帰りの寄り道
私とアシエルは仲良しではない。どちらかと言うと、仲が悪い部類になる。会話がないのがその証拠だ。
そんな仲なのに二人で学校へ帰るのは不自然ではないだろうか。逆に、学校からの外出は一緒だったから、帰りも一緒がいいのだろうか。
こんなどうでもいい思考に時間を割けるくらいにのどかだった。街中には忙しない人も見当たるけれど、私は平穏そのものです。魔法に関する悩みが解消されたからに違いない。
フハハハハと声高らかに笑ってもいいくらいに気分が晴れている。私は無理をしない限りはそんな笑い方はしないし、周りの目が気になるからやらないけれど。
私とアシエルは、広い通りを歩いていた。日がさす午前中で、人が溢れている。散歩中と思われるお年寄り。扉を叩く配達員。授業に出ていない学生までいる。半歩前にいるアシエルと私も、本来なら授業に出ているはずだった。
私が抱いていた、アシエルに対する悪感情は、風にでも飛ばされたのか減少していた。美味しかったアシエル製の朝食が原因だろうか。それとも、イーシリアと会わせてくれた恩でも感じているのか。アシエルが私を助けてくれた一人なのは間違いない。これだけは忘れないようにしなければ。
「どうしたよ」
気づかれてから、ようやく私はアシエルから視線を外した。
「なんでも……アシエルと仲良くしてもいいかもと思っただけ」
「悪いが、こちらにはその気がない。一方的でもいいなら続けるといいさ」
「気が向けばね」
少し前の私なら、この程度の会話で精神が揺れていたかもしれない。この野郎、絶対に泣かせてやる、とか意気込んでいた。今の私にはそれがない。鼻歌に興じる余裕すらある。これは成長なのだろうか。
歩きながら、日差しの温かさを感じる。その太陽を見上げて、眩しくて目をつむり、顔をそらして別の場所を見てみる。そこで目に入った。
子供が遊んでいた。建物の四階で、木の鳥を飛ばしていた。手で掴んで中空で振り回して、飛行させている。なんとも微笑ましい光景だ。無垢な笑顔は安堵につながると思う。
しかし、私は笑顔にはなれなかった。無垢とか考える余裕がなかった。私が見上げて注目はしていた理由は、見えるからだ。子供は窓から身を乗り出すような体勢でいた。だから通りを歩いていただけで、四階にいる子供が見える。
子供は体の半分ほどはみ出ていて、落ちてしまわないかと気がかりだった。
「あれ」
アシエルに伝える意図はなかった。私がただ口に出てしまい、アシエルが正しい意味で受け取っただけだ。
アシエルは私の視線を追って、すぐに同じところに注目する。
「なっ!」
知っている子だったのかもしれない。アシエルは私が驚くくらいの声を上げた。今まで聞いた中で、最も大きく感情が籠もった声だった。
「なっ、って?」
「忘れろ。それよりも、あの子供だ。今すぐに何かしないと。親は何しているんだ。父親か母親か、近くにどちらかはいるだろうし、知らせに行くか?」
独り言のように聞こえるけれど、私への相談らしい。
これは私の被害妄想の類かもしれないけれど、私に四階まで上がってあの子の家を訪ねてこいと言われている気がした。嫌だと先ず思った。しかし、放置しておけないのはわかる。
よりによってどうして鳥なんかで遊んでいるのだろう。あの子は上ばかり見て、下を見ていない。落下の恐れに気づくまで、まだ掛かりそうだ。
「まだ落ちると決まったわけじゃないよ」
「落ちると決まってから対策会議を始めるつもりか?」
「違う違う。アシエルが思っている最悪は避けようと思うけど、どうするの?」
「やりようはいくらでもある。魔法を使えれば」
街中での魔法は基本的に禁止されている。人命が関われば許されるとは思うけれど、そんな決まりがあるわけじゃない。なるべく魔法は使わないようにしたいところだ。
