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6(悪いことは、いつもとても静かに起こる)

 それからしばらくのあいだ、世界は確かに平和だった。変わったことは何も起こらず、物事は概ね満足すべき状態で、空は青く、白い雲が悠揚と流れていった。猫があくびでもしていそうな毎日だった。

 藤江洋品店は相変わらずの閑古鳥で、店番をする父親にこそはたきをかけたほうがよさそうなくらい暇だった。もしもハンガーにかけられた服たちが口をきけたら、悟りの境地に達するくらいの諦観を語ってくれたかもしれない。

 あたしと吉野は、何度かノリコさんのスナックを訪ねた。行くたびに、何か飲み物を奢ってもらえ、おっさんたちのどうでもいい会話や歌を聞くことができた。客が誰もいないときには、一曲歌ってみれば、と勧められたけど、二人とも断った。吉野は言うにおよばず、あたしも人前で歌をうたうなんてタイプの人間じゃない。

 そんなふうにして、ゴールデンウィークも過ぎていった。特にどこにも行かず、何もせず、ただ時間の流れにお椀を浮かべてのっかっているみたいな、優雅な毎日だった。およそ考えられるかぎりで、最大限に有意義な時間の使いかたではある。

 ゆるみきったゴムみたいな連休が終わったあとも、それは続いていた。あたしたちは空疎でとりとめがないとはいえ、凶事も災厄も不幸もない日々を生きていた。それはつまり、この世界でもっとも望ましい状態ということだ。

 でももちろん、本当はそうじゃなかった。世界はそれほど親切にはできていない。

「悪いことは、いつもとても静かに起こる」

 祖母はよく、そう言っていた。とても暗い声で、とてもしみじみとした声で。

 小学生の頃のあたしは、その言葉の意味や実感についてはほとんどわかっていなかった。祖母の口調や表情、それが語られる状況から、ただ何となく底気味悪さを感じとっていただけ。怖い話や、お化けの出てくる話と同じで。

 でも、祖母の言うことは正しい。

 あの時に起こったのは、つまりはそういうことだった。それはとても静かだったし、とても悪いことだった。

 ――あたしは今でも、そう思っている。


 それは、体育の時間のことだった。

 授業内容は面白くもおかしくもない「マラソン」。四百メートルほどの校庭を十周して、タイムを計る。スタート地点にはでかいデジタル時計も設置されていた。こんな備品を購入する予算があるなら、もっと別のところにまわして欲しい。

 二クラス合同授業で、人数だけはなかなか多い。先生たちの指示に従って準備体操をすませ、各自スタートラインに立った。午前中だったけど、陽ざしも気温もなかなかだった。太陽は小犬が駆けまわるくらいには元気である。

 かんだかい笛の音が響くと、みんながいっせいに走りだした。こういうのは、スタート直後だけはみんな元気なのだ。未来の苦労やしんどさを想像するのは、例え三十分後でも難しい。

 それでも一周回る頃には、走者の集団はいくつかに別れていた。足の速い少人数が先行し、大部分が中ほどでばらけている。最後尾はやる気がないか、鈍足のグループだった。

 前にもちょっと言ったけど、あたしは足だけは速い。たいして運動神経がいいわけでもないけど、()()()()は得意なのだ。あたしはトップ集団の何人かに混じって足を動かしていた。

 実際のところ、走るのなんて特にコツがいるわけじゃない。本当はいるのかもしれないけど、意識したことはない。できるだけ速く、強く、疲れないように足を動かすだけのことだった。あたしは走っているとき、不思議と集中力が増すのだ。いつも、ここじゃないどこかへ行きたい、と思っているせいかもしれない。

 規則正しく息を吐きながら、一定のピッチを保って足を動かす。そうすると、体が勝手に前へ運ばれていく。空気をかきわけて、景色が後ろに流れていく。

 一周目のタイムは、二分弱ほど。悪くないペースだった。

 異変に気づいたのは、二周目に入ってしばらくした時のことだ。

 吉野の姿を見かけた。彼女は中ほどの後方で、ぽつんと一人で走り続けていた。彼女の体力や運動神経がどれくらいなのかは知らない。深窓の令嬢みたいな古典的美少女よろしく、そういうのは不得意なのかもしれなかった。

