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変異種という存在

 どうも私はタルハといても違和感を思わなくなったらしい。これは成長なのだろうか。それとも劣化か。どちらでもいいけれど、

 寮の食堂で一人で食事をしていたところ、対面にタルハが座った。私は何も言わなかった。タルハが近くにいても違和感がなくなっていたのだ。

私がより気になっているのは、タルハについてきたフェネシェアだ。何食わぬ顔で座っている。

 私とアシエルが学校に戻ってから一晩が過ぎた。まだアシエルの子供助けは話題として温かい。

 フェネシェアはおはようの挨拶の前に、その噂話に興味を示した。昨日は詳しく訊かれなかったから流れた話題だと思ったのだけれど、勘違いだったみたいだ。

 ちょうどいいのかもしれない。フェネシェアには虹色の空を見せびらかされてあまり好かないけれど、知識を乞う相手としては悪くなさそうだ。彼女はハユレ家という魔法の名家の出らしい。身体能力強化の魔法について、知識を持っているかもしれない。

 今日の朝食、透き通った野菜いっぱいのスープと、よくわからない橙色の甘い果物を見下ろしながら決めた。

「身体能力強化の魔法って知っている?」

 ちょうど匙を口元へ運んでいたフェネシェアは、目だけを私に向けた。返事は喉が動いた後にやってきた。

「当然です。魔法を知るのは魔法使いの基本ですから」

 朝から元気でなによりだ。フェネシェアの自信に溢れた表情は羨ましくも見えた。

「知っているなら教えてもらおうかなー」

「本当に知っているか試すつもりですか。いいでしょう。一言で身体能力強化と言っても、幾種かあるので望んでいる答えになるかは怪しいところですけど」

 思っていたより真面目な返答だった。変なことを言い出したら茶化してやろうと、少し考えていたのに、肩透かしを食らった気分だ。

 しかしありがたい。私が知りたい答えが得られるかもしれない。さすがはハユレ家。

 私は食事の手を止めて、昨日のアシエルを思い出す。

「簡単なやつだと思う。用意が最小限で、突発的な自体に対応できそうなやつかな。そこまで難しそうには見えなかった」

 アシエルが使った魔法の中で最も難しそうな魔法は、硬質な壁を棒状に伸ばして垂らした魔法だった。それと比べれば、常人離れした身体能力はおまけみたいなものだ。おまけだけど、派手だった。

 フェネシェアの食事も止まった。お互いに長い朝食になるかもしれない。動いているのはタルハ一人だけだった。スープが冷めるまでには話が終わればいいけれど。私の手元にある皿は、触れるとまだ温かい。

「すぐに思い浮かぶのは、動きを補助をする魔法でしょう。たとえば大きく重い箱があって、それを押したいとします。前に押す動作に合わせて、前に押す働きのある魔法を使います。実際は魔法で動かしていますが、傍から見ると怪力に見える寸法です。利点は単純で使いやすいこと。欠点は都度、魔法を使わなければいけない点でしょうか。ただこれを身体能力強化と表していいものか」

「自分を押し上げる魔法を使えば、高い跳躍になるってことかな」

 わかりやすい。この魔法自体は難しくなさそうだ。物を押し出すだけなら単純だし、掛ける対象が自分だから無効化される心配もない。

 問題は、丁度いいタイミングを見つけるのが難しいかもしれないってところか。やってみれば案外、簡単かもしれない。

「身体能力強化を言葉通りの意味で捉えるなら、肉体の変性でしょうか。筋肉をより効率的に力が出せるよう変化させます。この魔法は、わたくしもよく理解できていません。わたくしができる身体能力に働きかける魔法は、肉や皮に薄い障壁をかけて外部からの細かい衝撃を無視できるようにする魔法くらいですから」

「細かい衝撃ねぇ。雨とか風とか?」

 私は自分の手の甲へ目を落とす。もう綺麗まっさらで、何の魔法も刻まれていない。昨日はここに障壁の魔法が刻まれていたのだ。

 学校へ戻ると同時に、障壁魔法の式は消されてしまった。残念だったのが本心だ。あの障壁魔法はまだ覚えていない。

「とか色々です。砂埃で髪が汚れないよう防いだり、目に入りそうなゴミを弾けて、便利でおすすめできます」

 タルハの食器が音を立てる。

「まじですか? 髪汚れないの?」

 テーブルに乗り出すまではいかないけれど、タルハの反応は大きかった。気持ちはわからなくもない。

 私は自分のこめかみ辺りを摘んだ。今はまだ触り心地がいいけれど、夕方から夜にはどうなっているかわからない。あぶらはともかく、知らない間に埃がついて汚くなるのが自然だ。そうならなければ、とても嬉しい。私は清潔を好む。タルハも同じなのだろう。