そう考えると、一番は街中での魔法が許可されている、治安維持組織『ソルクの盾』所属の魔法使いか、イーシリアみたいな魔法を仕事にしている資格持ちの人を探して、助力を乞うのが最善かもしれない。
「魔法か。いいね。ついでにあの子の親も殴れない? ちゃんと面倒見とけってさ」
「いいか、四階だぞ。四階の右から三番目の部屋だ」
アシエルの言葉の意味はよくわかった。とても遠回りすぎてわかりにくいと文句を言い放ってやりたいところだけれど、差し迫った状況かもしれないので勘弁してやろう。
つまりは私に四階まで上って扉を叩き、親がいるなら知らせて来いってわけだ。ついでに急げるよう、その親の尻でも蹴ってあげようかしら。
アシエルは、もし魔法を使うしかない状態になったときのために待機しておくつもりのようだ。私かアシエルか、どちらかが残るなら、アシエルが残るのがいい。私は助けられる魔法を知らないから。
アシエルは助けられる魔法を知っているのだろうか。魔法が使えるとは感づいていたけど、どんな魔法を使えるのかは知らない。できればここに残っていたい。アシエルがどんな魔法を得意とするのか興味がある。しかし、そんな勝手が許される状況ではない。
通りの真ん中にひどく精神に刺さる血色の染みが刻まれても、私にはそれを楽しむ感性はない。落ちてしまう前に対応しないと。
私が小走りになり、アシエルが後ろに続いた。あの子の真下は近い。しかしほんの一瞬で行ける距離ではなかった。建物二つ分くらいの間が空いている。その間、上を見続けて、前を歩く人にぶつかりそうになったりした。それでまた、少し遅くなった。
事が起こるのは一瞬で、私たちの都合を無視する。私は四階まで上がるどころか、まだ通りにいる。
子供が空に腕を伸ばす。落下防止柵を乗り越え、その瞬間にバランスを崩した。
「危ない!」
私の咄嗟による言葉で、周りの数人が気がつく。窓枠からはみ出した子供の姿が注目された。
子供は揺れながら片手だけで落下防止柵にぶら下がり、もう片方の手は空で、何かを掴もうともがいた。
木の鳥が落ちてくる。飛べない鳥は通りに落ちて、翼が一枚折れた。
人々が足を止めて、この場に声が満ちる。私が四階まで行くより、子供の親が騒ぎに気がつく方が先になりそうだ。問題は、親が気づくが先か、子供が地面と衝突するのが先か。
子供は、まだ落下防止柵に片手がついている。だからまだ保つ。私はそう判断したのだけれど、私の考えが浅いと知れるのは直後だった。落下防止柵が外れた。留め具が緩んでいたのか、木製の落下防止柵は、子供の握力よりも弱かった。
そう起きない子供が窓から落下する場に私たちが出くわしたのは幸か不幸か。少なくともあの子供にとっては幸運だった。なぜなら、アシエルが受け止めようとしてくれるから。責任を取るとしたら、それはアシエルになるのだから。
アシエルにとって、この状況は幸か不幸かどちらなのだろう。私からすると悪くはなかった。アシエルの姿を見て、そう思った。
「ダァン」と巨大な槌が叩きつけられたような強い音が、アシエルの足元から起きた。きっとこの音は、アシエル本人には届いていないだろう。魔法を使うべきじゃないと話もしたのに、アシエルの真っ直ぐな瞳には、今はあの子供しか映っていない。
アシエルは跳んでいた。多分、ただのジャンプだと思う。音が私の耳から完全に消えていた頃には、跳躍で二階の天井に手が届く高さまで上っていた。身体能力を強化する魔法だろうか。人とは思えない機動性で、瞬く間に壁をよじ登っていく。
二階の窓枠を蹴飛ばし三階まで。蹴られた衝撃で窓枠は歪んだかもしれない。
三階部分にある、外壁の凹凸に手を引っ掛け、そのまま腕だけで四階付近まで。
