8 私だけが
「五香ぁー。このパラレルって変異者やばくないかー」
「だから急いでレポート作ったんだよ。研究者の視点から見ても今回のは驚きばかりだからね」
「だって見ただけででしょ? 私は何故か全く影響なかったけど」
「それは大葉だけ。他は皆強化スーツ着けてても個人差はあるとはいえ影響出たんだから。というかいつまでくつろいでるの。来週退院でしょ」
「別に由乃がやってくれるからいいもーん」
現在産巣襲撃の有力な容疑者として上がっている件の変異者──パラレルと暫定的に呼称されたそれに有効な対策が見当たらず、唯一その効力を受け付けない産巣装着者、大葉の復帰を請う声が上層部からひっきりなしに来るようになった。
当の本人は一度負けた奴を何故引っ張り出そうとするのかと、上層部のよく分からない考えに溜息をついていたが。
「というか、そいつが映ってる映像って出回ったらヤバいでしょ。見ただけで一定時間一切の応答が出来なくなるんだから下手したら大パニックだよ」
この時──大葉が初めてパラレルと呼称された変異者の姿を認知してから三日後の時点では、この変異者の能力は映像や画像を介してその姿を認識した対象の意識を数秒から数十分飛ばすようなものである、そしてその効力は強化スーツの着用によってある程度緩和できること、産巣だけはその効力を完全に無効化出来ること。
それがパラレルに対する能力の認識であった。後に最後を除いて大きく異なるものであったと分かるのだが。
そのためこの情報を公表されるようなことはなく、また謎が多いのと潜在的な危険性が高いことからなかなか分析が進んでいなかった。下手に反復実験が出来ない特性の能力であるのも拍車を掛けた。
「それで、最強のくノ一サマにはあんな突然変異に目を付けられる謂れがあったのかなー? まあ、恨みは結構買ってそうだけど」
「あのビジュアルは一度見たら忘れられるわけないじゃん。見覚えがないってことはそういうことだよ。それより休みすぎて仕事する気が起きない」
「学生みたいなことを……あ、ごめん。もう昼休み終わるしまた今度ね大葉」
「いってらっしゃーい」
──はあ。
織銀 大葉は困惑していた。自分が襲われたのはあの変異者であると思いこんでいる周囲や、それに全く気付いていないことを唯一気付いているのが自分であること。カメラの映像には確かに映っていた。それは確かだ。
だが、それは映っていただけであって別の映像に映っていた自分が突如攻撃を受け路傍に倒れこむ映像とは全く整合性が取れていないのだ。
それでも、誰も気付かない。あの映像にある危険性は意識が飛ぶことだけである、そう思いこまれているのではないか。
今までにもそういった精神に働きかける変異者は十分にいた。自分も何度か遭遇した。だが、ここまで質の悪い奴はいなかった。明らかに異常な強さだ。正直今すぐにでも自衛隊や警察の最精鋭に駆け込みたい。
だからこそこのことは今自分の中だけに仕舞っておかなければならない。知られれば知られる程事態が悪化していく能力。こんなものどうやって対処しろと言うのか。
そして私だけがその能力を受け付けないとも思いこまれている。自分ですら例外でなく、恐らくあの映像を見るまでは自分も気付かなかっただろう。
今、確信を持って言える。私を襲ったのはあいつじゃない。あれは何故かは知らないがたまたまあの場所に居合わせただけであると。意識が完全になくなる前、誰かがあの場所を訪れた。そしてあのパラレルに変化していくのを見た。悔しいことに変化する前の姿を確認出来ていないが。
つまりは、あの映像を見ることがトリガーになった、映像を見て当時の状況とその記憶が解除された。
そのことを含めると意識だけでなく認知と記憶にも干渉する能力で、アイギスだけでは手に負えそうにない。
「どうしたもんかなー」
迂闊に喋ってしまうと厄介だし、あまり放置していてもそれはそれで後手後手に回って面倒なことになりそうだ。しかも意識の喪失は一時的であるようだけど、認知の方は明らかに一時的という言葉には治まらない持続性がある。流石にずっとではないと思いたいけどいつまで続くのか分からない。
記憶の方に関しては実例が自分のしかないからそもそも判断のしようがない。
「そもそも、アイギスの情報網が正しければパラレルが出現したのはあの時っぽいから本人ですら正確には把握出来て無さそうだよなあ。十中八九確保されたら実験対象になって元の生活には戻れないだろうけど、それは流石に見たくないなあ」
対変異者の業務に携わりかつかなり機密情報に触れることができる立場の人間としては、大葉は変異者に対してもかなり融和的な考えをする方だ。
表向きには変異者とそうでない人々との融和が進んでいるように見せているが、国際的には消極的ながら変異者の隔離や急進的なグループでは排斥が進んでいる。
一般人にはただの対テロ戦争に見えている中国でのMandelbrotとの衝突は、そういった裏での排斥活動が拡大していった結果だ。
「ヒーローって仕事も楽じゃないな」
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「やあ、息災だったかな由乃クン。こちらとしては普通に話せることがとても光栄だよ」
