新理論
その頃、CERNのカフェテリア。
「コーヘイ、完璧だわ。どこから見ても問題なし。」
ケイトは興奮気味に身を乗り出した。公平が頼んでいた例の理論式の検証が済んだのである。反物質がエクストラ・ディメンジョン(余剰次元)に隔離されれば、対称性の破れがなくても物質だけでできた今の世界が理論上も存在しうることが証明された。
「で、コーヘイ、どうするの。いつ、これを発表する?」
「今日にでも。所内LANのホームページ上にでも…」
ケイトは目を丸くした。
「コーヘイ、あなた、正気なの。ノーベル賞級の発見よ。私、イギリスの科学雑誌『デスカバリー』に親しい編集長がいるわ。頼み込んで、出来るだけ大々的にセンセーショナルに発表しましょう。」
「いや、僕はどうも、そういうのは苦手で。所内LANで十分。なるべく目立たないように。」
公平は慎重だった。物理学の世界では、足の引っ張り合いは日常茶飯事であった。世紀の大発見と言われるような理論ほど、大勢の著名な学者たちから集中砲火を浴びせられる。どうも学者というのは他人を批判し、こき下ろすことが、自らの存在を主張する手段のように考えていた。他人の理論を認めることは、すなわち敗北を意味した。
「で、ケイト、君に頼みがあるんだけど。今回の発表は君との共同研究っていうことにしてくれないかな。」
ケイトは、再び目を丸くした。
「共同研究って、コーヘイ、あなた何言ってるの。これ、あなたが発見した理論よ。私なんか、何もしてないわ。名前を出すことすら恥ずかしいわ。」
「いや、そんなことはない。君が教えてくれた、あの熱エネルギーの定数、あれがなかったら今回の発見はなかった。」
公平は譲らなかった。公平が発見した熱力学方程式にエネルギー定数を加えれば全ての理論的問題が解決するとヒントを与えたのはケイトであった。公平の言うとおり、研究者に名を連ねる資格はあった。
「コーヘイったら。ホント欲のない人ね。それで、今までよく理論物理学者が務まってきたわね。」
ケイトは、少し声を詰まらせた。
「その代わり、攻撃があったら、防御の方はよろしく。」
公平は、本当に正直であった。学生時代にあまりディベートという訓練を受ける機会のない日本人にとって、他人と議論するのは苦手な分野であった。
「コーヘイがそこまで言うなら。」
ケイトは、渋々連名発表に同意した。
3日後、調査団の調査結果が発表された。
アメリカの研究チームは、CERNの内規を破り、許される最大出力の1.5倍の負荷を掛けてブラックホール生成を試みたばかりか、ブラックホール生成後もその事実を公にせず、自国のみでその研究の成果を秘匿しようとした。それ以上のことは、外交上の問題もあり詳しくは説明がなされなかったが、その裏にはペンタゴンの存在があったことは、容易に想像がついた。
結局、アメリカチームは即刻退去を命ぜられ、問題の事後処理はEUの研究チームが引き継ぐこととなった。翌日、早々に対策会議が開かれた。
「で、今後このブラックホールはどこまで大きくなるのかね。」
EU代表のホルムシュタイン主査官は渋い表情で質問を投げかけた。ホルムシュタイン主査官、ベルリン大学物理学研究所長を務めるこの人物は、超対称性理論の先駆者的存在で、今回のLHCの実験で仮に超対称性粒子の一つでも発見されれば、ノーベル賞は間違いなしといわれる世界的な権威中の権威であった。その人物が、今回の対策チームのリーダーに選ばれたということは、それだけでも、今回の事件、あるいは事故とでも言うべき偶然の出来事の重大さが窺い知れた。
「それは我々にもわかりません。何しろ、人工的に生成されるブラックホールは、大きさが10のマイナス30乗メートル以下、生成後もほとんど一瞬にして消滅すると予想されていましたから。今回のような事態は全く想定外のことでして。」
