父の仕事
私は父が嫌いだった。
父は寡黙で言葉数が少なく、家で声を聞いた回数も記憶の限りではそれ程多くない。
私が、友達もやっているからとごねて始めさせてもらったピアノ教室をすぐに辞めたいと言った時も、テレビでプロの試合を観てやりたくなったバレーボールを練習の厳しさから辞めると言った時も。
母が、「なんですぐに諦めるの」「もったいないわよ」とせせこましく、身振りを交えて騒々しく説得を試みている最中にも、父は、一つ同じテーブルで食事を取っている際の出来事なのに、口を開かずに腕を組んで頷いているだけだった。
ついこの間、私の進路の話になった時も、私が公立高校ではなく芸術コースのある私立の学校に行きたいと言った時、やれ就職難だから進学校に行くべきだと騒ぎ立てたのは母だけで、父は私の方を見つめたまま黙りこくっていた。
呆れた私がリビングから出て行こうとして、母が涙声になりながら私を呼び止めた時にやっと父が口を開いて発した言葉がこうだった。
「俺たちに出来る事はここまでだ。後は、本人の気持ちに任せるしかない」
本人次第、本人に任せる。
話している事が少ない父が、よく言っていた台詞だ。どんな時でも、私と母が言い争いをした後には、父はいつもこの台詞を母に言っていたのを覚えている。
私はそんな父の、放任的で楽観的な、冷たい言葉が大嫌いだった。
思春期特有の反抗。エディプスコンプレックスと呼ばれる、子どもが異性の親に対して持つ一般的な、よく見る反発。そう言われてしまえばそれまでの可愛らしいものに思われるけど、私と父は中学の三年間でほとんど口を聞かないで過ごしてきていた。
中学三年の十一月。
受験生真只中の時期になり、私が通う中学校も、試験に向けてクラスメイトは真面目に机に向かう人達が多くなっていた。
私と友人たちもその類で、休み時間には昨晩観たドラマの話やネットで話題のアイドルグループの話で盛り上がっていたけれど、この時期になってからはもっぱら進路について話し合う事が多くなっていた。
「桜はさあ、やっぱり私立に決定なの?」
数学のワークを解いていると、私の前に座っている彩夏が話しかけて来る。
顔はこちらに向けず、同じように数学のワークに目を向けたままだった。
「どうだろう。お母さんがめっちゃ反対してるんだよね」
答えながらちらっと目線を手元から彩夏の方に向けると、彩夏の手元ではシャーペンがくるくると回されていた。
「お父さんは?」
「いつも通り。我関せずって感じだよ、あの人は」
思い出したくない人の事を口にして、思わず表情が歪む。ついでに問四の文章問題も訳が分からなくて、集中が途切れてしまった。
「てか、証明問題の問四、何言ってるのか分かんないんだけど」
「桜と桜のお父さん、ほんと仲悪いよね」
言いながら彩夏は身体をこちらに向け、私の手元にあるワークに顔を覗き込んでくる。私も彩夏が見える様にワークを横向きにしてあげた。
ああこれねー、と顎に手を当てて首を傾げる。私たちの担任の真似をしながら彩夏はうんうんと頷いている。
「分かる?」
「分かんない。今日塾の先生に聞いてみようよ」
「やっぱり。冬美ちゃんの真似したからそうなるんだろうと思ってた」
私と彩夏はふふっと、軽蔑を交えた笑いをしあった。冬美ちゃんじゃ駄目だったかーと彩夏は頭に手を当てて舌を出す。
冬美先生、通称冬美ちゃんは私たちの担任であり、色白で、髪長い大人しい女性の先生だった。
いつも少し怯えている様で、授業中に騒いでいる男子を注意する時も困った顔で見つめている事が多かった。
大抵、大きな声を出して制止する事の出来ない冬美先生は、女子からは頼りにされておらず、男子も気にかけていなかった。
騒いでいる男子は、私たちのクラスのまとめ役の女の子が痺れを切らして声を上げることで静めていた。終始冬美先生は困っている様子を私たちに見せているだけだった。
冬美先生は困っている時には必ず、顎に手を当てて首を傾げているので、私と彩夏はよくその真似をしていた。
宿題が終らない時には二人でその仕草をするし、ファミレスで一緒に勉強している時には、メニューを決める時に冬美先生が登場していた。
「うちも進路のことで親ともめてさ、一昨日から口聞いてないんだよね」
すっかり数学のワークの事を諦めた私たちは、愚痴大会に移行していた。
「そんなのしょっちゅうだよ、うちなんて」
「桜のお父さんは良い方だよ。うちのパパなんてガミガミ勉強しろ勉強しろってうるさいもん」
頭に両手で角を立てるようにしながら、彩夏は顔をしわくちゃにしながら言う。
「パパは何かしら手に職を付けた方がいいぞって五月蠅いんだけど。なんかあんまり言われるとその気じゃ無くなっちゃうんだよね」
「あんまり口出されるのもめんどくさいんだね」私が味わった事のない苦労を想像してみるけど、あんまりイメージが湧かなかった。
「彩夏のお父さんってなんの仕事してるんだけ」
「たしかどっかの会社の部長だった気がする」
「部長なら偉いんじゃん」
「いつも家でも電話してるし、偉そうだよ」
偉そう、という表現は揶揄も込められているように感じられる。
「なんかさ、私にもだけど、会社の人にも口五月蠅い感じなんだろうね。ああしろこうしろって」
やんなっちゃうよね、と同意を求められるので、だねっと返した。
「その点桜パパは良いよね。何にも言ってこないし、静かで」
「何にも言って来ないっていうか、考えてないだけだよ」
「桜のお父さんって仕事何してるんだっけ」
「うちは、病院で働いているよ」
「えっ、じゃあお医者さん?」
「ううん、医者ではないって言ってた」
「じゃあ看護師さん?」
うーん、と答えに悩んでいると、チャイムが鳴り出した。
さっきまで廊下で騒がしくしていたクラスの男子が、他クラスの男子に大きな声で何かを言った後に小走りで教室に入ってくる。同じように教室に戻ってくる女の子とぶつかりそうになって、笑いながら謝っていた。
女の子の方も、小言を言いながら笑っていた。
その手前で、本を読んでいた眼鏡の男子がそそくさと本をしまって、机の中から国語の教科書とノートを出している。
「やば、次おかけんの国語じゃん」
彩夏が身体を向き直して授業の準備を始めたので、私も慌ててワークをしまった。
机の中をごそごそといじりながら、私は彩夏の背中に向かってさっきの質問に答える。
「看護師でも無いんだよね」
「じゃあ何やってるの?」教科書を引き出しから机の上に出しながら、彩夏と話を続けた。
そんな折に国語教師は教室に入って来て、クラスのみんなに席に着くよう促した。
教室の後方の入り口から、国語の教科書を持って慌てた様子で男子が二人入ってくる。恐らく自分のを忘れて、他クラスから借りて来たのだろう。安堵の笑顔を浮かべながら息を切らしていた。
日直の子の、間延びした「きりーつ」という合図に、ずっと座ってした大人しい子も、今丁度席に着こうとしていた子も、そして準備に手こずっていた私と彩夏も反応して立ち上がった。
窓の外では、葉の落ちた木の枝が風に揺れていて、校庭では落ち葉がグラウンドを巡っている。
「作業療法士、してるんだって」
私が彩夏に言うのと同時に、「れーい」という掛け声がかかり、教室全員で一礼をする。
礼をしながら聞いていた彩夏は、「ちゃくせきー」と声がかかり、席に着く際に私の方に一瞬振り向いて聞き返してきた。
「え、何?」
「ううん、何でもない」私もよくわかんない、と小さな声で彩夏に言う。秋の風に震える窓ガラスの音が、カタカタと私の声と重なった。
黒板の前に立つ国語教師が、口元の髭を触りながら「授業を始めるぞー」と教室全体に向けて大きな声で言ったので、私と彩夏の話はそこで終わりになった。
父の仕事についてはあまり詳しくなかった。
昔母から聞いた話では、病院でリハビリの仕事をしていると聞いてはいたけど、具体的にどんな事をしているのかとか、どのような働き方をしているかは聞いたことがなかった。
小学生の頃、夏休みの宿題で「両親の仕事を調べてくるように」と学校の先生に言われたことがあった。
周りの友達と、どうやってその宿題をやるか話した時、一人の子が「パパの職場に連れて行ってもらった」と意気揚々と話していたのを覚えている。
その子の父はスポーツインストラクターをしていたらしく、実際に現場で選手とやり取りをしている父親の姿を見て「かっこよかった」と笑顔でみんなに話していた。
私も、病院で働く父の姿が見られていたら、今こんなにも険悪な仲にはなっていなかったかもしれない。
当時の私は、その子と同じように、父の職場に連れて行ってもらいたいと母にお願いをした。
母も嬉しそうに、「それは良いわね。パパにお願いしてみましょう」と一緒になって賛成してくれていた。
父の仕事終わり、夜の八時過ぎになって、父が家に帰ってきた時に私はその事を父に伝えた。
絶対に連れて行ってもらえると思っていた私は、病院で働く父の姿を、家では見られない様子を見られるのが楽しみでしょうがなかった。
でも、父は私の話を聞いて、少し考えてからこう言ったのだ。
「俺の一存では決められないな、患者さんの迷惑になるかもしれないし。何より感染対策で患者さんの家族の面会だって制限している状況だ。俺の娘だからって病院の中に来るのはあんまりいいことじゃないだろう」
思っていた返事とは違う父の返答がショックで、私は泣いてしまったのを覚えている。
泣いている私を見て母が駆け寄り、父にどうしても駄目なの?とせがむ様に聞いてくれていたけど、父はうーんと首をなかなか縦に振らなかった。
結局母が折れる形になり、「患者さんのことを考えたらしょうがないわ」と私を説得して話は終わってしまった。
変わりに父にどんな仕事内容なのかインタビューすることにしようと母が言ってくれたのだが、臍を曲げた私がそれで納得するわけも無く、結局父では無く母の仕事のことを調べることで私は宿題を済ませた。
