第6話 舞踏会
エミールが会議室を去ると、ルネは書記室を借りて大急ぎで清書をした。2時間後、議事録が完成すると、城に行く神官に手渡し仕事は終わった。
「お前、すごいな……」
「ありがとうございます」
さっきまでさんざん女には無理だと馬鹿にしていた書記官たちが、感心してルネのノートを見る。
「この速記術というのは、私たちも使えるのか?」
「覚えてしまえば簡単です。後は耳を鍛えれば」
「耳を鍛えるって、簡単に言うなよ」
「今日の会議は比較的楽な方でしたよ」
「あれが!?」
二人の驚きにルネは笑顔で頷く。
「皆さんお行儀よく発言していたじゃありませんか。商人ギルドの会議なんて、皆好き勝手怒鳴り散らしているようなものなんです。ですから、複数の人が発言していたとしても、耳さえ良ければ全部を聞き分けられるんですよ」
「簡単に言うけど、かなり難しいと思うぞ」
「そうですか?」
ルネが小首を傾げると、二人は俺たちもやってみるかと言い合っている。そこに官長が現れた。
「君、今回は本当に助かったよ」
「官長様、お役に立てて良かったです」
「今日の報酬はギルドの方に渡しておくよ。それで、これからのことなんだが」
「これから?」
「ああ。実は来週にもまた国王が出席する可能性がある会議があるんだ。それに君も入ってほしい」
「え、でも、今日お休みになっている方が復帰されれば大丈夫なのでは?」
今回は臨時だったとはいえ、3人もいればさすがに国王の発言を取り落とすことはないだろうと思ったのだが、官長は難しい顔をして首を振った。
「今日、陛下の発言を聞いて、私の部下3人の能力では不十分であると判断した。ギルドの仕事もあって大変だろうが、こちらも手伝ってくれないだろうか」
「それって報酬は!?」
「もちろん臨時で頼むのだから、相応の金額を用意する」
官長の言葉に、ルネはパッと顔を輝かせる。
「ぜひやらせて下さい!!」
ルネが元気な声でそう言うと、官長は少しだけ驚いた顔をしてから、笑って頷いた。
◇◇◇
それからルネは商人ギルドと、神殿での仕事を掛け持ちし、これまでの倍の給与を稼いだ。
あまりの忙しさに、この1ヶ月は屋敷に寝に帰ってくるだけの生活で、ラウルたちと会うこともそれほどなかった。だが社交シーズンになり、ルネは伯爵夫人として舞踏会に出なくてはいけないことになった。
「はぁ、気が重いわ……」
「仕方ありませんわ。表向きは伯爵夫人になった訳ですし、色々な方にご挨拶しなければいけないのでしょう」
今日の舞踏会はラウルが絶対に出席するようにと強く言ってきて、断ることができなかった。
伯爵夫人として体裁を保つのも仕事だと言われ本当に腹が立ったが、これも仕事だと割り切るしかない。
久しぶりに華やかなドレスを着てもなんの感慨もなく、ルネは鏡の前に立った。
「うん、素敵です。やっぱりお嬢様には明るい色がお似合いですわ」
オレンジ色のドレスのリボンを直しながらコレットはそう言うと、にこりと笑う。
優しいコレットの言葉にルネも笑顔になると、手袋を嵌めた。
「せっかくだものね。せいぜい美味しいものでもつまみ食いしてくるわ」
着替えを終わらせ部屋を出ると玄関ホールに向かう。伯爵夫人が使用人の部屋に住んでいて、そこからドレスで出てくるなんて、なんて滑稽な姿なんだろうと思いながら階段を降りる。
到着した玄関ホールには、なぜかアストリットがいてラウルに腕を絡ませていた。
「今日は夫婦で出席ではなかったのですか?」
「ああ。言っていなかったが、アストリットも舞踏会の招待状を受け取っているんだ。一緒に行く」
「……そうですか」
ラウルの言葉に、アストリットは勝ち誇ったような顔でドアを出て行くと、待っていた馬車に乗り込む。
ルネは文句を言うのも面倒で口を閉ざすと、無言で次の馬車に乗り込んだが、すぐ後にラウルが乗り込んできて、ギョッとした。
「なんで、こっちに!? アストリットの方に乗ればいいじゃないですか!」
「夫婦で出席するのに、別々の馬車から出てきたらおかしく思われるだろうが」
「……そんなものですかね」
本当に体裁ばかり気にするのだなと、つい悪態のような言葉が出てしまうと、ラウルは眉を顰めた。
「お前はもう少し丁寧な言葉を話せ。伯爵夫人らしくな」
「……善処します」
ラウルの小言にルネはぶすっと答えると、それきりだんまりを決め込んだ。
重苦しい沈黙の中、馬車は進み、しばらくすると城に到着した。先に馬車を降りたラウルが手を差し出す。その手を仕方なく掴むと、ルネは地面に足を着けた。
城の前庭にはぞくぞくと馬車が到着し、煌びやかな姿をした紳士淑女が降りてくる。ルネはその華やかな様子に思わず目が行った。
「ぼうっとするな。行くぞ」
「は、はい」
ぼんやりとしたままだったルネにラウルが声を掛ける。そこにアストリットが小走りで近付いてきた。
「ラウル! 私も一緒に行くわ」
「ああ。隣にいろ」
(3人で行くのね……)
思わず大きな溜め息が出る。周囲からどう見えてるかは知らないが、形だけの夫婦と、その夫の愛人の3人組で社交界に出席している者など、自分しかいないだろう。
何の冗談かと笑ってしまいそうなほど滑稽だ。
「ラウル、今日の主催は王太子様でしょ? 会えるかしら?」
「さぁな。挨拶くらいはできるかもしれないが、私も面識がある訳ではないからな」
