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出現

丁度その頃、CERN、Dファクトリー。

「もっと出力を上げろ。」

モニタールーム内に、パソコン画面を凝視するハワードの怒声が響く。ハワードが操作するパソコンには赤や黄、緑色の入り混じった万華鏡のような色鮮やかな図柄が映し出されている。カロリーメーターにより検出されたエネルギーの流痕である。

カロリーメーター。光速の99%まで加速した陽子同士を衝突させたとき、陽子は電子や陽電子を放出しながら別の粒子へと崩壊していく。その崩壊過程で放出されるエネルギーを検出する装置である。もちろんその過程は肉眼では観察できない。今、ハワードの目に見えているものは、このカロリメーターが検出したエネルギーを可視化した映像に過ぎない。

「これ以上は無理だ。危険すぎる。」

傍らから助手のスティーブンの制止する声が聞こえる。

ハワード・スミス、ハーバード大学素粒子物理学研究所の精鋭として、100人を超える客員研究員を率いてCERN入りしていた。先のノーベル物理学賞では韓国と中国の研究者に先を越されたということもあって、今回のミッションにはアメリカの威信がかかっていた。

彼らの専門分野は超重力理論。ひも理論、膜理論のさらにその先を行く最先端の理論であり、それを実証できる唯一の方法はブラックホール内で実際に何が起きているのかを明らかにすることであった。

物理学の世界の最大の難問とされる「階層性問題」、つまり4つの力、電磁気力、強い力、弱い力、そして重力のうち、重力だけが極端に弱いのはなぜかという問題である。重力は他の力に比べて何10桁も弱く、特別な理論がないと記述できないのではないかとされてきた。

しかし、ブラックホールの中にあっては、この重力が無限大に大きくなる。そこに階層性問題を解く鍵がありそうなことは容易に予想できた。そのブラックホールがここCERNの大型粒子加速器で人工的に生成できるかもしれないのである。もしそれが実現できれば、ブラックホールの崩壊過程を眼前で観測でき、その秘密に迫れるかもしれないのである。

「出力を、9Tev(テラ電子ボルト)まで上げろ。ここのLHCは理論上言われているエネルギー限界に30%の余裕率をみて設計されている。とすれば12Tev位まではいけるはずだ。」

再び、ハワードの声が響く。スティーブンは渋々モニターの出力レベルを上げた。


それから1ヵ月後。

CERNのカフェテリア。窓の外は、いつしかスイスの短い夏も終わり既に秋の気配が漂っていた。公平は、朝からもう何時間もメモ用紙に鉛筆を走らせていた。とっくに乾ききったコーヒカップが経過した時間の長さを物語っていた。

「コーヘイ、コーヘイったら。」

公平は、相変わらずケイトの声も耳に入らない風で、計算に没頭していた。

「もう少し、もう少しだけ待って、あと一息だから。」

公平のメモは、殴り書きされた数式が無秩序に並び、白い紙が黒々として見えた。ケイトは大きな嘆息を漏らして窓の外に目をやった。公平は一体何を計算しているのか。あの日から、ハイキングに出かけたあの日かから、公平はほとんどファクトリーにも顔を出さなくなり、自室にこもって一人鉛筆を走らせることが多くなった。理論物理学者には間々あることだけに最初のうちはケイトも黙ってそんな公平を見守ってきたが、今日は待ったなしの事態が生じていた。

「やったー、完成だ。ついに出来た。」

今一度ケイトが声をかけようとして身を乗り出したその時、公平は最後のメモ一枚を破り取った。そこにはある数式が一本記されていた。

「コーヘイ、一体何が完成したというの。」

ケイトの今一度の呼びかけに、ようやく我に返った公平はニヤリと微笑んだ。

「エクストラ・ディメンジョン(余剰次元)だよ。」

「エクストラ・ディメンジョン?」

「ああ、僕の計算に間違いがなければ、エクストラ・ディメンジョンは間違いなく存在する。君も見ただろう。シルトゼーで。あの水鳥、鳥が水面に突っ込んだとき鳥の影は完全に視界から消えた。」

ケイトは黙って頷いた。

「でも、実際には鳥は消えてはいない。水の中に鳥はいた。ただそれだけのことだ。物理学の世界も同じだよ。反物質は消滅したのではなくて、エクストラ・ディメンジョンの方向に隔離されただけなんだ。おそらく推測だが、今我々が住んでいるこの宇宙は物資ばかりで出来ている。同じように反物質ばかりで出来たパラレル・ワールド(平行宇宙)が存在するはずだ。」

ケイトはにわかには信じられないという表情で尋ね返した。

「ということは、対称性は破れていなかった?」

「その通り、破れたように見せかけて、反物質は巧妙にその姿を隠していたんだ。今の宇宙に満ち溢れるダークエネルギーこそ、この隠された反物質の正体だ。重力だけはエクストラ・ディメンジョンを透過して我々の世界に滲み出してくると予言されている。もし僕の理論が正しければ、当然のことながら我々の宇宙に存在するのと同じ数だけの反物質が別の世界に存在するはずだ。これで、この宇宙で最大の謎とされているダークエネルギーの説明がつく。」

