再びウィルティンズ
私とアシエルを引き留めようとした先生による追跡は短く終わった。きっと他にもやることが山積していたのだ。
追う者がいなくなっても、私とアシエルの駆け足は止まらなかった。閉められた校門を飛び越えて、急いでイーシリアの元に向かう。
「店にいてくれよ」
アシエルの小さな声だけど、私まで届いた。
アシエルは私よりも必死に見える。表情は真剣そのもので、冷や汗が流れても違和感がないくらいに張り詰めた空気を醸し出している。
そこまで思ってくれてありがたい、と同時に申し訳がなかった。もっとアシエルに気を抜いてもらえないだろうかと考える。しかし答えは出てこない。私にはこの腕の変異がどのようなものなのか、痛み以外はまるで知らなかった。
「先生にこの腕を見せたら、よかったんじゃないの?」
変異種を退けるための無茶で、腕が変異し始めてしまったのだ。情は誘える。いい治療法を紹介してもらえるかもしれない。
私はこれでいいと思ったのだけど、アシエルは大きく否定する。
「駄目だ。本来であれば治せるものじゃない。よくて腕の切断。最悪、変異が胴まで回っていると見られたら殺されるかもしれない。そこまでいかなくても、隔離はされるだろうな。変異が進むかもしれないと見られたら、もうそこで終わりになる」
「そんなに?」
「変異種は社会にとって絶対的な害だ。人の変異種自体、相当なレアケースだから、どんな扱いになるか断言は難しい。でも、少なくともいい扱いは受けない」
私は笑う。しかし内心は全く笑えなかった。もし周りを歩いている誰かに、この腕を見られたらどうしよう。どうされてしまうのだろう。
気がつくと、私は袖を閉じるように、手首を握っていた。
急ぎ足だとイーシリアの店は近かった。
魔法屋『ウィルティンズ・ユルエ』。イーシリアの家でもある。
アシエルは鍵を扉に差し込み、力いっぱい扉を開け放って、どんどん入っていく。その勢いに私はついていけず、敷居に足を引っ掛けた。
よろけた足でなんとか耐える。アシエルの背中を支えにして堪えた。
ちょっとした勢いで背中を叩いてしまったわけだけど、アシエルは何も言わない。昨日までだったら、暴言が飛んできていた。
「イーシリアさん、いますか?」
店中どころか、向こう側の家まで届きそうな大きな声だった。その声を掻き消したのは一つの足音。
「まだ開――って、あらら、乱暴なお客さんかと思えば。いきなり魔法で制圧しなくてよかった」
そういえば、まだ朝の時間だったっけ。きっと朝食を作っている最中だったのだろう。エプロンをかけたイーシリアがやってきた。
「そちらはお客さんでいいのかな?」
私は頷いておいた。
「何か理由がありそうだけど、どうしたの? 学校からは簡単に出られないでしょう? 前の外出から日数が経っていないから、許可は下りないはずよね」
アシエルが私に目を向ける。意図は理解した。私は前に出る。あまり気は進まないけれど、袖をめくって腕を晒した。
今までのイーシリアには冗談を言いそうな砕けた雰囲気があった。しかしその雰囲気は一瞬で霧散する。
「事情があるのね?」
声のトーンも変わっている。鳥肌が立ちそうになるほど冷たかった。
イーシリアに手を引かれる。イーシリアの目は暗い光を孕んでいた。冗談一つで命を取られるのではと思うほどの真剣味。呼吸すらはばかられた。
イーシリアは私の腕をそっと撫でる。私は痛みを我慢して、イーシリアは指についた私の血を練って伸ばしていた。
その行為にどういった意味があるのか尋ねたいところだけど、私の口は開かない。
「セイレナはイーシリアさんとの約束を破りました。しかしそれがなければ俺が危なかった。学校に変異種が出たんだ。セイレナの腕は俺が無謀に挑んだ結果。責めないでほしい」
アシエルの説明を聞いたイーシリアはため息をした。真剣すぎる雰囲気は徐々に薄まっていく。
「そうだったのね。セイレナさん、アシエルを守ってくれてありがとう」
握る手は暖かかった。一瞬だけでも腕の状態を忘れられるくらい。
「私がしたくて、したことですから」
「それに引き換え、アシエル、自分が未熟だと認識できていないみたいね。変異種は一流の魔法使いでも手を焼くんだから。見習いが調子に乗らない」
イーシリアがアシエルに指を向ける。その瞬間に、アシエルの眼前で小さな破裂が起きた。アシエルの額が赤くなっていく。
「反省はしている。今はそれよりも」
「うん、そうね」
「この変異した腕を治せる人について、セイレナに教えてほしい」
「昔の話だよ。覚えていたの?」
「変異種に関わることなんで。本当に治せる人がいるんですか?」