夏休み明け、みんなが少し誇らしげに自分の父親の仕事の話をしている中で、私は父の仕事のことをみんなに話せないでいることが悔しかった。
リハビリ、作業療法士と、覚えた事だけをみんなに話したけど、みんなが「なにそれ?」とピンときていない様子だったので、その先は私も「よく分かんない」と笑って誤魔化していた。
父の仕事について、それ以降で知りたいと思った事は何回かあったけど、そもそも父と会話をする事自体少なくなってしまったので、結局よく知らないまま今に至っている。
国語の授業が終わるチャイムが鳴って、張り詰めていた空気がどっと緩んでいく。国語の先生が始まりと同じように、髭を触りながら「はい、じゃあ号令」と日直に挨拶を促した。
起立し、礼をして、6時限目が終わった私たちは掃除の準備を始めた。
私が机の中に教科書とノートをしまっていると、先に片付けを終えた彩夏が私の横にやってきた。
「桜、今週どこ掃除?」
「んーとね、」と、黒板に張り出されている掃除当番表に目を向け、少ししてから答える。
「あ、私教室の窓ふきだ」
「え、一緒じゃん!じゃあ一緒にバケツに水組みに行こ」
「いいよー」と返事をして、私は自分の机を前に運ぼうとした。
机の両端を持って、机を持ち上げた時、彩夏が私に「あ、桜、まだ駄目」と言った。
「え、なんで?」
掃除の為に机をどかそうとしていた私は、急に制止させられたので、せっかく上げた机をガタンと音を立てて落としてしまった。
さほど大きくない音だったが、近くにいた男子が「うおっ」と小さく驚いた声を出してこちらを見て来るので、恥ずかしがりつつ「ごめん、」と小さく誤った。
「なんで駄目なの?」
恥ずかしい思いをした私は、急に動きを止めて来た彩夏に早口で聞いた。
「だって、まだ桃子ちゃんノート書いてる途中だよ」
彩夏は自分の前の席を、私の席から二つ前の席に座っている女の子を指さしながら言った。
「あ、桃子ちゃんまだ書いてたんだ」
ピンク色の丸レンズをかけた、私より少し背の低い桃子ちゃんを見て私は納得した。
桃子ちゃん、と私たちから呼ばれているその女の子は、少し特別な子だった。
言葉を話したり、聞いたり、読んだりするのが少し苦手で、私たちのクラスの誰よりも黒板の文字を読むのに時間がかかっていた。
私たちが話しかけても、質問の答えに少し間が空いたり、返事が返ってこないことも度々あった。
特に話す方では、国語の授業で教科書の音読で桃子ちゃんが当てられると、桃子ちゃんの喋りが独特で、私たちが音読するのと比べたら舌足らずで幼稚な様に聞こえてしまうのだった。
私や彩夏は、その話し方が何だか可愛らしくて、彼女をちゃん付で呼んでいる。
でも、クラスメイトの中には桃子ちゃんのことをよく思っていない人もいた。
返事が遅いからという理由で元気で活発な女の子たちからは少し煙たがられてしまうこともあるし、男子の中には音読の最中に嘲笑を浮かべている人も多かったし、中にはその変わった話し方をふざけて真似する人もいた。
今も、私たちは桃子ちゃんが板書をするのが遅いことに納得してはいても、教室の掃除を早くしたいと思っている男子が数人、迷惑そうに桃子ちゃんの方を見ているのが分かる。
「桃子ちゃんのこと、普通に待ってあげればいいのにね」
早く帰りたいからってさ、と彩夏は小さく吐き捨てるように私に言った。
私も早く掃除を終わらせたいとは思うけど、別に彼ら程急かしている訳ではなかったし、桃子ちゃんが悪い風には言いたくなかったので「そうだよね」と彩夏の意見に賛成した。
大きな声で、それこそ本人たちに直接言う訳ではなかったけれど。
「自分達だってふざけてて掃除が遅れる時だってあるのにね」
彼らが一様に、自分たちの思い通りにならないことを桃子ちゃん一人のせいにしていることが妬ましく、顔は彩夏の方に向けながら私は、彼らの方に視線を向けながら言った。
でも、これ以上話していると、彼らの視線がこちらにも向きそうだったので、彩夏の手を引いて「行こう」と廊下の方へ歩き出した。
手を引かれている彩夏が「待って、バケツバケツ」と言うまで、私は彼らの方を睨み続けていた。
「ちょ、桜引っ張り過ぎ!」
彩夏に言われるまで、思いの他強く彩夏の手を握っている事に気付かなかった私は、言われて反射的に手を離した。「あ、ごめん」と言葉も無造作に口から出る。
彩夏の袖口は、私の興奮を示す様に少ししわになってしまっていた。
廊下に出て、もう水道の目の前に来ている事も分からなかった。
周囲の人たちも、怪訝な目をこちらに向けていた。
多分、私たちが喧嘩をしていて、私が彩夏をどこかに連れて行こうとしているように見えたのだろう。奥の方では他クラスの女子二人が、顔を見合わせながらひそひそと話しているのが見える。
彩夏に悪い事したな、と思い、不安げに顔を向ける。
「あー、しわくちゃになっちゃったよー」と袖を撫でつつ、間延びした声を出している彩夏は、一通り撫で終わった後に私の方を見た。
笑いながら「弁償!」と右手の平を向けて来たので、それ程怒っていないことが分かり安心する。
「ごめん」
「いいよ!その代わり、フレンチクルーラーね」
「塾の帰りでもいい?」
「いいよ、いいよ」この場合のいいよは、多分買わなくていい、という意味ではないのだろう。
「コンビニのでもいい?」
「ノン!ちゃんとした所のがいい!」
「分かりました」
彩夏の手に手を重ねて、要求に臨む姿勢を示した。
にひひ、と彩夏が意地悪く笑うので、私も連られて笑顔になる。
周囲の人もそれを見て、大事ではないと分かったのか、もうこちらに目を向けなくなった。
私たちが注目されていた一瞬はやや静まり返っていた廊下も、その注意が分散したことでいつもの賑やかさを取り戻した。
わいわいと、聞こえる声が誰から発せられているか分からくなる。
廊下の隅にも人がいて話しているのだろう。声が反響して聞こえてきて、見える範囲での人数以上に人がいる様に感じた。
この分だと、誰も真面目に掃除していないんだな、と思った。
「にしてもさぁ、桜急に怒ってどうしたの」
「えっ」
「えっ、て男子の方睨み付けてたじゃん」私たちの教室の方を指さしながら彩夏は言う。「凄い勢いだったし。バケツ持ってくるの忘れちゃったよー」
「そ、そんな睨んでたかな」ちらりと目を向けてただけ、本当のことを言えば嫌悪感をむき出しにして目を向けていたのだけど、対外的には示さない様にしていたつもりだった私は、彩夏に指摘されて焦った。「男子達も、気付いてたかな」
「んー、どうだろ。大丈夫じゃない?」
「本当に?」
「んー、」
私が念押しに確認すると、彩夏も少し表情を曇らせた。今度は冬美ちゃんの真似では無く、顔を下に向けて本気で悩んでくれている。
「ちょっと、ちょっとだけこっち見てた、かな」
「誰が?」
「誰が、っていうか、みんな?」
「みんな、」男子全員を敵に回したような言い回しに、私は言葉に詰まる。
「そんなに、私睨んじゃってたかな?」
不安になって再度同じ質問を彩夏にする。
「睨んで、はいたと思うけど、」彩夏も流石に言葉を濁してくれていた。「でも大丈夫だよ。分かんないけど、男子もめっちゃ怒ってる感じでもなかったし」こっちを見てたくらい!と笑顔になってもくれた。
「そっか、大丈夫かな」
「それよりさ、桜が怒ったことのが大事だよね」
「え?」
「桜が何で怒ったのかの方が気になる」
彩夏は言いながら、「そういえばバケツ持ってこなきゃ」とも言ったので、私たちは教室の方へ歩き出した。
廊下を箒で掃いている人たちをよけながら、時に縦に並びながら私たちは歩く。
「そんなに怒ってないよ」
雑巾で廊下を拭く人とぶつかりそうになり、謝りながら、私は彩夏に弁明した。
後ろから付いてくる彩夏は、私を見ていたので上手くその人を避けながら続いて来た。
「でも怒ってたでしょ?」
「うん、」ほんの少し前の教室の光景を思い出しながら、私は私の気持ちを振り返る。「だって、桃子ちゃんにさ」
「桃子ちゃん?」
「そう。桃子ちゃんにさ、最近みんな冷たいなって思って」
みんななんだ、と彩夏は驚いていた。随分対象が広いですなぁと感嘆の声を挙げる。
「確かにみんな受験前で焦ってるのは分かるんだけど、クラスのみんな、桃子ちゃんに冷たい気がして」
「そうかなぁ」
「確かに桃子ちゃんはちょっと変わってるし、ノートに板書するのも遅いけど、それが桃子ちゃんなのにさ、」
改めて口にすると、私の違和感を表すのが難しい事に気付く。
「んー、」と彩夏も返事に困っていた。考えた後で、「でも、ノート書くのが遅いのは困るよ。次の授業までに黒板消す時とか」と続けた。
「そうなんだけど、」と何かしら主張したかったが、言いたい事が上手く出てこなかった。
「そうなんだけど、なんかさ」
「なんか?」
「同じクラスなんだし、もうちょっと優しくというか、」優しい、という抽象的な言葉しか結局出てこなかった。
「そうだねぇ」と彩夏も何となくの返事をするしかなさそうだった。
「何となく、うん。分かる」
「ありがと」
稚拙な私の意見に賛同してくれた彩夏に、私はお礼を言った。
「せっかくなら、みんな仲良く、がいいよねぇ」
「そう、思う」
ふわふわとした会話をしながら教室に戻って来た私たちは、入り口の目の前までやって来てから、「あれ、何をしに来たんだっけ?」と目的をすっかり忘れていた。
窓の外の冷たい空気とは違い、教室の中からはけたたましい声が響いていた。
そういえばバケツを取りに戻って来ていた私たちが、騒がしい声のする教室の中に入ると、ついさっきまでの光景とは別の様子があって驚いた。
心底驚いた時は、身動きが取れなくなるというのは本当だったらしい。
教室の入り口でそれを見た私たちは、道を塞ぐ様に横並びになりながら立ち尽くした。
後ろにある廊下とは別世界になったような景色が、教室では広がっている。
廊下の騒がしさとは全く異なる、感情の種類の違う声に挟まれる形になっていた。
「え、何どゆこと?」
小さく彩夏が言うが、返答は出来なかった。
