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変異種との戦い

 私はアシエルの背中を無言で追う。

 アシエルに震えはない。寮に近づくにつれて、徐々に歩幅が広がり足が速くなっていた。

「視界の通らない扉から入って、ばったり出くわすのはごめんだ。だから壁に穴を開けるぞ」

 独り言のようにアシエルは言う。正面を向いたまま、私には聞こえる程度の声で。

 私は頷いた。正面にいるアシエルには、間違いなく見えていない。しかし私の意思は伝わったはずだ。その証拠に、アシエルが魔法を唱え始める。

 その魔法は、私の知らない魔法のようで、知っている魔法だった。

 アシエルが魔法を現界させると、寮の壁が溶解する。アシエルが子供を救ったときに見せた魔法だ。あのときは落ちてしまわないよう掴まるために、壁を棒状に伸ばしていた。今回は溶かしてそのまま重力任せだ。

「教師の方にも警戒を怠るなよ。もしその教師が変異種を生み出したとしたら、敵になるかもしれない。どんな理由で変異種がこの学校に現れたのか、まだ全く判明していないからな」

「二対二? それもあの変異種と先生が敵で? 勝てるの?」

「難しいかもしれないが。殺されるくらいなら、腕でも足でも諦めて喉元を掻き切る」

「アシエルの因縁ってそこまで?」

 命を惜しむなら、私は帰るべきなのかもしれない。そんな考えが過りながらも、私は溜め息をするだけだった。

 思っていたよりもアシエルは直情的な生き物なのかもしれない。勝てるかどうか怪しいと考えているのに因縁に飛びつくのだから。もしこれで命を落とす結果になったら、私は呆れてものも言えなくなる。

「俺は賢くないよ。生産性が欠片もない、つまらない目的一つのためだけに生きている」

「目的なんて、勝手にできたり消えてリしているものでしょ。私なんて『アシエル、ムカつく』くらいしか考えていなかったりするんだから」

 それも薄れてしまっている。今でも嫌いな部類には入るけれども、わざわざ行動を起こして意地悪や仕返しを実行するほどではなくなった。

 つい先日を懐かしんでいると、すぐそばから大きく息が漏れた。

「聞かなければよかった。まさか同レベルだったなんて、気が狂いそうになる」

 私が『アシエル・ムカつく』に対して、アシエルは『変異種、ムカつく』だったわけか。

「安心しなさいな。アシエルのこと、昨日よりは嫌いじゃないよ。今ではイーシリアさんへ約束破ってごめんなさいをするのが一番やりたくて、アシエルはその下だから」

「イーシリアさんに謝りたいのか。いい心がけだ。謝罪の仕方を知っているのか。それはすごいな。褒めてやろうか。いいや、できないからこそ、目標になるのか?」

「あのさ、馬鹿にするのもいい加減にしてくれない?」

「助言をしてやる。謝るなら、まずは無事でいることだ。こいつを片付けるぞ」

 私も視線をずらしたりはしなかった。一応、今の最優先がなにか理解しているつもりだ。

 変異種の姿が現れた。溶けた壁には床から天井まで続く大きな穴ができていて、変異種の全身があらわになっていた。

 その姿は、雄々しかった。全身が白という点はそのままなのだけど、さっき見たときよりも全体的に完成されている。

 私が知っている変異種は丸い頭をしていた。しかし今では角が生え、くちばしのように正面長く伸びている。足は四本に完成されて、長さも統一されたみたいだ。見た目の硬質さに反してふわりとした尻尾があって、床掃除をしていた。

 私が自分の腕を気持ち悪くしてまで作った傷は完全にふさがっている。代わりに側頭部と右肩、胸の辺りから体液を漏らしていた。全て切り傷のような痕で、見覚えがないものだった。きっと先生がつけた傷だ。喉元にも無数の薄い切り傷がある。これも先生がつけた傷だろう。治ってしまったのか、それともただ浅くしか切り込めなかったのかはわからない。