イーシリアが私の腕に袖を戻した。ゆっくりと、痛みが少ないよう意識をしてくれている。さっき触られたときに痛みがあったと気づかれたのだろうか。こんな血に濡れた腕なのだから、考えなくても痛みを想像できるのだけど。
イーシリアは小さなため息をした。
「運がよかったのかな。それとも決まっていたこと?」
私の袖を戻し終わったイーシリアは、目線を上げながら微笑んだ。
「辛そうな顔はしなくていいです。治りますよ。いとも簡単に」
その一言で、視界の端にいたアシエルが晴れやかになっていた。当事者である私が笑ってしまうくらいに、わかりやすい変化だった。
イーシリアの言葉は、私にとっても最高の一言だ。アシエルからは、治るかどうか確実性がないと聞いていた。私には、無意識下にでも不安に思う部分があったのだろう。治ると断言してもらえて、泣きたい気分になってしまった。
唯一、安堵していないイーシリアは、口元を無理やり閉じて笑い声を抑えていた。そんなに変な顔になっただろうか。私とアシエルの頭に手を伸ばして撫でてくる。
アシエルはこっ恥ずかしいのか、イーシリアの手を払おうとしていた。私は従順に撫でられた。
「怖かったでしょう。今日中には元通りになるから、安心しなさい」
「はい。ありがとうございます」
「アシエルも、ほら、そんなに嫌がることないでしょう?」
イーシリアはアシエルを撫でようと執拗に追いかける。先に諦めたのはアシエルで、イーシリアに髪をぐちゃぐちゃにされていた。元からボサボサの頭だけど、より酷くされている。イーシリアの手がアシエルの頭から離れたころには、いくらか髪が立っていた。
アシエルが髪を直している間に、イーシリアは「さて」と前置きを入れる。
「治りますけど、条件があります」
「条件ですか? どんな?」
「実のところ、私ではどうしようもないんです。魔素による変異は、不可逆が基本になります。しかし、そのどうしようもない、を覆せる人を知っています。その人を紹介するわけですが」
イーシリアはじっと私を見つめる。
「条件は、口外しないこと。腕が変異しかけたこと、治せる話は絶対に表に出さない。今後、セイレナさんの近くに同じように変異してしまった人がいても助けないこと。これが守れるなら紹介します」
私の答えは決まっていた。それなのに言葉がなかなか出てこない。口外しないという条件に、なにか裏があるのではと疑っている。イーシリアの真剣味と条件の内容が釣り合っていないように感じられたのだ。
私は俯きつつアシエルに視線を這わせてみる。助け舟の要求だったけれど、私の望みは叶わない。
きっと私の視線にイーシリアが釣られたのだ。イーシリアもアシエルを見つめた。
「そういう意味では、アシエルには罰を与えないといけないかな。セイレナさんに教えて連れてきたのだから。連れてこなかったら、もっと重い罰を与えていたけど。セイレナさんはアシエルの唯一の友達だから信用します」
まだ条件を守るなんて言っていないのだけど、イーシリアはまるで私が条件を飲むと決まっているような口ぶりだった。
まあ、秘密を守るだけでこの腕が治るなら、絶対に誰にもしゃべらないけれど。
「俺は口止めをされていない」
「そうだっけ? じゃあ以降は気をつけること」
アシエルは答えない。不満を堪える沈黙だった。
何が不満になっているのか、私にはわからない。しかしイーシリアはどうだろう。私は疎外感があった。
想像してみようか。アシエルが口止めをされて嫌がる理由を。
言いふらそうとは考えないはずだ。そもそもアシエルには噂話ができる友達がいない。言い広めるには限界がある。
変異を治せるという知識を利用できないからだろうか。私のように変異した人が今後現れても、助けずに見捨てなければいけない。誰にも口外しないとはそういうことになる。
私は腕に目を落とす。この苦痛を放っておかれるなんて想像したくない。自分の体が別のなにかに変わっていく。その過程を楽しめるのは、ごく一部の異常者くらいに違いない。
そう考えると、この話の秘匿は、苦痛を伴いそうだ。もし体に変異が起きた人と出くわしてしまったら、苦しんでいる姿を眺める以外にできることがない。
イーシリアが姿勢を正す。両目で私を見据えてた。
「それでは、セイレナさん、条件を守れますか?」
答えは決まっている。それなのに、私はすぐには口が開かなかった。
アシエルの表情を伺う。助言はくれないらしい。無表情だった。一度私と目が合ったけれど、すぐに視線を逸らされる。
自分で考えろということか。当然といえばそうだ。答えは決まっているし、難しくはない。私は自分を納得させるために一度だけ頷いた。
「決して誰にも伝えません」
ただし、一言だけ付け加える。
「でも、一つ教えてください。どうして口外してはいけないんですか?」
