2 醜い化生
「大分涼しくなったなー」
ベランダに出ると九月も中頃に差し掛かり、空は主役が星々から秋月へと変わっていく。
残暑も収まり吹き付ける夜風が爽やかで心地いい。
先輩に掛かってきた電話は、彼女のスマホにある連絡先の少なさから想像していたが、やはり怪人の出現と出動を促す連絡だった。電話先では淡々と受け答えしていたが、切ってすぐ開口一番「寝たいよぉ…」の一言。ご愁傷さまです。
それまでも五月蠅かったわけではないが、一人になったことで虫の声を鑑賞できるほどには静寂に包まれていた。秋ってのはこういう落ち着きがあるから好きなのだ。自分の誕生月が十一月なのもあるかもしれないが。
『ここ数年で拡大を続けているMandelbrotですが、中国で一掃作戦が行われるも双方に甚大な被害が出ており厳しい状況が続いています』
『変異者に対する政策が強硬姿勢である中国では、以前からマークされていたんですけどねえ。それだけMandelbrotが強大になっているということでしょう。一部の情報機関では日本に於いても小規模ながら活動している節があるみたいです』
『日本は自衛隊や対変異者に特化したPMSCがあるので単発的なものには対応できていますが、組織となるとどうなんでしょうか』
『自衛隊側は特殊部隊という扱いで情報がかなり隠されているので分かりませんが、PMSC……アイギスグループには世界的に見てもかなり練度が高い人員が揃っていると思われます。特に産巣は世界屈指の実力者なのでなかなかMandelbrotも手を出しづらいのでしょう』
垂れ流していたテレビからは怪人─正式には変異者と呼ばれる存在に関する話題をキャスターとコメンテーターが盛んに取り扱っていた。まあ、毎日聞いていれば毎回毎回変わらぬことを言っているだけと気づくが。
──変異者。
二十一世紀中頃に突如として現れた突然変異による新たな人類、それが変異者。
同時多発的に現れ、その多種多様な特性からなかなか研究や対策は進まなかったものの現在ではある程度調べがついている。一説にはそれまでにもごく少数ながらも存在し、UMAと呼ばれた個体の一部はこれだったのではないかと言われている。
かなりその特徴にはバラつきがありなかなか一括りには説明しづらいのだが、大凡動物型と異能型の二つに分けられる。
前者は肉体に動物的特徴が表れてくる変化を起こす個体を指し、変化中は知能が大抵落ちるのも特徴として挙げられる。要はその動物と人間が基本的には織り交ざったような存在になる。
ただ知能に関しては、どの程度変異が進むかにもより、耳とか尻尾が生える程度であればまず普段通りの状態に落ち着く。今日みたいにハーフハーフだと若干残るものの大体動物程度に下がる。中にはその生物そのものと言っていい程に変異する例も報告されており、極めて凶暴で被害が甚大になるらしい。
つまり変異の進行具合と凶暴性、危険度は比例、知能は反比例といったことになるのが動物型だ。
一方で見た目は変わらないものの、それまでの既存の法則を無視するような挙動や現象を引き起こすのを異能型という分類におく。こっちは超能力者をイメージすれば分かりやすい。
動物型以上に極端なのがこの異能型であり、こちらは弱々しいものだと本人ですら変異に気付かない例もある。逆を言えば動物程度に収まる前者に比べこちらは際限なく危険度が上がる可能性があり、厄介さという面で見れば相当危険なのがこっちだ。
こうした変異者になる、なっているのは全体の1%ほどであり、特に有用性があったり危険度が高かったりするのはその中のさらに1%にも満たない。世界で見ると100万人もいないというのが共通認識である。
ちなみに非常に稀有な例として、その両方を兼ね備えている場合や特徴や能力が難解ではっきりしない場合など例外的なものも確認されている。いずれにせよまだまだ未知数な部分もあるということらしい。