私も同じ気持ちだったし、分からなかったからだ。
何故、桃子ちゃんが自分のノートをビリビリに破いては男子たちに投げつけているのか。
その桃子ちゃんの顔が、怒りに満ちた顔をしているのが。ピンクの眼鏡は床に転がっていて、フレームが開いたままのを見ると、どうやら桃子ちゃんの顔から勢いで離れていったらしかった。
そんな事に気に留めてなさそうな桃子ちゃんは、その怒った表情から怒号とも言えない声を、というか音を大きく発していた。
顔をあちこちに向けているので、それが男子たち数人に向けたものかは明白でなかった。
桃子ちゃんの後ろにも一人、黒縁の眼鏡をかけた男子がいたが、彼は突然の出来事に驚いているのか、私たちと同じようにただその光景を見つめていた。
紙切れを投げつけられている男子達は、目の前で起こっていることに戸惑い、どうしていいか分からないといった様に見える。上半身だけが後ろに下がっている。
箒を持って黒板の近くを掃除していただろう女子たちは、その光景を遠目に見つつ、やはりどうしたらいいか分からない顔をしていた。
クラスみんなの目線が、暴れる桃子ちゃんの方に向けられていた。
教室全体の風景に目を向けつつも、事態を把握できないでいる私は、ただぼうっとその様子を見ている。
そもそもこれが、本当に今起きている事なのか、それともドラマのワンシーンを見ている様な気さえしていた。
無心でテレビを見ている様な私を余所に、はっと何かに気付いた彩夏が横で急に慌てだしながら「先生!先生呼んでくる!」と誰に言うでも無く叫んでから廊下へ駆けだした。
先生、というリアリティのある言葉を聞いて、私も、今これが目の前で実際に起きている事と思い出して、慌て始めた。
「私も!」と叫んでから彩夏を追うが、彩夏が返事をすることも、振り返ることもなかった。
何があったのかと、野次馬になろうとしてくる他クラスの人たちを掻き分けながら、とりあえず職員室に行く事を目指した。大して走り出してもいないのに息が切れている事に気付いて、やっと自分が焦っている事が分かった。
塾の自習室での勉強終わりの夜八時頃。
家に帰るには気が重かった私は、とりあえず勉強に打ち込むことにし、彩夏もそれに付き合ってくれていた。
「今日は特別に許してあげるよ」と、私が伸ばしてしまった袖口をひらひらと揺らしながら、軽く笑いながら彩夏は言ってくれた。
「ありがとう」
「言っとくけど、今日は、だからね」
じゃあまた今度奢らないとなの?と私が聞くと、「それは桜の気持ち次第!」と、脅迫じみた事を意地悪く言われた。
そんな彼女の無邪気さに気持ちが和らいだ。
「今日は大変だったから、特別にだよ」
「はいはい」
特別を念押ししてくる彩夏を、軽く流す。
でも、大変だったことは間違いないし、何よりその大変な事が、私を家に向かわせなくさせている理由でもあった。
あの後、彩夏と私は職員室に着いてから冬美先生に駆け寄って助けを求めた。
「大変なんです!先生来てください!」
彩夏は息を切らしながら、端的に冬美先生に声をかけていたが、状況を全く呑み込めていない先生はぽかんとしていた。
私はというと、荒れる息を正しながら、何て説明をすればいいか考えないで走ってきたせいで、言葉が出ないでいた。
ふぅふぅと、自分の吐く息だけが音として出ているだけで、彩夏の説明の足しにならないでいた。
どこで何が起きていて、どう大変なのか。
二人の女生徒が目の前で息を切らしているだけの状況を、冬美先生は必至に読み解こうとしてくれていた。いつもの、顎に指を当てる癖も出ていた。
「二人とも一回落ち着いて。何処で何が起きてるの?」
先生に落ち着いてと言われ、そうしなければならないと感じた私たちは、何回か大きく息を吐き出して、話す準備を整えた。
いつも真似をして、少し小馬鹿にしていた冬美先生の、やんわりとした口調に、少し泣きそうにもなった。
私たちが深呼吸をしている時も、冬美先生は私たちの方を真っ直ぐ見続けてくれていた。
先生の目って真っ黒で綺麗なんだ、と思う。
「教室で、桃子ちゃんが暴れてて大変なんです」
先に息を整えた彩夏が説明を付け加えた。
「ノートを破いて男子たちに投げてて。みんなびっくりしてて誰も止められないんです。」
私も、少し遅れて息を整えて、状況を細かく伝える。
「えっ!」やっと事態を把握出来た冬美先生は、真っ黒な目を大きくした。驚きと戸惑いが、その顔から容易に読み取れた。「誰か、誰も怪我はしていない?」
「怪我、はしてないと思います。誰も」
ね?と彩夏は先生の問いに答えた後に私の方を向いて同意を求めて来る。
彩夏に問われた私は、ぼうっと見ていた様子をなんとなくで思い出して、確かに誰も怪我らしいものはしていなかったことを確認する。
床に血が付いていたり、誰かが倒れていた様子は見なかったはずなので、「誰も怪我はしていなかったと思います」と私も先生に伝えた。
怪我の有無を確認してから、冬美先生は近くにいる男性の先生にも声をかけてから、「すぐに行きます」と廊下へ駆けて行った。
冬美先生に声をかけられた男性の先生も、急いで私たちの教室に向おうと、椅子から立ち上がり、冬美先生の後に続いて行った。「二人は一応このまま職員室にいなさい」と、廊下に出る直前で私たちの方を振り返りながら言った。
目的を果たした私たちは、大人が問題を解決しに行ってくれた安堵から、少し余裕が出て来て、お互いの顔を見ることが出来る様になっていた。
「びっくりしたねー」と、いつもの調子で話す彩夏に、「でも、これで大丈夫だよね」と、自分に言い聞かせる様に私は答える。
冬美先生たちが教室に向かったその後、あの桃子ちゃんの騒動は一旦解決したらしい。先生に言われた通り、私たちは職員室で待っていたので、どうやってあの場所が落ち着いたのかは私たちには分からなかった。
どうなったか気になりつつ、ただ待つしかなかった私たちは、職員室の窓から校庭をぼんやりと眺めていた。
もう掃除を終えた下級生たちが、部活動の準備を始めようとしているのがちらほら見える。
野球のユニフォームを着ている男の子たちが、大きなネットを何人かで引きづっていた。緑色の大きなネット動いている。
制服を着て、校門に向かっている人たちもいた。多分彼らは部活動に入っていないのだろう。校庭に向かう道中で、私たちと同じように動くネットを見ている。
「あーあ、私も走りたいなぁ」
隣で彩夏が言う。彩夏がみている方に目線を向けると、ジャージ姿の何人かがストレッチをしているのが見えた。
奥の方では、同じジャージを着た人たちがストレッチをせずに談笑しているのが見える。
足元には、学校指定の靴ではない、走るのに適していそうな軽そうな靴を履いていた。
「これから外周するのかなぁ」
「陸上部って冬でもあの短いユニフォーム着てやるの?寒くない?」
「寒くはないかな、走ってて暑くなるし」でもめっちゃはずい、と彩夏はしかめ面をする。
受験勉強の為にと部活を引退したのは八月頃だったけれど、あんなにやりたくなかった練習が出来なくなると、なんだか寂しくなるのだから不思議だ。
彩夏も私も、違う部活に入ってはいたけど帰る時間は一緒だったので、よく帰りに練習の文句を言い合っていた。
でも、今じゃそれを欲しているのだからよく分からないものだ。
「喉元過ぎれば何とやら、てやつかな」
「なにそれ?」
「ことわざ」
「ふーん」彩夏は特に追求もせず、陸上部の方を眺めていた。談笑していた人たちが、ストレッチをしていた人たちに声をかけられ、渋々と同じようにストレッチを始める。
喉元を過ぎれば、と私は思った。
父の事が嫌いで、話したくもないと思っているこの気持ちも、いつかは無くなるのだろうか。
後になって懐かしんで、あぁそんな事もあったなと思って、今とは反して、父と話したいと思うようになるのだろうか。
長年ずっと、父への嫌悪感を持っているから、これがもしことわざの通りなら、なんとも長い喉元だと、キリンみたいだなと思い、なんて馬鹿げた事考えているのだろうと笑ってしまう。
「え、笑うポイントあった?」
私が一人でに笑うので、彩夏は驚いて視線をこっちに向ける。
「ごめん、何でもない」
大した事でもないのに一人で笑って注目されたので、恥ずかしくなって顔を反らした。「なになに、どゆこと」とそれでも彩夏が私の顔を覗き込んで来ようとするので、「止めてよ、何でもないって」とそれを避ける。
そんななんでもないやりとりをして時間を潰していると、冬美先生が職員室に帰って来て、私たちに声をかけてくれた。
この部屋から出る時と打って変わって、落ち着きながらも少し怪訝そうな表情をしている。
「ここで待ってたのね」と、それでも無理に笑いながら、冬美先生は私たちに言った。
「うん、待ってなさいって言われたから」彩夏も、今までのやり取りで大分落ち着いたのだろう。さっきまで敬語で話していたが、少し砕けた言い方になっていた。
「先生、どうでしたか?」
私も落ち着いていたので、事の顛末を気にする余裕があった。
「うん、桃子さんはね、そのまま保健室に行ってお母様に迎えに来てもらう様にしたのよ」
「そうなんですか。じゃあ、桃子ちゃんは今保健室に?」
「ええ、大分落ち着いて来ていて、今はゆっくり保健室で休んでいるわ」
「そうですか、」良かった、と安心する。彩夏も「よかったー」と声に出して表情を和らげる。
これで安心だ、と私たちが顔を見合っている中で、冬美先生は申し訳なさそうな顔をしていた。
事態は治まったのに不安そうにしている冬美先生を見て、私と彩夏は不思議に思った。
「先生、どうしたんですか?」
「ええ。あのね、桜さん。桜さんに聞きたいことがあって」
私に?と、唐突な質問に、私は声を裏返す。彩夏も依然、不思議そうな顔をしていた。
この時、冬美先生に言われたことが、私たちには予想だにしていなかった事で、結果私の気持ちを落ち込ませ、家路に着きたくないとまで思わせ、そして塾の自習室に引きこもる現在に至らせたのだった。