アシエルの興味も引けたらしい。すっとイーシリアへ首が動いていた。
イーシリアは唸る。私の両目を貫きながら、首を傾げた。
「私の口から言ってはいけないことです。どうしても知りたいなら、これから紹介する本人に訊いてください。教えてくれるかもしれません」
「そうします」
今まで立ちっぱなしだった。
イーシリアの魔法屋『ウィルティンズ・ユルエ』に入ってすぐのところで立ち話だった。
それが少し気になっていたし、イーシリアも同じだった。もしかしたらアシエルも座りたいくらいは思っていたかもしれない。
先日に案内された部屋へ、また案内された。
「少しの間、座って待っていて。紹介状を書くので。うーん、なんて伝えましょうか。あの人とは、あまり仲がいいわけではないから」
イーシリアの目が泳いでいる。家中から紹介状のネタを探しているかのようだ。
「どんな人なんですか?」
「感情を表に出さない人、かな? 物みたいな……。誰よりも人間を信用しているけど、誰よりも人間を信用できない人? 私にもよくわからない。あまり交流がないし」
「見えてこないんですけど、その人は信じていいんですか?」
「それについては大丈夫。心配かもしれないけどね。会ってみれば、意味がわかるんじゃないかな? 私とは違う受け取り方をするかもしれないけどね。……人によって、見え方が変わる人だとも思うから」
イーシリアは部屋から出ようとして、その直前に振り向く。
「アシエル、いつものところにお菓子が入っているので食べていて。紹介状はすぐに書き終えられるけど、お茶の時間を楽しみたいならゆっくりしていきなさい。二人の邪魔はしないから」
「余計なお世話だ」
残された私と、アシエル。アシエルは無言でお菓子を取り出すと、机に落とすようにして置いた。
「好きに食え」
そう言われても、気分じゃない。私としては、この腕以外に興味が向かないのだ。腕が治ってしまえば――あっこれおいしい。
出されたのは焼き菓子の群れだった。その中にあった、茶色と橙色のマーブル模様になっている丸っこいやつが、丁度いい甘さだった。
「食うなら座れよ。飲み物も持ってくる」
アシエルが戻ってくるまでに、私は二つを平らげた。
出された飲み物は、黄色をしていた。舌に自信がないのでわからないけれど、何か果汁が加えられたお茶だと思われる。透き通っていて涼しげだった。
その涼しげを演出するため一役を担っているのは、透明なグラスだ。このグラスは魔法具だった。外から持っているとわからないけれど、内側の温度が低くなっている。注がれた飲み物を冷やす仕組みだ。
今はまだお茶はそこまで冷えていない。しかし、しばらくすれば冷たくなるはずだ。
アシエルの目を盗みつつ、お茶を飲みながらグラスの内側に舌を伸ばしてみた。縁のあたりは冷たいとは感じない。しかし、どんどん底に向かうに連れて、温度が下がっていた。
「こんないいグラス出しちゃってよかったの?」
「使ってなくなるわけじゃない」
「……もう一つなかったの?」
アシエルが持ってきたのは、私のお茶だけだった。自分は壁に寄りかかって、お菓子に手を伸ばそうともしていない。
距離感があった。私との間に一線を引いているような。
アシエルに見つめられながらだと食べにくくなるから、できればやめてほしい。でも、言っても伝わらないのだろうと想像できる。
「冷たいものは苦手だ」
予想外に私は目を丸くする。
「それ、本当?」
「甘いものも得意じゃない。それ、欲しかったら包んで全部持って帰れよ」
「それはありがとう。ところで、本当に冷たいものが苦手なの?」
「どうしてそんなに気になる?」
「まさかアシエルが、苦手を私にさらけ出すとは思っても見なかったもので。本当?」
「本当だよ」
「そうなんだ。後でイーシリアさんに訊いてみよっと」
「信じないなら訊くな」
少し気が楽になった。
私は変異していない、普通の腕一本で、お菓子をつまんでお茶を飲むを繰り返す。その繰り返しが楽しくて、腕のことを忘れられそうなくらいだった。
扉からノックが響いた。私の手が止まり、アシエルの目が扉を見た。扉はしんと静まり返っている。外側から開けられそうにはなかった。
動いたのはアシエルだった。ノブをひねり開ける。単純な動作。私にとっては非常にゆっくりに見えた。
「緊張するようなことじゃないんだけど、緊張しちゃうかな?」
扉の外にいたイーシリアはまずそう言った。
手には封書が一つとペラペラの紙が一枚。他はさっき見たままと変わっていない。
「紹介状と地図を書いてきました。後にする?」
アシエルが扉の横に避けた。
「今ください。治るなら、なるべく早くがいいです。学校を抜け出してきた状態なので、早く戻らないといけないし」
