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脅威の力

3日後、CERN主査官室。

ホルムシュタイン主査官、ミシェル主任研究員他、数人の幹部が密かに集まり、カプセル内に閉じ込めたブラックホールをどう処分するかの議論が行われていた。

「それは、危険すぎる。」

「いや、ブラックホールは今この瞬間も成長を続けている可能性がある。我々の手に負えるうちに、ロケットを使って打ち上げ、宇宙のかなたへと送り出すしか方法はない。」

「もし打ち上げに失敗したら。それであの危険極まりない物体が大西洋のど真ん中に沈みでもしたらそれこそ取り返しのつかないことになる。」

議論は、延々ともう5時間以上も続けられていた。世界の物理学の最高権威が何人も顔をつき合わせて議論しても結論を引き出せないでいた。それもそのはず、何しろブラックホールなる物体を初めて目に見える至近距離で捉えたのである。

これまでブラックホールと言えば、何億光年も離れた遠い宇宙のかなたの天体と思われてきた、いやその存在すら、間接的に得られる観測情報から推測されてきたに過ぎない。そんな難物がこの地球上に突然現れたのである。

相手は全く未知の物体である。たとえ目に見えない極微の大きさでも、一体どのような性質も持ち、これからどのように成長していくのか、あるいは消滅していくのか、それすらも分かっていない。そんな代物を、この研究所からトラックで運び出し、飛行機に乗せて打ち上げ基地に運ぶ、それだけでもどんな危険が伴うか分からない。ましてやロケットで打ち上げるなど、常識のある科学者なら考えも及ばない。

「でも、このまま放置して、ブラックホールがコントロール出来ないレベルまで成長したら。」

「しかし、カプセルの中は今、真空状態だ。物質の供給が止まれば、ブラックホールの成長も止まるのではないか。」

強硬論のミシェル主任研究員に対して、ホルムシュタイン主査官は、あくまで慎重意見で通した。

そもそも研究所内で起きた規律違反により重大な危険を招いてしまった。今回のことが明るみに出ればCERNの存続自体がEU委員会の中で議論の俎上に上がるであろう。あまたの物理学者たちが夢にまでみたLHCによる実験は完全に頓挫するばかりか、これまで注ぎ込まれた何十億ユーロという予算もすべて無駄金になりかねない。出来れば極秘裏に事態を収拾し、何よりこの研究所を守らねばならない。そのためには、何としてもこの難物を研究所内で処理しなければならない。

議論に決着が付かないまま、1週間が過ぎた。そして、この1週間という時間の経過が結局致命傷となった。


「Dファクトリーで強力なX線検出。」

CERNに再び警報音が鳴り響いた。

「一体どういうことだ。ブラックホールは完全に密封したはずだが。」

ホルムシュタイン主査官以下のEUチームは足早にDファクトリーのモニタールームへと向かう。しかし、そこでは既に恐ろしい事態が進行していた。

ブラックホールを包み込んでいたはずの鉛製のカプセルは無残にも歪み、わずかに開いた裂け目からブラックホールから放射されるエネルギーの光が、今度はハッキリと肉眼でも確認できた。

「信じられん。厚さ20センチの鉛製のカプセルが。何ということだ。」

今、人類は初めてブラックホールの恐ろしく凄まじい力を目の当たりにした。アインシュタインの予言どおりブラックホールの周囲では空間自体が歪められ、その空間に巻き込まれた物質は、鋼鉄だろうが鉛だろうが、いやそれだけではない、この地球上で最も固いとされるダイヤモンドでさえ、長いゴムひものように引き伸ばされ、やがては渦を巻いてブラックホールの中に吸い込まれていく。

空間が歪むとは一体どういうことか。膨らんだ風船を両手で捻じ曲げるところを想像して欲しい。風船は手の力で簡単に形が変わる。風船の中に水が入っていれば、水も同じように形を変える。

同じように、神の手は人間の手の何兆倍の何兆倍の何兆倍もの力で空間を捻じ曲げる。同じように空間の中に入っている物体も全て捻じ曲がる。そしてブラックホールに落ち込むときはバラバラになり素粒子レベルの粉になっている。