夜の九時になって、塾の先生方に帰る様に促されて、私たちはそれぞれ家に向かった。
最後まで彩夏は「気にしなくていいんだよ」と私を気にかけてはくれていたけど、それでもやっぱり気にしてしまう。
自転車で数分の帰り道を、ゆっくりペダルを回して、時間を掛けて帰る。
電灯に照らされている誰もいない道より、脇にたたずむコンビニの光の方が温かで、虫の様に目を奪われて惹かれてしまう。
ぼうっと考え事をしながら漕ぐ自転車は、ふらふらと軌道を描きはしないだけで、本当に真っ直ぐ走っているのか曖昧だった。
どうしてあの時、と自分の行動を振り返り、反省してみても、後悔だけでそれ以上は無くて、恥ずかしくなって独り言で「ううう」と呻き声を出してから顔をプルプルと振る。
「桜さんに聞きたいことがあるの」
神妙な顔で冬美先生は私に言い、私と彩夏は「聞きたい事?」と呆然としながら、先生の言葉をオウム返しした。同時に、自分たちに、聞きたい事という言葉の意味と意図を確かめる様に。
「ええ。今桃子さんを保健室に送る前に、クラスの男たちに何があってこうなったのか聞いたんだけど、」
「男子達って、桃子ちゃんにノートを投げられていた?」
正確には、ノートの切れ端、だったけど、私は訂正しなかった。
「そう。彼らも桃子さんにそんな事されるとは思ってなかったみたいで驚いていたんだけどね」でも、と冬美先生は続けた。
「でも、桃子さんも理由なくそんな事するとは思えなかったから。だから何でそんな事になったのか彼らに聞いてみたの」
「そしたら男子達、何て言ってたんです?」
「『自分達が桃子ちゃんに文句を言っていたら、それを庇いに相田君が来たから、今度は相田君をからかっていたら、急に桃子さんが大きな声を出してノートを破いて投げてきた』って彼らは言ってたわ」
相田君は、あの時桃子ちゃんの後ろにいた黒縁眼鏡をかけていた男の子だ。
いつもクラスのやんちゃな男子にからかわれていたけど、優しい彼がそれに怒っている様子は見たことないし、むしろ笑って一緒に楽しんでいるようにも少し見えていた。
ただ私たちと、そして桃子ちゃんと普段関わったりはしていない印象だ。
「相田君は誰かと喧嘩をするような人でもないし、じゃあ桃子ちゃんはあの男子達に文句を言われて怒ったのかな」
あの桃子ちゃんが?と、彩夏は言いながらうーんと頭を傾げて唸る。
私も、それだけで桃子ちゃんがあれだけ怒るとは想像できなかったけど、でも多分、それ程のことだったのだとも思う。
桃子ちゃんにとっては、些細な文句でも、言い方次第では大きな問題だったのだろうと。
「ていうか冬美先生、それが桜に聞きたい事?」
彩夏は桃子ちゃんの心情を散々と悩んだ後にそう告げた。
彩夏の言葉で、私も、私自身に質問が向けられていたことを思い出した。
「そうそう。それでね、彼等には、何で桃子さんに文句を言ったのか尋ねたの。どんなことを言ったの?って」
「そしたら?」
「そしたら、『あいつが黒板を写すのが遅くて机が全然片づけられなくて』って」
身勝手な彼らの言い分に、私は呆れていた。
「そんなの酷い!」と彩夏も不平を口にした。「ていうか、桜関係なくない?」
「ううん、それがね、机が片づけられないだけで文句を言ったの?って確認したら、『その後桜が俺らを睨み付けて来て、それに腹が立って』って言っていて」
「は?」予想外の言葉に、先生に向けては相応しくない返答をしてしまう。
「え?」と、彩夏も動揺を隠せないでいた。
「『桜に睨まれて、あいつが悪いのに俺らの方が悪いみたいな感じにされたのがムカついて。それで文句を言いに行きました』って彼らは言っていたわ」
冬美先生は淡々と続けたが、私たちは全く事態を飲み込めていなかった。
睨み付けて、というのは、そうだとしても、それがあの大きな事態の発端になったとは思ってもみなかった。
100円ライターの火が、家一軒巻き込むほどの火災になったみたいな、そんな位の火種、というか私には火種にさえ成り得ていないと思っていた自分の行動が、今大きく取り上げらえている事に頭が追い付かなかった。
「桜さん、そんなことしたの?」睨み付けたの?と冬美先生に確認されるが、何とも返事は出来なかった。
後になって、勝手に事の発端にされたことに憤りを感じたが、この時は何故か反省し、「確かに睨みました」と罪を認める様な言い方しか、出来なかった。
あの時、先生に対して強く否定出来ていたら。
その前に、男子達に嫌悪感を示さなければ。
もう少し冷静に対応出来ていたら、とあれこれ考えてしまう。
コンビニを過ぎて、自分の家のマンションの下にまで来ても、後悔の末の答えは後悔だけで、気持ちは全く晴れていなかった。
何で私が悪者みたいに言われなければならないのか。
そもそも男子達の勝手な意見で、矛先を桃子ちゃんに向けてやり返されただけなのに、それの発端を私にして巻き込んできた意味が分からなかった。
どこにぶつけたらいいか分からない怒りを込めて、マンションの駐輪場に力強く自転車を押し込んで、雑に鍵を閉めた。
家に帰って、この気分をぶつけたい気もするけど、お母さんにも父親にも、何を言われるか分からないし、話したくなかった。
多分お母さんは、「なんで睨め付けたりなんかしたの!」と、私が散々後悔している事をまた言ってくるに違いない。
父親は絶対黙っているだろう。それでいて、「男子達の怒りが収まるまで待つしかないな」と、いつもの相手任せの理論を唱えて終わるのだ。
分かり切っている事になるくらいなら、黙っていて何も知らせない方が楽だと思った。
駐輪場からマンションのエントランスに入って、家の鍵をオートロックの機械に差し込んで自動ドアを開ける。
エントランスから中に入った先の、エレベーターの前で、4階の部屋まで行く為のエレベーターを待ちながら、溜息が思わず出る。
モニターの電子数字が、7からゆっくり下って行くのを見ながら、掃除の前からやり直せたなら、とつい妄想してしまう。
そしたら今度は、睨んだりしないで掃除をして、塾の帰りに彩夏と近くのドーナツ屋に行って期間限定のイチゴ味のドーナツを食べていたのに。
いや、睨んでなかったら彩夏の袖も引っ張らなかったから、ドーナツを奢る約束もさせられなかったのかな、と、一人でタイムパラドックスに陥って、何だか情けなくなった。
そういえば彩夏はもう家に着いたかな、とふと気になり、鞄から携帯を取り出してホーム画面を見る。
同時にエレベーターのドアが開いたらしいので、画面を見ながら足を前に進めていった。
振り返り、位置を確認しないで、いつも押している箇所に指を当てて、ドアを閉める。
彩夏からは新着メッセージが届いていて、確認する。「桜、大丈夫?」の顔文字付きのそのメッセージに、何だか急に肩の力が抜けた。
その後数日は、大きな出来事も無く過ぎていった。
何事も無さ過ぎて、受験のムードにも流されて、クラスの誰もが桃子ちゃんの一件について話す事は無かった。
一方で、桃子ちゃんと、私が睨んだ男子の姿がクラスには無かった。
この数日、二人は学校を休んでいたのだ。
それのおかげか、当事者のいないクラスが、そのことを話さなかったのかもしれない。
敢えて言うのなら、当事者にさせられた私だけが登校していた。
それから、思ってもみない形で話が進んだのは五日後のことだった。
どうやら私が睨んだ男子の母親が職員室に来てるらしい、と彩夏から聞いた時は血の気が引いた。
白くて綺麗な服を着て、真珠みたいなイヤリングを付けた、学校では稀にも見ない姿で来ていたと彩夏が言っていた。
「何しに来たんだろう」と彩夏は不安そうに言っていたけれど、私の方がもっと不安で、私の悪いところをとことん追求しているのではないか、もしかしたらこのまま内申点や成績に悪影響があって、受験どころではなくなってしまうのではないか、と気が気でなかった。
たった少し、小さな行動が、こうも大きく自分を脅かすだなんて。
そんなつもりは無かった、というのも、でも、よくテレビで犯罪者が言っているところをよく見る、ありがちな台詞なのかもしれないけど、今ならそう言いたくなる気持ちが分かる様な気がした。
そんな心配をしていても、私と彩夏が、主犯の男子の母親が何をしに学校に来て、誰とどんな事を話しているのかなんて、知る事すら出来もしなかったのだけれど。
そう思っていたのだけれども。
私はその事実を、知らされることになる。
その日の終礼の後、私は冬美先生に職員室に呼ばれた。
呼ばれる目的がはっきり分かっていない私は、冬美先生の後を歩きながら、自分の心臓の音ははっきり聞こえていて、自分の一歩に対して三回くらい、鳴っているような気がしていた。
何回心臓が脈打ってるのか、なんて数えて、敢えて落ち着こうとしてみたけど、むしろ数えようとする度に数が増えているような気がした。
冬美先生が私を気にして、何か話していてくれたような気もするけど、内容は覚えていない。
職員室に着いて中に入る時も、冬美先生の後に続くのが嫌で、見たことも無い部屋に連れて行かれている様な気分で、直ぐにでも今日は、家にこのまま帰りたかった。
この後、先生に何を言われるのだろう。受験は、私のこの先は、大丈夫なのだろうか。
申し訳ないのだけれど、桃子ちゃんの心配なんて、この時はこれぽっちもしていなかった。
自分の事で、手一杯だ。
冬美先生が、先生の席へと向かって歩いて行くと、奥にはあの時、私と彩夏に職員室で待っている様伝えた男の先生もいるのが見えた。
この時の私には、その先生が私を睨んでいるような、または侮蔑の表情をしているように見えた。
こんな子だったのか、と落胆しているかもしれない。その落胆は、私の成績に反映されるかもしれない。
そう思うと、職員室中の視線が私に向けられている気さえして、その重苦しさに目眩がしたので、先生の更に奥の方を見た。
少し暗くなりかけている外の風景が窓から覗いていて、その夕闇がかった空が一層、後悔と自責の念を駆り立ててくる様で、一日なのか自分のか、終わりを告げている気がした。