公平は、興奮するように畳み掛けた。

「グ、グレイト。と言うより、何て言っていいのか、もしその通りだとしたら物理学の世界がひっくり返るわ。まさに天と地が入れ替わるような大事件だわ。でも、間違いじゃないの。何か大きな落とし穴が…。私も、コーヘイもまだ気がついていない。」

流石にケイトはすぐには公平の言うことを信じなかった。彼女もケンブリッジ大学きっての著名な理論物理学者である。大体、物理学者というのは人の考えや理論を否定するところから始まる。大発見とか革新的理論と言われるものほど最初は懐疑的な目で見られる。実際、当初は見向きもされなかった斬新的なアイデアが何十年も後になって実証されて大騒ぎになるということはこの世界ではよくある話であった。

「そう、その通り、だからこそ君にお願いしたいんだ。僕の計算が間違っていないかを検証して欲しいんだ。」

「OK、わかったわ。すぐにでも。」

「このメモじゃわけが分からないから、少しまとめて明日にでも渡すよ。それで、君の方は何? 何か話があったんじゃ。」

公平は、ようやく一段落して、ケイトの話に耳を傾けた。ケイトも思い出したかのように持ってきたばかりの話を切り出した。

「実は、2日前Dファクトリーが閉鎖されたの。」

「何だって、閉鎖?」

「そう、表向きは出力装置の故障で当分の間使用禁止だとか。でも、何か妙なの。アメリカチームの研究者たちだけは出入りしてるし、それに入り口にはセキュリティーも。」

「セキュリティー? フーム、それは尋常じゃないな。ファクトリーで何かあったんだろうか。」

公平の脳裏にいやな予感が走った。

「ついにパンドラの箱が開いてしまった」、あのセレモニーの日に口をついて出た言葉が再び公平の頭の中をかすめた。

「所内LANの方はどうだい。ここでは各ファクトリーでの研究成果を出来る限りオープンにするよう定められている。アメリカチームのホームページは。」

「1週間前に更新された切り。その後のことは何も。」

公平の不安げな様子に、いつも快活なケイトの顔にも暗い影がさした。


丁度その頃、Dファクトリー。

「おかしい、どうやっても消えない。一体どういうことだ。」

ハワードは何度もパソコンのキーパッドを操作する。ボサボサに伸びたハワードの無精ひげが、今回の事態の重大さを物語っていた。

1週間前の大興奮も覚めやらないまま、アメリカチームには重苦しい空気に包まれ始めていた。公平が自らの新理論の計算に没頭していた頃、アメリカチームは一足先に世紀の大発見を成し遂げていた。人工のブラックホールである。LHCの出力を11Tevにまで上げたところでついにブラックホールの痕跡らしきエネルギーの流痕がモニター画面に現れた。大きさは10のマイナス30乗メートル、もちろん目には見えない。その流痕はほんの一瞬現れてすぐに消えていった。まさに予言どおりの短さであった。

当初、アメリカチームはこの大発見をすぐには公開せず秘匿した。発見が間違いでないことを検証しタイミングを見計らってサプライズで大々的に報じる手はずであった。ところが大きな誤算が生じた。検証実験中、出現したブラックホールの一つが消滅しなかったのである。それどころか、このブラックホールは日増しに大きさを増し始めた。当初の直径は10のマイナス30乗メートルであったものが、2週間後には10のマイナス28乗メートル、2桁もその大きさを増していた。

「おい、ハワード。もうあきらめろ。それより一刻も早くこの事実を委員会に報告しないと大変なことになるぞ。」

「まあ待て、大きくなったとはいえまだまだ直に見えるようなレベルじゃない。黙ってりゃ誰にもわかりっこないさ。本国からもまだ極秘裏にしておけとの指示だ。それより、今はどうやって後始末をつけるかの方が先だ。陽子ビームの出力を上げてもう一度照射してみよう。」

スティーブンは大きなため息を漏らしながらハワードの指示に従った。

当初の予言では、人工のブラックホールは発生後ほとんど瞬時に蒸発して消滅すると予言されていた。そしてまさにこの予言どおり、ブラックホールはすぐに消滅した。しかし、アメリカチームはブラックホール内部の観測精度を上げるため、消滅までの時間を延ばすことを試みた。

これこそが、まさに公平が恐れていた点であった。仮に対称性が破れていなかったとしたら、そして余剰次元の向こう側に反物質ばかりで出来た平行宇宙があったとしたら、このブラックホールは我々の住む物質宇宙と向こう側にある反物質宇宙をつなぐトンネル役となる。物質と反物質はブラックホールの中で出会い合体して対消滅を起こし始める。そしてその穴は次第に大きくなり、やがてはこの地球、太陽系、いや銀河さえも飲み込むまで成長する可能性があった。

