして光り輝いている。しかし、どんなに膨大な量の水素やヘリウムもいつかは燃え尽きてなくなる。その時、星々は自らの重力に耐えかねて急激に爆縮を起こし、その反発力で太陽の何千倍という明るさで光り輝き最期の瞬間を迎える。これが超新星爆発である。
この超新星爆発の後に残されるのが、ブラックホールか中性子星である。そのいずれになるのかは、死に行く星の質量の大きさによるとされてきた。すなわち、星の質量が十分に大きければブラックホールになり、小さければ中性子星になる。中性子星は、中性子が極度に圧縮され凝り固まった残骸物である。
公平は、ここでも新たな仮説を提示した。そして、その仮説こそがわが地球の運命を決定付ける最終理論となった。
「中性子星は、ブラックホールが蒸発した後の残骸物と考えられます。」
「何だって。中性子星がブラックホールの残骸だと。」
「そうです。ブラックホールには陽子のほかに中性子も吸い込まれてゆきます。陽子は別の次元からやってくる反陽子と対消滅を起こして消えてゆきます。でも電荷が中立の中性子だけは一緒になるパートナーがいないため、ブックホールの中に閉じ込められます。そして、陽子と反陽子の吸い込みが止まった後、固く凝縮された中性子だけが残ると考えられます。」
「ふーむ。なるほど、中性子星というのは、そういうことだったのか。」
ホルムシュタイン主査官は、公平の理論を認めるかのように大きく頷いた。
物理学者というものは、対称性をことのほか重要視する。対称的なものは美しいからである。我々人間の体も心臓を除けば完全に左右対称である。羽を広げた蝶はこの上もなく美しい対称性をなしている。もし蝶の羽の対称性が少しでも破れていたら、そして左右の羽に極微のアンバランスがあったなら、蝶は美しく空を舞うことすらできないであろう。対称性が美しいとはそういうことなのである。
「蝶の羽は対称的で美しいものです。もしエクストラ・ディメンジョンをまたいで両方の世界を同時に見ることが出来たなら、それは羽を広げた蝶のように見えるでしょう。その姿は、まるで私たちの物質宇宙と向こうの世界にある反物質宇宙を表現しているかのようです。でも、この2枚の羽を繋げる部分には蝶の体の本体があります。
さなぎから羽化する蝶を写したビデオを逆回しするところを想像してみてください。2枚の羽はどんどん小さくなって蝶の体の方へと縮んでゆくように見えるはずです。でもどんなに縮めても最後にはさなぎ姿の蝶が残ります。羽がなくなった蝶の姿は醜いものです。地面を這いずり回るただの虫けらに戻ります。でも、その部分にこそ羽を動かす蝶の筋肉がありエネルギーが存在しているのです。」
ホルムシュタイン主査官、ミシェル主任研究員、そしてケイトまでもが、この公平の斬新な考え方の意味を咀嚼し、理解しようとしていた。
「ということは、君の喩えを借りるなら、ブラックホールというさなぎの中には、中性子ばかりで出来た蝶の体の本体が隠されているということか。」
「恐らく…。そして、この中性子コアがあるためにブラックホールを完全に閉じ切ることは出来ないのかも知れません。」
公平が、大きな嘆息を漏らそうとしたとき、オペレーターの叫び声が上がった。
「ブラックホールのエネルギーレベルが上昇し始めています。」
その場にいた全員の視線が、カロリーメーターのモニター画面に釘付けになった。黄色がオレンジ色に、緑色が黄色にと、万華鏡の色がどんどん変化していく。
「全員、即刻退避。」
その様子を見ていたミシェル主任研究員が悲鳴に近い叫び声を上げた。その瞬間、大爆発が起きた。
ブラックホールは、それまで押し込められていたエネルギーを一気に吐き出すかのように、強烈なX線ジェットでファクトリー内のシールド壁を吹き飛ばした。
「緊急警報発令、緊急警報発令。警戒レベル5。警戒レベル5。Dファクトリーを完全封鎖。繰り返すDファクトリーを完全封鎖する。」
CERN全館に警報音が高らかに鳴り響いた。警戒レベル5は、原子力発電所でいえば炉心のメルトダウンに相当する。モニタールームだけを隔離するシールド壁などもはや何の役にも立たない。こうなると放射線防護服を身に着けていても1分が限度である。それ以上の被曝は命にかかわる。
全員がDファクトリーの外へ向かって走る。
「ブー、ブー、ブー」という警報音が鳴り響く中、ファクトリーの入り口では既に厚さ20センチのコンクリート製の扉が下がり始めていた。研究所の中は、こうした放射能漏れ事故に備えて、各ファクトリーを封鎖するための隔壁があちらこちらに張り巡らされており、放射能検知器が放射能を検知すると、中央の制御室にあるコンピューターから隔壁を作動させる指令が自動的に発せられる。
一旦隔壁が下がってしまうと、内側の放射能レベルが下がるまで2度と隔壁は上がらないように設計されていた。万が一避難が遅れても、手動で隔壁を上げることは、研究所全体あるいはこの地域全体に甚大な放射能汚染をもたらしかねないからである。非情でも。逃げ遅れた者は見捨てるしかない。