「ここは、危険です。すぐに緊急退避を。」

対策チームの1人が叫んだときは、時既に遅かった。

「ギャー」

研究員の1人をX線ジェットが直射し、研究員は床に叩きつけられた。

「シールド作動。」

その声と同時に、Dファクトリーのモニタールームを閉鎖するシールド扉が下がり始めた。扉が下がり切る前に、一同が目にしたものは、大きく歪み、引き伸ばされて、ブラックホールの膠着円盤の中へと引きずり込まれていく鉛製のカプセルの最期の姿であった。

「おい、しっかりしろ。」

ホルムシュタイン主査官が負傷した研究員を助け起こそうとしたが、ミシェル主任研究員がそれを制止した。

「主査官、お下がりください。二次被曝の危険があります。」

強力なX線照射を受けた研究員の肩は無残にも焼け爛れ、赤黒い肉がのぞいていた。周囲には溶けた被服と焼け焦げた肉の匂いが立ち込めた。

「メディカル、すぐにDファクトリーへ。負傷者1名、X線の大量被曝。」

素早くメディカルルームに連絡を取るミシェル主任研究員。軍隊経験のあった彼は、放射能被曝に対する訓練も受けていた。このような場合、大量の放射能を浴びた負傷者の体には残留放射能が滞留している。うかつに素手で触れば確実に二次被曝に遭う。かわいそうだが、負傷者は防護服を着た救護斑が到着するまで、放置するしかない。

主査官以下、Dファクトリーに入った10名の研究員は、ミシェル主任研究員の誘導に従いファクトリーの外に出て、メディカルチームの到着を待った。


その2日後、公平とケイトがホルムシュタイン主査官室に呼び出された。まだ研究所内で起こっている事態を知らされていない2人は、てっきり例の論文のことだと思った。2人が研究所のホームページの掲示板に張り出した論文は、最初は懐疑の目で読まれていたが、今では日増しにアクセス件数が増え、所内に限らず全世界を巻き込んだ論争を引き起こし始めていた。主査官も当然目を通しているはずであった。

「すごいわ。コーへイ。主査官が直々に及びなんてありえない。」

ケイトは興奮冷めやらぬ声で、何度も公平の方を振り向きながら主査官室へと歩みを進める。

ホルムシュタイン主査官と言えば、ノーベル物理学賞を10個もらってもまだ足りないと言われるほどの大科学者である。千人を超える優秀な物理学者が集まるこの研究所で、まだ学生上がり程でしかない無名の一研究員が直に主査官と話しをするなど普通では考えられない。

「どうしたの、コーヘイ。そんな浮かない顔をして。嬉しくないの。」

ムッツリと押し黙ったまま歩みを進める公平に向って、ケイトは覗き込むように声をかけた。

「いや、ちょっと、嫌な予感が。」

公平は、ボソリとつぶやいた。公平は何となく胸騒ぎを覚えていた。研究所の正式な許可もなく、まるでブログに書き込みをするぐらいの気持ちで論文を発表した。そのことを咎められるのか。いや、それが問題だとすれば、当然査問委員会を通じて日本の主査官に連絡があるはずである。

しかし、今回はEU代表のホルムシュタイン主査官から直々に呼び出しがあった。そして、何よりも主査官から、今日主査官室で面談することは極秘にしてくれとの要請もあった。論文についての議論を交わすだけなら、何もそこまで大げさにする必要はない。楽天的なケイトに対して、いつも冷静でどちらかというと悲観論者の公平にとっては、今回の呼び出しがどこか普通ではなかった。

主査官室は、EUチームの活動域であるAファクトリーの一番奥にあった。2人は緊張した面持ちで主査官室のドアをノックした。

「カムイン。」

中から声がして、電解錠の外れる音がしたかと思うと、ドアはスッと開いた。

「あっ。」

一瞬、ケイトの声が上がった。てっきり主査官1人と思っていた2人にとって、ミーティングテーブルに居並ぶ10人ほどの蒼蒼たる面々を目の前にして、足がすくんだ。世界物理学研究会でもゲストスピーカーに選ばれそうな面子が何人もいる。公平にも見覚えのある顔がいくつもあった。一体、今からここで何が始まるのか。

