イーシリアは嫌いじゃない
私が学ぶアファレサ魔法学校は全寮制だ。寮も学校の敷地内にあり、人によっては年中、学校から出ずに過ごす。これは学校の情報全般がなるべく外に漏れないようにするためらしい。特に学生の練度は秘匿されている。学生が学外へ出て魔法を使うなんて許されない行為だ。
しかし例外がある。例外があるから完全な幽閉にはなっていない。学外へ出ていいのは、卒業や、重篤な怪我や病気に見舞われた場合、長期休暇ともう一つ、外出許可証だ。
本来であれば、外出許可をもらうまで、いくつもの壁を超えなければいけない。しかし今回は食事の買い出しよりも簡単に取れた。きっと先生が手を回していたのだ。もしくは簡単に取れないというのはただの脅しで、実際は誰でも簡単に取れるか。
手の甲に判をされ、許可書の写しを持たされた。手の甲の判は魔法だった。身を守ってくれると説明された。許可書の写しは、もし身元を照明しなければいけない事態になった場合の保険に使えるらしい。これがあれば、事件を起こしたでもない限り、治安維持局でも拘束はできないそうだ。
私はその写しを三つに畳み、肩掛けの鞄に仕舞っておく。これで準備ができた。
もう時間は正午を回っていた。アシエルによると、到着は夕方頃になる。私の癖を直してから学校まで戻ると夜になってしまうので、今日は学校へは帰らずイーシリア・ファルカットというその人のところで一泊する。
鞄には許可書の写しの他に、衣類や身だしなみ用品、それと魔法書が詰まっていて腫れ上がっていた。
久しぶりに制服を脱いだ軽い格好で、私は少し舞い上がっていた。隣りにいるアシエルは逆に気落ちしているようだから、バランスは丁度いいのかもしれない。
目的地までは徒歩だった。ゴーレムが牽引する車に乗れれば早いのだけど、無料で使えるわけじゃない。中にはゴーレムを出している魔道士もいるけど、私もアシエルもそこまで高度な魔法は扱えなかった。
歩きだからと絶望する必要はない。学校があるソルクレリカから、目的のシルキレリカはすぐに行ける。二つの街は隣接しているからだ。
この二つの街は、東西に伸びる城壁で分けられている。この城壁が段丘のような形を作り出す。北側にあるソルクが、南側にあるシルキを見下ろす形の段になっていた。
どちらの街も治安は概ね良好。人通りの多い道を真っ直ぐ南に、景色を楽しみながら歩いた。
街の境目になる城壁から開けた景色を堪能してから、シルキへ降りて、そこからはすぐだった。
入り組んだ細い道を進むと見えてくる。
「ウィルティンズ魔法店。あそこだ」
そこは扉の横に小さい看板があるだけのお店だった。その小さな看板も黒く汚れていて読みづらい。唯一、内側が覗けそうな小さな窓にはカーテンがかけられていて中は覗けなくなっている。入りにくいと感じるには、十分すぎるほどの材料が揃っていた。
「手紙で伝えてあるから緊張はしなくていい」
「よく手紙を書く時間があったね。今日決まったことなのに」
「最低限だけにしたから時間は必要ない。宛先は手紙自体に教えて飛ばした」
私に心の準備に必要な時間は与えられないらしい。アシエルが軋む扉を開くと、橙色の光が漏れてきた。
「おかえり。と、いらっしゃい」
扉からの光に目が慣れるまで、声の主はわからなかった。ほんの短い間、目を細めていると、光の中からシルエットが現れる。その人は、アシエルが大きく開いた扉を脇で押さえてくれていた。赤黒い髪にスラッとした体。きらりと輝く橙色の瞳に濃くて目立つ下睫毛。右手を腰に当てて出迎えてくれる人がいた。
「あなたがセイレナさんね。よろしく。私は、聞いていると思うけど、イーシリア・ファルカットです。ここウィルティンズ魔法店の店主で、アシエルの保護者でもあります」
イーシリアは溌剌とした立ち居振る舞いだった。見とれてしまいそうになる。
私は軽く会釈をしてから「セイレナ・マイオム・パスイです。この度は、お世話になります」と、普通すぎる挨拶しか返せなかった。
アシエルに促されて敷居を跨ぐ。後ろから扉が閉まる音、アシエルの足音と聞こえるけれど、私の前を行くイーシリアを見ていたら他に興味が向かなかった。
案内された先は、楕円のガラス球が暖かな光を振りまく、食堂のような部屋だった。部屋の中央には椅子が二つ、テーブルが一つ。テーブルの上には布巾と、赤い円錐の果物が入ったカゴ、そして照明のガラス球が下がるスタンドがあった。キッチンを覗けるガラス戸と、食器棚が壁を埋めていて、他には何もない狭い部屋だった。
