幕間
私達が学校へ着くよりも早く、噂話は学校まで来ていた。噂とはアシエルが街中で魔法を使った件だ。ソルクの盾の……なんだっけ、あの人か、もしくは件の報告を受けた誰かが、学校へ文句か注意か感謝を伝えたらしい。
アシエルは先生に呼び出され、『子供を助けるのは良い行動だが、学生の身分でありながら街中での魔法使用は褒められない。しかし同じ状況に出くわしたなら、また同じ行動をとりなさい』と頭を殴りたいのか撫でたいのかわからない話をされたそうだ。
ちなみに私は魔法を使っていないため、無関係として扱われた。しかし噂話の登場人物程度の扱いはあって……。
まだ授業がある。だから寮ではなくて教室に入った。イーシリアのお店から歩いた疲労を回復させようと、地面に体温を吸わせようとする動物のように、机でヘタれていた。『これでもそこそこ格式の高い家の出なんです』なんて口にしたら笑われそうなくらい見っともない姿だけど、気にならなかった。実際はそこまで格式高くないし。
教室にいるのは同級生だけで、私が魔法を使えない姿を目にした者たちばかりだったから、今更私の酷い姿を目にした所で、注目しようとは思わない。
しかしそれは私のだらけた姿勢の話だ。最新の噂話に興味があるなら、私に興味を向ける理由は十分だ。
たとえば、屈んで私と視線の高さを合せている、この……名前が出てこない。魔法の実技授業で、私と二人組を組んだ……タルハだ、そうだタルハだ。私が人の名前を忘れるなんて、無礼を犯すわけがないんだ。
「おかえり。シーレ」
「ただいま」
きらきらな笑みは眩しくて、疲れている私にとっては、話がどんな流れになっても面倒くさいのだろうと察せられた。息でも吐いて追い払いたいところだけれど、冗談でも臭いと言われてしまったら今日中に立ち直れるか怪しかったのでやめておいた。
口元を手で覆って、口から息を吐き鼻から吸い込む。口臭に異常はなさそうだ。
息で若干湿った手を、握って開いてしながら乾かす。そうしていたから、対処が遅れたタルハが喋りだす。
「どうだった? ふたり旅」
いつもアシエルが座っている席に視線が吸い込まれた。アシエル本人は教室にいない。先生からのお話は終わっているので、授業になれば戻ってくると思う。休憩時間中は姿を眩ましたままかもしれない。
噂話の中心点。魔法を使って子供を助けたヒーロー、もしくは法に触った悪人だ。教室を見渡す限り、ヒーロー扱いが主流だった。もてはやされるのは、私だったら歓迎したいところだけど、アシエルからすれば迷惑極まりないのかもしれない。
校外でアシエルといた時間は、なんだかんだで短かった。会話時間はもっと短い。お互いをよく知るには到らなかった。でも、騒がしいのは苦手そうだ、くらいの想像はできた。
そのアシエルとどうだったのかと、このタルハは訊いているわけだ。
「悪いけど、望んでいる答えはあげられないよ。私がしてもらったのは、ただの道案内なんだから」
「それでもいいよ。聞かせて」
タルハの目は、まるでテーブルの前でおやつを待つ子供のようだった。飢えに期待が覆いかぶさっている。おやつをあげなければ、飢えが期待を突き破り、暴れだすかもしれない。しかし、私はタルハが期待するおやつを持っていない。だから、仕方がない。
「終始無言でした。以上です」
思い出そうとしても、本当にそれ以上がない。帰り道では事故があったから会話をした。事故がなければ会話はなかった。行きの道中で思い出せる会話は、片手だけで数えられるくらいだ。その会話も説明が主だった。
「小さな子どもを救ったとか。その話があるんじゃないの?」
「ないの」
タルハは目と口を細める。きっと頭の中では私宛の文句が行き交っているのだろう。口に出さないのなら見逃してやれる。
それよりも私は授業まで休みたい。眠るのはまずいけれど、ギリギリまでなら許されるのではないだろうか。
机にへばりつきながら、今日を思い出す。子供を助けた話か。あれからまだ時間は経っていない。はっきりと思い出せた。
私の目が見開かれる。疲れを忘れて、興味が湧き、私は顔を上げた。
「タルハだっけ」
「違うと言ったら、信じる?」
「アシエルがさ、身体能力強化の魔法を使ったんだけど、タルハってその系統に詳しかったりしない?」
アシエルに直接詰め寄れば、教えてもらえるのではないか、という思いが一瞬よぎる。私はそれに首を振って否定した。私はアシエルが使った魔法を会得したいと考えている。きっとアシエルは嫌悪感を示すだろう。
「アシエル? アシエル……ハユルノね。呼び捨てで呼び合う仲になりましたか」
「そういうのいらないから。それでどうなの? 身体能力強化の魔法、知ってる?」
よくよく考えれば、タルハの魔法は授業での空気に色を付ける魔法が初めてではなかっただろうか。昨日、初めて魔法を使った人が、実用的な魔法を知るわけがないか。
「さあ。全く」
聞くまでもなかった言葉を流して、私の目はその先を向く。盗み見と言っては堂々としすぎている。ちらちらとこちらを伺う人がいた。