冬美先生は自分の席に着いて、椅子を回して、私の方へ向き直る。
先生の真っ黒な瞳を、私は見つめる。
引き込まれそうな、大きくて少し潤んでいるその黒目と、私は真っ直ぐ向き合う。
その上にある、長くて綺麗な睫毛が、ゆっくりと、瞬きと一緒に下がる。
「桜さん、大切なお話しがあるのだけれど」
冬美先生が、話の前置きを切り出した。
大切とは誰にとってですか?という言葉、喉から出そうになったけど、緊張で音にはならなかった。
家に帰ってから、私は冬美先生に言われたことを、話すかどうか躊躇ったけど、結局お母さんに話した。
お母さんはそれを聞いて、今まで見たことのない焦りの様子を見せた。
多分私が、自分の子どもが、そんな事を担任の先生から言われるとは思ってもみなかったのだろう。
「どうしよう、どうしよう」としきりに呟いて、とうとう家事をする手を止めていた。
私と、私の親は、学校に呼び出されたのだ。
文句を言った男子とその母親、桃子ちゃんと桃子ちゃんのお母さん、そして冬美先生と私たちで、今回の件を話し合いたいと、どうやらその事を男子の母親は学校に伝えに来たらしかったのだ。
自分の子だけが悪者扱いをされて、しかもノートを破いて投げつけられるという奇行にまであって、怖くて学校に行けなくなっているのはおかしいと、そう進言したらしかった。
冬美先生も流石に戸惑い、そこまでしなくても、と話し合いの開催に消極的だったらしいのだけれど、相手の母親はクラスの父母会のまとめ役でもあって、「クラス全体の為でもある」と大義名分を打って、半ば強引に取り決めた様だった。
そこに、当然の様に私と私の親が組み込まれた事に納得はいかなかったのだけれど、相手側が「そもそもうちの子を睨み付けて焚き付けたのが悪いのでは」と言ったらしく、結局私も出席せざるをなくなった。
家に帰ってからお母さんとお父さんに伝えてもらえる?と冬美先生に職員室で言われた。
申し訳なさそうに私に話す冬美先生の顔は、少し疲れているようにも、怯えているようにも見えた。
私たちよりも年上でも、周りの先生と比べると幼く見える冬美先生のその姿は、何だか子犬のようだった。
その様子が、相手の母親の威厳というか、影響力の様なものの大きさを物語っていたので、家に帰ってからお母さんに要件を伝えるのを渋っていた私も、億劫であった一方で、伝えずにその話し合いの会が開かれた際の代償が大きい気がして、私にも向けられた矛先が更に深く喉元に突き刺さる様に思えて、結局ありのままをお母さんに伝えたのだった。
お母さんはえらく狼狽していたが、私を責めることはしなかった。そうなってしまったのならしょうがない、と思ったようだった。
しきりに冷蔵庫のドアにマグネットで張ってある仕事のシフト表と携帯の画面を見比べては、この人は駄目かしら、と呟いている。
多分、会に出る為に仕事を休もうとしてくれているのだろう。そして、代わりに仕事に出てくれる人を探しているのだろう。
自分の為に、お母さんがそこまでしてくれているのが、居た堪れなくて、胸が苦しくなる。
「駄目だわ、土曜だし、みんな仕事代われなさそう」
「そうなんだ、どうしよう」
休日に代わりに出勤してもらうのは申し訳ないとお母さんは思ったのか、誰にも電話は欠けていなかったけど、結論を出した。
親も来なければならない、という事態に、お母さんが出席出来ない事に私は手詰まり感を覚える。
うちは、親の参加無しでは駄目だろうか、と都合のいい解釈もしてみる。
そもそも事の発端ではあっても、それ以上ではないし、私だけ参加して、直ぐに睨んだことを謝ったら退出させてもらえないだろうか。
私のしでかしたことの大きさもそうだし、実は口にしただけで相手の母親もそこまで気に留めてないかもしれないとまで思った。
あなたはもういいわよ、と言っている光景まで想像してみる。十分にあり得るのではないか?と期待する。
「それか、お父さんに代わりに出てもらおうかしら」
「えっ!」
私の、私の為の妄想をしてる間に、お母さんはそう言ったので驚いた。
「お父さん?仕事じゃないの?」そうあって欲しいという願望も込めて聞いてみる。
「ううん、この日は、お父さんはお休みみたい」
お母さんのシフト表の裏に張ってある、父親のシフト表を確認しながらお母さんは言った。
やっぱりお休みよ、と念入りに日付を確認しながら。
その確認作業が、私には、とても邪悪に見えた。
さっきまでお母さんに感じていた謝辞も忘れて、今は余計な事をしないでほしいと憤りすら覚える。
「いいよ、別に。あの人が来たって話す事なんかしないじゃん」
「こら桜!お父さんのことあの人なんて言うんじゃない!」
「だって、家でもあんまり話さないのに、学校に来て他の人の前でなんて、全然話す姿が想像できないもん」
「大丈夫よ。お父さんだってお仕事中は色んな人といっぱい話してるんだし。うちの中で話さないだけで、普通に話せるわよ」
「そんなの」何が大丈夫なのか、理解できない。
「それに、お父さんなら何が何でも桜の味方になってくれるわよ」
それはそれで恥ずかしいし、余計に話がこじれそうで嫌なのに、と思ったけど、丁度その時玄関のドアが開く音がしたので、私は自分の部屋に戻る為に椅子から立ち上がる。
「とにかく、あの人が来るくらいなら私一人でも大丈夫だから!」とだけ、お母さんに告げる。
背中越しに、お母さんが言葉づかいを咎める声がしたけど無視した。
父親が、お母さんに「どうした?」と聞く声と、しばらく事情を聞いた後に、「分かった」と短い返事をした声が部屋の外から聞こえて来て、また別の憂鬱感を感じて、より一層話し合いをしに行くのが気乗りしなくなって、ベッドに入って、身を屈めて、布団にくるまった。
土曜の昼。
学校には部活動をしに来た一、二年生の姿しかなかった。
校庭で各々の部活をしている人たちの活気のある声が聞こえる。
十一月の肌寒さに負けんとするその声とは反対に、私は陰々とした気持ちで校舎へと向かう。
隣に、大嫌いな父親が並んで歩いている。
「もっと離れて歩いてよ」
「でも親御さんと一緒に来てくれって言われてるからな」
「だとしても、別に並んで歩かなくても良くない?」
「いや、親子なのに近くにいない方が不自然だと思うんだけど」
父親の理屈染みた、正論にもまた腹が立つ。
「それにしても凄いな。こんなに寒いのに、みんなめちゃくちゃ頑張ってるじゃないか」
そんな私を余所に、父親は校庭の方へ目を向ける。
着慣れていないであろう、少なくとも私が初めて見るスーツ姿の父親は、少し落ち着かないのか、校庭や校舎をゆっくりと眺めている。
「桜も、去年はこの時期に部活してたのか」
「私はバレー部だったし、体育館だったけどね」
凄いなぁ、と父親は感嘆する。
私からすれば当たり前のことなので、何が凄いのか意味が分からず、無視して下駄箱に向かった。
靴から上履きに履き替えて、履いて来た靴をしまう。
父親は革靴を脱いで来客用のスリッパを履いた。持って来ていた、というかお母さんに朝渡された紙袋に革靴を丁寧にしまっている。
お母さんは父親のどこが良くて結婚したのだろう、と、ふと思った。
仕事以外の事となると、お母さんはいつも父親の世話をやいている様にみえていた。
今日だって、話し合いに出席する事に太鼓判を押していたはずのお母さんが、仕事に行く前に「学校どこにあるか分かる?」だとか、「冬美先生ってどんな先生か一目で分かるかしら?」と、仕事に出る直前まで父親に確認していた。
そんなに心配するならお母さんが来ればいいのに。父親に任せなければいいのにと、私は半ば呆れながらその様子を見ていた。
小学生の頃、お母さんに直接、父のどこが良かったのか聞いたこともあったが、何て言ったか覚えてはいない。
でも、少なくとも、この時の私には魅力的な人には見えなかった。
「ここの階段、上っていけばいいのか?」
今も私たちの教室の場所が分からず、ゆっくり下駄箱周囲を眺めた後に、階段を指さしながら私に尋ねる父親を見ると、何だか頼りなかった。
「そうだよ。三階だから」と伝えて、先に私は進んでいく。
娘の後に続くように、父親はゆったりした歩調で階段を昇る。
ペタンペタンと、スリッパで歩く音が間抜けに校舎内の響いた。
この後の話し合いがどうなるのか、不安しかなかった。
私たちが教室の中に入ると、既に相手の男子とその母親、そして桃子ちゃんと桃子ちゃんママと冬美先生が、四角形に並べてある机の席に着いていた。
私たちの姿が見えると、冬美先生と、その横に座っている見慣れない女性の先生、恐らく白衣を着ているので保健室の先生が、立ち上がって私たちに向かってお辞儀した。
「桜さん、お父様も、お待ちしていました」
私と父親もお辞儀した。
相手の母親と桃子ちゃんママは、席に着いたままその場で会釈する。
男子の方はそっぽを向いてこちらを見ようとはせず、桃子ちゃんは落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと眺めている。
「お忙しい中お越しいただきありがとうございます。どうぞお掛け下さい」と、冬美先生が、先生の向かい側の席の方に手を向けるので、私たちはそこに向かって歩いて行った。
相手の母親がこちらを見ていて、それが、私の一挙手一投足を評価しているような気がして、一気に緊張感が増す。なんだが胃が痛くもなってくる。
横目で父親を確認する。
特に気にしていないのか、それともお母さんから予め事情を聞いてはいても、これ程の大事とは思ってはいなくて呆気を取られているのか、何にせよ無表情で歩きながらゆっくりと教室の中を見回していた。
席の前に着くと、横並びで椅子が二つ並べられていて、どちらに座るべきか私は悩んだ。
向かって右側の椅子は男子の母親と距離が近く、左側は桃子ちゃんママが近い席だった。
男子の母親の目線が酷く突き刺さり、胃を痛くしている私には、右側の席に着くのは気が重かった。