「つまりもし、これスープが跳ねても染みにならないとか?」

「服の表面を滑って落ちていきますよ」

 フェネシェアはスープに手を伸ばす。実際に服の表面にスープを流そうと考えたのだと思う。しかしそれは床にスープをこぼしてしまう。フェネシェアはスープを手に取っただけで、その先まではやらなかった。

「その魔法は、やっぱり常に使っているんだ」

「適時だと、効果が薄くなる可能性がありますから。もう癖みたいなものです」

「ほー」

 タルハが高揚していたからか、私は冷静でいられた。タルハが間に言葉を挟んでいなかったら、私は『その魔法を教えろ』とか口走っていたに違いない。実際にお願いするのも悪くないかもしれない。しかし別の言い方がいいだろう。

「その魔法、教えてくれない?」

 あまり、変わらないや。

「ほら、パスイ家の魔法ってのを知りたくて。魔法の名家様はどんな魔法を教え学ぶのかが知りたいの」

「我が家の魔法ではありませんけど、それでもいいですか」

「いいです。障壁魔法に興味が出てきたところだったし。いやー私は物を壊す魔法は使えるんだけど、障壁は全く門外漢でさ」

 我ながら酷い言い訳だ。もっとマシな言い方はできなかったのだろうか。自分でも全く理解ができない。教えを乞うのが嫌だったのか? 相手がフェネシェアだから? タルハがいるから?

 私が答えを出す前に、フェネシェアが笑顔になった。

「魔法を扱えると自慢げに宣言していましたね。どんな魔法を扱えるのか、見てみたいものです」

「いずれね」

 イーシリアに禁止にされた魔法書の魔法しか扱えないのだけど、見せる機会はあるのだろうか。もういっそのこと『私は魔法を使えない、あの自己紹介では見栄を張った』と告げてしまえば、後々楽な気がする。でも、今が辛くなりそうだから、やっぱり言わないでおく。

「では、その使える魔法の中に、わたくしの障壁魔法も加えるといいでしょう」

「シーレだけじゃなくて、この私も教わりたいのですが」

「もちろん。タルハにも教えますよ。なんたって友達ですからね」

 友達だから教えるなんて言い方だと、まるで私とフェネシェアも友達みたいじゃないか。私はフェネシェアに対抗心はあるけれど、友情が芽生えた覚えはない。当たり障りがないくらい軽く否定してやろうか。

 傷つけずに現実を理解させるには、どんな言葉を使えばいいのか無言の中で考えていた。朝だからまだ頭が寝ていると思われているのか不審がられずに、私の無言は続く。

 考えるついでにスープを片付けてしまおうと、皿を指でしっかりと掴んだ。その直後だった。突然、空気が一変する。

 始まりは板状のなにかが割れたような、大きな何かが強く叩きつけられたかのような、とてつもない轟音だった。

 まともな音じゃない。突発的で予期できない音だったけれど、耳をふさげばよかったと後悔するほどだ。目覚まし目的とするなら、最高の結果を得られるかもしれない。……つい今話していたフェネシェアの障壁は、音を防いでいたのだろうか。