補佐役のミシェル主任研究員が苦渋の表情で説明を続ける。ミシェル主任研究員はパリ大学理学部の助教授で、超ひも理論の研究ではこれもまた世界の権威の1人に名を連ねていた。この他にも、その道の人が聞いたら卒倒しそうな程の面々がこの対策会議に集められていた。
「何とか、この難物を消滅させる方法はないのか。このまま成長を続けると大変なことになるぞ。」
主査官の言うとおりであった。当初は10のマイナス30乗メートルのスケールで発生したブラックホールは今では、10のマイナス24乗メートルまで成長し、そこから放出するX線ジェットの強度も指数関数的に強くなってきていた。
「ブラックホールは周囲の物質を飲み込んで成長してゆきます。ですから、ブラックホール全体を鉛製のカプセルで覆い、中を真空にすれば、物質の供給が止まり、成長が止まる可能性があると思われます。」
「なるほど。だが、そんなカプセルがすぐに用意できるのか。」
「ええ、わが国の原子力委員会を通じで、超高純度プルトニウムの保管用カプセルを取り寄せます。」
超高純度プルトニウム、通常のプルトニウムを数百倍の濃度に濃縮したこの物質は、軍事用目的にのみ使用される。そのエネルギーは広島型原子爆弾の1千倍近くにも及ぶとも言われる。そんな超高純度プルトニウムから漏れ出す放射線を遮蔽するためのカプセル、その技術はその中身にも勝るとも劣らぬ程の高レベルの軍事機密であった。それを、フランス国が提供するという。もはや事態は、単なる物理学研究の域を超えていた・
「ことは急を要しますので、早々に本国に連絡を。」
ミシェル主任研究員は足早に部屋を後にした。
3日後、件のカプセルが到着した。
「オーライ、オーライ。」
仏国の国旗が銘打たれたトラックからカプセルが降ろされる。カプセルの直径は約1メートル、放射能を遮蔽するための鉛の厚さは約20センチ、それが三重の入れ子状になっている。わずか10キログラムの高純度プルトニウムを包むための入れ物の重さは2トンもあった。
「これは、すごい。このような代物、見たことがない。」
ホルムシュタイン主査官は感嘆の声を漏らした。それもやむ終えないことであった。第2次世界大戦の敗戦国であるドイツでは未だ核兵器を保有することは許されていない。このレベルのカプセルを保有するのは、世界でもアメリカ、ロシア、中国とフランスぐらいであった。しかも最高度の軍事機密とあれば、たとえ世界的な物理学の権威者といえどもまず目に出来るものではない。
カプセルは慎重にDファクトリーへと運ばれる。Dファクトリーの放射能レベルはさらに上昇し、もはや放射能防護服を身に着けていても危険なレベルに達していた。
やむなくモニター室からの遠隔操作により、まだ目にも見えないブラックホールをカプセル内に閉じ込める作業が始められた。カプセルは球形で、真ん中で二つに割れるようになっていた。密着後は中を真空にすることで完全に外部と遮蔽される。
ブラックホールの大きさはまだ10のマイナス20乗メートル以下、電子顕微鏡でも捉えられない大きさである。ブラックホールの位置は、カロリーメーターのモニター画面に映し出されるエネルギー分布で確認する。最も高いエネルギーレベルを表す赤の表示がブラックホールの中心点である。その位置は、LHCのトンネルの丁度真ん中辺り、高さ2メートル近辺にあった。
赤い点の周辺にはレコード盤のような円形のエネルギー領域が黄色で表示されている。ブラックホールに落ち込む物質が作る膠着円盤である。そして、この膠着円盤から垂直方向に向って、長いひも状のエネルギー痕が見られた。ブラックホールから噴出するX線のジェットである。ジェットの長さは数メートルにも及んでいた。もし、カプセルに効力があれば、密封と同時にこのX線放射が封鎖されるはずである。