アシエルはもう子供の目の前だった。落ちるよりも早く昇るとは、感服すると同時に異常にも思える。アシエルはそれをやり遂げ、落ちる予定だった子供を右腕で抱えた。
後はアシエルが落ちる際にどうするのか。どうせ考えがあるのだろう。私は不安も心配もなかった。あくびができるくらい余裕だ。
アシエルの空いた左手が活躍した。左手を建物に向けると、また魔法を使う。今回の魔法は身体能力の強化ではなくて、物に形状変化をもたらした。
建物の外壁が弾力を帯びてゲル状に緩み、そのゲル状がまた変化していた。細い棒状の突起が現れたかと思うと、瞬く間に伸びていく。もはや飛び出すと言ってもいいかもしれない。まるで壁に仕込んでいた棒が、内側から押し出されてきたかのようだった。ほんの短い間にアシエルの左手に向かって棒が伸びる。アシエルはその棒を難なく掴み、木の枝にぶら下がるような形で揺れた。
歓声が上がる。その声はどれもがアシエルを称えるものだった。一緒に歩いていただけの私が、誇らしくなるくらいに大きな声だった。しかしアシエル当人は何も感じていないのか、いつもよく見せている表情だった。
「えー、おまえ。なんとかしろ」
アシエルの声は、多少張ったのだろう、よく聞こえた。それ以外はいつもの声だった。
名指しされたわけでもないのに、私の心が傷つく。空を見上げながらのアシエルの言葉、そこに出てきた『おまえ』は私を指している。アシエルが『おまえ』なんて呼び方できる人は、ここには私くらいしかいないはずだから。まだ名前覚えられていないんだなって。
『なんとかしろ』とは下ろしてほしいと受け取っていいのだろうか。確認を取るためにより高くを見上げると、答えに行き当たった。
落下防止柵が落ちてくる。子供でも壊せたくらいとても柔な柵だ。なんて馬鹿にはできない。四階から落ちてくる柵の形をした木材は、十分に人を害する力を持つ。
わかった。わかりましたよ。私がなんとかすればいいのでしょう。
アシエルが私に頼んだのは、他に頼める人がいないからだろうか。街中で魔法を使う問題児を自分以外にも増やしたかったのかもしれない。
人を救う目的を思えば、街中で魔法を使う禁を犯しても槍玉に挙げられはしないと思う。しかし違反に突っ込むのは事実なわけで、もし罰を与えられるなら一人よりも二人が気持ちが楽になる。仕方がない。付き合ってやろう。
柵の落下地点には女性がいた。野次馬の一人だ。私より年上で、私より顔が悪い。柵に気がついて逃げるのではなく縮こまった。逃げてくれればそれで解決するのに……。私はその女性と柵の間に入った。
もうすぐ柵は落ちてくる。柵が被害をもたらす前に魔法で弾いて人がいない所に落とす。
私は手を伸ばす。魔法を使って――どの魔法を使うんだ。イーシリアに、魔法書で知った魔法は禁止されている。魔法書で知った魔法以外となると、空気に色をつける魔法しか知らない。
安全に受け止める方法がなかった。落下する柵は私めがけてやってくる。もはや逃げる時間もない。できるとすれば、当たりどころがマシなように祈るのみ。きっと死にはしない。生きていられるなら大丈夫だ。
そう思っても怖いもので、私は無意識的に、目を閉じて、背中を丸めて、両手で頭を抱えた。
柵が落ちるまでに十分すぎる時間が流れた。しかし何も起きない。手の甲が柔らかな熱を持ったくらいで、他の変化は全く見受けられなかった。
柵が道端に落ちる音があった。その音は、四階から落ちてきたにしては穏やかで、手元から落としたくらい小さな音だった。
何も起きない。もしくは何が起きたのかわからない。頭を抱えたままにする気にはならなかった。柵が落ちるに必要な時間は、もう十分すぎるほどに過ぎている。
私は怪我をしていないみたいだ。どこも痛まず意識は明瞭、血の一滴も滴っていない。柵は見当違いの場所に落ちたのだろうか。それとも、誰かが守ってくれたとか?