 魔法が暴発でもしたのだろうか。一般的な生活では鳴るはずがない、とんでもない音だった。ここが魔法学校じゃなかったら、爆薬か魔法を使った犯罪を疑っていたところだ。

 音の発生源を見たわけじゃない。だから憶測でしかないけれど、発生源は寮以外の別にある。校舎のある方向からに聞こえた。

「今の何?」

 さっきまでの話題が吹っ飛んでも、誰も不自然には思わない影響力があった。

 魔法が起こした音なら、魔法学校ゆえの時たまある出来事なのかもしれない。私はそう考えもしたのだけれど、居合わせた上級生も驚いている。頻発する音ではないようだ。

 また意識を吸われる音が鳴った。しかし今度の音は出処がはっきりしているし、耳の心配をするほどの音ではない。

 扉が強く開け放たれたのだ。蝶番がカタリと揺れて、扉と壁が衝突する。叱られても庇えない乱暴さだった。

 開け放った当人は、無碍に扱った扉へは一瞥すらせず、食堂を見渡した。

 初めて見る女性だった。大人であることと、上級生が「先生」と漏らしていたことから、私はその人の立場を知る。

 整っていない前髪、乱れた息、火照る顔に、見開かれた両目。何をおいても速さを優先したのだとわかる見た目だった。

 その先生は金色の前髪を払いながら、呼吸の合間に短く紡ぐ。

「決して表に出るな」

 詳しい話はなかった。しかしその一言に詰まっている意味は大きい。さっきの轟音といい、異常事態になっているのだと想像するのは簡単だった。

 先生は休みを取らずに、食堂から飛び出した。扉は開け放たれたままで、寮の階段を駆け上がる足音が聞こえてくる。まだ食堂に来ていない、自室にいる人たちにも『表に出るな』と伝えるのだろう。

「どう思う?」

 私たち三人の中で、最も平静を保てたのはタルハだった。先生に心奪われていた私とフェネシェアの横顔に、タルハの声が向けられる。

「外で何があったんだろう」

 誰も『間違いなくコレだ』と言える答えは持ち合わせていない。しかし推測くらいならできる。

 先生は慌てていた。急ぐ必要があったのだろう。事件か事故、とにかく問題が起きて、まだ収集がついていないからだ。

 絶対に外へ出ないよう、念押しの時間すら惜しんでいるように見えた。一刻も早く全員に伝えることを最優先にしたとするなら、そこそこ以上に重篤な問題が起きている。ちょっと危ない程度だったら、あんなに急ぎはしないはずだ。

 ふとアシエルが思い浮かんだ。思い浮かんでしまった理由は不明だ。

 私が実技授業で空気に色をつけられずにいる間、あいつは濃縮点を探していた。濃縮点は、正常な生き物を変異種という人食いの獣に変化させる。もしその濃縮点が校内に存在していて、たまたま小動物が近寄ってしまったのだとしたら……。

「アシエルが悪いのかも」

 小さな独り言は、タルハにもフェネシェアにも聞こえていなかった。それ以上に周りが騒がしい。

 食堂にいる全員が異常事態を察知していて落ち着かずにいる。自分の声の大きさを気にかける余裕がある者は少ない。

 フェネシェアもあたふたしていた。パニックは伝染すると聞いたことがある。フェネシェアが恐慌になりかけている原因がそれかもしれない。

 本当に変異種が発生したのだろうか。食堂にも窓はある。答え合わせはそこでできる。しかし窓際は混み合っていた。事態の把握をしたいのは全員だった。

 人混みをかき分けて窓際を陣取るわけにもいかない。上級生が相手じゃなかったらやっていたかもしれないけれど、殆どが上級生だ。

 窓が混んでいるなら、窓際に危険は迫っていないのだろう。しかし窓の外が平和そのものだったら、人混みはすぐに解消されると思う。つまり窓の外に変わったものが確認できるけど、明確な危険は視界にないということか。

 問題源が移動しているとするなら説明がつく。やっぱり獣、変異種かもしれない。

 確か食堂の前には花壇があった。舗装道の脇を彩る、細長い花壇だ。変異種が出たなら、その花壇が盛大に荒らされているのかもしれない。

 私は何も言わずに立ち上がる。朝食の途中だけど、もうそんな気分じゃない。

 窓に寄って背伸びすれば微かにでも覗けないかと期待したい。もし見えなかったら、どうなっているのかを訊くとしよう。

「シーレどうしたの?」

「ちょっと見てくる」

 それだけ告げて、ゆっくりと人の隙間を抜けながら進んだ。

 進めば進むほど、人の密度が上がっていく。私と同じように窓に惹かれて近寄る人がいたから、想定以上に苦戦した。

 それでもどうしようもないほどの人数ではない。予定通りに窓の側まできた。しかし外が見られるかはまた別の話だった。

 みんな背が高い。背伸び程度では届かなかった。私の身長が低すぎるのだろうか。いいや、そんなはずはない。今まで背で困った経験はない。今日はたまたま長身が集まっただけだろう。