カプセルの半球を支えた2台の作業車がトンネル内に入る。作業車は遠隔操作により、ブラックホールを挟むようにトンネルの両側から進入した。何しろ目に見えない極微の代物を手探りで包み込むのである。作業は、エネルギー分布のモニター画面を見ながら慎重に進められる。作業車は、ブラックホールがあると推定される位置まで、毎秒1センチメートルの速度でにじり進む。進めては止め、進めては止めを繰り返しながら、その都度僅かのズレを補正して前へ進める。
そしてついに、モニター画面の縁にカプセルの陰が映し出された。半球と半球の間の距離はわずか5ナノメートルである。後は、上下と左右の微調整を加え、最終的に両の手の平を合わせるように、ピタリと半球を合体させるだけである。モニター画面に映し出された半球の影は、まるで日食のように光り輝くエネルギーを徐々に遮蔽してゆく。そして最後は地平線の彼方に沈む太陽のように微かな光を残して、画面は真っ暗になった。
「やったー。成功だ。X線ジェットが消えたぞ。」
その瞬間、モニター室に歓声が上がった。
「大成功だ。放射能の漏れは完全に止まった。」
つい先ほどまで、赤々とモニター画面を照らしていたブラックホールのエネルギー痕は完全に遮蔽され、画面上を暗闇が支配した。
「カプセル内の圧力もどんどん下がっています。」
オペレーターの報告が続く。カプセル内の空気は瞬時にブラックホール内に飲み込まれ、カプセルの中はあっという間に真空になる。中が完全に真空となったカプセルは、外部からの圧力により密着させられ、ブラックホールは完全に封印された。
その頃、研究所内は別の意味で大騒ぎとなっていた。公平とケイトの論文が所内LANのホームページ上に掲載されたのである。わずか数ページの短い論文であったが、それが百年来、幾多の物理学者を悩ませ続けてきた問題に決着をつける世紀の出来事であることに、意のある物理学者たちはすぐに気付いた。
「しまった。」
ホームページを見た研究者の舌打ちする音があちらこちらで聞こえた。コロンブスの卵とはまさにこのこと。こんな単純な理論がなぜ今まで世界中の著名な物理学者たちに発見されなかったのか。
公平とケイトの論文は、なぜこの世界が、この宇宙が存在するのかを単純な公式で説明していた。
理屈は極めて簡単である。
「1-1=0」
小学校1年生の算数である。しかし、この数式は注意深く観察するとこうも書ける。「0=1+(-1)」、すなわち、ゼロからプラス1を生み出すためには、マイナス1が同時に生まれなくてはならない。道理といえば道理である。理屈といえば理屈である。こんな単純なことが世紀の大発見に結びついた。
この宇宙は「無」から生まれたというのは今ではもう常識になっている。針の先よりもさらに何十桁も小さい目に見えない世界が、インフレーションと呼ばれる急膨張を起こし、そしてかの有名なビッグバンによって灼熱の火の塊となって宇宙は生まれた。
しかし、ちょっと待った。どんなに高温、どんなに高密度に押し縮めても、数千億個もあるといわれる銀河が針の先よりも小さい空間から生まれ出るなどという話は、馬鹿げている。手品か何かでもない限り、地球1個ですら創り出すことなど不可能である。
でも、マイナス1を導入すれば、すべてはかたがつく。全く何もない世界からでも、マイナス1があれば間単にプラス1は作られる。
鏡のように真平らな水面も石を放り込むと波が立つ。波は必ず山と谷を作る。山だけの波、谷だけの波など存在しない。量子論の世界も同じである。我々が住む世界、そう、あなたのすぐ鼻の先の空間にも「ヒッグズ場」と言われるフィールドがある。ヒッグズ場は、この水面のように絶えず揺れ動いている。それを感じられないのは別にあなたが悪いわけではない。人間の五感では絶対に感じることができないほどの微細な揺れに過ぎないからである。
