第4話 書記官の仕事
元の職場に復職できることが決まり、ルネはとりあえず胸を撫で下ろした。マシューには「伯爵が働くことを許してくれたので、もう一度働きたい」と説明した。一瞬、借金のことを話してしまいたい衝動に駆られたが、それはのどの奥に押し込め、自分がやりたいからやるのだと伝えた。
ルネの仕事は商人ギルド内で行われる、ありとあらゆる会議の書記だ。城下町で取引される商品の大半が、ここで価格や物量を決められる。それを取り仕切る議長の隣で、ルネはとにかくすべての文言を書き留め、記録していくのが仕事だ。
すぐに仕事に復帰したルネは、その日夕方まで働き、伯爵家に戻った。
とりあえずこれから毎日働きに出ることをラウルに伝えるため居間に向かうと、案の定ラウルの隣にはアストリットがいた。
「すいません、ラウル様。お伝えすることがあるんですけど」
「なんだ?」
「私、今まで働いていた商人ギルドで、また働くことになりました。これから毎日、朝から職場に行きますので」
「そうか」
「商人ギルド? そんな職場で働いて、高い給金が貰えるの?」
アストリットがケーキを食べながら、馬鹿にしたように言い放つ。
ルネはそれに何も言わずにいると、また一口パクリとケーキを食べる。
「あんな大口を叩いておいて、『できませんでした』なんて言わないでよね」
「……ご忠告どうも。それより、毎日そんな甘いケーキばかり食べてると太るわよ」
「な、なんですって!?」
冷ややかな視線を向けてルネが言うと、アストリットが目を吊り上げる。
「ドレスのサイズを上げたの、ラウル様は知ってらっしゃるのかしら」
「な! なにを言って……!? ち、違うの! ラウル!! あんなの嘘よ!!」
慌ててアストリットがラウルに弁解しているのを見て、ルネは馬鹿馬鹿しいと肩を竦めると、踵を返し居間を出た。
(ちょっと鎌をかけただけで取り乱しちゃって、図星だったのね……)
ルネは歩きながら苦笑を漏らす。そうして自室に戻ると、コレットが裁縫の手を止めて顔を上げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、コレット」
「ギルドはどうでしたか?」
「また働けるようになったわ。ただ給与を上げることはできないって」
「そうですか……。ですがまずは働く場所が見つかって良かったですわね」
「うん。あー、疲れた。早速働いてきて疲れちゃったわ」
ルネはそう言うと、ぐーっと伸びをしてベッドに腰掛ける。
その姿を見てコレットは微笑むと、立ち上がった。
「お茶でも淹れましょうか」
「うん。お願いね」
コレットが部屋を出て行くのを見送って、行儀悪くそのままベッドに倒れ込む。
(また働けるのは嬉しいけど……、なんだかなぁ……)
まさか結婚した後の未来が、こんな風になるとは思わなかった。
これから1年間、死に物狂いで働いて、どうにか1千万リールを稼がなくてはいけない。
ルネは染みのある天井を見上げて、両手を握り締める。
「絶対やってやるんだから……」
どうなるかはまったく分からないけれど、それでも必ずやり遂げると、自分に言い聞かせるようにルネは呟いた。
◇◇◇
復職して一週間があっという間に過ぎた。すっかり結婚前と同じような日々に戻ったルネは、自分が既婚者になった自覚など皆無だった。
それでも頭の中は、1千万リールのことばかりがぐるぐる巡り、仕事をもっと増やさなければと考え始めていた。
「おはようございます!」
昨日の会議の発言を議事録に清書していたルネは、明るい声に顔を上げた。
ドアを開けて勢いよく入ってきた男性と目が合うと、パッと笑みを作った。
「ジャック!」
「ルネ! 久しぶり、じゃなかった! どうしたんだ!? 嫁に行ったんじゃないのか!?」
くりっとした愛嬌のある瞳を見開いて、ジャックが声を上げる。
ジャックはルネの古くからの友人で、神官兵として神殿で働いている。癖のある黒髪に青い瞳で、背も高く女性にまぁまぁ人気な人物だ。
あっけらかんとした性格で、ルネが貴族の令嬢と知っても、何も気にせず接してくれる数少ない人物だ。
「また働けることになったのよ。今日はどうしたの?」
「あ、そうだった! マシュー様、すいませんけど、書記官を一人貸してくれませんか?」
マシューの机の前まで行ってそう言ったジャックに、マシューが書き物の手を止めた。
「書記官を? 神殿にか?」
「はい、そうです。実はこれから大きな会議があるんですけど、うちの書記官が1人具合が悪くて休んでいるんですよ」
「神殿の書記官は3人いるだろう? あとの2人でやればいいじゃないか」
「それが絶対3人必要らしくて。ギルドから貸して貰えるとありがたいんですけど」
ジャックの言葉にルネが勢いよく手を挙げた。
「ジャック!」
「な、なんだ?」
「それって特別手当、出る!?」
「もちろん賃金は出すよ」
「なら私が行きます!」
臨時収入があるならもちろんやると立ち上がる。
その姿に驚いたジャックだったが、すぐに笑顔になった。
「ルネが来てくれるなら、こっちはありがたいけど」
「よし。ジャック、ルネを連れて行っていいぞ」
マシューが頷いてくれると、ルネは拳を握り締めて喜んだ。
それからすぐにジャックの後に付いてギルドを出ると、神殿に向かって歩きだす。
「いやぁ、びっくりした。結婚しても働いてるなんて思わなかったよ」
「私も驚いてるわよ」
「え?」
「ううん! こっちの話。それより、書記官が3人も必要な会議って、どんな会議なの?」
普通会議に入る書記官は1人だ。50人規模の会議になると2人になるが、そんな大きな会議はそうそう開かれることはない。
3人の書記官が必要な会議などルネは経験したことがないので、あまりピンときていなかった。
「それが国王が出席するらしいんだ」
「国王が!?」
「うん。急遽こちらの会議に顔を出すと言われたらしくて。あまりにも急だから、今文官たちは泡食ってるよ」
「そうだったの」
神殿に到着すると、ジャックの言った通り、確かに神殿内は慌ただしい雰囲気になっていた。
いつもは静かな神殿の中を、バタバタと文官たちが走り回っている。
「官長様、書記官を連れてきましたよ」
「ああ、助かる。……って、女性じゃないか」
「ええ、商人ギルドでずっと書記官をしているルネです。腕は良いですから大丈夫ですよ」
ジャックは笑顔でそう言ったが、官長と呼ばれた年配の男性は渋い顔をした。
「女性の書記官なんて、役に立つのか?」
突然、背後から厳しい声がして振り返ると、そこには身なりの良い青年が立っていた。
金髪に不思議な紫色の瞳の青年は、ルネを値踏みするように睨み付けている。
(なによ、この人……)
神官服も着ておらず、偉そうに立っている姿にルネは眉を顰めたが、ジャックは血相を変えて頭を下げた。
「エミール殿下!」
慌てて席を立った官長も頭を下げる。
「エミール殿下!?」
一瞬ポカンと口を開けて青年を見たルネは、素っ頓狂な声を上げると、二人よりさらに深く頭を下げたのだった。