 高身長の背中が邪魔して、窓枠を見るだけで精一杯だった。まともに見れないなら聞けばいいと「あの、どんな」と上級生の背中に語りかけた瞬間、窓に近い人から順番に振り返った。

 そうした理由を尋ねる時間はなかった。上級生たちは急ぎ窓から離れようと、人の壁を無理やり押しのけながら進もうとする。私も押されてよろめいた。

 転ばないよう、なんとか体勢を整えるだけで精一杯だった。目の前に何が迫っているのかまで気を回す余裕がない。

 顔をあげるとそこにいた。まるっこい頭に害意を溜め込んだ両目がはまっている化物がいた。

 薄黒く汚れた白い体表をしている。真っ白だったものが暴れ回って色がついたようだ。

 それぞれ関節の数が違う足が三本と、茶色い毛で覆われた短い足が一本生えていた。短い足はぶらりと垂れ下がるだけで、全く地面には届いていない。

 これが変異種というやつか。まず間違いなく自然にいる生物の見た目ではない。変異種は通常、人の生活圏では現れないので、こんなに近くでは初めて見た。

 一本だけ茶色い毛に覆われる短い足は、まだ変異していない部分と考えていいのだろうか。変異する前は全身が茶色い毛で覆われた生き物だったのだろう。もしかしたらこんなに凶暴でもなかったかもしれない。

 窓を挟んで向こう側にいる存在に一切の理性が感じられない。もともと理性があったのかは怪しいところだけれど、一切の感情を排したような無機質な存在ではなかったはずだ。

 そう思うと少し寂しい――悲しい? まあなんかそんな風になった。

 変異種は顔から窓に突っ込んでくる。窓を認識できていないのか、もしくは窓なんて手で払う程でもない、としているのかもしれない。

 私は後ずさる。変異種を哀れんだところで、何も届きはしないし変わらない。だから私は自分の身を第一に考えなければいけない。しかしこの状況でどうすれば。

 後ろには逃げ遅れた上級生や、私と同じように後から窓に寄ってきた人達がいる。正面に退路はなし。

 私は障壁魔法のような身を守れる魔法を知らない。屈んだら跳び超えてくれないだろうか。分が悪すぎる賭けになるし、うまくいっても後ろに被害が出るけれど。

 ならばいっその事、迎撃でもしてみようか。私が知っている魔法書の魔法なら、変異種の突進を押し返せるかもしれない。確証はないけれど、何もせずに轢かれるよりはずっとよさそうだ。

 イーシリアの顔が思い浮かぶ。魔法書の魔法は使わないと約束をした。あの約束からまだ何日も経っていない。約束を破るのはあまりいい気持ちではないけれど、そんなことを言っていられないのも事実だ。

 変異種は私に悩む時間すらくれない。一切減速せず、もう窓に届く。そこから私まではもう一瞬だ。

 心の中で一つ謝罪を入れてから私は――目の前に薄い膜が現れた。若干、視界が歪んでから、歪んだのは勘違いだと疑いたくなるくらい視界が晴れた。

 変異種が窓を突き破る。ガラス片を飛び散らせ、窓枠を折り、窓周囲の壁を無理やり押しのけながら、私の目の前に現れた薄い膜と衝突する。

「障壁」

 私にはそう言えるだけの余裕があった。変異種は障壁に阻まれ足を止めている。

 変異種が障壁を無理やり破ろうと足に力を入れているのはわかった。

 もし足が三本ではなくて四本あったなら、この障壁はあっという間に突き破られていたかもしれない。頭部を破損させながら徐々に障壁に食い込んでくる姿を見ると狂気を感じさせられる。

「シーレ早く!」

 その声にはっとして、私は判断能力を取り戻す。変異種に睨まれているなんて、とんでもなく危険な状態だ。

 あたりを見回すと、もう多くが避難した後だった。それだけの時間、私は思考能力を失っていたのだろうか。突然の変異種に驚いたのは事実だけど、そこまで?

