後編
あなたと初めて交わした言葉がなんだったのか、どうしても思い出せないの。
夢の中だけは、真実であってほしいのに。
現実では、嘘に浸ってしまうから。
嫌だよ。覚えててよ、私のこと。
「みっともないわね。私の中の、ニセモノの自分にすがるなんて」
逆だよ。あなたの中の私だけがホンモノの私なの。
「そんなの馬鹿げてる。他でもない自分を誰かに委ねるなんて」
それでも、あなたと一緒じゃない時間を過ごした私より、確かな私だよ。
「あなたはこれからいくらでも新しい、ホンモノのあなたを見つけられるのに」
いらないよ、そんなの。最後の日に、あなたを思い出せるなら。
「……お願い。忘れたいのよ。どうしても、あなたのことを」
どうして? どうしてそんなに、私との繋がりを断とうとするの。
「……私も、ある意味では、あなたと同じなのよ」
どういうこと?
「あなたの、すべすべの手の感触が忘れられないの。ふかふかのおっぱいも、抱き合った時の、隙間なく溶け合って、身体がなくなってくような浮遊感も。忘れられなくて、生きていけないの。性が脳に機能不全を起こしてるの。細胞の一つ一つも取り替えて、全てをリセットして、生物として正常に生殖して、遺伝子を残したいだけなのに」
正常なんてどこにもないよ。そんなの、ただの共同幻想でしょ? あなたが、どこにもいないよ。
「どこにもいなくなる前に、残さないといけないんでしょ」
たった体の半分を? 心の全部をかけてまで? 私は全部のあなたじゃなき、意味がないと思うよ。
「鏡もろくに見ない人に言われたくないわ」
今は記憶の話でしょ? どうして頭の中でぐらい自由でいられないの?
「わかったわ。あなたは狂ってる」
私からしたら、あなたのほうが狂ってるよ。
「これ以上話しても、埒が明かないわね」
そうだね。でも、あなたの気持ちはわかった。素直な言葉が聴けて、私、嬉しかったよ。
身体が、心を繋ぐためだけに存在すればよかったのに。
そんな気持ちを言葉以外の方法で証明したくて、私は手に持った銃をあなたにではなく自分に向けた。
「ちょっと! どういうつもり?」
ずっと冷徹だった彼女の表情が、そこで初めて崩れた。
対して、私の心は妙に落ち着いていた。眠りに入る前のような心地よいまどろみに、体重をこめかみの銃だけに預ける。
私が私を忘れるために、あなたの目の前で私を撃つ。
そうだ。せっかくなら自分に使う前にこの銃で両親を打ってから、他人になった二人にも私を撃ってもらおう。
姉妹や兄弟、友達はいないし、それだけで十分。
それだけで、私はあなただけになる。
ずっとそうして生きてきたから。
余計なことは考えずに済むように、あなたのことが薄れてしまわないように。
1も失った私はきっと0というあなただけで満たされることになる。
私とあなたの境目がわからなったら最後、きっと宇宙はビックバンを諦めただろう。
時間を手放したまま、必要のなくなった三次元を閉じるだろう。
そういえば、今、私はどこにいたんだっけ。
そうだ。
私は今、あなたの夢の中にいたんだ。
「私を知る前の私なら、きっと間違えなかったの」
あなたから別れ話なんてしなかったってこと?
「それだけじゃなくて、あなたとの出会いも。この、罪ばかり押し付けられてしまう、身体のことも」
でも、やっぱりずるいわ。自分で自分を忘れるなんて!
「知ってるよ、私だって、ずるいって。でも、あなたに出会っちゃったから。もう私は、私を忘れた方が、私でいられるの」
あなたのそういうところ、大嫌い。
「私も。でも、これでやっと、あなたのこと、本当の意味で好きになれそうなの。私のことも、好きになれそうなの」
私は私を知る前に、あなただけを知っていて。
あなたは私を知る前に、あなただけを知るの。
人差し指には0と1しかない。
簡単すぎて、呼吸も忘れる。
キスの方が、ずっと難しい。
私は聴こえないであろうことを願って、この世で最も都合のいい言葉を、引き金に合わせて初めて口にした。
――愛してる
この銃声が、人生最後の夢に、あなたが私を知る幸せになりますように。
【終わり】