エピローグ〜秋は夕暮れ
長い階段を上ったところに、小さいが立派な作りの和風建築があった。「宮城道場」という看板がかけられたその建物は、古くから続く古武道の道場であり、今もなお数十名の門下生を抱える、立派な一門だった。
「よろしくおねがいします!」
道場の門の前で、絶世の美少年・斎藤亮二が両手を合わせて一礼した。
病弱で格闘技はおろか運動も苦手な少年だが、兄に連れられて遊びに来た時に興味を持ち、やがて「僕も兄ちゃんみたいに強くなりたい!」と入門を希望するようになった。
兄が反対する中、両親は「やってみなさい」と入門を許した。
最初は稽古が終わるとフラフラになっていたのだが、今では何とか自力で帰れるまでに体力がついた。この冬を乗り切れば年相応の体力がつくだろうと師範に言われ、週に二回、張り切って道場へ通っていた。
うんうん、成長したな我が弟よ。
そんな弟の姿を頼もしく思いつつ、兄もまた門をくぐろうと手を合わせた時。
「はいそこまで」
「うおっ!?」
背後からベルトを重いひきりっぱられ、斎藤はつんのめった。
「み、宮城! 気配殺して近づくなよ!」
「あんた、何回言えばわかるの。稽古の保護者付き添いは、幼稚園児まで!」
「で、でもよお」
「でもじゃない。あんたはこっち。じゃ亮二くん、がんばって」
「はい!」
「り、亮二、ケガするなよ! 何かあったら兄ちゃん呼べよ!」
「あーもー、この過保護なお兄ちゃんは。ほら、こっち来る!」
斎藤は宮城に引きずられて、道場から宮城の自宅へと連行された。
十月も半ばの午後五時。太陽はもう半分以上沈み、周囲は薄暗くなっていた。朝夕はめっきり涼しくなり、そろそろ本格的な冬支度が必要だ。
「ほんとにもう」
玄関を入ったところで、くるりと振り返った宮城がふてくされた顔で斎藤を睨んだ。
「過保護もいい加減にしないと、怒るよ?」
「いやでもよお。この前大きなあざ作って帰ってきたんだぞ?」
「あのねえ、格闘技習ってるんだよ? ちょっとしたケガは当たり前でしょ」
「ま、万が一があったらどうするんだよ!」
「お母さんは医師免許持ってるし、そもそも何年子どもを指導してると思ってるの。弟くんが独り立ちしようとしているんだから、あんたも弟離れしなさい」
「い、いや、それはそうだが……」
「だいたいねえ!」
宮城はビシッと斎藤の顔を指差した。
「彼女の家に来てるというのに、彼女よりも弟を優先するとは何事か!」
「お、おう……そりゃまあ、確かに……」
「わかったらさっさと上がる。亮二くんの稽古が終わるまで、かわいい彼女の相手をしなさい」
二人が付き合い始めて早三ヶ月。
始めは照れ臭さと斎藤の愛の重さで右往左往していた宮城だが、亮二の様々なアドバイスを受けて成長し、今ではむしろ斎藤を尻に敷く勢いだった。
宮城について居間へ行くと、テーブルの上に教科書やノートが広げっ放しになっていた。
「お、なんだ、勉強してたのか?」
「まーねー」
「うむ、感心だな」
「もー、えらそうに」
宮城は手早く教科書とノートを片付けると、お茶を用意し、斎藤の隣に腰を下ろした。
この夏休み、タチの悪い冗談かと思っていた斎藤との勉強会は、本当に開催された。
「平日、午前九時から十二時の三時間な」
「え゛、マジでやるの!? ていうか三時間もやるの!?」
「おう。電話で確認したら、宮城のお母さんにも『ぜひやって欲しい』て言われたぜ」
「ちょっ、いつ私のお母さんに連絡したわけ!?」
いくら彼氏と一緒とはいえ冗談ではない、せめて一日おきにと宮城は抵抗した。だが。
「しょーがねーだろ……俺は毎日お前に会いたいんだよ」
そんなことを言われては、なりたて彼女としてはうれしくて仕方なかった。結局斎藤に押し切られる形で、夏休みの勉強会は開催された。
その勉強会、結局は斎藤が宮城に毎日会うための口実で勉強は二の次だった……なんてことはなかった。
毎日三時間、みっちりきっちり勉強をした。おかげで夏休みの宿題は最初の一週間で終わらせてしまったし、夏休み明けの実力テストでは平均六十点越えという、奇跡のような成績をたたき出した。
斎藤の指導の甲斐あって勉強する習慣がついたおかげか、二学期の中間テストではついに平均七十点を超えた。底辺グループから上位グループへの躍進に、宮城家では斎藤の株は爆上げだ。
しかし、である。
「彼氏ができた直後の夏休みの思い出が勉強会、て……どうなのよ」
「健全で学生らしくて、いいじゃねえか」
「斎藤くんって、ほんっとクソ真面目だよね」
「学生の本分は勉強だぞ。それをおろそかにしちゃダメだろ」
ケンカは強く、ヤンキーどもに一目置かれている斎藤だが、生活態度は至極真面目、むしろ「生徒会長やってます」と言われた方が納得する。なんでこの地域一帯のヤンキーのボスなんて言われているのか、不思議で仕方なかった。
「……おっしゃることは、まことにごもっともですけど」
宮城はジトッとした目で斎藤を見つめた。
