第1話 貧乏男爵令嬢の結婚
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ルネ・フォーレは鏡に向かい自分の顔を見つめ、浅く溜め息を吐く。あまり特徴のない顔に、艶のない栗色の髪、褒めるところがあるとすれば、空色の瞳くらいだろうか。華やかさの欠片もない自分の顔は、今日はより一層暗く見えた。
「今日で最後ですね、お嬢様」
「うん」
髪を整えてくれている侍女のコレットの顔を鏡越しに見て頷く。金髪で小顔のコレットは、自分よりもよほど華やかな容姿をしている。
そんなコレットは目が合うと、にこりと笑った。
「そんなお顔をしてはいけませんよ。おめでたい日なんですから」
「分かってるわ……」
「さ、できました。お時間もギリギリですので急ぎましょう」
「うん」
コレットに急かされて立ち上がったルネは、慌ただしく部屋を出ると階下に向かう。そこでばったり父に出くわした。
「どこへ行く?」
「仕事場に退職のご挨拶に参ります」
「結婚前にうろうろするな。何かあって困るのはお前なんだぞ」
「……分かっております、お父様」
顔を顰め小言を言う父に、ルネは口答えせずに頷く。その返事に納得したのか、父はそれ以上言葉を交わすことなく居間に入っていった。
「お嬢様……」
「行きましょ」
悲しげな表情になってしまったコレットに笑顔を向けたルネは、いつもの早歩きで歩きだすと屋敷を出た。
城下町の石畳を歩いていると、後ろを歩くコレットが眉を顰めて呟く。
「旦那様はまったくお嬢様のお気持ちを分かっていらっしゃいませんわ……」
「昔からだから気にしていないわ」
「でも! 今日くらい優しい言葉を掛けて下さってもいいと思います」
「お父様に期待なんてしてないわ。それより引き留められなかっただけでも良しとしましょう」
ルネの言葉に、コレットは肩を落とす。その様子に苦笑するとルネは前を向いた。
晴れ渡る空を見上げて大きく息を吐く。
「最後の日が、晴れで良かったわ。ね、コレット」
「……そうでございますね、お嬢様」
静かに頷くコレットに、ルネは笑顔を作る。そうして颯爽と仕事場に向かった。
ルネの働く商人ギルドの建物は3階建てで、城下町でもかなり存在感のある建物だ。ルネは職員用の通用口から建物に入ると、コレットと別れて自分の机のある部屋に向かう。
3階にある部屋のドアを開けると、直属の上司であるマシュー・ワイアットが、すでに机に向かっていた。
「おはようございます、議長」
「ああ、ルネ。おはよう」
会議を取り仕切る議長にはまったく必要のない筋肉を持て余したマシューは、50代とは思えないほど若々しい様子で、ルネはいつも元気をもらっていた。
今日でその顔が見られなくなると思うと、さすがに笑顔ではいられなかった。
「議長、あの、退職のご挨拶をしに来ました」
「あ、そうか……。今日が最後だったか……」
マシューの座る机の前まで行くと頭を下げる。
「長い間、お世話になりました」
「ああ。長い間か……。君が10歳の時からだから、もう12年にもなるのか……」
感慨深く呟くマシューに、ルネは小さく頷く。
12年前、何も分からない自分に、一から仕事を教えてくれたのがマシューだった。今では父よりもよっぽど頼りになる存在だ。
「君がいなくなると、ギルドは大変になるな……」
「申し訳ありません。突然で……」
「いやいや。おめでたいことだろう。これからは伯爵夫人か。すごいな」
「いえ……」
突然決まった結婚に、ルネの意思はまったくなかった。仕事が楽しくてずっと続けたいと思っていたけれど、こればかりは父に逆らうことはできない。
「男爵家は君が持ち直したようなものだ。長いこと働いて家を支え、伯爵家に嫁ぐだなんて、お父上はさぞかしお喜びだろう?」
「そうですね……、父はとても喜んでいます」
「エフラー伯爵家といえば、城下でも一二を争う名家じゃないか。これからは働くなんて無縁になるな」
「私は……、ずっと働いていたかったです」
つい本音が漏れてしまうと、マシューは笑い声を上げた。
「ルネは本当に働くのが好きだな。でも男爵家の令嬢が、こんな男ばかりの職場で働き続けるなんて普通はないことだ。やっと貴族の令嬢らしくなれるんだ。良かったじゃないか」
マシューの言うことは確かにその通りで、ルネは頷くことしかできなかった。
10歳の時から、実家の借金返済のために働くようになった。まだ生まれたばかりの弟のために、どうにか家の借金を返さなければならないと当時、父に頭を下げられた。
自分も家のために何かしたいと思っていたから、働くことに異論はなかった。けれどルネが大きくなってくると、次第に父は仕事をルネに任せきりになった。二人で懸命に働けばもっと早く借金を返せただろうが、結局つい最近になって、やっと全額を返済し終わった。
だがルネはそのことについて気にしてはいなかった。働くことが何より楽しくて仕方なかった。マシューが教えてくれる色々なことを吸収し、成長できる喜びの方が大きく、借金返済のことはあまり重荷に感じたことはなかったのだ。
けれど、借金がなくなった途端、父は結婚話を持ってきた。それも相手は今までまったく会ったこともない伯爵だった。
「伯爵夫人になったら気軽にこんなところには来られないだろうから、もう会うこともないかもしれないな」
「いえ! 絶対に会いにきます!」
「そうか。うん。そうしてくれると嬉しいよ」
嬉しそうに答えるマシューを、ルネはまっすぐに見つめる。今日この職場を去れば、すぐに結婚式だ。エフラー伯爵とはたった1回、顔合わせをしただけですべてが決まった。