 その変異種を足止めしてくれていた先生は床に倒れていた。自らが流したと思われる血の池に横たわり、金色の髪が血を吸って汚れていた。

 血の出処はというと、真っ先に目についたのは腕だった。『先生』ではなくて、変異種の右目の下辺りにある口のような隙間に咥えられた腕に目がいった。

 手首から先がぶらりと力なく垂れ下がる腕は、二の腕あたりでぶち切れている。

 変異種はその腕を首を強引に曲げて、自分の右肩にある傷口に押し込み始めた。変異種の体液に汚れながら、腕は変異種の肩に潜り込んでいく。

 人差し指にはめられていた銀色の指輪がカラリと落ちて、最後には手首から先だけが出ている状態になった。手のひらを私とアシエルに向けながら、指が軽く曲がっている。

 変異種は人を食うという。もしかしてこれが捕食なのだろうか。笑ってしまいそうになるくらい奇妙だ。しかし食べられている当人からすれば、笑ってはいられないだろう。

 先生は片腕が欠けていた。顔は青ざめ、もう立ち上がれないまで憔悴しているようだ。瞼は開いているけれど、はっきりと見えているかはわからない。

「どう、して……戻って」

 とても弱々しかった。

 変異種に壁が溶ける現象を異常だと考える知能があるのか、太陽光に反応したのか、他の理由かはわからない。首を曲げて私とアシエルを視界に入れている。

 悠長すぎたかもしれない。先生ならきっと変異種を倒してくれると信じていた。私はこの先生を知らない。敵の可能性を否定できないくらい、私はこの先生を知らない。でも、もし敵じゃなかったら変異種を倒せるはずだと思っていた。

 しかし変異種に軍配が上がったようだ。この先生は物を壊す魔法に詳しくないのか、それとも何かイレギュラーがあったのだろうか。先生に訊いてみない限りはわからない。もしかしたら……。

 アシエルによると変異種は太陽に弱いという。しかし先生は屋内で戦っていた。これは外と内で視界を遮断する目的があったのかもしれない。壁に阻まれていれば外は見えない。

 どうして視界を遮断するのか。外に逃げ遅れた生徒がいたら、変異種がそちらを目標とするかもしれないから。

 これは私の妄想でしかない。それでも、間違いない気がする。先生を助けたい思いが強く湧いてきた。

 幸い、今はこの場に、私とアシエル、先生の他に誰もいない。

「外に出すんでしょう。どうするの?」

 先生を無視するのかどうか、という質問だった。

 変異種は人を襲うから、ターゲットになる私達は太陽の下にいればいい。そうすれば太陽の下という変異種にとってやりにくい場所に自分から出てきてくれる。これは間違っているとは思わない。

 この変異種は外から寮に入ってきた。外で暴れた痕跡もある。外へ出る理由があれば、変異種は外に出ると考えていいはずだ。

 問題は先生が寮の内側にいることにある。変異種が満身創痍の先生を攻撃するなら、このまま外で変異種を待ちたくはない。先生を見殺しにしてしまう。

 まばたきを惜しんで変異種を見つめながら、私はアシエルを待つ。変異種はいつまでも待ってくれないとアシエルに念じた。

「予定通り、おまえは何もするな。俺がやる」

「状況が状況だから『おまえ』呼びでも許してあげる」

「そりゃありがたい」

 先生がやられた相手に、アシエルはどう対抗するつもりだろうか。変異種が具体的にどんな攻撃をしてくるかはわからない。

 私が相対してから、姿形が別物になっている。きっと獲物を仕留める方法も豊かになっているに違いない。

 アシエルが地面を蹴る。既に身体能力強化の魔法が加わっていて、人間離れした動きだった。数歩前に出ると、別の魔法も併用する。壁を溶かした魔法と全く同じものだった。

 その魔法を変異種の足元に適用させる。床を溶かしているのだ。

 板の木目が歪み、変異種は沈んでいく。沼にはまったようなものだった。身動きが取りづらい状況になったはず。致命的に思えるけれど、しかし変異種は一切気にしている様子はない。

 アシエルがもう一歩踏み込んで、また同じ魔法を使う。今回は溶かすだけではなく、形作るまでやっていた。先生を溶かした壁で囲う。変異種の目に先生が映らないように。

 一刻も早く治療を受けなければ危ない先生に、この処置は適当ではないように思える。しかし他にもっといい方法があるかと問われれば、私には答えられない。

 じっと見ているだけのもどかしさは筆舌に尽くし難いものだった。役に立ちたい思いと、役に立てない現実。どちらも優先したいけれど、どちらも優先できない。病に伏せて天井を見上げるだけの一日を凝縮したかのようだ。