 自分を疑っていても状況は好転しない。そのうち後ろから見ていた、タルハにでも訊けばいいだけだ。

 変異種はまだ障壁と格闘している。しかしそう長くは持ちそうになかった。変異種の頭部は障壁に亀裂を入れながら内側に侵入してきている。肩まで入れば一瞬だろう。その時はもう間近だ。

 とにかく距離を取らなければいけない。近くにいてはそのまま突撃されて、私の意識が二度と戻らなくなる可能性がある。

 視界の端で、魔法を使うフェネシェアの姿を確認した。変異種を抑えてくれた障壁は、フェネシェアによるものだったようだ。

 本来は口にだすべき感謝を心の中だけに留める。床をひっかき続けてガリガリうるさい変異種に気を取られてばかりだ。他に意識が向かない。

 これが片付いたら、フェネシェアへ直接感謝を伝えるとしよう。フェネシェアはあまり気に入らないけど、助けてもらったのは間違いないのだから。

 だから、まずはこいつを片付けなくては。しかし方法がない。私には魔法書の魔法があるけれど、イーシリアに禁止にされている。さっきはその禁止の約束を破ろうとした。

 イーシリアとの約束を破れば、アシエルにも責められるだろう。私も私を責めたくなって、呵責の念に囚われそうだ。さっきはその覚悟を決めたはずなのだけど、状況が変わって気が変わった。

 できれば、私は魔法を使いたくない。やっぱり約束は守るべきだと思うのだ。

 ここの騒ぎは広まっていくだろう。きっと先生がすぐに駆けつけてくれる。さっき階段を上がっていった先生は時間的にまだいるはずだから時間稼ぎは少なくてもいいはずだ。

 とにかく怪我をしない。私もタルハもフェネシェアも。

 気持ちは固まった。少しの間だけ、集中するとしよう。魔法は使わず、変異種を前にして生き残る。

「もう限界です」

 フェネシェアが障壁が壊れる瞬間を教えてくれた。

 障壁を迂回すれば苦労はなかったのに。変異種はついに障壁を突き破る。一歩、膝を曲げてから、私に向かって跳ねて牙を向いた。

「っあい!」

 自分の顔が赤くなるような掛け声と一緒に、全力で跳び退いた。魔法使いなら魔法で対処するべきなのに、今の私には魔法がない。早くこんな非常事態に使える魔法を覚えたいものだ。

 変異種は食べかけが残った空席に突っ込んだ。机が割れてひっくり返っている。凄まじい力が加わったのだとよくわかる。

 もし避けられなかったなら、私はどうなっていたのだろうか。考えたくもない。じわりと溢れた何かが頬を流れた。

 変異種に睨まれたのは間違いなく不運だった。しかしこの状況、ある意味では運がよかった。変異種の足が万全だったなら、避けるなんてできなかったかもしれない。

 変異種の足は、足としては質が低かった。それぞれの長さがバラバラで、関節の位置も数も違う。床にできたひっかき傷は爪が作ったものではなくて、変異したときにたまたま突起した部分が作っている。そもそも足の一本には爪すらない。一本の足では足裏が発達しすぎて膝関節よりも上に爪がある。

 足とは違い、頭や他の部位は違和感なく変異していた。どうせなら顔の変異も歪んでほしかった。そうであれば、目が合ったりしなかったかもしれないのに。

 休みを知らない変異種はすぐに立ち上がる。もう次の対処を考えないといけないのか。背中を見せて逃げても追いつかれるし、やっぱり寸前で躱し続けるしかない。億劫になってしまうけれど、心情的な負担だけでこの場を回避できるなら十分ありがた部類だ。私が狙われるなら、タルハとフェネシェアが逃げる時間もできるし……。

 そう思って二人の方を見てみると、じっと立ったまま動いていなかった。逃げてくれませんかね。居座るなら二人に変異種を押し付けて私だけ逃げたい。しかしこの変異種は一途なようだ。まっすぐ私の両目を睨んでいた。

 変異種が視覚で周囲を確認しているなら、机と椅子が役に立つかもしれない。変異した際に鼻が塞がって、臭いがわからない等の事情があれば、私はその分有利に動ける。

 周囲に大量にある椅子や机は使えるはずだ。椅子を投げられれば、視線を誘導できないだろうか。そもそも筋力的に、私が椅子を持ち上げられるか怪しい。

 椅子や机は障害物になるかもしれないくらいは考えていた。しかし変異種はお構いなしだ。椅子に足を引っ掛けても、私から目をそらさなかった。

 突進してくる。また避けなければいけないのか。精神的にも肉体的にも辛い。避けなければ、きっともっと辛い。

 壁に追い込まれないように意識しつつ、変異種の歩幅を考えて距離をとった。あまり意味はないかもしれない。変異種の足は長さがバラバラだし、三本しか使えていない。力のみで強引に動いている現状で、歩幅なんてものはあってないようなものだった。それでも焦りに身を任せて、ただ逃げ惑うよりはずっといいはずだ。