出来れば私が左に座りたい、と思った。
でも一方で、そんなあからさまに避ける様な座り方をしたら、男子の母親の機嫌を損ねるのではないかと、その評価を気にしてしまう。
椅子の前で立ち止まり、正解を思案する。
むしろ、どっちに座るべきか冬美先生がしてくれれば助かるのにとすら思った。
願わくば、桃子ちゃん側の方の席に誘導してくれないかとまで思う。
「私がこちらに座ろうか」
そんな事を思っている内に、父親がゆっくりと、私が座りたかった方の椅子に座った。
「えっ」と、あまりに無考えに座ったように見えた父親に、私は驚いてしまった。
「桜さん、どうかした?」
冬美先生も、急に私が声を出したので、心配そうに声をかけてきた。
瞬間、男子の母親もこちらを見たので、何事も無かった様にしなければと「何でもありません」と答えて、もう一方の椅子に座った。
座った後で、父親の方を睨んだが、父親は飄々としていた。
「それでしたら、皆さんお集まりになった事ですし、お話を始めさせてよろしいかしら」
待ってました、と言わんばかりに、私たちの着席から間を空けずに、男子の母親は口を開いた。
口調から、あからさまに怒っているようには聞こえなかったが、妙に丁寧な言い方が、逆に静かな怒りを表しているように思えた。
「そうですね、始めましょう」
おどおどと、冬美先生が答える。
圧倒的な力関係が見えた気がした。
「今回この話し合いを開いたのは他でもなく、お宅の桃子さんがうちの子に自分のノートを破って投げつけたことについて話す為です」
「はい」
力なく、桃子ちゃんのママが答える。
語気の強さに、まだ何も言われていない私まで圧倒されて身構えてしまう。
「聞けばうちの子が文句を言ったらしいですが、それは桃子ちゃんに向けてでは無く、相田さんちの子に向けて言っていたそうで。それなのに桃子さんがうちの子に激高したそうじゃないですか」
早口に言うその口ぶりは、如何に自分の家の子が無実であったかを、相手に認識させる様だった。
桃子ちゃんママも「はぁ」と頷くしか出来ず、顔を下に向けてしまう。
隣でその様子を見ていた父親は、静かに、桃子ちゃんたちの方に顔を向けていた。
「しかも、その前にはうちの子を桜さんが睨み付けていたそうで。うちの子も文句を言うのを我慢していたのに、自分が悪者であるかのように仕立て上げられたことに傷付いてしまったんです」
今度は、私に言葉の矢先を向けて放ってきた。
悪者に仕立て上げさせられているのは私だ、と強く憤りを感じたが、相手の母親の言い方に飲み込まれて言葉が出なかった。
ちらりと相手の顔を伺うと、さっきまでと表情を変えずに、冷静な表情をしているのが分かった。
本気で、真面目にこの人は、自分たちが悪くないと思っているのだと感心する。
父親の方を見ると、お母さんの期待とは裏腹に、娘が責められている現状を静観していた。
達観した父親の様子に、心底腹が立つ。
「そのせいでうちの子は学校を休みたいだなんて言うし、受験も近いのに学校に来れないなんて。この一件のせいで受験が上手くいかなかったらどうしてくれるんですか?先生」
最後に、冬美先生に矛先が向く。
冬美先生も「えっと、」と言葉を濁し、「すみません」と小さい声で謝罪した。
この母親は、正当性を認めさせるためにこの話し合いを開いたのだ。
当の本人の男子は、この場で唯一表情を和ませている。
当事者であるはずの彼が、我関せずとしているのもムカつく。
「聞けばそもそも、桃子さんが黒板を写すのが毎回遅いのが嫌だったとうちの子も言ってましたけど、そのせいで授業が遅れているとか無いんですか?」大事な時期なんですよ?と母親は冬美先生に釘を刺す。
「いえ、そういった事はありませんが」
冬美先生が否定を口にするが、母親の耳には届いていない様だった。
弱弱しく話す冬美先生の言い方では、どんな台詞も宙に舞うだけに思えた。
桃子ちゃんママは、ずっと顔を下に向けていて、見ていてとても可哀想だった。
「黒板を写すのが遅いとか、今回の暴れた件もそうですし、あんまり言葉が相応しくないかもしれませんけど、桃子ちゃん、何かお病気を持たれているのではないですか?」
静まった教室の中で、母親の声だけが響き渡る。
病気、という言葉が私の耳の中で反芻される。
桃子ちゃんの病気のことは、クラスの皆が知っている事だった。
話し方が変わっている。ノートを書くのが遅い。
そういう姿を私たちはいつも見ている。
それでも、でも私たちは、桃子ちゃんを「病気」とは言わなかった。
私も、彩夏も、桃子ちゃんを「変わっている」「特別」と言う様にしていた。それは「病気」と言ってしまうことの、どこか冷淡で罵倒じみた雰囲気をなんとなく避けたかったからだった。
二人で決めたそのルールが、いとも簡単に、無意識で無自覚な大人の発言で、取り壊された瞬間だった。
本当は、ずっと自分が優位だと、正義の塊だと思っているこの大人を睨み付けて、今の言葉を取り消す様に要求したかったけど、それによって桃子ちゃんたちが余計に不利になることは私から見ても明白だったし、かと言って許せるものでも無くて、唇を噛む。
口の中で血の味がした。
桃子ちゃんママも、不意の言葉に驚きつつも、それでも男子の母親に目を向けようとはせず、依然下を向いている。
「お母さま、ちょっと言葉があまりにも直接的なのでは」
冬美先生が見かねて制止するが、「だから先に前置きで不適切かもと言ったでしょう?」と、相手の母親は悪びれもせずに自分の正当性を主張した。
「それに大事な事なんです。本当に病気なんだとしたら、桃子さん本人にとっても、クラスの生徒にとっても、このままにしとく事はお互いにとって良くないと思うんです」
自分がまるで、生徒たちの代弁者であるかのように、母親は話し続けた。
窓の外の空気の方が、はるかに温かく感じられそうなほど、教室の中は冷え切っていた。
「生徒たちは今、受験に向けて勉強に集中したい。桃子さんは普通の生徒たちの授業スピードについていけない。どちらも可哀想だと思いませんか?」
「はい、」俯ぎながら、桃子ちゃんママが返事だけ、小さくする。
「桃子さんには桃子さんのペースがあったとしても、それなら桃子さんに合っている環境に移るべきなのではないですか?」
「はい、」
桃子ちゃんママの返事の量と、相手の母親の言葉数が、全く合っていない。
一方的で横暴だ。
その対比が、なおも続く。
「今回の一件が良い例では?周りの人みんなが不満を感じているんですよ?」
「はい」
顔は見えないけど、桃子ちゃんママは泣いているかもしれないと思った。
私は横にいる父親の方を見る。
変わらず、ただ父親は黙ってその様子を眺めていた。
この役立たず、と舌打ちしそうになる。
「自分の娘さんが悪者にされているなんて辛くありませんか?可哀想だと思いませんか?」
悪者にしているのはあんたらだ。
「はい」
小さい声がもっと小さく、擦れて聞こえた。
聞いているだけで、私も泣きたくなった。
もう、そこまで責め立てるのは止めてほしい。
誰も、そこまで桃子ちゃんの事悪く思っていないのに、一人の大人の意見で何か大切な物を壊すことをしないでほしい。
今すぐにこの女の口を塞いでやりたい。
怖さで震えていた手が、いつの間にか怒りに変わっていた。
「桃子ちゃんに合った学級とか学校とか、今からでも転校してもいいんじゃないかしら?特別支援学校とか、探せばいっぱいあるでしょうに」
なおも続けて、優越感すら感じていそうな相手の母親に、とうとう私は我慢できなくなって、もうどうでもいい、というより先のことなんて考える為の思考の余裕も無くなって、椅子から立ちがって異議を唱えようとした。
その時だった。目の前で大きな、ガシャンという音が鳴った。
下を向いていた私と桃子ちゃんママと、冬美先生が、音に反応して顔を上げる。
顔を上げた先には、ひっくり返って脚を天井に挙げている机と、さっきまで自分が座っていたであろう椅子を持ち上げて立ち、今にも相手の母親に投げる様な、怒りに満ちた顔の桃子ちゃんの姿があった。
あの時と同じか、それ以上に怒っている表情の桃子ちゃんは、椅子を投げはしないまでも、持ち上げたまま、机が倒れた時の音よりも大きな叫び声を出している。
突然の光景に、私と桃子ちゃんママはその場で座りつくしていた。
父親と保健室の先生は立ち上がり、桃子ちゃんの様子を伺っている。
相手の母親と男子は、突然予想外の人間に椅子を向けられて、「ちょっと!」と焦りを示しながら立ち上がり、逃げ腰になっていた。
「桃子さん!落ち着いてください!」
冬美先生と保健室の先生は、強く、でも優しく、桃子ちゃんを制止していた。
「そうよ桃子!やめなさい!」
この日初めて、はっきりとした口調で、桃子ちゃんママも、両手を桃子ちゃんに差し出しながら促していた。
声をかけられながら桃子ちゃんは、「ふーふー」と息を乱しながら、獲物を目の前にした動物の様に、こみ上げる何かを堪えながら立ち尽くしていた。
目線の先には、男子と男子の母親がいた。
何度も、何度も、先生と桃子ちゃんママが声をかけ続ける。
私は呆気に取られて、ただそれを見ている事しか出来なかった。
桃子ちゃんの、怒っている表情を見るのはこれで二回目だったけれど、いつもの可愛らしい顔付きからは考えられないその顔に、さっきまで男子の母親から受けていた恐怖とはまた違った怖さを感じた。
繰り返し声をかけられて、どれ位経ってからだろう、桃子ちゃんは呼吸を整えると、椅子を下した。
もしかしたら、椅子を持ち上げるのに疲れたのかもしれない。
「桃子さん、一度保健室で休みましょうか」
保健室の先生が桃子ちゃんの傍に行って、肩を撫でながら優しくそう言った。
肩を撫でられている桃子ちゃんは、まだいつもの桃子ちゃんの顔にはなっていなかったけれど、保健室の先生の言葉に頷いて、肩を支えられながら、教室の出口の方に歩いて行った。
「お母さまも、後で保健室に来てください」