 先生が隔離され、変異種は私とアシエルだけを人と認識するようになったはずだ。

 アシエルが変異種との距離を取ろうと下がる。

 それとほぼ同時に、変異種が飛び上がった。どろどろになった床に沈んだ不安定な足元にも関わらず、不利を感じさせない跳躍だった。

 魔法で強化されたアシエルが逃げるのと、ほぼ同等の速さで変異種は詰め寄る。もし変異種の足元が硬い床だったらと思うと、恐怖を感じずにはいられない。

 間違いなく、足が三本だった頃より力がある。私の魔法が変異を強めて能力を向上させてしまったなら、申し訳無さと罪悪感が滲み出てくる。

 アシエルは眉一つ動かしていなかった。圧倒的な身体能力差は予測の範囲内でしかない。

 アシエルは変異種の着地地点に魔法を置いて、次の動作も阻害する。続ければ絶対に追いつかれないという理論だろうか。変異種は足元が溶けてゆるいせいで踏み切るまでの時間も長かった。その分、アシエルとの距離が空いていく。確かにこれなら追いつかれない。

 しかしその考え方は危うい気がする。魔力には限りがあるからだ。アシエルの魔力よりも、変異種の体力が保ちそうだ。長い時間このままが続けば、アシエルが先に破綻する。

 そんなこと、私よりも当人がより正確に判断できるはずだ。どちらが先に崩れるか。もしかしたら、アシエルは自分がより長く保つと考えているかもしれない。

 変異種は力任せに突っ込んでくるだけの相手だだ。同じような対処を延々と続けるだけでも効果がある。しかしそれは優位に立っていればの話だ。

 アシエルは『このままではいけない』と考えたのだろう。速度を緩め、高く跳び上がった。

 その跳躍は一種の時間稼ぎであり、変異種の横移動を止めるためでもあった。

 アシエルは地面が泥水のようになるまで魔法で溶かして操る。それは今まで通りではなかった。範囲や規模が違う。より水っぽくなるように大量の魔力が注がれる。

 太陽を背にしたアシエル目掛けて突っ込もうと、変異種は深く腰を沈めた。しかし前足だけが溶けた地面に埋没して、変異種の力は不発する。

 とんでもない力で足を伸ばしたまではわかった。地面が飛沫を上げて、私まで届きそうなほど盛大に跳ね上がる。しかし変異種の足は地面の下に吸われて、沼に落ちたように徐々に埋まっていた。

 アシエルの魔法は雑だった。魔法使いであれば、誰でも横から干渉して崩せそうなくらいには品がない。しかし変異種という存在が相手であれば、魔法使いからすればすきだらけでも、十分有効な一手になり得る。変異種は魔法の妨害を行わない。

 殴り書きしたような雑な魔法式でも、アシエルの魔法は無駄な魔力を放出しない。私の魔法とは違ってよく纏まっていた。まさに、変異種を相手にするための魔法と言えた。

 液状の中で暴れても、波紋が広がるばかりで変異種の状況は変わらない。アシエルに突撃するどころか、徐々に沈んでいくだけだった。足が沈み、胴が飲み込まれ、そして頭だけが残り、それも見えなくなっていく。

 このまま変異種が沈むのを待ってからアシエルは魔法を解くのだろう。地面が液状から元に戻れば、変異種は地面の下に埋められてしまうわけだ。

「やった?」

 結局私は見ているだけだったか。これ以上の被害が出なくて本当によかった。

 変異種の頭が完全に地面の下に消えてからしばらくして、アシエルは魔法を解いた。

 地面が硬化する。変異種が埋もれた分、地面は盛り上がっているけれど、はじめからそんな形だったかのように固まっていた。

 ずっと魔法を高出力の使い続けていたせいか、アシエルは腰を折って息を吐く。

「変異種はこの程度では死にはしない。だが、視界は遮った。目標を見つけられなければ、動けないはずだ」

 その言葉の意味は重かった。まるで目標が見つけられれば埋められても動き出すと言っているようで。

 そのうち掘り返さなければいけなくなるだろう。それは今ではない。これ以上の被害がないなら、一先ず落ち着いてもよさそうだ。

「じゃあ、解決?」

 解決と言い切るには被害が大きすぎた。先生も放置したままにはしておけない。寮も酷い様態だ。私の寝床はこの壊れた寮にあるのだけれど、部屋は無事だろうか。

 のんきな私とは違って、アシエルは真剣な眼差しで、変異種が埋まっている盛り上がりを見つめていた。

「まだ気は抜けない。動きを止めただけだ。足元にあんなのがいたんじゃ気が気じゃないから、戦力を集めてから掘りかえして袋叩きだな」

「今は心配しなくていいのね」

 私は先生が隠されたところを見つめる。先生は腕を失った。出血も馬鹿にならないし、今すぐ助けなければ危険かもしれない。すぐに動きたかった。

 アシエルは察してくれたのか、先生を囲んでいた壁をどける。

 私は治療に関しては素人だ。全く知らない。止血の方法がなかなか思い浮かばないくらい縁がなかった。そんな私でも、先生を助けるためにできることがある。搬送だ。急いで駆け寄ろうとした。しかしそれは叶わない。

