エピローグ
その3週間後。
「ヒューストン、バイコヌール、タネガシマ…、誰かいませんか。誰かいませんか。応答願います。」
国際宇宙ステーションから、通信官の空しい呼びかけが続く。
ブラックホールはさらに成長し、X線ジェットは月をはるかに超えて長く伸びていた。地中海とバルト海から大量の海の水が渦を巻いてブラックホールの巨大な胃袋の中に吸い込まれていくのが見える。アルプスの山々の大半は既に原形を留めないほどに歪み、崩れ、原子の大きさまで打ち砕かれ、侵食されていく。
地下ではマグマがブラックホールに吸い込まれ、地殻は到るところで陥没し始めていた。厚さがわずか数キロの地殻は地球全体からみれば、リンゴの薄皮のようなものである。赤い、ドロドロしたマントルの上に浮いているだけに過ぎない。そのマントルが地下の方からブラックホールに吸い取られてゆけば、地殻は萎んでゆくだけである。もう地上には、核シェルターも含め、誰も残っているとは思えなかった。
「キャプテン、姿勢制御装置が働きません。ステーションの高度が下がり始めています。」
ブラックホールの強大な重力が地球の重力にも影響を及ぼし始めた。
「やむをえない。フェーズ4を実行する。」
フェーズ4、滅び行く人類に残された唯一にして最期の手段。このような事態を想定して、各国より集められた衛星が、今永遠の旅につく準備が始められた。
直径2センチほどのカプセルの中には数対の卵子と精子、それにヒトのゲノム配列とこれまでに解読されたありとあらゆる生物のゲノム情報が搭載されていた。その極微のカプセルを運ぶために直径1メートル程の推進エンジンが付けられた。エンジンの動力源は約1トンの超高純度プルトニウム。高性能の核弾頭を急遽解体して燃料とされた。この先何万年、いや何百万年かかるかわからない宇宙空間の旅、1トンのプルトニウムで果たして直径2センチのカプセルは何光年先まで飛び続けることが出来るのであろうか。このようなカプセルがわずか2ヶ月ほどの間に約100個用意された。もう、国籍云々などと言ってはいられない。アメリカ、ロシア、EU、日本、中国、インド、衛星を打ち上げる能力のある全ての国が、まさに宇宙空間を漂うノアの箱舟造りに尽力した。
いつの日か、遠い未来に、この広大な宇宙空間のどこかで、運良く高度な知的生命体にカプセルのいずれかが拾われて、人類が再生される可能性だけを信じて。それは、宝くじに当たるよりはるかに低い確率かも入れない。万分の1、いやたとえ億分の1でも可能性があるのなら、それに賭けるしかない。今の人類の科学技術でかろうじてできるラストリゾートであった。
「急げ、ブラックホールの重力圏に捉われる前に衛星を発射する。」
国際宇宙ステーションの全乗組員が慌しく衛星の発射準備を進める。その間にも宇宙ステーションは大きく傾き軌道を外れ始めた。
「発射準備完了。」
「よーし、衛星格納庫を離脱させる。」
「10、9、8…」
カウントダウンが続く間にも、ステーションはどんどん地球に向って落下を始めてゆく。「ゼロ」という声と共に、格納庫がゆっくりとステーションから離脱した。
「ロケットエンジン噴射。」
離脱した格納庫は、その底部からオレンジ色の炎を噴出しながらあっという間にステーションから遠ざかってゆく。格納庫がステーションから十分な距離に離脱した後、格納庫の扉が開き衛星が発射される。しかし、その間にもステーションの傾きはどんどんと大きくなってゆく。
「ダメです。大気圏に突入します。」
「あともう少しだ。」
キャプテンの悲壮な声がステーション内に響く。ステーションの側面が大気との摩擦で赤々と輝き始めた時、人類最期の指令が発せられた。
「衛星発射。」
ステーションから既に数千キロも離れた宇宙空間で、格納庫の扉が開き、100個の衛星は文字通り花火の如く全天に向けて散り散りになった。各衛星に積まれたコンピューターにはあらかじめ計算された100通りの飛行コースがセットされており、太陽系を離れるまでは自動航行を続ける仕組みになっている。その後は、文字通り運を天に任せ、各衛星は、暗く何もない宇宙空間をひたすら飛び続けることになる。
「よーし、成功だ。」
モニター画面に散り散りになってゆく衛星の軌跡が映し出された時、国際宇宙ステーションは炎に包まれた。
そして、その1ヵ月後、2012年12月XX日、太陽系第三惑星はその全てが跡形もなく闇の中へと消えていった。その後、打ち上げられた衛星のいずれかが知性ある生命体に巡り合い、人類が再生されたかどうかは、無論誰も知る由もない。
ハッピーエンドを期待されていた読者の皆様には申し訳ございません。現実はそう甘くはありません。
ところで、CERNでの実験が実際に成功すれば、この宇宙の生い立ちと行く末の全てが判明すると期待されています。でも、それは人類にとってあまりハッピーではない結論になりそうです。この宇宙には必ず終わりがあるということが科学的に解明されてしまうかもしれないからです。もちろん貴方が生きている間にはそんなことは起こりません。貴方の子供、孫の代でも全く問題ないでしょう。でも、遠い遠い未来、たとえ何億年か先でも確実に終わりの日が来るとわかった時、人々の価値観や人間観は大きく変わるような気がします。人類の未来が永遠に続くと期待するからこそ、人々は命を育み、明日への希望を抱くのです。
それでも、小生はCERNでの実験が成功し、大発見が成し遂げられることを期待しています。SFファンの一人として。