ゆっくりと頭を上げた。自分の足元から正面を見ると、半壊した柵があった。落ちた衝撃のせいか柵の形を失っている。折れ曲がっていたり歪んでいたりと、もう破棄するしかない状態だった。
そんな柵より手前にある、私の周りを囲む薄い膜に興味を吸われた。ほぼ無色の若干青色で、目を凝らしてもよく見えない。それでも確かに存在する。
初めて見るけれど、断言できる。魔法だった。障壁を生み出す魔法だと思う。この薄い膜は衝撃を受け止める機能があるはずだ。柵が私に当たらなかったのは、この障壁のおかげに違いない。
さて、この私を中心に発生している障壁は、一体どこの誰が生成したものなのだろうか。はたからすれば、私が使ったように見えるかもしれないけれど、それは間違いだ。私はこんな障壁魔法は知らない。
手の甲をさすりながら、アシエルを見上げた。アシエルは、まだ四階の高さからぶら下がったままだった。魔法使いという点で、アシエルが障壁魔法の主として怪しいところにいる。しかし、アシエルは違いそうだ。片手でぶら下がり、もう片方の手には子供を抱えて忙しくしている。こんな状態で私を助けるまでできるとは思えなかった。
ふと自分の手に気がつく。両手は重なっていて、手の甲を撫でるようにしていた。無意識的な行動で、特別な意味はない。
こんな癖を身に着けた覚えはなかった。だから、私はどうして手の甲をさすったのだろうかと疑問が現れた。その疑問は、わざわざ時間を掛けて解くほど興味がわく事柄ではない。でも、時間が掛からないなら確かめてもいいはずだ。
痛みがあるなら押さえるように撫でるのはわかる。あるのは痛みではなく仄かな温かさ。そのぬくもりは手を重ねていたからにしては熱を帯びている。
上にあった手を退けてみると、うっすらとした光が現れた。光っているのは魔法式。手の甲にある魔法式? 思い出した。学校を出る際に刻まれたものだ。
障壁が薄れていくと同時に、手の甲の光も弱まった。
守ってくれたのはこいつか。特別な感情を抱くでもなく無味乾燥に思いながら、魔法式が薄くなっていく過程をじっと見つめた。
この魔法を覚えられないかな? だって便利だもの。
すぅとアシエルが降りてくる。子供を抱えたまま、掴んでいる棒状の壁を伸ばしつつ下に曲げている。アシエルの脇にいる子供のキョトンとした顔が面白くて、降ろされるまでずっと見ていられそうだ。
しかし私は目をそらす。突然の大きな声があったからだ。
「道を空けてくれ。私はソルクの盾、市中警備隊、第三部隊のミグエナだ」
人の壁の向こう側から聞こえた大きな声。この場に聞き逃した者はいないだろう。各々が好き勝手に思っているに違いない。私は『遅い』と思った。
アシエルは遅すぎる警備隊員の登場をどう思っているのだろうか。子供を下ろして私へと寄ってくる間に想像してみた。
アシエルは魔法を使った。子供を助ける目的だけれど、間違いなく使っていた。しかし市中での魔法の使用は禁止されている。咎められる可能性があり、できれば咎められたくないと考えている……かもしれない。
「逃げる?」
アシエルは足元に転がっている、壊れた柵をつま先で押していた。
「逃げたら追われる」
そもそも逃げる時間もなかった。もう視界に入るところにいる。ソルクの盾、市中警備隊、第三部隊の……なんだっけ。
「ミエグナだ。君だね。さっき魔法を使っていたのは」
私は挨拶を終えると視界からも外されて部外者になった。この手の甲にある障壁は、魔法使用には含まれないのだろうか。
アシエルは頷く。
「見殺しにするべきでしたか?」
「私は感謝している。職務上、話をしたいんだ。そこまで時間は取らせないさ」
それは真実みたいで、開放されるまでに時間は掛からなかった。ここで何があったのかと、私たちが何者かを尋ねられただけだった。立ち話で質問に答えると、もう用がないらしい。茶を一杯だけ飲み干すくらいの時間だけで、私とアシエルは自由になった。