イーシリアは手前にあった椅子を引くと「では、早速話を聞きましょう」と座るように勧めてきた。私は従い、勧められた椅子に腰掛ける。
「鞄はそこの棚の上か、椅子にかけてもらってもいいかしら。気が利かない対応で申し訳ないけど。アシエルに運ばせるのも嫌でしょう」
イーシリアは一番うしろのアシエルにちらりと目を向ける。
「俺がお断りだ」
そういうことなら。私は指示に従い、鞄を椅子に掛けてから腰を下ろした。
「それじゃ、アシエル、仕事をしてもらえる? お茶と軽い物を何かおねがい。夕食前だから、簡単なものでね」
「いつものでいいな」
アシエルがキッチンに消えていく姿を目で追う。戸が閉まってアシエルが隔離されるまで、イーシリアとの話は始まらなかった。戸が閉まる音に続いてイーシリアが始めた。
「急ぎと聞いているけれど、急ぐ? 私に時間はあるから、今すぐじゃなくても話は聞けますよ」
私はすぐに頷く。「急ぎで」
「そう。魔法が使えないと聞いたけど、間違いないのかな?」
「使えます。でも使えなかったんです」
魔法を知らなかった人ですら扱えるような魔法に失敗したのに、使えると言うのは間違っているのではなかろうか。一瞬だけそんな迷いが生まれた。
しかし、魔法を使えたのは嘘ではない。鞄の中にある魔法書を思い出す。寮に置いてはこれなかった。もし誰かが見つければ、大惨事になる可能性がある、危険な魔法が記されている。私は確かにそれを操っていたのだ。
この魔法書は秘匿している。これからもいたずらに人目に晒したりはしない。しかし、イーシリアには話すかもしれない。話して魔力を操れるようになるなら。
「どんな魔法が使えなかったのかな」
「空気に色をつける魔法です。三回やって、全部駄目でした」
フェネシェアが作り出した虹色の空を思い出す。あれと同程度かそれ以上を作れるようになりたい。
「色か……初心者に扱わせる魔法なわけでしょう。うん、わかった。一度、ここで試してみない? 見て確かめるから」
「試す? 魔法をですか。自分で言いたくないですけど、もし暴走でもしたら」
私が魔法を暴走させるなんてありえない。しかし魔法が使えないというありえない事態が既に起きているのだ。今の私ならやりかねない。
「気にしないの。魔法に対する防御策くらいできるから」
イーシリアがテーブル上の照明に手を伸ばす。楕円のガラス球を指で弾いた。爪が当たって澄んだ音が響く。心地よい音だったのに、その音には耳を傾けられなかった。
ガラス球の変化は音だけではなかった。それは色だ。
周囲の色が変化する。それは照明が発する光の変化だった。音と呼応するように波のように広がっていく。その色は冷たさがある空色だった。徐々に侵食して、部屋は透き通った青色になった。
「授業と同じように、手加減はしなくてもいいよ。座っていたらやりにくいかな?」
今更、魔法が使えなくて恥ずかしいという線は超えた。やってみろと言うならやってやろう。私は手を伸ばす。手はカゴの上あたりまで伸びて、光が当てられ若干青みがかった果物を見ながら私は目を閉じた。
魔力を操り魔法を行使する。それは一定以上の才があれば然程難しくはない。一定以上の才も、高いハードルとは言えないくらい溢れている。魔法学校に入学できなかったとしても、そのうち五割以上は魔法を使えるらしい。その五割ならこの魔法は容易いに違いない。魔法学校に入学できた私ができないなんて通常であればありえない事態なのだ。だから何かの間違い。本来なら問題なくできるはず。
しかし、目を開けても、果物は青色のままだった。
先生からは魔力を操れていないと言われた。その後、癖のせいだとも。
理由があったとしても、魔法を使えていないのが現実だ。今の所の実績はゼロと表記するのが正しい。魔法への才が殆どない、魔力を持たない人の魔法と同じだ。
私の伸ばしたままだった手に、何かが触れる。温かいと感じ、柔らかいと感じた。それはイーシリアの手だった。私の手は揉まれたり、軽くつねられたりしていた。
そっと私の手が離されたころには、イーシリアは明瞭と顔に出していた。
「問題点は見えてきたかな」
あまりに簡単に言うものだから呆気にとられそうだった。
「なんとかなりますか?」
「使っている魔力が薄いから、魔法に成っていないのかな」
イーシリアは平然と口にしたけれど、私にとっては大事件だった。魔力が薄い。その意味を好意的に受け取れそうにない。
「薄い……使い物にならないってことですか」
私の心境を知ってか知らずか、イーシリアの口元が緩んでいた。まるで笑わないよう堪えているかのように。