「いやー、よく来てくれた。まあ、座ってくれたまえ。」

中央に座っていたホルムシュタイン主査官が2人に席をすすめた。昨年の世界物理学研究会で見たときは壇上のスピーカーであった主査官が、今日は手を伸ばせば届きそうな場所にいる。テカテカと輝く頭に、立派な口ひげは典型的なドイツ人の風貌である。主査官の右隣にも見覚えのある顔があった。ぼさぼさの頭に鋭い眼光、ミシェル主任研究員である。

予想外の状況に2人の緊張は一気に高まった。

「君たちの論文、読ませてもらったよ。いやー、素晴らしいの一言に尽きる。」

まず、ホルムシュタイン主査官の口から賛辞の言葉が出た。やはり例の論文のことであった。しかし、油断は禁物。この世界では、どんな駄作にもまずは儀礼的な賛辞が送られる。その後に、「しかし」という言葉が来る。2人は、その言葉を受けるべく身構えた。

「まあまあ、そう固くならんでくれ。今日は君たちの論文を吊るし上げにするために来てもらったんじゃない。」

2人は、拍子抜けした。もちろん論文の中味に自信はある。しかし、これだけの蒼蒼たる面々に囲まれて質問攻めにあえば一たまりもない。いくらディベートが得意のケイトでもお手上げである。それが、どうやらそういうことではないらしい。

「実は、今日来てもらったのは、君たち2人の知恵を借りたくてね。」

主査官の口から意外な言葉が出た。知恵を借りる? IQ200を軽く超えるような面々が10人もいて、その上に何の知恵が要るのか。

しかし、次の主査官の一言で2人の人生はすっかり狂ってしまうことになる。

「そ、それって。本当なんですか。」

2人は顔を見合わせた。主査官はこれまでの経緯をかいつまんで2人に話した。物理学者の端くれならば、その先を聞かずとも、今回の事態の重大さとこれから起こるであろうことは簡単に予想できた。

「X線を遮蔽して、カプセルの中を真空にすればブラックホールは消えるかもしれないと考えたが、少し考えが甘かったようだ。やつはカプセルそのものも捻じ曲げ、引き伸ばして、飲み込んでしまった。そして、今も成長を続けている。どうやら、こいつは我々の知る物理学では扱えん代物らしい。」

誰もが、その出現を予想しながら、すぐに蒸発して消えてしまうと、その危険性に考えが及ばなかった。それどころか、アメリカチームは、それを軍事目的に利用しようと考えた。まさに天に向って唾する行為であった。

公平は、早くからその危険性に気付いていた。仮に対称性が破れていなかったとしたら、そしてエクストラ・ディメンジョンに無数の反物質が隔離された平行宇宙があるとしたら、ブラックホールを造ることは、2つの世界を隔てている壁に穴を開けることになる。それは自殺行為そのものである。

「君たちの論文があともう少し早ければ、今回の事態は防げたかもしれない。それが残念だ。」

主査官は、大きな嘆息を漏らした。公平もケイトも押し黙ったまま、石のように固くなっていく。仮に2人の理論が正しければ、この地球に、いやそんなものでは済まない。この太陽系全体あるいは天の川銀河全体にとっても大変な未来が待ち受けていることになる。

ブラックホールは宙に浮くただの穴ではない。今我々が住む世界とエクストラ・ディメンジョンにある別の世界とをつなぐへその緒のようなものである。へその緒を切らない限り、新生児を母親から切り離すことが出来ないのと同じで、ブラックホールだけを包み込んでどこかへ運ぶなどということは不可能なのである。それは、エクストラ・ディメンジョンにある別の宇宙全体を引っ張ろうとするのと同じだからである。

「で、率直に聞くが、何かいい知恵はないか。この化け物のような穴を塞ぐいい方法は。」

公平とケイトは顔を見合わせた。これだけ居並ぶ蒼蒼たる世界の頭脳を前にして、知恵をくれといわれても、すぐには考えが思いつかない。公平は、事の重大さとこれから予想される大惨事のことで頭の中が真っ白になり、考えの整理が付きかねていた。