 足元が揺れた。小さな揺れですぐに収まるけれど、頻発するから長く感じた。

「――せろ!」

 と、大きな声はアシエルのもの。しかし私はその声を聞き逃す。私に覆いかぶさる影が、正常な思考を許してくれなかった。

 砂が肩や頭に降り注ぐ。振り向くと、そこには地面に空いた大きな穴に、巨大な四足の存在があった。私に覆いかぶさる影、それは私を襲おうとする変異種だった。

 振り上げられた前足には爪もなにもない。傷だらけになった硬質な足裏は、ただの純粋な鈍器だった。

 変異種に心はあるのだろうか。それはわからない。しかし私にはこの変異種が何をしようとしているのか理解できた。どうして前足を振り上げているのか。前足でどこを狙っているのか。変異種はこの後どんな結果を望んでいるのか。変異種の前足に、私の魔法では間に合わない。

 まばたきも忘れた短い時間、私は諦めたのかもしれない。心が少し軽くなった。

 地面が隆起する。私の足が地面に沈み、立っていられなくなった。私が倒れる間、土と砂利の鞭がすぐ横を抜けて変異種を縛り上げている。

「下がってろ」

 アシエルの一言は私の芯までよく届いた。

 服の汚れなんて意識の外だ。転けたまま這って変異種から距離を取る。逃げながら恐怖の元凶に振り返ってみると、地面から伸びた線状の土が無数に伸びて、変異種を空中で縛り上げていた。そのまま地面に叩きつけようとしているみたいだ。

 変異種は身を捩って抵抗していた。

 変異種が胴を曲げる度に、鞭に含まれていた小石がばら撒かれる。土片も転がってきた。身を捩るという単純な動作でも、込められた力は弩級で迫力がある。今すぐにでも全ての鞭から逃れてしまうのではないかと危惧するくらいには力強かった。

 私は立ち上がり、距離を取る。縛られているとわかっていても、変異種に背中を見せて逃げられなかった。

 首は後ろを向いて体は斜めになって、変異種を視界の中央に置いたまま逃げた。距離を取るだけならば、そこまで長い時間は必要ない。

 どんどん地面から新しい鞭が現れ、変異種にまとわりつく。それを続けているのに、変異種は蛹のようにはならなかった。地面に足をつけられない身でありながら、足をばたつかせて鞭を弾いていた。胴に巻き付く鞭はなかなか外せないようだけれど、手足や首辺りを縛ろうとする鞭は、尽く千切っていた。

 鞭を這わせるのも只ではない。アシエルが魔法で作り出している。一つ一つに魔力を用いているのだ。ただ弾かれるだけの鞭は無駄以外の何者でもない。

 私が距離を取って時間稼ぎが必要なくなったと見ると、アシエルは変異種の胴を押さえる鞭を主に、白い体を地面に叩きつけた。

 音が周囲に広がる。硬い地面に力いっぱい押し付けられて、変異種の体が鳴いた。パキと突起が折れる。変異種の体表が削れて、白い粉が薄く地面を汚した。

 地面に叩きつけられた変異種に何らかの異常が見られればよかったのだけど、至って正常に見えた。アシエルの攻撃が有効だったか怪しい。人間が対策なしで同じ力で地面と衝突したなら、骨が砕け内蔵が破裂し、まず助からないだろう。そんな力をその身に受けても変異種の力強さは変わらなかった。

 変異種はすぐに立ち上がり、アシエルに向く。睨み合いはほんの一瞬だけだ。変異種は堪えるということを知らない。跳び上がったかと思うと、あっという間にアシエルを射程圏内に入れていた。

 一本の鞭が圧倒的な速度で、変異種の横に迫る。アシエルは自分が狙われるその時を待っていたようで、予め用意されていた鞭だった。

 変異種がアシエルを害そうと前足を上げる。私に対してもやった動作と全く同じ動きだった。だからこの先、変異種がどう動くかよくわかる。

 一本だけの鞭は、じたばたしていない後ろ足に絡みつくと、変異種の体を引っ張って再び地面へ叩きつけた。しかも今度は、叩きつけた先が予め溶かされている。地面に落ちたとは思えない水音が広がり、変異種は地面で溺れた。