「そんな顔しなくても大丈夫。癖と聞いていたけど、やっぱり癖みたいだから、その癖を直せばよさそう」
「どうすればいいですか」
「ここから先は、実際に魔法を使ってもらうわけにもいかないかな」とイーシリアはテーブルを指で叩く。間隔は一定に、何度か叩かれる。それが終わると、話が始まった。
「今までどんな魔法を使ってきたの?」
その質問は、私が魔法を使ってきた前提のものだった。だから私の目は開かれる。驚き、喜び、その辺りの感情からだ。魔法を使えると思われているだけで、大袈裟にも救われるようだった。
イーシリアが欲しているのは、私が持つ魔法書だ。私が使ってきた魔法は、全てそこに記されている。
しかし、見せていいのだろうか。見せていいと思っていたけれど、実際にそのときが来ると気が咎める。
魔法書は危険な代物だ。素人でも簡単に魔法を使える。ある程度の実力がなければ制御も難しい。私が制御できるようになるまでも時間がかかった。いわば、むき出しの刃物なのだ。柄もなく鞘もない、一つ間違えれば自分が大怪我をするような。
それに何より、魔法書自体があまり好ましい代物ではない。私が隠し持っているのは、正確には魔法書の写しだけれど、学校で見つかれば騒ぎになるような物だ。イーシリアに見せて悪感情を抱かれたら、という思いがあった。
でも、見せなければ先には進めないか。誤魔化したり、黙っていたりでは先に進めるとは到底思えない。
私は決めて鞄を漁る。魔法書に触れて、その手をテーブルの上まで運んだ。
「これです」
早速、後悔のような念が湧いてくる。今からでも戻せないだろうか、と考えてしまう。テーブルを滑る魔法書からは目が離せなかった。
「あーららら。これは珍しいものを。……そっか。ちょっと中を見てもいい?」
「どうぞ」
予想していたよりもずっと、イーシリアの反応は小さかった。
「昔使われた、対異形種の魔法かな。攻撃性が高い魔法ばかり。この本、私以外には?」
「誰にも見せていません。危険なものなので」
「魔法書としては良質ではないけど、機能は十分に備わっている。学生が個人で管理するには荷が重そうね」
イーシリアは一瞬、アシエルがいるキッチンのガラス戸へ目を向けた。その目を私に戻す。
「ではこうしましょう。アシエルの友達から対価を取るつもりはなかったんだけど、この魔法書と引き換えに、あなたに魔法を教えます。明日には、失敗した魔法を存分に扱えるようになっているでしょう」
私の喉に言葉が詰まった。私にとってこの魔法書は大事な物だ。私の魔法と言えばこれだった。安心を与えてくれる物でもある。私の顔に出てしまったのか、イーシリアが私の思いを察したのか、私の目を真っ直ぐ見つめてきた。
「これは危険なものよ。後々を考えるなら手放さないといけない。暴力に特化した魔法書は、取り扱いを間違えなくても、幸は呼ばないから。魔法書図書館に届けると約束をするなら、持って帰りなさい」
「そんなに言うほど、危険ですか。所謂、禁書とか」
「これは禁書とするには弱すぎるかな。魔法使いを志して努力したなら、誰でもこれくらいの魔法は使えるよ。危険と言ったのは制御しきれない人が触れても魔法を使えてしまうところ。式を見てどんな魔法か推測できる知識もないと、怪我人を出してしまうから。それに、昔の魔法みたいで効率化がされていないから、魔素を生みやすい点でもおすすめはできない。寄贈したら少しのお金がもらえるはずだから、お小遣いがほしいなら自分で持っていきなさい」
終わると、イーシリアはテーブルに乗り出し、魔法書の手前で腕を組んだ。『どうするの?』と口には出してないけれど聞こえた。
答えは半ば決まっている。ここへ来た目的が第一だ。しかしこの本を手放すのは惜しい。
じっと見つめる。昔から様相を変えていないこの魔法書は、一種の思い出の品でもある。それでも、今後には代えられないか。
「わかりました。持っていってください。惜しいけど」
長く親しんだ物は手放すのは、もやもやした気にさせられる。どうせ考えはまとまらないのだから、勢いに任せて言い切った。
「それでいいのね?」
「もう、その本の内容は覚えていますから」
記憶は残っている。魔法書がなくても、同じ魔法を再現するのは難しくもない。そういう意味では魔法書を手放しても変わらないのだ。
「悪い子ね」
「悪い子です。いけませんか?」
いけないのだから悪いだろう、と自答したくなる。イーシリアも同じように考えているのだろうか、と想像してすぐ、イーシリアは首を横に動かした。
「いいえ。何も言えません。私はあなたよりずっと悪い子だったし」