「多分この時間だと先輩帰ってくるの深夜か、朝か……。コンビニ行っておいた方が良さそうだな」
基本的に争うことはあまり好まない性格の先輩(仕事除く)が珍しく感情を露にするようなことがあるとすれば、それは睡眠を邪魔されたときか、馴れ馴れしい態度を取られたときか、食事絡みの時である。
特に、空腹時の先輩は極めて機嫌が悪くこの状態を下手に放置しようものなら数時間後、関節技を決められていたりその豊かな乳房で窒息寸前になり走馬燈が見えかけたりするのは覚悟しなければならない。最後のは一部界隈ではご褒美扱いされていそうではあるが。
しかし、ご褒美であったとしても窒息のときの意識が次第に薄れ視界がぼやけていく感覚は凄まじい恐怖感を覚えるので一回されたら十分である。と、経験談から言っておく。
閑話休題。そうと決まればさっさとコンビニへ行く準備を整える。伊達にもヒーローの中でも人気実力共に一級品の彼女だ。もたもたしているとあの不機嫌状態を引き連れてすぐに帰宅してくる。
「ん、雨か。尚更さっさと行ったほうが良いな」
必要最低限の装備を整え外へ出ると、俄かに雨が降り出してきた。しばらくもすれば止むだろうがそれ以上に恐ろしいのは機嫌の悪い先輩だ。地震雷火事先輩であるのだ。雨如きで俺の恐怖からの逃避行は止められない。先輩本当に怖いんだもん。
金曜日の欠伸を押し殺し、雨と風時々雷の路地裏をコンビニまで走り抜けていく……。
──あれ、もう朝か。
気付くとカーテンの隙間から仄かに差し込む朝日が部屋を僅かに明るくし、スマホを見ると土曜日の朝5時を示していた。全身の言葉にし難い朝特有の倦怠感が珍しく消え、感覚が非常に研ぎ澄まされたような爽やかな気持ちの目覚めだった。
何か拭いきれない違和感を抱え込みながらも脊髄反射のように腕を伸ばしてテレビをつけてから、冷蔵庫を漁りだす。昨日購入したコンビニの食品類は手の付いていない状態で保存されており、先輩がまだ帰宅していないことが読み取れた。あの人何かあったらすぐ手付けるからな。
さっきから抱いている違和感は先輩が珍しく朝になってもまだ帰っていない事かと自分で結論付けてテレビのニュースに目を向ける。
『昨晩、◇◇市──町の路地裏で女性が意識不明の状態で発見されました。外傷や出血が酷く、発見時にはかなり衰弱していたものの現在は命に別状はないとのことです』
『また、周辺の防犯カメラには付近を通る変異者らしき姿の存在も確認されており、周辺住民への情報提供及び防犯の徹底を呼び掛けつつ、事件との関連性を含め慎重に捜査を続けているとのことです』
──自分が住んでるとこのすぐ近くだ。ふとそう思ったとき脳裏によぎるのはその女性というのは──。まさか、あの強さを誇る彼女がそうなる筈はないと思う一方でここまで帰って来ておらずまた連絡もないとなると否応なくそう考えてしまう。
「うーん……でも連絡手段ほぼ無いしな……、もう少し様子見…」
─ぐにゅ。
先輩の事で悩んでいるとどこからともなく如何ともしがたい気持ち悪い感触と音が聞こえてきた。背筋が伸びて鳥肌が立ち、一瞬黒光りする例のアレかと思ったがその音は足元ではなく無意識に組んだ腕の方からだ。
もしかして何か変なものを潰してしまったか……? と肝を冷やす。
──実際は、もっと悍ましく、醜いそれがあった。
考えるよりも先に体が動き、姿見で自らの容姿を確認する。思えば違和感の正体が一つであるとは限らなかった。先輩が未だに帰っていないことは単なる理由の一つにしか過ぎず、他にもその兆候らしき事象がそれを補完する。
不自然な記憶の跳躍、経験のない程の鋭敏になった感覚……考えれば考える程どことなくそうした変な部分はあったのだ。あまりにも自分の肉体として慣れ親しんだように感じたから全然疑問にも思わなかった。
「……嘘だろ」
──鏡像として自分の前に醜い化生が立っていた。