1分2分と沈黙の時間が経過していく。主査官の唇が微かに動いたと思ったその時。

「1つだけ、可能性があります。」

公平の口が開いた。

「反陽子の塊をつくり、それをブラックホールの中心に向けて打ち込めば、ブラックホールを蒸発させることが出来るかもしれません。」

「は、反陽子の塊だと。バ、バカな。」

ミシェル主任研究員が怪訝そうな顔で尋ね返した。いくら物理学会の天地を揺るがす新しい理論を発見したといっても、公平はまだ学位も正式に得ていない新米研究員である。会議室の中に冷ややかな嘲笑の囁きが上がった。どんな素晴らしい理論も、所詮は理論、机上の空論であって、実証がなされなければ意味はない。

「まあ、まあ、その先を聞こうじゃないか。」

ホルムシュタイン主査官が場のざわつきを抑えた。

「私たちの理論が正しければ、ブラックホールの特異点より向こうは、エクストラ・ディメンジョンにある反陽子ばかりで出来た別の宇宙と繋がっています。ご存知のように私たちの世界の物質は、全て電荷がプラスの陽子と電荷が中立の中性子ばかりで出来ています。その物質がブラックホールに吸い込まれれば、別の世界の反陽子と出会い、どんどん対消滅を起こして消えてゆきます。この連鎖は、陽子か反陽子のいずれかが全てなくなるまで続くと考えられます。」

ここで、少し専門的な説明が必要であろう。ブラックホールの特異点とは、ブラックホールに吸い込まれた物質が最終的にたどり着く1点である。理論上は、特異点では密度と重力が無限大になると言われえいる。物質をどんどんと押し縮めていくと、その密度はどんどん高くなっていく。ブラックホールの中では地球が角砂糖ほどの大きさに押し縮められる。特異点はそれをさらに小さく押しつぶす。密度無限大である。

しかし、ちょっと待った。いくら重力が強くても、現に存在する地球規模の物体を針の先より小さい1点に押し込めるなど、どう考えても何かがおかしい。神の手が実在したとしても、どこか変だ。

しかし、マイナス1があれば話は変わってくる。公平の言うとおり、ブラックホールの中で陽子と反陽子が対消滅を起こしているとしたら、ブラックホールは無限に物質を吸い込めることになる。

特異点は、陽子と反陽子が最終的に出会い消滅する場所なのである。

「この対消滅をどこかで止めることが出来れば、ブラックホールはエネルギーの供給を断たれ縮小してゆくでしょう。反陽子の塊をほんの一瞬でもブラックホールの中に送り込めれば、電荷が同じである向こうの世界の反陽子と反発しあい、対消滅の連鎖は止まると考えられます。」

公平は自信を持って、自らの理論を説明した。公平の理論は、要するにブラックホールの穴を反陽子ばかりでできたふたで塞ぐということに他ならない。バスタブの栓を抜いたら、当然バスタブの中の水は渦を巻いて排水管に吸い込まれていく。それはバスタブの中の水が全てなくなるまで止まらない。でも、バスタブの栓を元に戻せば、渦の吸い込みは止まる。理屈は簡単である。

しかし、大きな問題があった。

「君の理論はよくわかった。ただ、問題はそれだけ大量の反陽子の塊をどうやって作り出すかだ。君も知っての通り、ここのLHCで反陽子の生成実験を繰り返したが、出てきた反陽子は10のマイナス10乗秒後には、陽子と合体して対消滅を起こしてしまう。それを塊にしてブラックホールの中に打ち込むなど、今の我々の技術では到底不可能だ。」

ホルムシュタイン主査官は、公平の理論を肯定してはくれたが、反陽子の塊をブラックホールの中に打ち込むという途方もないアイデアは、今の人類にとってはまさにSFの世界の話であった。主査官は、腕組みをしたまま考え込んでしまった。この男の言っていることは正しい。正しいが絶対に不可能だ。どんな早撃ちガンマンでも10のマイナス10乗秒の瞬間を捉えて弾を発射するなど、神でもない限り出来ない。

ミシェル主任研究員も話にならないとばかりに、斜に構えて、嘲笑の笑みを浮かべていた。彼にしてみればじくじたる思いがあった。フランス政府が国を挙げて送り込んだカプセルが無残にもブラックホールに飲み込まれたばかりか、真空状態でブラックホールが消滅すると主張した自説も脆くも崩れ去った。そんな難物を、日本のしかも無名の一研究者が簡単に消滅させでもしたら、自身の沽券にもかかわる。しかし、公平は諦めなかった。