 しかし今回はさっきと明らかに違う。変異種がなかなか沈まなかった。それもそうだ。さっきの魔法と比べて規模が小さいのだから。

 アシエルの舌打ちが聞こえる。

 作戦の一環として意図的に魔法の規模を縮小させたのであればいい。しかしアシエルの険しい表情から察するに、どうも意図的ではないようだ。真っ先に思い当たるのが魔力の問題だった。

 魔力も無尽蔵ではない。それぞれ人によって保有量は変わってくる。アシエルの魔力が具体的にどれだけなのか判断材料が不足しているけれど、もしかしたら厳しい状況にあるのかもしれない。

 アシエルは多くの魔力を使って、変異種を地面に埋めた。あれに賭けていたのだとしたら、今後は先細りする一方ではないだろうか。

 魔力の問題を訊いても、どうせアシエルは素直にはならないだろう。――でも。

「アシエル!」

 私はぐっと手を握る。

「後どれだけ魔法を使えるの」

「いらない心配だから、黙っていろ」

 具体的な言葉はなかった。つまり、そういうことだ。ただ私が邪険にされているだけかもしれないけれど。

「強がってんじゃない」

 現実問題そう保たないのだろう。まだ変異種が溺れているから話ができているけれど、変異種が足一本だけでも踏ん張れる一点を見つけたらその瞬間に切迫する。

「誤魔化さずに、しっかりと答えて」

 息を呑んで、私は最悪を想像しながら問いかけた。

「このままだと負けるの?」

 アシエルの腕から力が抜けていく。急に脱力した姿はみっともなく見えた。

「自分の無力さを実感しているところだよ。やる前は勝てると思っていたのにな。時間稼ぎすら怪しいとは。――くそが」

 私は何より、正直に話してくれて嬉しかった。原動力の一部はそこから出たのだ。

「私は、まだできるよ」

「わかっているのか? 効率が悪い魔法じゃ、腕の状態が悪化するかもしれない。変異種をより強くしてしまう可能性もある」

「でも放っておいたら負けるんでしょ。アシエルに死なれたら、イーシリアさんに謝ることが増えちゃうじゃない。それに私の魔法って、対変異種用の魔法って聞いたけど?」

 対変異種なのに、変異種を強くするという矛盾は気にしないでおこう。実際、今この状況で変異種を傷つけられるのは私の魔法だけだ。私の魔法は変異種の腹に一度だけ穴を空けた実績がある。変異種を強くしかねないものだけど、変異種に対抗できる唯一の剣だ。

「死なれたらか。そうか。悪かったな」

 不思議と私は、アシエルの言葉を受け入れられる気がした。アシエルがしおらしくするなんて、いつもなら気持ちが悪くて吐きそうな気分になりそうだけど、今日は違った。

 ただ、やっぱりアシエルはアシエルなんだなと思う。

「……なあ、おまえの名前、なんだっけ?」

 その瞬間、私の緊張が跡形もなく崩れた。

「はぁ? なにそれ。ついつい今しがた名前教えたばかりなのに、普通忘れる?」

 まるで変異種が消えてなくなった気分だった。『なぜ覚えていない』だけが私の頭を支配する。しかしやはり変異種の存在感は強く、私の憤怒は緩和され、変異種への注意が戻ってきた。

 変異種には私たちがどんな会話をしているのかも理解できていないのだろう。緩い地面でもがく様に変わりはなかった。

「変異種で頭が一杯だったんだよ」

「だからって。しかもなんで今訊くの?」

 先生を思うと時間制限がある今する話じゃない。私を怒らせるなら後でもできたはずだ。……後でも怒らせるつもりなのかもしれないけれど。

「悪かったって」

 アシエルの表情には余裕があった。緊迫したものが剥がれて、日常にいるような清々しさがある。

「笑ってるのが腹立つ。なんかもう教えたくないんだけど」

「そうか。じゃあ何かしらで知れるまで、おまえと呼ぶ」

 アシエルが魔法を強める。変異種が溺れている土は若干固まりかけていたけれど、それによりまた少し変異種の姿が沈んだ。

 私は暫くの間、『おまえ』と呼ばれるらしい。何度かやめるよう言ったのに、全く聞いてくれないみたいだ。とても腹立たしい。『おまえ』と呼ばれるかもしれないことが腹立たしい。

