アシエルと
学校にはまだ詳しくない。私が踏み入れた施設の中で、最も広いと知っているくらいで、まだ内部の構造を把握はできていなかった。
闇雲に歩けば迷子にもなる。ここはどこだろうと疑問に思っても、答えをくれる人も案内板もなかった。
足が疲労を訴え始めて冷静が戻ってきていた。ここが知らない場所だと認識できる。学校の内部だから帰り道に自信がなくても慌てる必要がないとわかっていた。
迷って好都合だったのかもしれない。教室に帰りたくなかった。
先生の一言に耐えきれずに逃げた、あの飛び出し方は尾を引く。いじるネタとして重宝されるに違いない。もしいじられなかったとしたら、それはそれで気を使われているようで意識をしてしまうだろう。どちらに転んでも惨めだ。しかし、そんな理由で授業をサボるわけにもいかないけれど。
サボるといえば、あのボサボサ頭、アシエルとか言ったっけ。あいつはどうして、さっきの授業にいなかったのだろうか。私としてはいなくて助かった面もあるのだけれど。授業を正当にサボる方法があるのなら、訊いてみてもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、私の目にそのアシエルが映ってしまった。たまたまだと思いたい。何もない通路の奥に人影が見えたから凝視してみると、いたのがアシエルだった。
「げぇ」
アシエルがいたのだ。そんな声が無意識に漏れても誰も責められない。
こんな声を出してしまったのだ。アシエルに振り向かれても誰かのせいにはできない。
「エリート様の挨拶は独特だな」
「うるさい」
アシエルは私を馬鹿にしてくれた憎き存在だ。しかし考えてみると、さっきの私の失態を知らないという意味で、最も話しやすい同級生なのかもしれない。そう思うと、なぜか少しだけ落ち着いた。
「どうして授業に出なかったの?」
しかも話題がある。アシエルはこの話に強い心当たりがあるはずだ。だから変なはぐらかし方なら追い込めるし、正直に話すなら教室に戻りたくない今の私にとって利益になるかもしれない。さらに、授業に未参加は褒められない行動だから、私が優位に立てる素晴らしい話題だ。
そのはずなのだけど、アシエルは全く顔色も変えず、平然としたまま言うかどうかを迷っている。
「まぁ、隠すことでもないっか。参加する意義がない」
開いた口が塞がらないとはまさにこれだ。学校の授業に意義がないと言い放つなんて、学校に学生に教員に、全否定じゃないか。
私は恨みを忘れて一歩引いていた。入学ができなかったり、落ちこぼれた生徒が『意義がない』と言うなら理解できる。負け惜しみなのだろうと思える。
しかしアシエルは入学したて。まだ制服には年期の入ったシワがない。さっきの授業で初めての魔法に顔を輝かせるような時期のはず。
「あんた、何のためにこの学校に入ったの?」
「魔法使いとして稼ぐために資格が欲しかったからかな。俺としては別の資格でもよかったんだけど、学歴を勧められて決めた。ここ、アファレサ魔法学校の主席は魅力がある」
私の自己紹介に茶々を入れた時点で推測できていたけれど、このアシエルも魔法をよく知っているようだ。だからこそ『意義がない』なのかもしれない。しかしそんな考えでよく軽々しく主席と口にできたものだ。
「主席になりたいなら授業に出ないと駄目でしょ。意義しかなくない?」
授業に出ずに評価されると思っているなら、私はアシエルに病院を紹介しなければいけなくなる。教員になる資格には『エスパーであること』なんてないのだから、目に見える結果が必要になるはずだ。
アシエルが驚いて、私は彼が馬鹿なのだと気がついた。つまりアシエルは魔法が使えれば評価されると考えていたわけだ。ここは学校で、魔法を見せびらかすのではなく習うところだと気がついていなかったらしい。
そんなアシエルは諦めたように呟く。
「仕事があった」
「話のつながりが見えない」