アメリカチームはまさにパンドラの箱を開けてしまったのである。吸い込まれると光さえ脱出できない恐怖の穴が、しかもこともあろうにこの地球上に出現してしまった。


その1週間後。

CERN全体に激しい警報音が鳴り響いた。

「緊急警報発令、緊急警報発令、Dエリアで極微量のX線検出。」

悪いことは隠し覆せないものである。

ブラックホールは成長すると、その中心から膠着円盤に垂直な方向に向かってX線のジェットを噴出する。物質と反物質が合体消滅する時に莫大なエネルギーが放出される。そのエネルギーは巻き上げられて巨大なストリームとなって解放される。それがX線ジェットである。実際に地球上でも宇宙のあらゆる方向から飛来するX線が多数観測されている。ただ、何億光年もの遠くから飛来することに加え、地球の厚い大気がそれを遮り、人体への影響は極わずかに抑えられている。

しかし、X線自体は強力な放射線であり、一つ間違えば人命にもかかわる惨事になりかねない。

「Dエリアは、すぐに閉鎖しろ。それと原因が究明されるまでLHCは停止する。」

CERNの規約で、事故発生時には直ちにLHCの稼動を停止し、その原因究明が行われることになっていた。


3日後。

「なぜ、すぐに報告しなかった。一体、Dファクトリーでどんな実験をしたんだ。」

査問委員の厳しい視線が一斉にハワードとスティーブンに集中した。査問委員会、各国の代表で構成されるこの委員会は、CERNの中で重大な規律違反や事故が発生した場合に緊急に召集される。LHCの公正な平和利用と安全性を確立するため、査問委員会には各国政府ですら介入できないほどの絶大な権力が与えられていた。

ハワードとスティーブンは、しかし、居並ぶ20余名の査問委員の前で直立不動のまま正面を見据えていた。

「あくまで黙秘するつもりか。それは本国からの指示か。」

さらに厳しい査問委員の叱声が飛ぶ。

しかし、この時ハワードとスティーブンの脳裏には別のある光景が思い浮かんでいた。

「いいか、君たちは、この合衆国の命運を左右する重大な使命を担うために派遣される。家族のことは忘れろ。いや、いざという時には自身の命のことすら忘れろ。いいな。」

本国を立つ前に、国防省に召集された派遣員全員に国防長官自ら任務の説明が行われていた。2人にはもとより自らの命など関係のない話であった。

愛国心の美名の下にイラクに派遣されて無益に命を落としていったあまたのアメリカ兵士同様、ここCERNに派遣されているアメリカの物理学者には、もはや個人の自由などありえないものとなっていた。

「よろしい。君たちはもう下がり給え。」

いつまで経ってもらちが明かないと見た査問委員長は2人に退室するよう命じた。警ら官に付き添われた2人は、まるで留置所へ運ばれる容疑者のように無表情のままドアの外に消えた。

「明日、Dファクトリーを強制査察する。」

委員長は静かに閉会を告げた。

翌日。査問委員会の調査団10名がDファクトリーに入った。全員が宇宙服を思わせるような被爆防護服を身に着け、頭には深々とシールド用ヘルメットを装着していた。

調査団の一人が、『Radiation Hazard Area(放射能危険区域)』と赤く表示されたドアの電解錠のキーパッドを操作する。ドアは音もなく開いた。放射能検出装置を手にした先頭隊が恐る恐る第一歩を踏み入れた。

ファクトリーの中は思ったより平穏だった。爆発や火災が起きた様子もなく、外のセキュリティーカメラに映ったそのままの状態が調査団の眼前に広がった。

「放射能レベル問題なし。」

その声に続いて、一人また一人と、調査団が中に入る。調査団は、ファクトリーの中をゆっくりと検分して回る。パソコンや検出装置が並ぶ通路を進み、あと少しでモニター画面の前というところで放射能検出装置が反応した。

「ごく微量のX線検出、警戒レベル2。」

調査団は一瞬怯んだように見えたが、すぐに平静を取り戻した。防護服を身に着けていれば警戒レベル2は全く安全な被爆量である。

調査団長は、ゆっくりとモニター画面のスイッチをオンにした。モニター画面には、例の万華鏡のようなエネルギー分布図が現れた。その画面を凝視していた調査団の1人からうめき声が漏れた。

「こ、これは、一体…」

「ま、まさか。」 

カロリーメーターが検出するエネルギー量は最も高いところで40Tev以上、このCERNの粒子加速器で生み出すことの出来る最大エネルギーの3倍を超えていた。その周囲には、まさに台風の渦巻きのように黄色い色が分布し、その渦巻きから垂直方向に長く噴き出すX線のジェットがハッキリと映し出されていた。

「ブ、ブラックホールか。」

「恐らく。」

「ありえない。」

調査団の一団は絶句したまま、しばらくモニター画面に見入っていた。

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