「セイレナ」

 気は晴れないけれど、名前を伝えた。もしかしたら、本当は覚えていたのに忘れたように振る舞ったのではなかろうか。もしそんな演技をしていたなら、私は殴ってやりたい。確かめる方法は、今はない。

「セイレナ。ああ、そうだったな」

「『ああ、そうだったな』だって。罪悪感とかないの?」

「あまりそういうのは期待するな」

「期待なんてするわけない。どうせ明日には忘れているんでしょう」

 そして私はまた名前を教えるのだ。我ながら嫌になる。

 アシエルがつま先で地面を叩いた。靴がズレたのだろうか。それとも気持ちを切り替えるための行為なのか。ただの癖なのか。

「――言葉以上に詫びるつもりはないが。セイレナ、俺にできることはあるか?」

 アシエルの両目は変異種に向いていた。私を会話をしているけれど、もう私を意識していない。それは一種のサインであり、私の意識を変異種へと戻させた。

 私とアシエルが助かるだけなら変異種に背を向けて走ってもいい。地面で溺れている間に距離を稼げるはずだ。

 しかし致命傷になりかねない大怪我をした先生がいる。それに孤独になった変異種は、どこかに走って誰かを襲う。どれだけの被害がでるかわからない。その被害を防ごうとしたら……もう私が魔法を使うのは決定事項になっている。

 私の魔法はあまりよくないらしい。魔力を抑えてしまう癖をイーシリアに矯正されて、私は多くの魔力を一度に使えるようになった。しかしその分、魔法を使用する際に出る、無駄になる魔力量も増えた。無駄になった魔力は魔素になり私の腕を変質させて、更には変異種をより凶暴なものへと変えていく。両方ともいいことじゃない。

 しかしそのかわり、私の魔法には力がある。変異種の体表に傷を入れて体内をえぐれる。

「外したら最悪だから、その子を押さえてほしいんだけど」

 もう変異種は上体は見えるまで上がってきていた。溶けていた地面が固まってきているようだ。

「わかった。そろそろ抜け出されるだろうから、その瞬間に押さえ込む。その後は、セイレナ頼む」

「もう私の名前は忘れないでよ」

「ああ。忘れない。今日はな」

 既に何度か忘れている時点でありえないのだけど。今はあれこれ言うのはやめておこう。

 変異種に致命的な傷を入れるなら、並の威力では駄目だ。私の魔法はそこまで高い威力ではないらしい。魔法使いなら誰でも出せる程度の力なのだとか。

 だから、私は覚悟を決めなければいけない。自分の腕を、もしかしたら首まで切り落とす覚悟を。

 魔力を多く込めれば、それだけ魔法の規模が大きくなり威力は高くなる。絶対に外さない状況をアシエルが用意してくれるなら、私は魔力の瓶をひっくり返して底まで全てを吐き出してやる。

一発で変異種の首を飛ばす。それができれば、二発目は必要ない。そうなるようにする。

 魔法発動に必要になる以上の魔力を注ぎ込むなんて今までやったことがない。もしかしたら、アシエルが地面を溶かす際に大量の魔力を注いでいなければ、この考えに至っていなかったかもしれない。

そういう意味で変異種は不運だった。ここにはアシエルがいて、私は大量の魔力を注ぐ考えに至っている。

 私が必要以上の魔力を注ぐのは初めての経験だ。普段やらない魔法になれば、不安定になるはずだ。

 しかしここに私の魔法を邪魔する人は誰もいない。唯一の邪魔者になる変異種は、アシエルが足止めしてくれる。存分にやれば、それで十分な効力を得られるはずだ。

 目を閉じて息を吐いて集中しても大丈夫。私の邪魔ができる者はいない。

 変異種は、ついに全ての足を地面の上に戻した。私が眼中にないようで、アシエルに跳びつこうとしている。しかし実際にアシエルを攻撃はできない。

「確かに力は凄いけど、それが逆に弱点に……おまえには言葉は通じないか」

 アシエルの口から『おまえ』と聞いて反応しそうになったのは内緒だ。

 アシエルの言う弱点とは、変異種の足にあった。四本の足を使って移動するから、足を封じれば移動できないというわけだ。

 変異種の後ろ足が両方共、浮かされていた。紐状になった土が、変異種の両足に絡みついて引っ張り上げていた。

 この拘束は長くは保たないだろう。変異種は力がある。さっき大量の鞭が弾かれたように、すぐに振りほどかれるはずだ。しかし、短い時間でも動きを止められたのは事実だった。

