ある意味では始まりの朝
目を開くと木目が私を見つめていた。天井板にある瞬きをしない目だ。若干黒ずんでいる。
私の実家にも学校の寮にもない木の天井。ここは一体どこだろう。寝ぼけた頭で、今日はじめての思考を始めた。
すぐに思い出した。ここはイーシリアの店だ。二階の一室を借りたんだっけ。
私は部屋を見回した。昨日、部屋を借りてから寝るまでに見ていたはずなのに、強い新鮮味があった。
端が黒く汚れているカーテンが陽を妨げていても、朝であれば部屋は明るくなる。二度寝返りをうてば床に落ちそうな木のベッド。若干歪んでいる手製の箪笥や、足に無数の傷があるドレッサー。何かをこぼした赤い染みが目立っている白い絨毯。客間としてみれば悲惨なものだけど、生活感が溢れた親しみやすい部屋だった。
カーテンを捲って外を確かめる。今日の天気は晴れ。澄んだ空は雨と縁遠そうだった。
カーテンから手を離す。次に確認するのは自分についてだ。
頭痛はない。体のどこにも痛みや異常は感じられない。手を見てみる。いつもどおりの綺麗な両手だ。鏡が遠いから顔はわからないけれど、きっといい顔色だと思われる。そんな気分だった。
ベッドで上体だけを起こしながら、私は手を前に突き出す。我慢ができないやりたいことがあった。
魔法の行使。今日こそ空気に色をつけてやる。昨日は紫色が見えた気がしたけれど、実際にはどうなのだろう。
私はためらわずに行った。魔力を操り、現象を起こす。授業でやったときとは違い、ちゃんと魔法を使った感覚が手に残った。
しかし、空気は透明なままだった。確かに魔法は発動したはずだ。それなのに空気の色は変わらない。
「ああ、そっか。自分ではわかりにくかったりするんだっけ」
じゃあどうして、昨日は紫が見えたのだろう。紫を作り出したと思い込んでいただけかもしれない。
透明でも気にする必要もないか。魔法を使う感覚はあったのだから、別の人に見てもらえば済む話だ。幸いにもこの家にはイーシリアと、ついでにアシエルもいるはずだ。どちらか、できればイーシリアに見てもらえばいい。
私はベッドから立ち上がると、まずは着替えを済ませた。寝巻きから外着へ。鞄へ畳んだ寝間着を仕舞うと、鞄の口を閉じた。
さあ、一階へ下りようか。戸を開け廊下に出ると、美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。
朝食はアシエル製だった。美味しい美味しい言いながら食べているときに、イーシリアから聞かされた。その一瞬だけ食欲がなくなったけれど、空腹も食事の味も変わらないので、結局完食まで時間はかからなかった。
私とアシエルには学校での授業がある。用事が済んだ以上、イーシリアの元で長居はできない。
朝食を終えたらすぐに出発するとアシエルが宣言する。イーシリアは寂しそうにはしたけれど、引き止めるような文言は一切なかった。
準備と言える準備はなかった。私もアシエルも鞄を持ち上げるだけで事足りた。やり残しはイーシリアへの挨拶くらいだろうか。
「この度は、ありがとうございました。個人的な悩みの解消だけに留まらず、一泊に食事までいただいて……。この御恩は決して忘れません」
「そんな気にしないで。アシエルが初めて連れてきた友達だもの。むしろもっと力になりたかったくらい。この子はひどい性格だから、学校でうまくやれるか心配だったのよ」
ひどい性格と言われたアシエルはつまらなそうだった。明後日の方向を見ながら、私を急かすように、トントンとつま先を床に落としている。私がそんなアシエルへ向くと、急な角度だったアシエルの首は、よりきつい角度になった。
私はアシエルに何か言おうと口を開く。しかしそこで止まって動けなくなった。アシエルをなんと呼べばいいのかわからなかったからだ。
イーシリアはアシエルの保護者だそうだ。保護者の前で『あんた』や『おまえ』はどうなのだろう。イーシリアには恩があるし、不快にはさせたくなかった。呼び方では気を損ねるとは限らない。しかし可能性があるなら避けたかった。
安定は名前呼びだ。しかし……アシエルのフルネームってなんだっけ? 思い出せない。アシエルとしか思い出せない。ならもうそれでいいか。
「アシエルって、友達いるの?」
「必要ない」
無表情での即答は、イーシリアが抱いた不安への理解を深めさせてくれた。
「ほらね」
イーシリアのため息が聞こえるようだった。恩返しの一環として、この人の前ではアシエルと友達でいてもいいかもしれない。
「学校では私が見張っておきます。アシエルが何かをやらかしたら、即報告しますので」
「ありがとう。よろしくね」
今まで望んで話しから外れていたアシエルが、ようやく正面の私達に向く。
「よろしくじゃない。なんでこんな奴に」
私の友達面が効いているみたいだ。それならばと思い、全霊をかけて私は演技に魂を注ぐ。今に限り、私は好きに感情を作れるはずだ。それにより生まれた満面の笑みは、きっと可愛い。鏡を覗けば私自身が惚れちゃうかもしれない。その顔をアシエルに向けた。
「仲良くしようねっ!」
二度とこの言葉を吐く日はこないだろう。歯ぎしりするしかないアシエルを見ていると、無理をした甲斐があった。
「無駄話が長くなるなら、俺は先に行くぞ」
私とイーシリアの間を抜けて無理やり外に出ようとするアシエルの姿からは、「仲良くするつもりはない」と「言い返すのは難しい」が透けていた。
一人で進むアシエル。背中はどんどん小さくなっていく。見失うまではすぐになりそうだった。
「アシエルの後を追います。お世話になりました」
「気をつけて。勉強頑張ってね。それと、昨日も言ったけど、くれぐれも魔法書の魔法は使わないように」
イーシリアから、アシエルの背中に視線を移して、私は小走りを始める。少し進んでから、なんとなく振り返ると、もう閉じた扉しかなかった。
もう振り返ることはない。道は前にしか伸びていないのだ。アシエルが先行している道は広く、眩しい日差しで輝いている。私もその道をあるき出した――瞬間、足が止まった。
「魔法を見てもらうの忘れた」
振り向くと、イーシリアのお店の扉がある。今なら、まだ戻れば見てもらえる。少しだけ考えて……決めた。
私はアシエルが進んだ道へと向き直る。イーシリアに、私が空気を何色にするか見てもらうのは諦めよう。アシエルは先に行ってしまったし、戻ればきっと気まずくなる。