 ただ、横を通りすぎるときにちらりとうかがってみると、彼女の様子はどこかおかしかった。顔色も冴えないし、わずかだが足をひきずっているようにも見える。

「――――」

 あたしは気になりつつも、そのまま走り去っていった。あたしは余計なお節介を焼くようなタイプじゃないのだ。

 それでも、三周目に同じ姿を見かけたときには、さすがに不安感を覚えた。同じ姿というか、吉野の状態は悪化しているように見えた。もう誰もいない最後尾を走っているし、走っているというより歩いている。露骨に足をひきずっているし、脂汗みたいなのもかいていた。顔面は蒼白に変わっている。

 あたしは通りすぎてしばらくしてから、立ちどまった。同じペースで走っていた何人かが、二段ロケットから切り離されるみたいにどんどん小さくなっていくのが見える。

 ちょっとため息をついてから、あたしは吉野のほうに引き返した。彼女はさっきの場所から、ほとんど動けていない。

「何があったか知らないけど、その足で完走は無理なんじゃない?」

 吉野は無言で、あたしのほうを見た。見る人間が見れば、不埒な劣情を抱いてしまいそうな、官能的かつ苦しげな表情をしている。

「保健室に行ったほうがいいんじゃないかな」

 あたしが提案すると、よほど状態が悪いらしく、吉野は反論も抵抗もせずにうなずいた。引っ込み思案と頑固も、緊急事態には勝てないらしい。

 右の肩を貸して、あたしは保健室に向かった。吉野は左足をひきずっている。そっちに何か問題があるらしい。この暑いのにわざわざジャージのズボンをはいているせいで、はっきりした原因はわからなかったけれど。

 体育教師に断ってから校舎に戻ってみると、授業中だけあって「しん」としていた。学校の一部だけが引っ越しでもしたみたいな静かさである。玄関で靴をはきかえようとすると吉野が痛がったので、スリッパを持ってくる。

 保健室には女の先生が一人でいるきりだった。ひっつめ髪にした、やけに陽気な四十代のおばさんである。金縁をした眼鏡をかけていた。たぶん、それは伊達ではないだろう。

「ありゃりゃ、一体どうしたんかい」

 その人――谷川(たにかわ)、とネームプレートには書いてあった――は、えらく大げさな仕草で吉野のことをのぞき込んだ。

 診察用のイスに座った吉野は、怯えたように少し身を引く。けど、ここまで来て逃げることなんてできるわけがない。それに、痛みも相当だったのだろう。

「その……足を、痛めて」

 錆びついたゼンマイを軋ませるみたいにして、吉野は言う。

「足のどの辺?」

「……ここです」

 言って、吉野は左足のジャージを裾のほうからめくった。

 谷川さんは立ちあがってから、見やすいように吉野の足を自分が座っていたイスの上に乗せる。それを見ると、吉野の左足には、足首に近い脛のあたりに青黒い痣があった。そうしてそれが、傍目にもわかるくらい腫れている。どうりで、走れないわけだ。

「こりゃ、ずいぶん派手にやったもんだわね」

 と、谷川さんは足をさすったり捻ったりしながら言った。吉野は軽く痛みにうめく。

「――骨折はしてないと思うけど、打撲と軽い捻挫ってところね。打撲のほうは、特にひどいみたいだわ。時間もたってるし」

 それが、谷川さんの診断だった。それから当然のこととして、谷川さんは訊いた。

「一体、どうしてこんなケガしちゃったわけ?」

「――――」

 一瞬、吉野は言葉に詰まったみたいに黙った。アクセルとブレーキを同時に踏んだ、という感じで。

 けどあたしには、その理由が何となくわかった。そして思ったのは、ここで本当のことを告げてしまうべきだろうか、ということだった。吉野が日常的にどんな目に遭っているか話せば、きっと大きな問題になるだろう。そうすれば、事態が少しは好転するかもしれない。