「学校から依頼された仕事をこなしていた。だから授業の未参加が認められたんだよ」
私は特に訊いていないのに、アシエルが勝手にその先を語りだす。内容はアシエルの奉公先の話だった。
話は短く退屈はしなかった。アシエルが魔法を代行するお店に住み込みで雑用をしていたこと。そのお店で魔法使いとして働きたいから、魔法使いとして認められる資格を欲しがっていること。
「その奉公先に学校から依頼があったんだ。濃縮点の調査。それくらいなら俺でもできるし、ちょうど学校にいるから請け負った。これがさっき言ってた仕事だよ」
アシエルは白色の棒をだらりとした腕で、制服の内側から取り出した。その棒には蓋がついていて、外すと湿った布がついている。
しゃがみ込み、その布を通路の角に近づけている。棒を少し降ってから何もないと、立ち上がって再び棒の布部分に蓋をかぶせた。この行為が濃縮点の調査だ。
「濃縮点は知ってるか?」
私の顔を見ないアシエルに問いかけられる。もしここに他の誰かがいたら、無視をしていたかもしれない。現実は私とアシエルの二人だけだった。独り言でなければ、私への質問と考えるしかない。
「馬鹿にしているの? 濃縮点とは、魔素が高密度な点です。どうせ次は魔素が何か訊くんでしょう? 魔素は、魔法に変換されなかった魔力のこと」
「これは知ってるんだな。まぁ魔法の等級よりもずっと重要だしな。魔素については六十点ってところだけど」
「いちいち文句を言わないと気が済まないの?」
「正確には、魔素とは魔法行使のために放出されたが魔法に変換されず、長時間、空気中を漂って変質した魔力を指す。その中でも特に日光に弱く生物と結びつきやすいものを魔素と呼ぶ。基本的に魔力は自然消滅するけど、そうならなかった一部だな」
「御説明ありがとう」
嫌味に聞こえるよう語感を強くした。意図的にだ。それがどう伝わっているのか、あまりわからない。アシエルは私に背中を向けて、濃縮点の調査を続けているからだ。少しずつ移動しながら、布の着いた棒を振っている。
そんなアシエルの後ろを、なぜか私は距離を維持するように歩いていた。離れようとはしなかった。なぜそうするのか自分でもわからない。やめようとは思わなかった。邪魔にもなっていないし構わないはずだ。
「それで、濃縮点は見つかったの?」
「今のところはない。八割方終わっているから、問題なしと報告できそうってところだ」
「それはよかった」
「まだ途中だよ。大役だからな。手は抜けない」
濃縮点の調査はどこでもやっている。だから私も知っていた。棒の先についている布は魔素に振れると変色する。魔素と相性がいい植物のエキスを染み込ませているからだ。
問題は濃縮点がどんな不利益を生み出すのかだ。決して放置できない理由がある。それは変異種を生み出すという一点だ。
変異種は異形種や魔物種やら色々な呼び名がある。人や動物など、生き物を襲い食らう化物で、過去から今まで人間の生活圏を脅かし続けている。その変異種が発生する原因が高濃度の魔素、濃縮点にある。魔素には生物を侵食し、変質させる性質があるのだ。
その性質が濃縮点を探す理由になる。高濃度の魔素は、短時間で全身を侵食し、別の存在へと変異させる。凶暴性を授け、代わりに理性を奪い、生き物をただ襲い食らうだけの存在へと変えてしまう。こうなるともう、殺害以外には止める手段はない。
変異種が一匹出るだけで大混乱になる。街中で突然現れ暴れた場合、最低でも二桁、酷ければ三桁になるほどの人が命を落とすだろう。元が貧弱な虫や小動物だったとしても、それくらいは食らうと過去の記録が言っている。だから絶対に発生させてはいけないのだ。
ここは魔法学校だ。魔法という武力をほぼ全員が扱うので、街中と比べたら被害はずっと小さいはず。だからといって、化物が好きに闊歩していいわけじゃない。そうならないようにアシエルが調査をしている。
「変異種が出たら、あんたのせいってわけだ」
