冬の陽だまり
厳しい寒さが、ザクザクと体に刺さった。
新年まであと三時間。バイトを終えた私は、寒さに震えながら家へと急いだ。厚手の手袋に、帽子、マフラー、ダッフルコート。すべてワンサイズ大きい男物。これで完璧と思っていたのに、真冬の寒さは容赦なく私に突き刺さった。
「これなら暖かいと思ったのに!」
無断借用した甲斐がない。だから冬はキライだ。
私はマフラーを顔の半分まで上げ、夜空を見た。雲ひとつない降るような星空。明日の朝は放射冷却で寒いだろう。ほんと憂鬱だ。
そこまで考えて、自分が嫌になる。こんな綺麗な星空を見て思うことがそれか。少し早いお年玉、とか思えよな、私。
それから十分ほどで家に着いた。チャイムを鳴らすと「はいよー」と能天気な声が聞こえ、ややあって鍵が回る音がした。
「おう、おかえり」
髭面の熊みたいな男が出迎えてくれた。震えながら無言でうなずくと、「寒かっただろ、お疲れ!」といきなり抱き締められた。
「玄関! まだ開いてる!」
私は慌てて扉を閉めた。こういうところはキライだ。もう少し人目を気にしてほしい。
「いいじゃねえか、もうじきお前の旦那になるんだし」
「……それ、認めた覚えないんだけど」
「いい加減、諦めろ」
「結婚、て諦めてするものなの?」
「お前はな。観念して俺と幸せになれ」
何よそれ、とむくれて彼を引き剥がそうとしたけれど、離してくれなかった。こんな風にグイグイくるから困るのだ。私の気持ちも尊重してほしい。
まあ、尊重してくれた結果、逃げ出した過去があるんだけど。
それを思うと「諦めろ」という彼の言葉は正しいアプローチなのかもしれない。諦めるまで抱き締めておかないと、私はまた逃げ出すのかもしれない。
「風呂沸いてるぞ、温まって来な」
だったら腕を離しなさいよね。
私はもがくように彼の腕から脱出すると、彼を軽く叩いてお風呂へ向かった。
◇ ◇ ◇
私好みの「ぬるめ」のお湯に肩までつかり、ぼんやり考えた。
あいつは、どうして私がいいのだろう?
考えてもさっぱりわからない。
中卒で学はない、これといった特技はない、バイトばかりできちんと働いたこともない、がんばったことがないから根性もない。
本当に何もない。
あるといえば放浪癖。いやこれはない方がいいものか。あとは……強いて言えば胸はある方か。それが理由なら「体で選んだ」なんて鬼畜な理由になる。でも、そんな男じゃない事はよく知っている。
ああ、ほんとにわからない。
考えるのがめんどくさくなって、私は目を閉じ。
──すとん、と心を空っぽにした。
「何も考えない」というのはとても難しいことらしいが、私は割と簡単にできる。
考えたって、どうにもならないことばかりだったから。
何も考えたくなくて、空っぽになる方法を必死で身に着けた。
おかげで今では気持ちの切り替えが難なくできる。私は「瞑想もどき」なんて言っている。人間、追い詰められればなんでもできるんだと、自分で自分に感心したものだ。
そんな技を身につけたのは、十六歳の時。
世界が私から家族を奪い、ひとりぼっちになった、十年も前のことだった。
◇ ◇ ◇
私が居間に戻ったのは一時間近くたってからだ。なのに、彼は私が出てくるタイミングに合わせて天ぷらを揚げていた。面倒だろうにと思ったが、彼は嬉しそうに笑っていた。
「プロを舐めてもらっちゃ困るよ」
作った料理をおいしいと笑顔で食べてもらえる、それこそが料理人の醍醐味。彼はいつもそう言っている。そのプロ根性は本物で、その笑顔はいつもまぶしい。
「お疲れ様」
「おう、今年も無事終わったな」
そんな言葉を交わしてビールで乾杯し、彼が作ったお蕎麦に箸をつけた。
さすがにおいしい。そばつゆも作ったのかと聞くと、三日前からお店で作り、スタッフみんなで分けて持って帰ったという。
「イタリアンのシェフって、そばつゆも作れるんだ」
「たいしたもんだろ?」
「うん、たいしたもんだ」
私なんてひたすらバーコードを読み取らせるだけなのに。あれが早く正確にできるようになったとしても、そのうちカゴを置いたら機械が全部やってくれるようになる。そうなれば私はお払い箱。機械にすら負けてしまうなんて、本当に私には何もない。
「お、鳴り始めたな」
お蕎麦を食べ終えるころ、除夜の鐘が聞こえ始めた。一年終わったな、と感慨に浸るべきなんだろうけど、浸るほどの感慨はない。
この一年、何やったっけ?