「……天地さんって本当胡散臭い感じが拭えないです」
数日程何にもないことが続いた辺りで、再びあのくたびれたオッサン─天地さんから話の場を設けたいという事で喫茶店を訪れた。
どうやら貸し切り状態になっており、今ここにいるのは俺と天地さん、そして天地さんの隣にいる不健康そうな顔つきの男が心ここにあらずといった様子で座っていた。
二人ともスーツで到着し、自分が今いるのは交渉の場なのだと否応なく実感させられる。
「それではこちらの書類を」
「……契約書、ですか」
横にいた男性から受け取った書類には俺の変異者としての情報の提供に関する諸々の要項が記載されていた。つまり契約書。しっかり丁寧に写しも用意されていて犯罪組織もそういうとこはちゃんとやるのだと思った。
「大学生の君にはあまり馴染みが無いだろうがこれも社会勉強だと思えばいいさ。こちらとしても少ないリスクで最大限のリターンが欲しいからね。毟れるだけ毟り取らせてもらうよ」
全く、厄介なオジサンだ。これ以上関係を深めるようなことはしたくないのだけど。
この辺りが妥協点だと思って我慢するしかない。流石にMandelbrotが敵に回っちゃうようなことは避けたい。
しかし、法律の穴を突くようなことだと思う。認定を受けていない変異者がその特性に関して第三者に情報を伝えることに関しては今のところ法律に何の規定も無かった。
そもそもそういった状況自体が特殊過ぎて今まで考慮されてこなかったのだろう。認定受けてない変異者がわざわざ情報をバラすだろうか。普通は隠すだろうな。
「まあ、君もなかなかいい性格しているとは思うよ? 気に入らないような条件だったら俺とうちの頭脳をまとめて支配下において自殺させるとか考えたんじゃないのかな?」
「そういう発想にいたる時点で貴方も同類ですよ…」
「否定はしないんだね」
本当、厄介だ。相手の特徴や特性を理解した上で相手の行動も読んでくる。
実際、天地さんが言ったことに近いことを考えたのは事実だしな。苦笑いするしかない。
それはそうとして契約内容だ。一通り読んでみたがかなり良心的というか明らかに怖気づいてるような感じの内容だ。具体的には新たに分かったことがあれば優先的に情報を報告書もしくは直接口頭で伝えるとか、一度伝えた情報に関してはこちらが自由に扱えるとか。
そしてこれ以上天地さんの方からは勧誘するようなことは一切しないということ。
「……何か、拍子抜けというか、かえって怖いくらいです」
「その感覚は大事だよ由乃くん。まあ、それはそれとしてこっちもああは言ったけど強く出ることも出来ないからねー。とりあえず利益だけは上げておこうって算段さ」
この時はまだ気付いてはいなかったが、どうやらこの契約書の内容にも俺の能力が干渉していた。正確には作成に携わっていた天地さんが微弱ながら能力の効果を受けていたらしい。ほぼ見ていなかった筈だがそれで十分であるという能力の強力さを理解した。
その後も少しの間取り留めのない会話を続けてから契約書にサインした。
これ以上厄介ごとに巻き込まれたくないが故に結んだ契約を皮切りに日常は変化していくことになる。
「これは個人的な興味なんだけど、同棲している彼女さんはアイギスでどんな仕事をしているのかな?」
「……そこまでよくご存じで」
「やっぱりかー。何か怪しいと思ってたけどアイギスで働いていたか―! びっくり!」
……嘘だな。ブラフに引っ掛かってくれたみたいなことを言っているが実際は確信に近いか、ほぼ決定したことをあたかも確信のない風に装っている。
どうせ今は下でもじっくりとこの人には敵わない、従うしかないって印象を植え付けようとでもしているんだろう。精神的な圧力はそう易々と拭えるものではないからな。油断も隙もありゃしない。
「ただの研究職ですよ。大したものじゃありません」
「へえ。ま、今後ともよろしく頼むよ由乃クン?」
「─もう、面倒なのはこれっきりにして欲しいですけどね」
「さて、あれが現時点で一番厄介な変異者だ。解析は進んだか?」
「いや、…失敗しました」
「となると…こりゃ将来的には幹部以上は確定だな。下手すりゃボスと同じくらいか?」
当の本人が去ってからスーツ姿の男二人は不健康そうな方が机の下から出したメモを覗き込んだ。
「ですが少なくとも適応濃度はぶっちぎりですよ。それだけは確認出来ました。俺の能力の挙動からしてあの方と同等と見て良いんじゃないですかね」
「ひゅー! 確かにこれは下手に触れない方が良さそうだ。今の状態で覚醒なんてされたらどうなるか誰にも分からねえ。本部に報告しないで正解だったな」
「それでどうするんですか社長。一応うちが得る情報を本部に送るつもりは?」
「ねえよ。こんなダイヤの原石を見たら向こうは血眼になって狙ってくるぞ」
「…社長って変ですよね。傘下の組織の癖して本部には従順じゃないって」
「そりゃあそうだろう」
天地は満面の笑みを男に向けて、世間話でもするような声色で告げた。
「俺は、Mandelbrotを潰したいんだよ」