 都合のよいことに、私の魔法は槌で一発殴るような瞬間的にダメージを与えるもので、持続的な効果を望むものではない。拘束する時間は短くても十分だった。

 動けない変異種に魔法を当てるのは造作もない。魔法に慣れていなければ狙いをつけるのは難しいかもしれないけれど、私はとうにその段階を飛び越えている。

 私は魔法を放つ。瞬間的にもう立っていられないほどの倦怠感に襲われた。魔力の使いすぎによるものだ。

 気力でその倦怠感を耐える。そしてまっすぐ正面に、ありったけの力を込めた魔法を放った。

 私が作った魔力の塊は、脈打つスポンジのようだった。白く透き通る糸が、中途半端に絡まってできた玉にも見える。拡大と縮小を繰り返しながら、形を変え続けて進む。それは変異種に衝突するまで変わらなかった。

 変異種の硬い殻が砕ける音は、落ち葉を踏み潰す音をより重厚にしたような凄惨で残酷な音だった。

 細い糸が変異種の体に刺さり、内側で編まれて、糸と糸の隙間を強引に押しつぶす。私の魔法はそうやって、変異種に血を流させ傷口を広げながら、体内へと潜り込んだ。

 当たったのは胸元よりも少し上、首元と言うには低い位置だった。そこから斜めに、横腹へと向かって魔法が抜けていく。

 表面の殻と、内側を占める肉、滲み出る体液、この三つをごちゃごちゃに混ぜてペースト状に変えながら、私の魔法は一つの洞を作った。

 洞から流れ出るのは、血と言うには濃度が高すぎるもの。そこにあった肉や内蔵が形を維持できなくなったものだった。上半身の五割は、もうペースト状の何かに変わっている。

 さすがは変異種と言うべきか、狂っていると切り捨ててしまいたい。人の頭が入ってもまだ余裕がある大きさの穴が胴に空いても、まだ倒れない。それどころか、後ろ足を縛るアシエルの魔法を解こうとしていた。

「嘘だろ」

 私もアシエルと同じような感想だった。口に出さないだけで、信じられない思いだ。

 頭部と胴をつなぐ首も、大部分が消し飛んでいる。残った少ない殻だけでつながっていて、頭はだらりとぶら下がっていた。

 そんな状態になっても、生きていられる動物はどれだけいるのだろうか。命よりも足の拘束を重要視する考え方があるのだろうか。

 もはや頭部は垂れ下がるだけのものだ。その頭部に残った目が私を見つめた。焦点は外れている。しかし眼球が動いて、瞳孔が確かにこちらへ向けられた。

 私にはもう魔力は残っていない。アシエルも似たようなものだろう。そんな現状でまだ戦わなければいけないのか。

 こうなるなら、足をふっ飛ばせばよかった。そうすればしばらくは動きを止められた。でも仕方がないと思う。大きなダメージを残そうとしたら、そりゃあ胴か頭を狙う。

 全力をぶつけても駄目なら、仕方がないと考えるしかない。それに全く希望がないわけでもない。

 変異種は酷い状態だし、攻撃しようとしても狙いがつけられるかは怪しいところだ。変異種は学校中に知れ渡っているはずだし、救援も期待できる。だから、諦めるにはまだ早い。

「セイレナは逃げて――助けを呼んでくれ」

 逃げろと言われてしまった。私は従うつもりはない。アシエルが私の魔法を許可したのは、自分一人では変異種の相手が難しいと判断したからだ。アシエルを置いていけば、その後がどうなるか考えなくてもわかる。

「それじゃあ、二人で逆方向に逃げる?」

「俺は足止めをする。セイレナよりは魔力に余裕があるはずだ」

 セイレナと呼ばれる。それだけでなんかよかった。本当に私の名前を覚えてくれたのかもしれない。だからこそ、アシエルを置いていきたくなかった。イーシリアに謝ることも増えてしまう。

