第12話 精霊の声
「アストリット! 開けて!」
呼びかけに応じる訳もなく、アストリットの姿が建物の陰に隠れてしまうと、ルネは上げていた手を下ろした。
「も、申し訳ありません、お嬢様! 私が怒らせてしまったから……」
「謝らないでいいよ。アストリットのことだから、どうせ最初からそうしようとしてたんでしょ。それより、ここって他にドアなんてないよね?」
周囲をぐるっと見回して言うと、コレットがガラスを一通り見て回る。そうして弱く首を振ると、ルネは溜め息を吐いた。
「ガラスを割って外に出ますか?」
「それはやめておきましょう。ガラスなんて割ったら、弁償だなんだとどうせ騒ぐでしょ。その内誰か来るかもしれないから、しばらく待ってみましょう」
ルネの言葉にコレットも同じように溜め息を吐くと、そばに寄った。
「お嬢様、そのままでは風邪をひいてしまいますわ」
コレットは着ていたエプロンを外すと、濡れた髪を拭いてくれる。
いまさら気付いたが、すでに周囲は真っ暗になっている。屋敷から漏れる灯りで多少明るいが、これでは温室の中に人がいても見えないだろう。
「服まで濡れてしまって……、私のものと交換致しましょうか?」
「全然寒くないし大丈夫よ。それより座って」
ルネの言葉に、コレットは小さく頷くと正面のイスに座った。
「お嬢様、頭痛はどうですか? 少しは良くなりましたか?」
「うん。さっきちょっと寝たら、随分良くなったわ。アストリットに叩き起こされちゃったけど」
「アストリット様は酷過ぎます。あんなに意地悪なんて普通じゃありません」
コレットはまた怒りが戻ってきたのか、目を吊り上げてそう言うが、ルネは肩を竦めて首を振る。
「そんなことないわ。貴族の令嬢なんてあんなものよ」
「そうなのですか?」
「うん。気位ばっかり高くて、優しい人なんてそうそういないわ」
ルネがそう言うと、コレットは少し考えてからニコっと笑った。
「じゃあ、私は幸運ですわね」
「うん?」
「だって、お嬢様はとっても優しくて、相手の立場に立って物事を考えられる方ですもの。そんな方にお仕えできて、私は幸運です」
「コレット……」
コレットに手放しで褒められて、ルネは少し照れながらも笑みを返す。
「苦労ばかり掛けさせて、申し訳ないと思っているんだけど」
「何を言うんですか! 私はお嬢様と一緒にいられるなら、苦労なんてどうってことありません」
「ありがとう、コレット……」
そうして二人で微笑み合うと、後はじっと誰かがドアを開けてくれるのを待った。けれど結局、深夜になっても助けは来ず、いつしか二人はイスに座ったまま眠ってしまった。
まったく音のない静寂の中で、夢も見ずに眠っていたルネだったが、ふいに誰かの話し声が聞こえて目を覚ました。
(声……?)
暗闇の中で、微かに声が聞こえる。屋敷もすでに明かりがなくなり、今は月明りだけが温室を照らしている。
目の前にはコレットがスース―と寝息を立てて眠っている。ルネはゆっくり立ち上がると、周囲を見回した。
(確かに聞こえるけど……、これって、温室の中から?)
囁くような小さな声は、温室の外からではない。その声に何か聞き覚えもあって、ルネは視線をさ迷わせながらバラの合間を歩いて回る。
そのバラの中に、一つだけぼんやりと光るバラを見つけた。
(まさか……)
ルネはゆっくりとそのバラに顔を近付けると目を見開いた。
そこには黄色の髪の精霊がいた。バラの花に腰掛けるように座っていて、覗き込んだルネを見上げている。
光っているのはバラではなく、その精霊だったのだ。
(わっ……、こんなところにも精霊っているのね……)
精霊は城の地下にしかいないと思っていたので、まさかこんな身近にいるとは思わなかった。
ルネは感動して益々顔を近付けると、精霊の口が動いているのがはっきりと分かった。
「ルー?」
口の形は確かに「ウ」という形で、音はルに聞こえる。周囲に雑音がないからか、かなりの早口だが聞き取れる。
もしかしたら精霊一人だけなら、聞き取れるのではないかと、期待に胸がドキドキしてくる。
目を閉じて、耳を澄ませる。
「ルー……、ルーネ……?」
(え……、私の名前……?)
そんなことがあるのかと思い、もう一度確かめても『ルーネ』とはっきりと聞こえる。
(やった! やったわ!!)
思わず叫びたい気持ちをぐっと堪えて、ルネは右手を握り締める。
精霊が一人なら、確かに聞き取れると分かった。これで着実に一歩進める気がする。そう確信すると、ルネは立ち上がりコレットの元に戻った。
眠ったままのコレットを見つめて微笑む。耳を済ませると、まだ精霊の声が聞こえる。その声を聞きながら、もう少しだけ眠ろうとルネは目を閉じた。
朝になって、ガチャッとドアの鍵が開く音でルネは目を覚ました。
「こ、これは……、奥様!?」
「おはよう、良い朝ね」
ドアを開いたのは庭師の男性で、ルネの顔を見てものすごく驚いている。
コレットもその声で起きたのか、ルネと目を合わせると安堵の息を吐いた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、コレット」
やっと温室から出たルネは、朝日を見上げながら大きく伸びをする。
「お嬢様、一度部屋に戻りましょう」
「コレットは先に行ってて。私はちょっと行くところがあるから」
そう言うと、ルネは早歩きで屋敷の母屋に向かった。丁度朝食の時間だろうと食堂に行くと、ラウルとアストリットが楽しげに朝食を食べている。
ルネはずかずかと食堂に入りアストリットに近付く。
「おはよう、アストリット」
「夜通し外にいてもまったく平気そうね。なんて頑丈な身体なのかしら」
クスクスと笑いながら嫌味を言うのを無視して、ルネはアストリットに抱きついた。
「な! なにをしているの!?」
「ありがとう、アストリット! あなたのお陰で仕事の糸口を見つけたわ!!」
戸惑った声を出すアストリットに、ルネはニコっと笑みを向けるとパッと手を離す。
「温室に閉じ込めたことはこれで許してあげるから、気にしないでね!」
ルネはそう言うと、唖然とするアストリットをそのままに、颯爽と食堂を後にした。