「そんなぁ……。絶対会いたいのに」
「こちらから声を掛けるなんて無礼なことはできないんだから、我慢しろ」
わくわくした顔でおねだりするアストリットを、ラウルが優しく窘める。
そうこうしている内に、広い舞踏会会場に到着した。
「エフラー伯爵夫妻、アストリット・アデール嬢!」
入口で名前が呼ばれると、会場にいた多くの人がこちらに目を向けた。
(わっ、すごい注目された……)
内心とても驚いたルネが足を止めそうになると、するりとラウルがルネの手を取り腕を組ませた。
慌てて手を引こうとするが、鋭い視線に押し留められる。
「分かってるだろ」
「はい……」
夫婦らしくしろと言外に言われ、仕方なくルネはラウルに腕を絡ませたまま歩いた。
「エフラー伯爵! 夫人も、いらっしゃったのね」
「アルヴィエ公爵夫人、お久しぶりです」
「結婚式、とても素敵だったわ。お招きありがとう」
「こちらこそ、出席していただきありがとうございました」
白髪の年配の女性が朗らかな笑顔で話し掛けてくる。ラウルが応対してくれるだろうと、ルネは黙って隣にいると、公爵夫人がこちらに視線を向けた。
「あなたのこと、噂になっているわよ」
「え……、噂というと?」
「伯爵夫人が街で仕事をしているって。どうして仕事を?」
「え、あの……」
「妻は、仕事が本当に好きなんですよ」
「まぁ、珍しいこと……」
言い淀むルネに、慌ててラウルが口を挟む。
「家でゆっくりしているより、働いていたいと言いましてね。妻の生きがいを奪ってしまうのもどうかと思い、許しているんです」
「まぁ、なんてお優しいの。普通なら絶対に止めますわよ」
公爵夫人はいたく感激した様子で言ってくる。それに笑顔を返すラウルの横顔を、ルネは唖然として見つめた。
(ホントに上手く自分を上げたわね……)
これでラウルは器の大きな人間だと噂が広がるだろう。たったこれだけのことだが、たぶん効果は絶大だ。
「ラウル、私のことも紹介して!」
「しょうがないな。夫人、この子は私の遠縁の者で、アストリット・アデールと申します」
「まぁ、可愛らしいお嬢さんだこと。おいくつ?」
「17歳です。田舎者ですが、これから親しくしていただけると嬉しいです」
アストリットがはにかんで笑うと、公爵夫人は優しく微笑んで頷いた。
「伯爵にこんな可愛い親戚がいたなんて驚きだわ。他の者にも紹介してあげるからいらっしゃい」
「ありがとうございます、公爵夫人!」
まるで孫を可愛がるような様子でアストリットの手を握ると、二人は人混みの中に消えていった。
それを見送っていると、ラウルが顔を顰めてこちらを見た。
「アストリットのようにもっと愛想よく振る舞え」
「分かっています……」
お互いに溜め息を吐くと、それからまた声を掛けてくる人と何度か会話をした。
とにかく伯爵は顔が広く、一人しゃべり終わると、また一人声を掛けてくる。その度にルネは作り笑いをして、「夫のおかげで好きな仕事ができているんです」と言い続けた。
そうして1時間ほどして、やっと一通りしゃべり終わったらしく一息ついた。
「これでしばらくはとやかく言ってくる奴はいないだろうな」
「それは良かったですね……」
ルネはもうしゃべる気力もなく、適当に相槌を打つ。
会場の中央では楽しげにダンスを踊る男女がいて、それをなんとなく見ていると、アストリットが両手にワイングラスを持って帰ってきた。
「ラウル! のど乾いたでしょ? ワインを持ってきたわ」
「ああ、ありがとう、アストリット。君は気が利くな」
ラウルはそう言うとワイングラスを受け取る。
(いちいち嫌味を言えないとしゃべれないのかしら……)
ラウルの言葉にカチンときたルネだったが、周囲の目もあると口を閉ざす。
自分ものどが渇いたし、何か取りに行こうかと視線を巡らせていると、アストリットが「あ!」と小さく声を漏らした。
その声にアストリットに視線を向けると、その手にあったはずのワイングラスが床に転がっている。
アストリットがにやりとしてこちらのスカートを見るので、その視線を追うと、自分のドレスのスカートが派手に濡れていた。
スカートに赤く染みが広がっていて、ルネは目を見開く。
「ちょっと!」
「あら、ごめんなさい。ちょっと手が滑っちゃったわ」
「なによそれ!?」
絶対わざとだと声を上げようとしたが、周囲の視線を感じてハッとした。
変に騒ぎを起こせば、面倒になりかねない。そう考えを巡らせると、ルネはぐっと怒りを堪えてにっこり笑った。
「いいのよ、アストリット。気にしないで。あちらで染みを落としてくるわ」
それだけを言うと、そそくさとその場を後にした。
メイドに水で濡らした布をもらって人気のないバルコニーに出ると、ベンチに座る。赤く染みになった場所を、ポンポンと叩くと派手に溜め息を吐いた。
「はぁ……、もう帰りたいな……」
ずっと作り笑いをしていて頬が痛いし、お気に入りのドレスは染みになるし、踏んだり蹴ったりだと肩を落とす。
もう義務は果たしたのだし、先に帰っちゃだめかなと思っていると、小走りで走ってくる足音がした。
ラウルかと思って顔を上げたルネは、目を見開く。
「エミール殿下?」
「あ、お前……、この前の……」
こちらに気付いたエミールもまた、驚いた顔をしてルネを見つめた。