考えるとため息しか出ない。新年はすぐそこだっていうのに、私はどうしてこんなに気が滅入って愚痴ばかりなんだろう。
「おい、飲むか?」
私が鬱々としていたら、彼が日本酒の瓶を持ってきた。お正月用にわざわざ取り寄せたおいしいお酒だ。そんなの返事は決まってる。
「うん、飲む」
「じゃあ……隣に座らね?」
彼の笑顔が一段と輝く。まったく、お酒を飲むのにどうして並んで座らなきゃいけないのか。私を酔わせてどうする気だ。
まあ、その下心は嫌ではない。ううん、違う。私のことをそういう相手として見てくれ、それを受け入れているから、私は彼と一緒に暮らしてる。
うん、わかってる。私は彼が好きだ。嫌なわけがない。
私は彼の隣に座り、お互いのお猪口にお酒を注いで口をつけた。
「あ、これおいしい」
「だろ。おせちにも合うぞ」
「おせち食べたい」
「あれは明日」
「けちー」
私がもたれかかると、彼の太い腕が優しく包んでくれた。
彼の腕の中は心地よかった。まるで、さっきまでいたぬるま湯の中のよう。彼が私を選ぶ理由はわからないけど、こうして彼のぬくもりに包まれるのは大好きだ。
そのぬくもりに浸っていると、グチグチした気持ちが静かにほぐれて消えていった。
◇ ◇ ◇
十年前、私はセイギノミカタに家族を奪われた。
理由は今でもわからない。私の家族は誰も悪くなかったはず。なのに、ネットに溢れるセイギノミカタが私たち家族を総攻撃した。
晒し者にされ、メッタ切りにされ、罵る言葉で「いいね」と笑われた。
母が逃げ、父が死に、兄が消え、半年たったら一人になっていた。
家を追い出され、私はネットカフェに住み着いた。色々なことがあって、ごちゃごちゃ考えていたらわけがわからなくなって、心がめちゃくちゃになった。
壊れそうな心を守るため、私は空っぽになる技を、「瞑想もどき」を身につけた。
しかし、しょせんは「もどき」。悟りの境地に達するわけがなく、やればやるほど曲がりくねった挙句、生きていても仕方ないという諦めの境地にしか行けなかった。
瞑想もどきの果ての、悟りもどき。
それでも心が軽くなった。悲しみが消え、笑う余裕さえ出た。そうしたらお腹が空いていることに気づいた。ならば今生の思い出においしいものを食べようと、評判だったイタリアン・レストランへ行くことにした。
でも、先立つものがない。売れそうなものもない。困ったなと思ったが、まだ一つだけ売れるものがあることに気づいた。
私だ。
私は十六で、女で、裸になれば商品になるはずだ。
どうせ死ぬのだ、誰かが楽しみたいのなら食事代と引き換えに楽しんでもらえばいい。そうすれば、私は食事代を、見知らぬ男は快楽と幸せな気分を得ることができる。
これぞウィンウィン。
何をされるのかわからない、という不安はあったけど、死ぬ練習だと思えば一度くらいは耐えられると思った。
そう、一度だけなら。だって人は、一度しか死ねないのだから。
そして、私は売春未遂でネットカフェを放り出された。
「職業に貴賎なしとは言うけどよ」
途方にくれた私の手を、熊みたいな顔をした男の手が包んでくれた。
「子供が売春で稼ぐ、てのは、やっぱいたたまれねえよ」
私が今生の思い出に行こうとしていたイタリアン・レストラン。そこで修行中だったのが、当時二十六歳の彼だった。
◇ ◇ ◇
「そっか……私、あの時のあなたと同じ歳になっちゃったんだ……」
私は、隣で眠る彼の頬をそっと撫でた。
ネットカフェを放り出された私は、彼の家に連れて行かれた。二階建ての店舗兼住宅の家。一階は潰れたレストランで、彼の祖父がやっていたお店だった。結構繁盛していたらしいが、ある日突然廃業したそうだ。その理由を聞いたことがあるけど、彼は「ヒミツ」と笑って教えてくれなかった。
終わるはずの人生が、続くことになった。