 ふぅと息を吐き出し、無意識的な緊張を追い払う。きっと大丈夫。もし避け損なっても、すぐに先生が来てくれる。最悪、致命傷でなければ助かるはずだ。ここは首都で魔法学校の内側だ。怪我を塞ぐ術は多岐にわたる。だから大丈夫。

 心の中で『さあ、かかってこい』と前のめりになる。そのとき余裕が生まれたのか、私の視界が広がった。フェネシェアが片手を伸ばしている。

 何をしようとしているのか、考える必要すらない。魔法具を使わない魔法の行使には、ああやって手を伸ばすと簡単になると、私は知っているからだ。特に遠距離にいる相手を狙って魔法を放つ場合、指先がいい照準になる。

 光が弾ける音がした。青い光の稲妻は、規模は小さいがはっきりと相手への害意を表している。

 変異種がよろめいた。フェネシェアによる、変異種の足元を狙った攻撃は、変異種の足に黒い痕を残し、どす黒く変色した泥土のような血を流させた。

 深い切り傷のようなものは、距離があってもはっきりと見えた。細い煙が上がり、そのせいか息を止めたくなる異臭が漂う。生暖かい雰囲気の、可視化できそうなくらい具体的な腐臭だ。

 変異種は初めて足を止めた。私に向かっていた顔は傾き、フェネシェアのいる方向へと近づいていく。

 今までの変異種を見ていると、思考能力が欠けているように感じる。目についたものにとびつくだけの生き物だ。行動に駆け引きや牽制はない、単純明快な動作でのみ完結している。

 今後もその通りなら、今フェネシェアへと顔を向けた意味は理解しやすい。

 きっと目が合ったのだろう。フェネシェアは固まった。それでも危機的状況にあると理解はしているようで、次の魔法へ移ろうとしていた。

 しかし、相手は変異種だ。牽制に意味はないし、ちょっとした程度の魔法じゃ無視して突っ込んでくるに違いない。

 離れた位置でも荒い呼吸が見て取れるフェネシェアでは、有効打になる魔法は難しいだろう。

 障壁であれば、あるいは。しかし、そもそも間に合うか。障壁の魔法自体、私は知らないから難度の判断ができない。間に合うかもしれないし、間に合わないかもしれない。

 希望的観測をするなら、口笛を吹く余裕すらある現状だ。しかしそれをして最悪を引き当てたら後悔では済まない。そうなるくらいなら。

 イーシリアとの約束を思い出す。魔法書の魔法は使うな。私はその約束がどういう意味か、はっきりと理解できていない。

 約束を破る、その代償は重いかもしれない。破っても構わない類の約束ではないはずだ。

 情的にも約束は破りたくないけれど、この場合は仕方がない。事情を話せば、きっとイーシリアはわかってくれる。イーシリアとは短い付き合いしかないけれど、話が通じる人だと知っている。

 私は手を前に突き出した。人差し指と中指の間に変異種を入れ込み固定する。動かれたらもう難しい。だから、変異種が動き出す前に……。

 イーシリアと会うまで、私はまともに魔力を出せていなかったらしい。その癖がついたのは、魔法書の魔法を使っていたからだった。

 私が知っている魔法は、きっとごく少量の魔力でも効果を望めるのだろう。思い出してみれば、確かに魔法書に慣れるにつれて魔法の威力は落ちていた。暴発がなくなった、制御できるようになった、と認識していたけれど違ったのだ。今日ここで試してみればわかる。

 もしかしたら私が想像している以上に破壊力のある魔法が飛び出て、変異種が暴れる以上の被害をもたらす可能性もある。もしそうなったら……みんなごめんね。

 もう躊躇いはなかった。学校に入学してからは全く使う機会がなかった魔法、空気に色を付ける魔法よりもずっと高度で繊細で大雑把で暴力的な魔法。岩くらいなら簡単に吹き飛ばせるそれを、変異種という生き物に向けて放った。あるのは変異種に対する殺意ではなく、フェネシェアに対する義理……とほんの少しの守りたい思いだった。