ホルムシュタイン主査官に続き、ケイト、公平、その他の所員が滑り込むように扉の下を潜る。その間にも隔壁の高さはどんどん下がってゆく。後30センチあるかないかという間隙をミシェル主任研究員が転がり込むようにして潜り抜けた。次の瞬間、隔壁はゆっくりと最後の隙間を閉じた。
「全員無事か。」
ミシェル主任研究員が防護用ヘルメットを外しながら、全員に声をかけた。公平も、ホルムシュタイン主査官も、他の所員も、ホッと安堵の嘆息を漏らしながら、次々とヘルメットを外した。
しかし…。1人だけヘルメットを外さない人間がいた。もう防護隔壁は完全に下がっている。被曝の危険性もない。なぜ、その人物はヘルメットを外さないのか。全員の視線がゆっくりとその人物に注がれたとき、その人物はドサリと床の上に崩れ落ちた。その人物の背中からは焼け焦げた防護服の匂いが立ち上がり、赤黒く火傷した皮膚がチラリと見えた。
「ケ、ケイト。」
駆け寄ろうとする公平。しかし、その間に割って入ったのはミシェル主任研究員であった。
「は、離れろ。二次被曝の危険がある。」
「でも、ケイトが、ケイトが。」
叫ぶ公平を腕ずくで下がらせたミシェル主任研究員は、すぐさまメディカルルームへ伝令を発した。
メディカルルームの隔離室のベッドでケイトは静かに眠っていた。二次被曝の恐れがあるため、放射線を通さない特別のガラスで仕切られた部屋で治療が続けられていた。部屋の外では、公平が医師からケイトの怪我の状況について説明を受けていた。
「火傷の方は、大したことはありません。しかし、X線の被曝量が我々の想像の範囲をはるかに超えています。」
「想像の範囲を超えている?」
医師の言葉の意味がよく理解できずに、公平はオウム返しのようにそのまま尋ね返した。
「そうです。少なくとも私の知る限りこれだけ大量の放射線を一度に浴びた患者の前例がありません。ですから、今後彼女の体がどのように変化し、そしていつまで持つのかも…」
「い、一体どういうことです。彼女は、彼女は…」
公平は、その先を聞こうとするが、心ははるか別のところにあった。この先を聞いてはならない。聞けば、きっと後悔する。彼の脳が自ずと拒絶反応を起こしていた。
「一言で言えば、原爆症ですよ。彼女は、通常のレントゲン検査で浴びる放射線の10万倍を超える量の放射線を一度に浴びてしまった。これは、広島の原爆の爆心地をもはるかに凌ぐ量です。」
「じゃあ、これから彼女はガンにかかりやすくなるとか。」
この時の公平は、まだ諦めきれずに、医師の口から少しでも希望の光が見えることを期待していた。しかし、公平も物理学者の端くれ、重度の原爆症の末路がどのように悲惨なものか薄々は理解していた。ただ、彼の心がまだ最後通告の言葉を受け容れる用意ができていなかった。
「いえ、そういうレベルの話ではなくて。大変申し上げにくいことですが、後何ヶ月、いや何週間もつのかというレベルの話です。見た目には、彼女の火傷痕は大したことがないように見えます。しかし、細胞レベルで見れば、彼女の体細胞の30%はすでにDNAが破壊されていると思われます。」
『ガンマナイフ』、体の深部にあるガンを治療する装置である。強力な放射線であるガンマ線をミクロン単位で調節しながらガン細胞だけに照射して焼き切る。だからガンマナイフと呼ばれる。最新鋭のガンの治療方法である。仮に、このガンマナイフが無差別に人体を貫通したら何が起きるのか。見た目には何の変化もない。ガン患者はほとんど痛みもなくガンマナイフ治療を受けている。
しかし、人間の体細胞のDNAは強力な放射線が貫通することでズタズタに破壊される。目に見えない極微のナイフが体中を貫通するのである。こうなると、もうこの細胞は分裂することができなくなる。細胞が再生されないため、個々の細胞が寿命を迎えるたびに、組織は少しずつ崩れて壊死していく。薬もない、治療法もない。患者は、組織が崩れるたびに、出血と強烈な痛みに苦しみながら、死を待つしかない。まさに生きながらにしての拷問である。放射能が怖いとはそういうことなのである。
「今ある最高性能のMRIを使っても体細胞の1個1個までは調べようもありませんので、体のどこの部分が、いつ、どのくらいのペースで壊死してゆくのか予測が出来ません。ですから…。」
「わ、わかりました。もう結構です。」
公平は、ゆっくりと医師に背を向けた。
「なぜ、ケイトなんだ。なぜ、俺でなくて、ケイトなんだ。」
公平は、わずか0.1秒差の非情な運命のいたずらを恨んだ。あの時、わずか30センチでも自分のいた位置がずれていたら、X線ジェットの直射を受けたのはケイトではなく自分であったかもしれない。かわいそうに、ケイトは自分の身代わりになったのだ。
その時、公平は初めて自らの心の奥深くに芽生え始めたケイトに対する思いに気が付いた。それは、単なる研究パートナーに対するものではなく、もっともっと深い人間的なものであった。