その人を、よくは知らない。見知っている程度の付き合いしかない、フェネシェアだ。タルハの名前は忘れても、フェネシェアの名前は忘れない。嫌味のように見せつけてくれた、空気に色をつける魔法による虹色の空と一緒に覚えている。
私かタルハか、ちら見してくる要件がどちらにあるのか判断はつかない。でも、フェネシェアが私かタルハを意識しているのは間違いなさそうだ。
「ところで、何やら噂になっていますけど、人助けをしたとか」
タルハが私の目線を追ってくれれば楽なのだけど、そっちには興味がないようだ。関心事になっている、アシエルの救出劇を知りたいらしい。
なるほど。私に声をかけたのは、私が直接その場で一部始終を体験したからか。
実際に助けた、もしくはやらかしたアシエルはこの場にいない。私が最も詳しく話せるわけだ。
私の個人的な心情の部分に触れないなら、話してもいいと思う。邪険にする必要はない。アシエルの魔法について話しても誰も困らないし、困るとしたらアシエルくらいだ。何が起きたのかを教えれば、身体能力強化の魔法を知るために、タルハが手助けをしてくれるかもしれない。
私はフェネシェアをじっと眺める。フェネシェアが、ちらりとこちらを伺った瞬間に目が合った。さっと目を逸らされて、不思議と勝ったような気持ちになれた。
「どこから話せばいいのかな。小さい子供、この机くらいかな、いやもっと小さかった。歳は聞いてないや。忘れてた。とにかく子供がね、窓から乗り出していて落ちそうな雰囲気だったのよ。私がそれに気がついたのが、事の始まり」
顔は動かさずに、フェネシェアを見たまま言った。またこっちを見るのかな? と期待しながらだ。フェネシェアはその期待に応えてくれる。つい吹き出しそうになってしまった。堪えたけれど、すぐ前にいるタルハには、私が吹き出しそうになったと気づかれたと思う。タルハの首が後ろを向いて、その目をフェネシェアを見た。
フェネシェアが名家のお嬢様なら、財力や名声を求める取り巻きの一人でも飾っていそうなものだけれど、それらはなく一人だった。誰もフェネシェアに魅力を感じないからか、それともフェネシェアが寄せ付けないようにしているのか。もしかしたら、ハユレ家という話が嘘だったのかもしれない。私は、詳しく知らないけれど。
「フェネシェアになにかあるの?」
「ちらちら見てきたから、何かあるのかなと思って」
「へー」
興味がなさそうなタルハは、しばらくフェネシェアを見つめた。そのまま私から離れてくれたら、落ち着いて休めそうだけど、残念ながらそうはならない。タルハはフェネシェアを呼んだ。普通に声を出して「ちょっと来て」と。フェネシェアも無視してくれればいいのに、立ち上がって近づいてくる。その時点で、私は休み時間を諦めた。
「何の用? 私は忙しいのだけど」
「同じ言葉を返すわ」
私は、その一言だけは精力的に言った。
その後、タルハとフェネシェアで非常につまらない会話が始まったまでは確認した。朝食がどうとか、寮生活になって家にいるペットと会えなくて寂しいとか、甘い物が好きだとか、広まった噂話が気に入らないとか。
私にはどうでもいい話ばかりだったので、授業が始まるまで聞き流した。つまり、それだけ長く無駄な話が続いたのだ。
タルハは、アシエルの人助けについて尋ねてきたはずだけど、その話は出てこない。もう飽きたのか、それともフェネシェアに遠慮をしているのかもしれない。
フェネシェアは自分以外が目立っているのが気に入らないようだ。本人が今ここでそう口にしたのだから間違いない。私をちらちら見てきたのは、噂話の当事者だったからと考えて良さそうだ。フェネシェア本人がそう言ったわけではないけれど。
今注目の的になっているアシエルが教室に戻ってきたのは、授業が始まった後だった。尋問でもされて疲れたのか、表情はいまいち暗い。そのせいか、授業が終わった後もアシエルの周りに人だかりはできなかった。もしくは、アシエルが話しかけにくい存在だと認識されているのかもしれない。
至って普通になった。授業を変な理由で欠席する同級生はなく、私も平常心でいる。ちょっと窓の方を見てみれば、太陽で光る窓と、その先に風に揺れる木々や、笑ったり怒ったりしている他のクラスの生徒がいた。
よくある光景だった。時間がゆっくりと流れているような錯覚をしてしまいそうになる。私の故郷もこんな顔をよくしていた。私は、急かされるのが嫌いなのかもしれない。急ぐ必要がないのは、とても居心地が良い。
なんとなくアシエルがどうしているのか確かめた。授業中、教壇で初めて見る先生が過去に魔法が起こした惨劇を説明している。小さな魔法の暴発から始まった事件のあらましを無視してアシエルの横顔に目を向けた。子供を助けたときとは全く違う腑抜けた顔をしている。まるで別人のようだ。
その顔が何故か面白くて、先生に名指しされるまでじっと見つめてしまった。教室に小さな笑い声が多数流れて、ミスをしたと思った。はにかんでおけば誤魔化せるだろうか。