保健室の先生は、桃子ちゃんの肩を撫でながら、桃子ちゃんママに会釈をしながら部屋を退出していく。
男子と男子の母親に駆け寄って、謝っていた桃子ちゃんママは、「は、はい」と返事をした後で、また繰り返し謝って、怪我の有無を確認していた。
少し取り乱していた相手の母親も、特に怪我はしなかっただろうか、先程よりも弱弱しくではあるが、「大丈夫ですから」とやんわりと謝罪を受け取っている。
父親はというと、倒れた机と椅子を元に戻していた。
本来なら、男である父親が桃子ちゃんに駆け寄って止めるべきでは無かったのか?と、私は自分を棚に上げて父親を責める様にその姿を見ながら思っていた。
「すいません。少し場が荒れてしまいましたね」
みんなが一息をついてから、冬美先生がそう言った。「びっくりしましたね」
「少しじゃないですよ。普通あり得ませんよ?あんなことするなんて」
鞄からハンカチを出して、おでこの辺りを拭きながら、男子の母親は言った。
「息子の一件だけでなく、この場でもこのような事態が起きたんです。先生も桃子さんのお母さんも、本気で転校を考えた方がよろしいのではないですか?」
一回場は治まったが、再び相手の母親が話し始めると、やはりこちらが不利なのは変わらなかった。
むしろ、余計に相手の追い風になってしまっていた。
暴力されそうになった、という事実が、相手の正当性をどうしても高めてしまっていた。
さっきまで相手の母親に怒りを覚えていた私も、これはしょうがないと諦めの気持ちになっていた。
「で、ですが、急に転校と言っても」
「急にって、じゃあ何時対応してくださるんです?またこんなことが起きたら、今度は誰が責任を取って下さるんですか?」
怪我をするかもしれなかった、という出来事が、相手の母親をより興奮させていた。
言葉の丁寧さは崩れていないものの、語気は一層に強まっていて、先生も、桃子ちゃんママも、反論する余地が全く無かった。
より早口で巻立てられ、返事をする隙も与えてもらえないといった感じだった。
客観的にその様子を見ていた私も、さっきよりも自分も責められているような気分になって、かといってそれを打破する考えもなくて、ただただ相手の意見を聞くだけしか出来なかった。
「桜さんのお父さんはどう思いますか?」
荒々しく話す相手の母親は、素直に自分の意見に同意をしない先生と桃子ちゃんママに呆れたのか、それとも味方を増やそうとしたのか、父親の方に顔を向けてきた。
突然自分の名前が呼ばれたのかと思い、はっと顔を上げたが、その言葉と視線が自分では無く自分の父親に向けられたと分かり、私も顔を父親の方に向ける。
こんな時でも、いつも通り無表情でいる父親は、「わ、私ですか?」と、飛び入り参加をさせられたことに戸惑っている様にも見えた。
「そうです。ずっと黙っていらっしゃるけど、あなたはどう思いますか?」
「どう思うか、ですか」
うーん、と父親は首を捻っている。
「桜さんのお父様は病院にお勤めされているらしいじゃないですが。それならより専門的に意見が言えるんじゃないですか?」
暗に、私の意見が正しいと証明しろよ、と言っている様にも聞こえた。
「専門的、というと?」
「だから、病気と診断して、桃子さんはこの学級には向いていないと言う事も可能なんじゃないですか?」
相手の母親は、父親の煮え切らない態度にイライラしているように見えた。
その点にだけは、私も少し共感した。
「残念ながら、診断は出来ないですね」
「なんで?」
「私は、作業療法士なので」
父親が自分の職業を言った時、何となく恥ずかしくて、顔を下に向ける。
そんな風に言ったって、誰にも伝わる訳ない、みんな知らないよ、と小声で父親を叱責する。
「さ、作業療法士?」
案の上相手の母親は聞き馴染みが無かった様で聞き返す。
「はい」と、父親は真っ直ぐ、相手の母親を見ながら答える。
冬美先生と桃子ちゃんママは、心配そうに私の父親の方を見ていた。
この人も、私たちと同じように責められるのではないか、と、不安な表情をしていた。
その心配が、私には、父親の頼りなさを表している様で、より恥ずかしくなった。
「まぁ、いいわ。とにかく医療関係者なんでしょ?何か専門的な意見を言って下さらないと」
やや呆れながら、相手の母親は言う。
きっと後には、そうでなければあなたは何しに来たのか、と言う言葉が続きそうだった。
「専門的な意見、ですか」そうですね、と父親はゆっくりと話し始める。
とにかく余計な事は言わないで、と隣で小さく身を屈めている私は、本気でそう祈った。
「専門的、というよりかは、私個人の意見になるのですが」
「なんですか?」
机を指でトントンと叩きながら、相手の母親は尋ねる。
そこにもう、味方からの援護の期待は無かった。
父親はそれを気にしてか気にしてないのか、家でいつも私に話す様な、淡々とした口調で話していた。
「桃子ちゃんは、そんなに転校を余儀なくされているとは、私には思えないのですが」
「はぁ?」
父親の言葉が意外だったからだろうか。
怒りと呆れを同時に込めた様な顔をして、相手の母親は言った。
隣で父親の話を聞いていた私も、驚きを隠せなかった。
無茶苦茶を言っていると思った。
「あなた本気でそう言ってるんですか?」
「はい」
相手の母親が興奮して声を大きくする一方で、父親は極めて冷静で、本当にいつも通りだった。
「呆れるわ」はぁ、とわざとらしく、大きなため息をした後で、相手の母親はまた早口でまくし立てた。
「あのですね、桃子さんは先程の様に急に椅子を投げようとしたり、自分のノートを破って投げつけてきたり。とにかく普通では考えられないような行動を突然されるんですよ?子どもを学校に預ける、同じ親の立場として、子どもの事を想うと心配だとは思わないんですか?」
「本当に、急に、何でしょうか?」
父親は、相手の母親の言い分をうんうんと頷いて聞いた後に、そう静かに言った。
私はそれを、ただ隣で見ていた。
いつも通りの、口数の少ない父親らしい姿がそこにあって、さっきまで異様な雰囲気に包まれていた教室だったからか、そこに家で毎日見ている父の姿がある事に、例えようのない、心地よさがあった。
胃の痛さも、震えも、無くなっていた。
冬美先生と桃子ちゃんママも、そんな父の姿を呆然と、ハイキングで大きな山や何かを見つけて眺める様な、そんな顔をして見ていた。
「はぁ?」
相手の母親だけが不機嫌を露わにしていた。
「急にでしょう!普通あんな風に椅子を持ち上げて、奇声を上げたりなんかしませんよ!」
「確かに、机を倒したことについては私も驚きましたね」
「でしょう?」
「でも、」父親は、相手の母親が同意を求める様に言った返事に対して、素早く否定の言葉を繋げた。
相手の母親の様に、早口に、隙を与えないようにではなく、ただ自分の意見を言う為に。
「でも、今さっきの椅子の件にしても、今回こうやって保護者を集めて話す議題にまでなった件にしても、私は理由も無く、急に桃子ちゃんが怒ったという訳ではないと思いますよ」
私は、なんでか泣いていた。
父の隣で、静かに涙を頬に伝わらせていた。
ずっと父が、味方では無いと勝手に思っていた父が、私と彩夏が大事にしていた何かを、桃子ちゃんの為にと思っていた事を、取り壊されたものを拾い上げてくれている様に思えた。
「どういう事ですか?」
相手の母親が怒りを込めて、そして冬美先生が疑問に思って、同じ台詞を父にぶつける。
「まずノートの件ですけど、話を聞くと、最初お宅の息子さんがからかった時は、桃子ちゃんは何も反応を示さなくて、相田君という男の子が割って入って桃子ちゃんを庇った時、そして息子さんが相田君をからかった後に、桃子ちゃんはその様な行動をとったんですよね?」
「そうです!」
語気を強めて、相手の母親は強く主張する。
「だから、急に怒り始めると言っているんです!」
「桃子ちゃんは、庇ってくれた相田君を守りたかったのではないですか?」
父はそう、短く答えた。
沈黙が、この日初めての静まりが教室に流れる。
窓のカタカタという音が響いた。
「え?」
「多分、桃子ちゃんは相田君の優しさが嬉しくて、その優しい相田君がからかわれているのを見て、どうにかしたい、助けたいと思ったのではないでしょうか?」だからノートを破いて息子さんに投げつけた、と父は続ける。
考えてもみなかった。
桃子ちゃんが、そう思っていたかもしれないとは、私は全然考えてなかった。
奇行にばかり目が行っていて、父がそう言うまで、その前の、桃子ちゃんの気持ちなんて、想像しようとすらしていなかった。
父の顔を見ると、未だいつも通り、平然とした表情で話していた。
先生も、桜ちゃんママも、そして相手の母親までも、呆気に取られている。
しかし、自分の正義が崩されそうになっている事に気付いた相手の母親は、我に返ったように、再度語気を強めて話し始めた。
「もし、もし仮に、本当にその時は桃子さんがそう考えてやったとして、それならさっきの件はどう説明するんですか?」
「さっきのは、そうですね」
ここで初めて父が笑った。
嘲笑でも苦笑でも無い、屈託のない優しい笑顔だった。
その笑みを、桃子ちゃんママの方に向けながら答える。
「先程のは、桃子ちゃんのお母さんを守るためにやったんでしょう」
「え?」
突然、笑顔を向けられた桃子ちゃんママは、手を口に当てて驚いている。
「私ですか?」
戸惑いの表情の桃子ちゃんママの返事に、父はゆっくり、頷いてから続ける。
「桃子ちゃんのお母さんは、さっきまでの話の中でずっと下を向いて、小さい声でお返事をされていた。桃子ちゃんはそれを隣で見ていて、心配したんでしょうね」
優しい口調で、ゆっくりと父は話す。
一瞬、それが教室での会話ではないような気がした。
あの時、小学生の時、こんな父を、私は見たかったのかもしれない。
「大好きなお母さんが悲しんでいると思ったら、守らないといけないと思ったんでしょう。だから桃子さんは、机を倒して、椅子を持ち上げて投げようとする素振りまでした」