「なんだよ」
「高校生カップルとしては……もうちょっと、色っぽいことがあってもいいんじゃないかなあ……て思うんだけど?」
ちょぴりむくれた宮城が、すっと間合いを詰め、斎藤の左腕にギュッと抱き着いた。
斎藤の左肘に、ポヨンとした感触が当たった。驚いて思わず身を引こうとした斎藤だが、宮城にがっちりホールドされて動けなかった。
「え、あ、お、おおいっ、宮城!」
「こら……彼女に抱き着かれて逃げようとするな」
「いや、し、しかしだな!」
「なによ。そんなにイヤなの?」
「そ、そんなことはないぞ。ないけどな……」
「ないけど?」
「こ、こんな、いきなり……お前から来るなんてよ……」
「だって……斎藤くん、そういうこと全然してくれそうにないんだもん……」
ついこの間まで恋愛小学生なんて言われていた宮城だが、斎藤はそれを上回る初心さだった。
夏休みの間も、勉強会という形ではあったが、結構長い時間二人きりで過ごしたというのに、宮城が貞操の危機を感じるようなことは一度もなかった。
「ちょっとぐらいはあるかなあ、て思ってたのに。女の子として自信なくしちゃいそうなんですけど?」
「い、いや、だからと言ってだな……」
「それに、明日で付き合ってちょうど三ヶ月ですよ」
「おう、それはバッチリ覚えているぞ。宮城の好きなクッキーをだな……」
「……もっと甘いものがいいです」
斎藤の言葉を遮り、宮城はさらに強く斎藤の腕に抱き着いた。
「え、え? 甘いもの? チョコとか、ケーキとかか?」
「違います」
「え、ええと……え、なに?」
肘に当たる柔らかな感触にドギマギしつつ、斎藤は宮城の顔を見た。
同じタイミングで、宮城も斎藤を見上げた。
お互いの呼吸すら感じられる、そんな至近距離で目が合う二人。いつもなら恥ずかしがって目をそらしてしまう宮城が、今日はうるんだ瞳のまま、じっと斎藤の目をのぞき込んでくる。
「え、ええと……」
宮城に見つめられて、斎藤の全身がカーッと熱くなっていく。
「甘いものって……キス、か?」
こくんとうなずいた宮城の顔が、みるみる赤くなっていく。宮城だって本来は奥手の女の子、そんな宮城がここまでするなんて、相当がんばっているのだろう。そう思うと、斎藤の心の中に宮城への愛しさが募ってきた。
「……わ、わかった」
斎藤は深呼吸をし、覚悟を決めた。女の子にここまで言わせて何もしないなんて、許されることではない。
斎藤は背筋を伸ばして宮城に向き直り、その肩に両手を置いた。
再び見つめ合い、宮城が少し上を向いて目を閉じる。それを見て斎藤も目を閉じ、そっと顔を近づけた。
「ん……」
宮城の小さな声と、柔らかな唇の感触。たちまち斎藤の理性が吹っ飛びそうになったが、全力で引き留め、数秒で唇を話した。
「えへへ……」
心臓が飛び跳ね、今にも口から飛び出してきそうな斎藤に、宮城が、ふにゃっ、と笑いかけた。
やべえ、すげえカワイイ、と再び斎藤の理性が飛びそうになる。そんな斎藤の心境を知ってか知らずか、宮城は斎藤の首に両手を回し、ギューッと抱き着いてきた。
「お、おい、宮城……」
「中間がんばった、ご褒美も欲しいです」
「い、いや、勉強はご褒美をもらうためにやるんじゃなくてだな……」
「もぉ……そういうのはいいの! よしよし、がんばったな、てキスしてくれればいいの!」
「そ、それもキスかよ」
「なんでよお、彼女とキスするの、嫌なの?」
「い、嫌じゃないぞ。決して嫌じゃないぞ。ただな……」
斎藤は抱き着いて頬ずりしてくる宮城を思いきり抱き締めた。
胸板に、柔らかな膨らみが当たる感触にドギマギする。夏の薄着の間、気になって気になって仕方のなかったふくらみだ。
「理性が吹っ飛んじまいそうだ」
「あー、そういうことか。よかった、ちゃんと私に興味あるんだ」
「あ、ありすぎて、困ってるんだよ」
「そっかそっか」
宮城が笑いながら体を離し、斎藤のおでこに自分のおでこを当てた。
「でも、キスだけだからね」
「……ちょっとも、だめ?」
「だーめ。ヘンなことしたら、即座に絞めて落とすからね」
「お前が言うと、冗談に聞こえない」
「冗談じゃないもん」
くすくす笑いながら、宮城は目を閉じた。
「というわけで、がんばったご褒美ください」
「ああもう……わかったよ」
二人の唇が再び重なり、すぐに離れ、そしてまた重なり合う。それを何度か繰り返すうちに、宮城は全身の力を抜いて斎藤の胸に倒れこみ、斎藤は宮城をしっかりと抱き締めた。
「えへへ……期末テストも、ご褒美目指してがんばろ♪」
「お前なあ……ま、いいけどよ」
「これからもよろしくね、斎藤……和一くん」
「おう、こちらこそな、宮城……早苗」
ずっと一緒にいよう。
そんな想いを言葉にして、二人はまた唇を重ねた。
それは二人が交わした誓いのキス。
二人の日常は、少し甘みを増して、これからも続いていくのだった。
(完)
お読みいただき、ありがとうございました。