今まで築いてきたものが、自分の意思にお構いなく取り上げられる。それが悲しくて仕方がない。それでも抗うことができないのなら、せめてお別れだけはちゃんとしておきたかった。
「議長、本当に、本当にお世話になりました」
「ああ。ルネのこれからの幸せを願っているよ」
「ありがとうございます」
ルネは深く頭を下げると、自分の机に置いておいた荷物を片付けて部屋を出た。
階下で待っていてくれたコレットと目が合うと、眉間に皺を寄せて無理に微笑む。
「ご挨拶、できましたか?」
「うん……」
コレットの優しい声に、ルネは目を潤ませて小さく頷いた。
◇◇◇
伯爵家の結婚式は驚くほど豪華なものだった。城下町で一番大きな教会には入りきらないほどの人がいて、ざっと見た限り参列者は100人以上いるんじゃないだろうかというほどの規模だった。
ルネは結婚式についてまったく何も聞かされておらず、ただ朝からウェディングドレスを着させられると馬車に乗り込み教会に向かった。普通なら先に婚家に入り、あれこれと準備をするものなのだろうが、ルネはそれを許されず結婚式まで結婚相手のエフラー伯爵に会うこともできなかった。
「ラウル・エフラー、あなたは死する時まで、彼女を愛することを誓うか?」
「誓います」
教会の司祭の言葉に、正面に立つラウルは神妙な表情で答える。ルネはその顔をベール越しにまじまじと見つめた。
ウェーブのかかった金髪に垂れぎみの青い瞳は優しそうな雰囲気で、整った容姿をしているのはルネにも分かったが、好みかと言われればよく分からなかった。
(この人が、私の旦那様になるのか……)
社交界も数えるほどしか出席していないルネは、ラウルがどんな人なのかまったく分からない。それでもどう見ても女性が放っておかない人だということくらいははっきり分かる。
(なんで私を選んだのかしら……)
ラウルは同い年で、去年父親が急死して伯爵位を継いだという。若き伯爵で、これだけの顔ならば、女性は引く手あまただろう。なのになぜ縁もゆかりもない貧乏男爵の娘との婚姻を選んだのか、皆目見当がつかない。
「ルネ・フォーレ。あなたは死する時まで、彼を愛することを誓うか?」
「……はい、誓います」
ルネが返事をすると、ラウルがにこりと笑う。その顔を見て、少しだけ不安な心が和らいだ。
「それでは、誓いのキスを」
司祭の言葉に、ラウルがルネの顔に掛かるベールを上げる。間近で見たラウルは少し照れた顔をして、触れるか触れないかというほど微かなキスを額にした。
子供にするようなキスは、緊張していたルネにとっては少しだけ拍子抜けしたような、でも嬉しいような不思議な感覚にさせた。
教会の鐘が鳴り響き、会場には拍手が満ちて、結婚式は終わりを告げた。
馬車に乗り伯爵家に向かうと、実家とは比べようもないほど大きな屋敷に圧倒された。案内された部屋も煌びやかで、思わず口を開けて見渡してしまうほどの豪華な造りだ。
「お嬢様……、すごい部屋ですね……」
「そうね……、全部高そうで触るのが怖いわね……」
ピカピカに磨かれた調度類は、複雑な彫刻がされていて、少しでも手荒く扱おうものなら、すぐに壊れてしまいそうだ。
「奥様、お着替えをお手伝い致します」
「あ、え、ええ……」
伯爵家のメイドに『奥様』と呼ばれて、ぎこちなく返事をするルネに、コレットは苦笑すると着替えを手伝いだす。
「これからは『奥様』と呼ばれることに慣れなくてはいけませんね、お嬢様」
「コレットもね」
「あ! そうでした。わたくしも『奥様』と呼ばなくてはいけないんでした」
ルネのボタンを外しながら、コレットは肩を竦める。婚家に連れてきたのはコレットだけだ。幼い頃からずっと一緒にいてくれたコレットが、自分から共に来ると言ってくれて本当に嬉しかった。
ウェディングドレスを脱いでいつもの着慣れたドレスに着替えると、ルネは少し緊張しながら階下に向かった。
ラウルとまともに会話をするのは、これが初めてに近い。今日この日からやっと知り合いになるようなものだ。形ばかり夫婦になったとはいえ、まだまだ他人も同然だ。
これからたくさん会話をして、分かり合っていかなくてはいけない。
(なんだか結婚式より緊張するわ……)
仕事場に男性はたくさんいたし、仕事の会話ならいくらでもしてきたが、恋愛なんてもちろんしてこなかったルネにとっては、何を話していいかまったく頭に浮かばない。
「コレット、何を話せばいいかしら」
「え? えーと、そうですね。まずは結婚式が無事に終わって良かったとか、そういうお話をしてみてはいかがでしょう」
「ああ、なるほど……」
「お嬢様ったら……」
コレットが背後で盛大に溜め息を吐くのを聞きながら、ルネは居間の扉を開けた。広すぎる居間にはたくさんのソファやイスがあって、グランドピアノまで置かれている。
壁にはたくさんの動物の剥製が飾られ、思わずそれを見上げながら足を進めると、遠くから咳払いが聞こえた。
「あ、えと、ラウル様、」
慌てて視線を戻し、ソファに座るラウルに目を向けたルネは、ピタッと足を止めた。
ラウルしかいないと思っていたソファには、なぜか隣に座る者がいた。
(え……、誰?)
ラウルの隣にぴったり寄り添うように座っているのは、黒髪の美少女だった。自分よりかなり年下に見える若い女性は、ルネを見るとにこりと笑う。
「やっと来たわよ、ラウル」
「ああ」
女性が高い声でそう言うと、ラウルは冷えた眼差しをルネに向けた。