序
不思議だ、あまりに不思議すぎる。あなたは、なぜ自分という人間がこの瞬間、この場所に存在するのか考えたことがあるだろうか。夜空を見上げれば、無限に続く星々がまたたいている。こんな広大な宇宙がなぜ存在するのだろう。そして、これから先、人間は、地球は、そして宇宙はどうなっていくのだろう。その答えを出すのは、哲学でも、宗教でもない。最先端の素粒子物理学があなたをこの不思議の世界へと誘ってくれる。
まず、身近なところから始めよう。今、何もないと思っているあなたの眼前にも空気がある。そしてその空気の中には酸素分子や水素分子の粒々が無数に浮かんでいる。あなたは、そのことを息をすることで実感している。もし、酸素分子がなかったら、あなたはたちどころに呼吸困難に陥って死んでしまうであろう。でも、あなたの目には何も見えてはいない。それは、ただ単にあなたの目の解像度がそこまで精巧に出来ていないからに過ぎない。
同じように、この世には解像度が低いために知られていない世界がまだまだ存在する。酸素分子の粒々はさらに陽子や中性子という小さい粒子に分解できる。その陽子や中性子ですら、さらに細かいクォークやレプトンに分解される。10のマイナス33乗メートル、想像を絶する小ささだ。世界最高性能の電子顕微鏡をもってしても絶対に見ることの出来ない極微の世界。それが、今CERN(欧州合同原子核研究機構)にあるLHC(大型ハドロン粒子加速器)による実験で明らかにされようとしている。果たして、その結末は…。
この小説を読んで理解するためには高度な素粒子物理学の知識を必要とします。本文に入る前に、必要最低限の知識を分かりやすく解説します。本文中でも適宜簡単な説明は加えながら進めますが、読み始める前に是非、目を通してください。
(用語解説)
①相対性理論…20世紀初め、アインシュタインにより確立された理論。あまりに有名なのは物体が光速に近い速度で移動する際、その時間の進み具合が遅くなるというのがある。この他にも、大きな重力をもつ天体(物体)の近くでは空間が歪められ、やはり時間の進み具合が遅くなるということも、現実に実証されている。
②ブラックホール…物質が極度に凝縮した結果、重力が極端に大きくなり近づく物体は光さえも飲み込んでしまうとされる謎の天体。銀河の中心に存在するとされているが、直接観測できないため、その周囲で起きる現象から間接的にその存在が仮定されているに過ぎない。この小説の主要テーマとなる。
③事象の地平面…ブラックホールの周囲にある一面。この面を超えるともはや何物も戻って来られないとされるギリギリのライン。事象の地平面の向こう側で何が起きているのかは無論観測されていない。
④膠着円盤…ブラックホールの重力に捉われた物質がブラックホールの周囲に渦を巻きながら膠着した状態。バスタブの栓を抜いた時に渦を巻きながら水が穴の中に吸い込まれていく様子に似ている。
⑤真空のエネルギー…全く何もないはずの真空の中でも常に極微のエネルギーが存在し、そのために空間自体が波打つ水面のように絶えず揺れ動き、またこの宇宙自体をも膨張させていると言われている。別名ダークエネルギー(目に見えないエネルギー)とも言う。
⑥対生成・対消滅…真空のエネルギーにより、全く何もないと見られる真空中でも粒子(物質)とそれに対を成す反粒子(反物質)が絶えず生まれては消えているとされる現象。0=1+(-1)ということ、つまり「無」から「有」が生まれるためには、+1と同時に-1が生まれなければならないという理屈。
⑦対称性の破れ…必ず対をなして生成・消滅するはずの粒子と反粒子(対称性)だが、対称性が微妙に破れていたため反粒子だけが消滅し、粒子だけが残ったとする理論。我々が住むこの宇宙が存在するに至った根拠とされている。日本の物理学者、南部、益川、小林博士らが、この理論によりノーベル物理学賞を受賞したのは記憶に新しい。しかし、この小説では敢えて対称性は破れていなかったという仮説を前提として物語を展開する。
⑧ヒッグズ粒子…物質に質量を与えるとされる未確認の粒子。物理学では質量とは重さではなく「動かしにくさ」を意味する。物質が動かしにくいのは、動くのを邪魔する何かが空間中に満ちているからとされる。その何かがヒッグズ粒子(あるいはヒッグス場ともいう)と仮定されている。
⑨階層性問題…この世に存在する4つの力、電磁気力、強い力、弱い力、重力のうち、重力だけが他の3つの力に比べて何十桁も弱いという不思議。素粒子物理学最大の難問とされる
⑩ひも理論…この世に存在する全ての素粒子は、粒ではなく極微のひもで出来ており、そのひもが振動するパターンにより素粒子の性質や種類が決まるとする理論。現在素粒子物理学の最先端かつ最も有力な理論であるが、未だ確立されていない。
⑪余剰次元…エクストラ・ディメンジョン、この小説のタイトル。ひも理論でもその存在が仮定されている目に見えない次元のこと。我々の住むこの世界は、縦・横・高さの3次元に時間を加えた4次元時空とされているが、ひも理論ではこれ以外に目に見えない時限が6次元あるとされている。
⑫ブレーン(膜)理論…ひも理論をさらに進めた理論。我々の宇宙は高次元時空の中に浮かぶ膜のようなもので、我々の目に見えない別の宇宙(平行宇宙)が存在するとする理論。未だ仮説の域を出ていない。この小説は反粒子ばかりで出来た平行宇宙が存在するという前提で物語が進む。
⑬LHC…大型ハドロン粒子加速器。陽子を光速の99.99%まで加速して衝突させることで、新しい素粒子の生成や発見、人工ブラックホールの生成、余剰次元の有無の確認などが出来ると期待されている装置。現在、スイスのCERNにあるものが世界最大。