しかし、このヒッグズ場が、この世界を創り出していることだけは忘れてはならない。この世にある一切のモノ、身の回りにある水や土は言うに及ばず、この地球や太陽、そして天に輝くあまたの星々や銀河、その全てはこのヒッグズ場に浮かぶ泡沫のようなものである。
我々が住む世界は、電荷がプラスの陽子(正確には電荷が中立の中性子も含む)と電荷がマイナスの電子でできている。電荷がマイナスの反陽子や電荷がプラスの陽電子でできた物質は我々の世界(宇宙)には存在しない。
別の言い方をすれば、我々の世界はヒッグズ場が創り出す波の山の部分だけでできており、谷の部分が全く存在しないのである。だからこそ波は打ち消し合うことなく存在し続けていられる。不思議である。あなたはこの不思議をどう考えるであろうか。
宇宙創生の過程では、陽子(プラス1)が生まれるときに、同時に同じ数だけの反陽子(マイナス1)が創られたと考えられている。ゼロからプラス1が生まれるにはマイナス1が同時に生まれなければならない。波の山が生まれるときには、同時に谷が生まれなければならないのと同じである。これを量子論の世界では「対生成」という。このことは、現実に粒子加速器の実験でも確認されている。
本来なら、対生成で生じた陽子と反陽子は、生まれた瞬間にすぐに合体して消える運命にあったとされる。これを「対消滅」という。波の山と谷が一瞬の後に打ち消し合うのと同じで、プラス1とマイナス1は常に瞬時に合体してゼロになるはずであった。
ところが、わずかに対称性が破れていたため、反陽子だけが消え、陽子だけが残った。だからこそ、今日の宇宙が存在するとされた。しかし、そんな膨大な量の反陽子が本当に消え去ったのであろうか。そして、消え去ったのだとすれば、なぜ消えたのは反陽子であって、陽子ではなかったのか。陽子だけが消えて、反陽子だけが残っていても、おかしくはなかった。反陽子は一体どこへ消えたのか。
公平は、反陽子が消えたのではなくて、エクストラ・ディメンジョンの方向に隔離されているにすぎないと考えた。対称性が破れるとは、反陽子が壊れることを意味するのではなく、別の次元にその身を隠すことを意味するものだと公平は考えたのである。
公平の理論を裏付ける証拠がこの宇宙に存在する。宇宙に満ち溢れるダークエネルギーこそ、それを物語る重要な証拠である。ダークエネルギー、別名「真空のエネルギー」と呼ばれる謎のエネルギーは、今我々が存在している宇宙にある物質の総量からだけでは説明できない。この宇宙に存在する銀河の全てを足し上げても、宇宙全体のエネルギー総量にはるかに足りないのである。
この不思議を説明するためには、対称性は破れていなかったと仮定するしかない。公平は、この理屈をシルトゼーで水鳥が水面から消えた瞬簡に思いついた。そう、水鳥は消えたのではない。消えたように見えて、実は水の中という別の世界(次元)に水鳥はいた。そして水鳥が水の中で動き回ることで生み出されるエネルギーは水を伝わって水面に微かな波を作る。我々は、この波を見て水の中(別の世界)に何かがあることを知る。ダークエネルギーこそが、エクストラ・ディメンジョンがあることを、そしてそこに隠された膨大な量の反物質があることを示す証拠なのである。
公平のレポートが発表されて後、研究所の中は大騒ぎとなった。同じ研究所の中で、とんでもない大事件が起きていることなど誰一人として知る由もなく、人々はこの世紀の大発見に酔いしれ、賞賛し、そしてある者は眠る時間も忘れて反論探しに血眼になっていた。
しかし、この公平の発見した理論こそ、かねてより公平が危惧していた事態を現実に招来させ、そして全人類の運命をも大きく変えてしまうものになろうとは、当の本人もまだ全く気付いていなかった。
粒子隔離の理論は、実際にはハーバード大学のリサ・ランドール物理学教授が提唱しています。さらに詳しく知りたい方は同著『ワープする宇宙』(NHK出版)を参照してください。