「なにをしたんですか? 訊いても? 聞かせてください」
「内緒。それよりも、この書の内容を覚えていても、使わないようにしなさい。効率化がされていない不完全な魔法だから。これは絶対よ。魔法の恐ろしいところは、人を殺せるだけじゃない」
笑っていたイーシリアは、瞬時に真剣な眼差しを取り戻す。それは一つの芸のようだった。
「では、この魔法書はいただきます。早速、癖をなんとかするために初めましょう。日が落ちてもできる単純さなので」
まるで私が見えていないかのように、イーシリアは一人で話を進めていく。私に不都合がないから構わないけれど、できれば私のペースでやりたかった。
「セイレナさん、あなたの問題は、魔力を抑える癖です。高出力の魔法ばかりを見習いになる前から使ったために、無意識的に魔力を抑えて規模を狭めるようになったのだと推測しました。そのため、小さい魔力で動く魔法が、魔力不足で発動まで行けていません。つまり、魔力を薄くする癖をなくすか、濃度を操れるようになれば問題は解決するはずです。そのための新しい癖を、突貫で身につけてもらいます」
突貫での部分に恐怖を感じた。正当なやり方はしないという意味で使われていそうだ。
しかし早く済むのは私にとってもありがたい。その突貫でも、結果を得られるなら受け入れようじゃないか。
私は細く息を吐き出して、心を整えていく。
「はい。お願いします」
声は大きかった。きっとキッチンにいるアシエルまで届いているに違いない。ガラス戸に横目を向けてみた。もしかしたら苦情が入るかもしれない。気分を紛らわせるのに丁度よさそうだ。そんな期待をしてみたけれど、戸は閉まったままだった。
「そこまで緊張しなくても大丈夫だよ。怪我させるわけじゃないから」
イーシリアはそう言う。私からしたら今後がかかっている重要事だ。軽く考えるなんて無理だった。
「何をするか聞いてもいいですか? 聞く権利くらいありますよね」
笑顔で了承されて、私は耳をそばだてる。準備を終えたと判断されたのか、イーシリアはゆっくりと口を開いた。
「セイレナさんの魔力を私が操ります。その感覚を覚えてもらいます。記憶できるまで繰り返し、私が手を貸さなくても同じように操れるところを目指します。魔力の欠乏は覚悟しておくこと。絞り尽くすつもりはないけど、できなかったらそこまでやるから気をつけること」
「魔力欠乏って、危なくないですか?」
魔力の欠乏症では一日ほど寝込みはするけれど、命の危険はない。しかし魔力の保有量が減る可能性があると噂で耳にした。魔法使いを目指すものとして、この欠点は無視できない。
「大丈夫。私はこう見えてプロだから。後々に影響が出るようにはしないよ。ここは信用してもらうしかないかな」
信用は簡単だけど難しかった。そもそも私には、説明された方法で本当に魔法が使えるよになるのか判断ができない。今日初めて会った人に、大役を任せるのも不安だ。
でも私は、帰る選択肢があっても選ばない。必要十分な安心感はなくても、私には関係がないはずだ。第一は魔法が使えない問題の解消で、それ以外は今は些事と言える。たとえ、魔力の減退が起こっても、問題が解決するなら一先ずはそれでいい。解決しなかったなら、別のやり方を探すだけ。
「お願いします」
私は自分を納得させるように、意識的に力強く言った。
イーシリアに指示されて、その通りに手を伸ばす。するとイーシリアが私の手首を握った。握ったまま、その手の親指を私の手首に押し当てる。
間もなく、全身が痺れているような違和感が一瞬現れた。気のせいだったと思うくらい、その違和感はすぐに気化していく。
何を考えていればいいのかすらわからず、私はただイーシリアに任せっきりだった。
「少し辛いかもしれないけど、我慢してね」
イーシリアが息を吐く。全て吐き出しきったかと思ったその瞬間、私の全身から力が抜けた。瞼を開けているのも辛いくらい。椅子に座っているのも難しいくらいに。唯一、イーシリアに握られている手のひらだけは温かくて妙に懐かしかった。
『これが私の魔力なのか』
魔法書から魔法を使い始めた頃を思い出す。あのときも同じ温かさがあった。
魔力を抑えて魔法の威力を落としていた、か。その通りだったみたいだ。
今なら空気の色を変えられる。そう確信した瞬間、この場の空気が紫色を帯びた。閉じつつあった私の瞼の間から、確かに紫色が飛び込んできたのだ。この場にあった空色と混じって紫になったのか、それとも私の色が紫だったのか。そもそも勘違いかもしれない。後でイーシリアに訊いてみるとしよう。今は口を開くだけの元気もないから。