 もし、あたしがそうしていれば――

 とはいえ、それは今となってはわからないことなのだけど。

 あたしがもう少しで口を開きかけた、というところで吉野は言った。蝶の羽ばたきに似た、かすかな震えを帯びた声で。

「あの、よそ見をしていたときにぶつけちゃって――」

「うん?」

「友達と歩いてたときに、建物のでっぱりに気づかなくて」

 谷川さんは吉野の顔を見て、傷ついた左足を見て、それから考えぶかげに腕組みをしてから言った。

「ぼうっとしてたらいかんで」

 と、谷川さんはおかしそうに笑った。

「それにケガしたときに、早めに処置すべきだったわね。ずいぶん痛かったでしょ、その時」

「……はい」

「せっかくのきれいな足が台なしよ、これじゃ。まあ痣にはならないと思うから、安静にしてれば大丈夫」

 谷川さんは吉野の足をアルコールで拭ってから、湿布とテーピングを施した。それから、症状が悪化するようなら病院に行って詳しく診てもらいなさい、と助言する。

「ところで、何の授業だったの?」

「体育で、マラソンです」

 と、これはあたしが答えておく。

「ありゃりゃ、そりゃ無茶でしょ。走れるような足じゃないから、これは。円谷選手も真っ青だわね」

 円谷?

「まあ先生のほうには私から報告しておくから、あんたたちはここで休んでなさい……と、あんたのほうはどこも悪くないの?」

「あたしは薄幸の美少女って柄じゃないんで」

 谷川さんはあたしの言葉におかしそうに笑った。見ため通りの陽気な人ではある。

「あんたは授業に戻るなり、ここにいるなり、好きにしていいわよ。お友達も一人じゃ寂しいだろうしね」

 谷川さんはそう言うと、あたしたちの名前を聞いてから保健室を出ていった。部屋にはあたしたちだけが残され、急に自分たちの存在を思い出したみたいに静寂が戻ってくる。

 とりあえず、あたしは吉野をベッドのほうに移した。そこに座らせて、あたしも近くにあったイスに座る。それから、言った。

「あんたに友達がいたなんて知らなかったよ。少なくともそれ、あたしのことじゃないよね? あたしはあんたが足をぶつけたところなんて、見てないわけだし」

 吉野は顔をうつむかせて黙っていた。あたしは自分でもよくわからない種類のため息をついてから、言う。

「……それ、親父さんにやられたわけ?」

 しばらくして、吉野はこくんとうなずいた。人が動作として認識できる、ぎりぎり最低限のところで。

「何でまた――?」

 無駄かと思いつつ、あたしは訊いてみた。吉野はこの件に関しては、あまり話したがってはいないみたいだったから。

 けど、吉野は口を開いた。うつむいたままで。

「コップを片づけちゃったから」

「……?」

 意味がわからない。

「テーブルの上にコップが置いてあったから、洗って戸棚にしまったの。そしたら、お父さんがものすごく怒りだして。まだ使うつもりだったのに、人のものを勝手に片づけるやつがあるかって」

「……それで、殴ったわけ? あんたのことを」

 吉野はまた、小さくうなずく。

「でも普通、こんなにひどくはならないんじゃない?」

「バットがあったから」

 さすがに、言葉が出なかった。

 それからあたしは、不意に気づいて吉野の上着をめくりあげた。下着も肌もあらわになって、ついでにいくつもの痣や正体不明の傷痕も露出する。

 どうりで、着替えの時間にいつもみんなといっしょにいたがらないわけだ、とあたしは納得する。

 吉野の体の傷痕には、明らかに治りかけのものや、もうほとんど跡も見えなくなっているものもあった。つまりそれは、吉野の耐えてきた時間の長さを物語っている、というわけだった。積み重なった地層が、地球の歴史を表しているみたいに。

「…………」

 黙ったまま、あたしはそっと上着を元に戻した。吉野はそのあいだ、じっと動かなかった。何だか、死体を棺桶に戻して、地面に土をかぶせているみたいな気分だった。

 あたしたちはずいぶん長いあいだしゃべらなかった。電気が消されて薄暗くなった保健室には、窓からの光が透明な砂粒みたいに注ぎこまれている。時々、正体不明の物音がどこかから聞こえてきた。

 よほど時間がたってから、あたしは訊いてみた。

「どこか、行きたいところは?」

 吉野は珍しく、ほとんど即答した。

「――海へ」

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