「確かに解決すべき問題はあります。ただ、全く策がないわけではありません。アインシュタインの一般相対性理論によれば、重力の大きな物体の近くでは時間の進み具合が遅くなるはずです。」

「あっ。」

ミシェル主任研究員の喉から小声が漏れた。一流の物理学者ならば、その先を聞かずとも公平が何を言おうとしているのか、一瞬のうちに理解できたはずである。

アインシュタインは、相対性理論で、光速に近い速度で進む物体では時間の進み具合が遅くなると解いた。しかし、彼は同時に重力の大きな物体の近くでも同様のことが起きると予言した。このことは既に実証され、実用化されている。地球上と人工衛星とではごく僅かであるが時間の進み具合がずれる。GPSはこのわずかの時間のずれを補正しないと正確に位置を示せなくなる。これは、もはや理論ではなく現実なのである。

だとすれば、ブラックホールの事象の地平線の近くでは大きな重力により時間の進み具合が遅くなっているはずである。公平の説明が続く。

「粒子加速器で光速の99.99%まで加速した中性子同士を、ブラックホールの事象の地平線から10のマイナス5乗メートルのところで衝突させれば、反陽子が対消滅を起こすまでの時間を3秒程度にまで引き伸ばすことができると思われます。その瞬間に、その塊を強力な電磁場を使ってブラックホールの中に打ち込むのです。」

公平は、今まさに自らが考えた理論を実証して見せようとしていた。大体、物理学の世界では理論が実証されるというのは、理論が発見されて何十年も後になってということが多い。ノーベル物理学賞の受賞者に高齢者が多いのもそのせいである。若くして斬新的な理論を発見したとしても、それが生きている間に実証されるという保証はどこにもない。

公平は、運がよかったのであろうか。もし、この方法でブラックホールを消滅させることが出来たなら、ブラックホールの中で対消滅の連鎖が起きているとする公平の理論が実証されることになる。

「そうか、分かった。やってみよう。」

ホルムシュタイン主査官は、軽く頷きながら静かに会議の終了を告げた。もはや異を唱える者はだれもいなかった。

(補足)読者の方からそもそもLHCのトンネル内は真空のはずなのに、改めて真空のカプセルでブラックホールを閉じ込めるというのは理屈に合わないとのご質問を受けましたので、少々長くなりますが補足の説明を加えます。科学者の中には、CERNの実験で発生するブラックホールがトンネルの壁を突き破って脱落する可能性があると主張する方がいます。かなり細かい話になりますが、この世にある物質の大半は、私たちの体、鋼鉄の壁も含めてすべて原子でできています。その大きさはざっと10のマイナス7乗センチメートル(1000万分の1センチ)、電子顕微鏡でも見るのは難しいぐらいの小ささです。その原子は、さらに小さい原子核の周りを電子が回っているという構造になっています。この原子核の大きさは10のマイナス12乗センチメートルレベル、つまり原子を野球場ほどの大きさと考えると、原子核はマウンドの上に置かれた野球ボールほどの大きさになります。つまり超微視的レベルで見ると、物がぎっしり詰まっているように見える私たちの体も、鋼鉄の壁もスカスカの網以上に透け透けなのです。ですからニュートリノという超細かい粒子は、今この瞬間も音もなく、無数に、私たちの体や、壁、果ては地球すらも貫通しています。でも私たちはまったく何も感じません。ニュートリノという弾丸があまりに小さすぎて、私たちの細胞を作っている原子核にすら衝突することがほとんどないからです。LHCで生成される人工ブラックホールも、このニュートリノほどの大きさではないかと推測されています。とすれば、容易にLHCの鋼鉄製の壁をすり抜けて地球のコアまで落ち込む可能性があります。ただ、現実には生成されるブラックホールは10のマイナス20乗秒後くらいまでには蒸発して消えると考えられており、壁をすり抜ける心配はほぼゼロとみられています。小説の中では、ブラックホールの消滅までの時間を長くしようとしたため、この脱落が起きてしまったと解されますが、このあたりの説明を省略してしまったため、読者の方には???を与えてしまいました。お詫びして補足させていただきます。  

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