居場所を得た私は、何をするでもなく毎日をダラダラ過ごした。とにかく何もしたくなかった。そうして私が二年ほど人生を浪費している間に、彼は料理人としての修業を終え、祖父の店を再開すべく資金を貯め始めた。
猛烈に働く彼を見て、さすがに心苦しくなりバイトを始めた。そして、バイト代を貯めてはふらっと出て行き、無一文になったら帰るという放浪生活を送るようになった。
彼には心配されたが、変に束縛されることはなかった。
「いいさ、ここはお前の家だ。好きな時に帰ってこい」
彼のその言葉が、私の心の支えになった。
そして五年前。彼はいよいよ独立して祖父の店を再開することにした。
朝から晩まで、毎日忙しそうな彼。私はそんな彼を見て「少しは恩返ししよう」と考えるほどには立ち直っていた。
だから、彼に手伝いを申し出た。
「ありがたい」と彼は私の申し出を受け入れてくれた。ずっと手伝って欲しいと思っていたそうだ。「言ってくれればいいのに」と、すねた気持ちになったことが新鮮だった。
彼と一緒にいる時間は、それまでとは比べ物にならないぐらい長くなった。同じ目標に向かって同じ時を過ごし、言葉を重ねてお互いのことを知り、心を通わせ、気がつけば体を重ねて男と女の仲になっていた。
「俺と一緒に、お店をやっていこうぜ」
それが一度目のプロポーズだった。
こんな私に一緒に居てくれと言ってくれたことが、本当に嬉しかった。
でも、私はその嬉しさに耐えられなかった。
だって私には何もない。がんばり屋の彼の隣に立っていると、空っぽな自分を思い知らされるようで、惨めで辛かった。
苦しくて苦しくて、とうとう逃げ出した。開店直後の大事な時期に何をしているのだと思ったけれど、どうしても戻れなかった。
四ヶ月後、行き倒れて警察に保護された私を、彼が迎えに来てくれた。泣いて謝る私を彼は優しく抱き締めて、「いいから帰って来い」と言ってくれた。
情けない帰り方だった。でも、そこで意地を張れるほど私は強くなかった。
そんな私に、彼はまたプロポーズした。
どうして私なのだろう。いくら考えてもわからなかった。
◇ ◇ ◇
初詣には出かけたけれど、それ以外は休みが終わるまで家にこもって過ごした。
彼が作ったおせちはおいしかった。たくさん買い込んだお菓子もつまみながら、見ても見なくてもいいテレビを垂れ流し、文字どおり食っちゃ寝した。
ぬくぬくとした、何もかもが億劫になる気だるい空間。心地よいような、退屈すぎるような、ダラケきった時間。
外に出たら、寒くて痛い。でもここでぬくもりに浸っていれば、心地よくて退屈な幸せが守ってくれる。
十年前まで、こんなのが当たり前だったはず。でもそれと同じものかどうかは、今ではもうわからない。
「いい正月だな」
コタツでまどろんでいると、彼が私の頭を撫でてくれた。私はその手にほおを乗せ、枕代わりにして目を閉じた。
ゴツくて温かい、いつも私を守ってくれる手。この手に触れられるのは大好きだ。
「お店……いつからだっけ?」
「六日。五日に準備しに行くけどな」
「そっか」
スタッフにお年玉でも配る? 私がそう言うと、彼は「いいね」と笑ってくれた。
その言葉にズキリと胸が痛んだ。
その痛みをごまかしたくて、私は彼の腕を引っ張り、少し乱暴なキスをした。
◇ ◇ ◇
一月五日のお昼前。
お年玉として男性にはフェイスタオル、女性にはハンカチを選び、彼のお店へ行った。スタッフは全部で七名。最初は彼と私の二人だけだったのに、たった四年でお店は随分立派になっていた。
「では、今年もがんばっていこう」
賀詞交歓会を兼ねた昼食会でお年玉を配り、スタッフたちと一緒に楽しい時間を過ごした。
「そろそろ結婚ですか?」
滅多に顔を出さない私が来たので、スタッフは私と彼の話題で盛り上がった。彼は「今必死で口説いているところだ」と言って場を盛り上げたけど、私はただニコニコしてはぐらかした。