父のその言葉は、あったかく、でも本当にその通りであるかのような、説得力があった。
相手の母親は、それが気に食わなかったのか、まだ表情を強張らせながら続ける。
「でも、それでも、紙くずを投げたり、椅子を投げようとするのは間違っていませんか?」
「そうですね。そのやり方は間違っていたかもしれません」
父が相手の母親の意見に同意したので、そこからまた自分の意見を盛り返そうと、相手の母親は息を吸ってから、さらに話を続けようとした。
「そうでしょう?だったら、」
「でも、別の意味では、間違ってはいないかもしれない」
それでも父は、話を遮って、自分の主張を続けてくれた。
「別の意味?」
「桃子ちゃんは、しっかり考えてから、一見おかしいと思われる行動をとったのかもしれませんよ」それが結果正しいかは別にしてですが、と注意を添えながら言った。
「しっかり考えてって、ノートを破いたり、椅子を投げようとした事に、何を考えていたとお思いなんですか?」
「ノートを破ってから投げたのも、椅子を投げようとして威嚇したのも、実際に誰かを怪我させることはいけないことだと、桃子ちゃんは分かっていたからそうしたんだと思います」
「はぁ?」
「ノートをそのまま投げてぶつけたら、お宅の息子さんは怪我してしまうかもしれない。椅子を投げたら、もっと大きな怪我をさせてしまうかもしれない。でも、怒る気持ちはぶつけたい、大切な人を守りたい。だから、わざわざノートを破って投げたし、椅子を持ち上げて声を荒げてみせたんじゃないですかね」怒り方は間違ってたけど、怒る理由は純粋なものだったんじゃないですか、と父は続けた。
父のその言葉に、私たちは言葉を失った。
桃子ちゃんママですら、何も言えないでいた。目には涙を浮かべている。
冬美先生も、驚きなのか感動なのか分からない顔をしている。
父の隣で、一番近くで父の話を聞いている私は、その言葉がじんわりと染みていくように感じていた。
お風呂に浸かったような、身体が浮いて温かい感じがする。
相手の母親も、その言葉に何も言えなくなったのか、それとも純粋に、私たち同様に腑に落ちたのか、表情が緩み始めている。
「桃子ちゃんは、他の誰より優しい子ですよ。自分の事より、大切な人を守りたいという気持ちに素直で、時にそれが強く出過ぎてしまうしやり方が分からなくて間違えてしまうけれど、でも誰かを傷付ける様なことはしない。良い事と悪い事の分別のついた、素直な良い子なんだと思います」
「確かに、そうですね」
父の言葉に、冬美先生が静かに賛同する。
事の発端の男子も、男子の母親も、納得したのか諦めたのか、もう口を開こうとはしていなかった。
「学校は大人の世界を小さくまとめた所だと思います。ついていけない人は直ぐ駄目だと切り捨てるなら、駅に点字ブロックもスロープも必要ないでしょう。私たち大人が、そんな姿を子どもに率先して見せるというのも、私は気が進みません」
父はなおもゆっくり、優勢になったこの空気の中でも、いつもの父だった。
「でも、それでもあなたの言うような、不安な気持ちになるのも分かりますし、受験を控えた子どもを持つ親の気持ちもよく分かります。桜がそうですし」
父が私の頭を撫でる。
いつもなら手をはじいてしまうところだけど、気恥ずかしさはあるけれど、今日はそれを受け入れることにした。
手を退けられると思っていたのか、父は私が黙って頭を撫でられているのを見て、少し長めに撫で続けてきた。
「特別支援学級、学校というのも選択肢の一つではあるとは思います。でもそれは、このクラスに合わないからという後ろ向きの考えでは無く、素直で優しい桃子ちゃんが、桃子ちゃんらしく勉強が出来て、生活を送れるからという、前向きな考えで選んで欲しいと私は思います」
桃子ちゃんのママは、顔を下に向けながら、でもしっかりとした口調で「はい」と父に応える。
ありがとうございます、と小さくお礼も添えて。
「私たちは、どう選択するか、選択に合わせてどうするのか、それだけ準備をしましょう。手を差し伸べるでも、手を振るでも、どちらでも、どちらを選ばれても良い様に」
秋の風に乗った落ち葉が、教室の窓ガラスにカタンと当たる音がする。
私の父は、やっぱり父だった。
「後は桃子ちゃんと、桃子ちゃんのお母さん次第です」
話し合いが終って、教室を出てから、来た道を戻る。
さっきまでの重い空気が、校庭からの冷たい空気に流されて、昨日まで見ていた、いつもの下駄箱からの景色なのに、何だか懐かしい気持ちになって、深呼吸してみる。
肩の荷が下りたからか、気持ちが晴れたからか、いつもより多く空気が肺に入ってきている気がした。
父がスリッパを元あった場所に戻して、革靴を履きながら私の方に寄って来る。
踵に足を入れるのに苦戦しながら、「帰るか」と私に話しかける父は、家の玄関で見る父そのものだった。パタンパタンと、不十分に履いている靴底が、乾いた音を鳴らしている。
「ちゃんと履いてからでいいよ」
立ち止まって、父の方を向きながら、私は父を待ってあげた。
何度か爪先をトントンとしてから、ようやく靴を履けた父は、少し照れ臭そうに「お待たせ」と、はにかんだ。
父が、こんな父でいてくれている事が、呆れる気持ちもあるけれど、何だか嬉しかった。
校庭では、来た時と同じように、活気に満ちた声がまばらに聞こえて来ていた。
日は陰り始めていて、オレンジ色の光が私たちを包み込んでいる。
寂しげに感じていた夕闇の色も、今日は少し違って感じた。
一日の終わりを告げる、そんな光も、澄んだ空気にさらされて、よりくっきり見えて、今日のその先に、明日に繋がって行くような、始まりを告げているような気がした。
「お父さんはさ、何で作業療法士になったの?」
いつぶりだろう。
夕陽を浴びて、センチメンタルになったのだろうか、父を久しぶりに「お父さん」と呼びたくなった。
父も驚いたようだった。
私の顔をまじまじと眺めて来る。
「なに?」
恥ずかしくて、ちょっと強く訊いてしまう。
「いや、どうかしたのかなと思って」
明らかに、さっきの話し合いの時よりも慌てている父が面白かった。
「なんにもないよ。それよりさ、何でなろうと思ったの?」
「あ、ああ」とまだ父は混乱していて、うーんそうだなぁと頭を傾げた。
「なんでなったのか、か。なんでだろうな」
「覚えてないの?」
「覚えてないというか」父は言葉を濁らせた。
夕焼けの帰り道、私と父は横並びになって歩きながら、父の仕事についての話をする。
子どもの頃、小学生に戻った気持ちで、なんだか楽しい。
「なんでなったの?」
わざとらしく、幼い言い方をしてみた。
「何で、っていう理由は特になかったんだよなぁ」
そんな私につられたのか、父も笑顔になって、間延びした言い方で和やかに答えた。
「理由もなかったのに、なったの?」
「そうだなぁ、無いけどなったな」
「そうなんだ」
何か大きな、崇高な目的があって作業療法士になったのだと、さっきの父の姿を見ているとそう思えたので、それを期待していただけに、少し落胆した。
「でもなぁ」
「でも?」
校門を出て、学校の前の道路に出る。道路の奥には畑が見えた。
土曜の夕方に、道路を行き交う車は途切れ途切れだった。
「でも、なったからには責任があると思って頑張ったなぁ」
父はそう言って照れ臭そうに笑った。
父の笑顔を真っ直ぐ見つめた私も、なんだか恥ずかしくて笑ってしまった。
それと同時に、父の真面目な優しさに触れられた気がして嬉しかった。
お母さんの気持ちも、なんだか少し分かった気もした。
その後、結局桃子ちゃんは転校してしまった。
転校する日、最初に桃子ちゃんに文句を言っていた男子は罰の悪そうな表情で俯いたままだったが、当の桃子ちゃんは終始笑顔で、校門で桃子ちゃんと桃子ちゃんママに会った私と彩夏は、少し話した後、お別れをした。
桃子ちゃんは笑顔で大きく、こちらに手を振っていて、桃子ちゃんママも笑いながら会釈していた。
家に帰った後でお母さんと父にその事を話すと、お母さんは「あらー良かったわー」と安堵の表情を浮かべた。
その横で父は、「そうか」と少し口角を上げながら言った。
「お父さん、結局転校することになっちゃたけど、これで良かったんだよね?」
三人で食卓を囲みながら、私は父に訊いた。
あの日以来、劇的にではないけど、父と家で話す回数は増えていった。
お母さんの機嫌は、それ以来すこぶる良い。
「良いか悪いかは分からないけど、」
父はサラダを食べながら、その咀嚼が終るまで口は開かず、飲み込んでから口を開いた。
「桃子ちゃんと桃子ちゃんのお母さんが決めたことだ。後は二人次第だろう」
お決まりの父のセリフも、もう冷たく突き放したような言葉に聞こえなかった。
むしろ温かくて、相手に寄り添った言葉だと思う。
「そうだね」
私は答えて、その言葉を心の中で反芻する。
自分ではなくて、相手次第。
多分それは、誰もが、その人がその人らしくある為に。
今でも私は、その言葉の意味を考えている
父と同じ、作業療法士の仕事に就いて、病院で働きながら。
患者さんと接する中で、父の言葉を胸に、今日もリハビリの仕事をする。
私は父が嫌いだった。
「作業療法士という仕事をしている」と他人に言っても、基本的には「何それ?」と聞き返される事が多いです。かと言って、この仕事をしている自分に疑念を抱く事は無く、むしろ誇りに思う事が多いです。一方で、仕事をする中で、あるいは勉強していく中で「この人めちゃくちゃカッコいいな」と尊敬出来る人が沢山いるのに、中々その実態を知ってもらえないのは悔しくて、本好きの自分が出来る形で何かないかと思い、この作品をまず書いてみました。
このサイトでの作風に合っているのか、少し気になるところもありますが、この先も色々な作業療法士をご紹介出来たらと思います。多種多様な考え方を持つ作業療法士たちの、その一部と思って頂ければ幸いです。