「問題なしと報告した後に出たら、そうなるな」
「あんたには恥をかいてほしいと思うけど、さすがに変異種は望まないね。変異種は基本的に人を食べる存在だから。私は食べられたくないし、誰かが食べられるところを見たくない。だから調査頑張れー」
「食べられたくないって、見た目不味そうなのに、気にするのか?」
アシエルには私がそう見えているのか。馬鹿にする意図の言葉だと思うけれど、不味そうと言われてどう思えばいいのかがわからない。
しかしまあ、我ながらよくもこんなつまらない会話を続ける気になるものだ。いつもだったら無駄な時間として、早々に撤収している。こんな問答でも気晴らしになるくらい、私は落ち込んでいたのかもしれない。だとしたら……もう少し話をしてみようか。嫌味には嫌味を返せばいいのかな。
「あんたを心配してやってるの。ゲテモノはおいしいって言うじゃない」
アシエルの手が一瞬だけ止まった。殺しきれなかった笑いが私の耳に届く。
「まぁ、俺の血はうまいかもな。自分で舐めてもよくわからんが」
アシエルは自分の指を切るような真似をすると、その指を私へ向けた。
「……もしかして、自分じゃわからないから私に舐めてって言ってるの?」
「ああ、それいいかもな。血吸の化物呼ばわりできるようになる」
じっとアシエルを見つめた。調査中の姿には特筆する点はない。草むしりをする格好と大差がなかった。その姿を見て思う。
「私、あんたになにかしたっけ?」
記憶に間違いがなければ、私はアシエルに何もしてない。ついさっき嫌味を言い合ったくらいで、突っかかられるようなことはしていないはずだ。自己紹介で言いがかりをつけられる理由も、今邪険に扱われる理由もない。
「気にするな。俺は誰が相手でもこんなもんだ」
「最悪」
「全くだよ。こんな子に育ててくれて、両親に感謝だ」
アシエルが自分の笑えない冗談で乾いた笑い声を流した。全く笑えないし言いたいことも思い浮かばなかったので、私は黙っていた。
アシエルの笑い声を上書きしたのは、突然後ろからの声だった。
「ここにいたか」
聞き覚えのある声で、振り返らずとも誰なのか確信できた。先生だ。さっき私に『魔力を操れていない』と無配慮に告げた先生だ。唯一幸いだったのは、先生が一人であろうことだけ。足音が一人分だった。
私としては、このまま先生には帰ってもらいたい。しかしそう伝えたところで私の望みは叶わないだろう。『ここにいたか』の意味を考えると人探しに行き当たる。それも探していた当人を見つけた瞬間に適している。だから私の思いは届かない。可能な限り無視をしようと決めた。
「ハユルノ、悪いな。邪魔するぞ」
ハユルノとは初めて聞いた名前だ。他にアシエルしかいないのだから、消去法で奴の名前になる。
「いいえ、構いませんょ。勤勉さは必要でも、集中力は不要な仕事ですから」
そうアシエルが返して、アシエル・ハユルノという名前が私の中で確定した。
今はそれよりも先生だ。先生がアシエルに『悪いな。邪魔するぞ』と断ったことで、先生の用事はアシエルにはないとわかる。この場に他にいるのは私だけだ。
「おい、パスイ、なぜ逃げた」
パスイ……聞き覚えのある名前だ。私の名前がそんなような。でももしかしたら、私の名前ではないかもしれない。世界を見れば、きっとパスイさんは他にもいるだろう。ここにいるのは私だけなのだが。
「とりあえずこっち向け。責めやしない」
口調には優しさが感じられた。演技でなければ先生は本当に責めるつもりはないのだろう。そもそも授業の終わりと同時に飛び出したのだから、責められる理由がない。多分、この論は通じる。そう思うと心が少し軽くなり、振り向くまでに時間はいらなかった。
先生と目が合った。お互いじっと黙っている。特にお叱りはないらしい。それだけはなんとなくわかった。
「よし。じゃあ一つ質問する。正直に答えること」
「はい」
「魔法を独学で学んでいたか?」