昼食会が終わり、私は一足先にお店を出た。
「さむ……」
手袋、帽子、マフラー、ダッフルコート。すべて無断拝借した彼のもの。これだけ着込んでいるのに寒さが身にしみる。
温かい部屋から出ると寒い。
ぬるま湯から出ると寒い。
彼から離れると寒い。
そこから一歩でも出ると、厳しい寒さが襲いかかってくる。寒くて寒くて、すぐに元の場所に戻りたくなる。もっと温まってからでないと外は歩けない。でも、ぬるま湯じゃ外を歩けるほどには温まれない。
寒い。寒い。寒い。
木枯らしが吹き、私の体温を奪っていく。鋭い寒さが、ザクザクと私を刺してくる。
ぬるま湯に浸っていたい。優しいぬくもりに身を委ねていたい。でも十年前に奪われたそのぬくもりを、彼に求めていいのだろうか。
「いいね」の数が増えるたびに、私の家族は消えた。セイギノミカタは、私の家族の何もかもを晒し、お前は死ぬまで犯罪者なんだと、消えない刻印を世界中に残した。
セイギノミカタにとって、私たち家族はまだ犯罪者なのだろうか。
だとしたら、彼が私の家族になって、もしもまた「いいね」が増えたら、今度は彼が消えてしまうのだろうか。
──嫌だ。
何者でもない私が、がんばり屋の彼を消してしまうなんて、絶対に嫌だった。
◇ ◇ ◇
家に着き、震えながら居間に入ると、ふわり、と暖かな空気に包まれた。
エアコンが付いていた。ちゃんと消したよね、と首を傾げているとスマホが鳴った。
『暖房ついてただろ? 寒がりの奥さん』
彼からそんなメッセージが届いていた。スマホから操作できるエアコンに買い替えていたらしい。
「奥さんと言うなら、ちゃんと教えときなさいよね!」
ああもう、と私は防寒具を脱ぎ捨て、どさりとソファーに座った。
静かに流れる温かい空気。部屋の中は心地よく温められていて、ちっとも寒くなかった。きっと、私が家に着くタイミングを見計らってスイッチを入れてくれたのだろう。
「そっか。本気なんだ」
窓から柔らかな冬の陽が差し込んでいた。
心地よい温かさの中、その陽だまりを見ていると、心がすうっと軽くなった。
静かで、穏やかで、心地よく、気がついたら泣いていた。
この家の主が帰ってきたら、きっと私を抱き締めて、ぬくもりで包んでくれる。「ただいま、奥さん」なんて言われたら、私は「おかえり、だんな様」と答えてしまう気がする。
でも、多分、それでいいのだ。
彼はがんばった。夢のために、愛した女性のためにがんばった。がんばったから、こんなに温かな家を手に入れた。
そんながんばり屋の彼が、私にここに居て欲しいと言ってくれる。
がんばらなかった、がんばれなかった私が必要だと言ってくれる。
勝てるわけがない。逃げられるわけがない。だって嬉しいのだもの。彼のそばにいたいのだもの。彼が言う通り、私は、諦めて、彼と一緒に、幸せになりたいのだもの。
「ほんと……私ってバカ」
ひとしきり泣いた後、私は涙をぬぐい立ち上がった。
冷蔵庫が空っぽなのを思い出した。調理は彼に甘えるとしても、買い物ぐらいはしないと申し訳ない。スーパーは少し遠いから、近くの商店街へ行くことにした。
私は、脱ぎ捨てた彼の防寒具をハンガーに掛けた。代わりに、自分で買った薄手のジャンパーを羽織り、財布を手に居間を出た。
冷たい空気に、ぶるりと体が震えた。
「……さむ」
扉一枚隔てただけでこの寒さ。こんな寒さの中、どうしてこの薄手のジャンパーで出てきてしまったのだろう。温かいのは居間の中だけだというのに。
少し、浮かれすぎだ。
「ほんと……私ってバカ」
私は目を閉じ。
──すとん、と心を空っぽにした。
寒さが和らいだような気がして、私はそのまま家を出た。角を曲がり、まっすぐ進み、五分ほどで商店街が見えた。
そして、思い出す。
商店街を抜けた先には駅がある。そこからなら、全国どこへでも行けるはずだった。