「ほらぁアシエルが無理やり連れ出すから」
「急がないといけない状態だからだ。もし他の誰かに見られたら面倒になっていた」
「やっぱり無理やりだったんだ。そんな酷い子に育てた覚えはありません。でも、よくやりました」
イーシリアがアシエルの頭に手を伸ばす。しかしその手は払われた。
「頭撫でられて喜ぶ歳じゃないぞ」
「私は嬉しいよ」
「どうでもいいから。とにかく、それを早くセイレナに渡してやれって」
「そうですね」
私の前に二つの紙が置かれた。一つは封書。もう一つが地図。
「この場所にある、小さな食堂にいきなさい。わかりにくいところにあるから、しっかりと地図を見るようにね。そこの奥の席に赤髪の男がいるはずです。その人にこの紹介状を見せること。その赤髪の男が、セイレナさんの腕を治療してくれます」
「その人は、医者なんですか?」
イーシリアがぴたっと止まった。言葉を探しているようだ。察するに、少なくともまともな医者ではないのだろう。ヤブ医者か、医者ですらないのか。
「逆かな。でもこの腕なら治せる。あまり関わらないようにね。その日限りの世間話ならいいと思うけど、恩義は絶対に持っちゃいけない」
「まともな人じゃないってことですか。怖いんですけど」
「怖がらせて送り出すのも悪いかぁ。そうだね、悪事もやる何でも屋みたいな人だから、それなりに恨みをかっているのよ。これで伝わるかな? 近くによりすぎると、その恨みが伝染る」
伝染るという表現に、私は小さく吹き出した。でもよく伝わった。
悪事でもやる何でも屋か。イーシリアは医者とは逆と言っていた。殺しもやると受け取っていいのだろうか。イーシリアはそんな人と交流をしている……。
私は頭を振って思考を吹き飛ばした。
今の私は助けてもらう身だ。あまり悪く思うのはやめておこう。
「イーシリアさん、ありがとうございました。早速ですが行ってきます」
「気をつけてね」
次、イーシリアと会うときは全快だ。助けてもらってばかりだから、手伝いでもしたいものだ。
紹介状をしまって地図を掴む。イーシリアに深く頭を下げてから、足を動かした。アシエルの足音が後ろから続いた。
「アシエル、あなたは待ちなさい」
「どうして」
私は振り向く。何事かと興味がわいた。
「行く必要がないから」
「セイレナの腕は俺の責任だ。完治するまで力を貸す。そう決めているんだ。投げ出すつもりはない」
「セイレナさんにも言ったけど、あの人との接点は少なければ少ないほどいいの。それはアシエルも同じ。会う意味がないあなたは行ってはいけない」
「イーシリアさんの言葉に意味があるのは知っているさ。……わかりました。わかりましたよ。近くまで動向して、待っているようにする。これでいいですか?」
「駄目です。今のアシエルは信用しません。セイレナさんは出発していいですよ」
「どうして――」
アシエルが声を張り上げた、と思った瞬間に固まった。瞬きもしなければ、瞳孔も動かない。息も止まっているのではなかろうか。まるで像だった。
これも魔法だ。平然としているイーシリアがやったに違いない。
全く見えなかった。人を硬直させるなんて、難しいで収まるかわからない術なのに、固まったアシエルを見て初めて魔法が行使されたのだと気がついた。一体どれだけの速度と精度なのだろうか。
「私がアシエルを説得しておくので」
説得とはなんだろう。私の目には強制に見える。止まったアシエルの顔にも納得はない。
「こうしてでも会わせたくない人なので、セイレナさんも気をつけて。本当に気をつけて。一方的に利用してやる、くらいの気持ちでね。話をしたいなら、天気とか噂話とか取り留めのない話題を選ぶように」
ここまで言われると、逆に興味が湧いてくる。そこまで気をつける必要がある人物とは、どんな人なのか。想像は無理だ。私は過去に、そこまで警戒しなければいけない相手を見たことがない。
会話ができるなら、変異種よりは優しいはず。そう思うのだけど、イーシリアの警戒具合を見ると、甘い考えかなのもしれない。
会ってみればわかるかな。
「近づきすぎないようにします」
これだけ注意されてしまえば、無意識に警戒をする。細かい動作の一つ一つも確認せずにはいられないはずだ。
私はイーシリアに送り出される。最後まで注意をされ続けた。あまりにも続けるものだから、耳の中にイーシリアの声が残り続けているかのようだった。
アシエルは、ずっと固まったままだった。部屋から出て振り返っても、ずっと同じ格好で変化がない。若干、かわいそうだった。
イーシリアに見送られながら、お店から旅立つ。目的地は地図が示してくれる。『選り抜き迷い道』という小さな食堂だ。