 私が右手で紡いだ魔法は無色の波動だ。知る限りは破壊以外に用途がない。非常に限られた場面でしか活躍できない魔法だけれども、今みたいな状況ではこれ以上がないほど適役だ。

 線状に広がる魔法は、空気を歪めるからよく見える。反動はまるでなし。魔力がごっそり持っていかれる倦怠感と頭痛が走り、私の表情は崩れた。これでいい。魔力を使って、魔法を放てた証拠なのだから。

 魔法は変異種が動くより早く、目標へと到達する。変異種の横腹に触れた。その瞬間、変異種が異音を奏でる。

 私が放った魔法は、変異種の横腹から腹わたにかけて削った。強引に皮膚を掴み、空布巾を強引に絞って糸くずを落とすように、変異種の皮膚を落としていく。

 皮膚が落ちたら次を絞る。また皮膚が落ちたら次へ、と繰り返す。それが魔法との接触面で無数に起こっていた。

 流れ出る血液も魔法に絞られて、飛沫となり辺りを汚す。あっという間に周囲は黒く汚れ、変異種は腹に穴を開けた。

「それでも、倒れないのか」

 変異種の動きを止めるまではうまくいった。しかし、まだ息をしている。殺害にならなかったと安堵していいものか、それとも仕留め損なったと悔しがるべきなのか。

 考えるのは後にして、私がやるのはここまでだ。変異種が動きを止めた今、逃げるチャンスができた。

「早く」

 いちいち名前を呼ぶ時間はない。私は二人に怒鳴ると、二人はようやく気づいて走り出す。タルハがフェネシェアの肩を叩いて、押すように動き始めた。

「シーレも」

「わかってるから」

 変異種の顔が私に向く。しかし歩くだけでもつらいようだ。明らかに足の動きが鈍っている。でもここまでできれば生き物としては上等すぎる。腹が吹き飛んで倒れすらしないなんて狂っているとしか言いようがない。

 もしかしたら、変異種の傷は塞がるかもしれない。私が感じる敵意はそう思うに足るものだった。

 この予感が的中するかはわからない。しかしもし的中したときに備えて、一刻も早く逃げなければいけない。そう思っていたのに、私が逃げるのは少し遅れた。

 パキパキと音がする。その音は明らかに変異種から鳴るものだった。足が太く、体躯が厚みを増していく。その変化は回復よりも強化が正しい。今まで変異していなかった四本目の足も変異し始めている。このままだと四本足が完成するかもしれない。

 私は知っている。変異種が生まれる原因は魔素にあるのだと。魔素がなければ変異種は生まれない。当然、変異も進まない。

 その変異が進んでいる。つまり、ここに魔素があるということ?

 ついさっきまでは変異が止まっていた。今になって最後の足が変異するほどの魔素が現れた。原因はどこにあるのか。すぐに思い浮かぶのは、私が放った魔法くらいだ。

 魔法書の魔法は効率化ができていないから魔素を生みやすいと、イーシリアは言っていた。しかし魔素が生まれるには長い時間が必要になるはず。それなら、どうして。

 考えている間も、変異種はより完成に向かっていく。

 思考は後回しにしないと。考えることすらできなくなるかもしれない。変異種がより凶暴な姿になって、襲ってこないとも限らない。私の魔法でお腹に穴が空いても立っていられるのだ。

 気持ちを抑えて変異種から目をそらして走った。

「無事か! 他には」

 先生が食堂へ入ったところだった。来るのが少し遅い。でも最悪にはならなかった。

「大丈夫です。でも――」

「いいから急いで外へ」

 先生は他に生徒が残っていないかを確認してから、私の背中を強く押した。

 私はその力に乗って開きっぱなしになっている扉から出た。さっと後ろを見てみると、変異種は四本足でもう歩けるまでになっていた。

 先生なら大丈夫。私よりもずっと魔法に詳しいのだから。先生ならきっとうまく対処してくれる。どうしても気になったけれど、私は足を緩めずに、とにかく急いで離れた。

 寮の外には出るなと言われた。ついさっきのことだけど、既にその命令は解かれている。みんなとバラバラにならないよう、まだ遠くには行っていないタルハとフェネシェアの背中を追った。

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