意外な質問だった。答えを返さなければいけないのだけど、私の頭が硬直してすぐに考えが浮かばなかった。魔力を操れていない人に、魔法を学んでいたかどうかを確認する意味がどこにあるのだろう。
「ああ、そうだな。補完する。机上の勉強ではなくて、魔力を操り魔法を使う練習を独学で進めていたか?」
よりわからなくなる。フェネシェアとか魔法をうまく扱える人にその質問をするならまだわかるのだけど。
「はい」と、懐疑的に言葉を捻り出すだけで精一杯だった。
「そういうことだな。はぁ、私の苦手な分野だからやりたくないんだが、放ってもおけな――あっ」
先生はアシエルに気がついた。アシエルはせっせと濃縮点の調査を進めている。
私が先生と会話をしている間に、アシエルとは少しの距離が空いていた。見失うほどの距離ではない。
「ハユルノは、確かファルカット先輩のところで暮らしていたんだよな」
「そもそもこの調査がイーシリアさんへの依頼ですよ」
「記憶違いじゃなかったか」
アシエルが首だけで振り向く。暗がりではっきりとは見えなかったけれど、笑うとは真逆の表情だと確信できた。
「嫌な予感がするのでその先は言わないでください」
「ハユルノ、嘘偽りなく答えろ。近々、ファルカット先輩と会う予定はあるか?」
ついにアシエルは手を止めて立ち上がる。調査に使う棒に蓋をして、制服の内側にしまった。
「そいつと先生の会話を横から聞いていましたけど、魔法が使えないとか、そんなところですよね。面倒くさいので嫌ですよ」
ちくりと私の心か自尊心の周辺に棘が刺さり、目元がピクリと反応した。
「『そいつ』はなんかやめろ。セイレナ・マイオム・パスイって名前があるの」
私が授業で魔法が使えなかったとバレているみたいだけど、不思議とそっちは何も思わなかった。
「名前なげぇよ」
幼かった昔は私自身でも、名前が他の子より少し長いなと思った。
私とアシエルの短い会話なんかなかったかのように、先生は続ける。
「嫌だってことは、不可能ではないんだな。じゃあパスイをファルカット先輩のところへ連れて行ってやってくれ」
「お断りします」
「授業もある。なるべく早く今日か明日にでもお願いしたいんだが」
今すぐ嘔吐しても違和感がないくらい、アシエルの面は歪んだ。
酷く嫌がっているのがわかる。優しい人ならば心の介抱でもするのかもしれない。しかしこの場には、アシエルに気を使う優しさを持った人はいないようだ。
アシエルは先生に押し切られるだろう。そんな未来が見える。だから私はどこかへ連れて行かれることになる。ファルカットとかいう人と合うために。
「先生、その方はどんな人なんですか」
「優秀な魔法使いだ。イーシリア・ファルカット。私の先輩でもある人で、他人の魔力を見れるんだ。パスイが魔力を操れないのは癖だと思う。あの人なら、直せると思うよ」
「癖ですか?」
「詳しくはファルカット先輩、本人から聞くといい。私よりも詳しいはずだ」
先生の笑顔は、私の心を明るくしてくれた。私が無能すぎて超簡単な基礎中の基礎が駄目だったという説が崩れていく。悪いのは癖だったのかもしれない。ならば早く解決したいところだ。
「じゃあハユルノ君、よろしく」
アシエルに対して、今は微笑みが暴力になると知っている。だから微笑んだ。
「場所を教えるんで、一人で行ってもらうんじゃ駄目ですか?」
アシエルは、案内する私ではなく先生に向かっていた。
「店はシルキにあるんだろう? あの辺りは入り組んでいる。土地勘がないのに一人にすると迷いかねない。ハユルノに我慢をしてもらうのが一番いいんだよ」
真顔の先生に、アシエルは威嚇するように睨むだけだった。何を言っても意味がないと気づいたのか言い返さない。長いのか短いのかわからない沈黙が流れ、終わると弱者が折れた。
「わかりましたよ。これが終わったら連れて行きます。ところで、先生は友達が何人いますか? 性格的に少なそうですけど」
初めて、先生の顔にマイナス的な変化が現れた。