「足止めをするなら、却下します。今のアシエルにできないでしょ」

「やる。やらなければいけない。ここから退避していたセイレナを引き返させた、きっかけは俺だ」

「私が自分でついていくって言ったんだけど」

「俺が変異種とやれるなんて自惚れていなければそうならなかったって話だ」

「悪いと思っているの? その気持を無碍にするのも違うか。じゃあ何か一つ、言うことを――」

 私の魔法は、見た目以上に効いていたのかもしれない。変異種はまるで意図できないタイミングで私に飛びかかってきた。

 しかしその速度は遅い。遅いと言っても、避け損なえば飛ばされて骨が折れるくらいの威力は残っている。

 我ながらよくできていると思う。咄嗟に身を翻して変異種を避けられたのだ。その動きは自分で驚くくらいに美しかったと思う。傍から見てみたかった。

 変異種の攻撃はその突進一つでは終わらなかった。私の目はすぐそちらに向かう。しかし対処は難しかった。

 腕が伸びてきたのだ。変異種から人の腕が伸びて、私の肩を握りしめた。

「先生の?」

 その腕は、変異種が自らの傷口に押し込んだ、先生の腕だった。人差し指に、指輪の跡が残っている。

 しかしその力はもはや人のものじゃない。

「いっつあぁああ」

 潰れると確信する力で握られる。一発で意識を肩に持っていかれて、私の膝が折れた。

 目の前にあるのは、私の魔法によって形が崩れた変異種だ。体液が溢れる穴がよく見える。先生の腕に引きずられて、私はその穴に寄せられていく。

 変異種が何をやろうとしているのか大体理解できた。先生の腕と同じように、私を取り込もうとしているのだろう。

 アシエルが何か言っている気がする。聞いてあげたいところだけど、私は肩の痛みで他に注意を向けられない。

 どうしようかな。どうすれば、この肩の痛みは晴れるだろう。

 立たないと。タルハともフェネシェアとも、まだあまり話せていない。

 逃げないと。イーシリアに約束を破った件について謝っていない。

 生きないと。このままだと、アシエルが自責の念に駆られてしまう。

 ……他には? なにもないのか。そんなことはない。何かあるはずだ。故郷とか、家族とか。……私の人生はどうやら薄っぺらでつまらないものみたいだ。

 それでも。変異種に取り込まれる以上につまらない未来があるだろうか。もしかしたら、今後は面白くなっていくかもしれない。死にたいとは思わない。でも私には何もできない。

 助けて。

「ふざけるな!」

 私の目の前に現れたのは土だった。何度か見た覚えがある。アシエルに溶かされた地面。中には小石のようなものも混ざっている。

 土はどんどん厚みを増して、私と変異種の間に距離を作った。

 前が見えない。視界には全て土だけだ。地面に頬ずりする趣味はないけれど、変異種の体液流れる傷口よりは安心できた。

 私の肩に痛みが走る。しかしその痛みは今までの痛みとは趣が違っていた。

「放された?」

 何があったのかはわからない。しかし私が自由になったのは確かなようだ。私の肩からは赤々とした血が流れているし強烈な痛みもある。しかし掴む手はない。

 正直つらい。それでも私は立ち上がった。何が起こったのかを知らなければいけない。義務感と興味から変異種の行方を追った。

 すぐ目の前ではアシエルが変異種の体当たりを受けているところだった。アシエルは肉体を強化して守ったのか、見た目ほどダメージはないようだけど、地面を転がり倒れる。

 アシエルはすぐに立ち上がろうとした。しかしそんな時間を与えるほど、変異種は温厚ではない。

 上から覆いかぶさるように飛びかかる。アシエルに逃げ場は用意されていない。

 私は手を伸ばす。何かできることがないかと。しかし伸ばした手には武器はないし、魔法もでない。これが私の限界だった。本来であれば、これで終わり。アシエルは負けたのだ。その後、私も――。

 上空から一本の線が飛来する。その線は吸い込まれるように変異種に衝突すると弾けた。

 変異種の首が完全に胴から離れて転がる。変異種は首なしの化物になった。それを補うように、私が空けた穴に肉が詰まり始めている。

 私の魔法によって、ここに魔素が生まれてしまったのだろうか。それによって変異を強めていると。太陽の下だから、ある程度は抑制されているはずだけど。

 変異種は酷い見た目になっている。しかし私もアシエルも、そんな変異種に意識が向かなかった。

 この場に一人が現れたのだ。まるでお茶をしているような平然とした表情で、悠長にも徒歩で現れた。

「間に合わなかった? いや、間に合ったのか。難しいな。どこまでが必要な経験なのか判断しづらい。おんぶにだっこがいいとは思わないし」

 その人は黒い髪をなびかせて、細い瞼の隙間から青い瞳をのぞかせていた。

「生きているね。ハユルノ君にパスイ君」

 学生だった。制服がそう物語っている。

「危ないところだった。助けに入れてよかったよ」

 その目はとても自信にあふれているとは言えない。なんてことない日常を前にしているようなだらけきった瞳だった。突然のあくびがあっても驚かない。

「後は、任せてくれ」

 確かにそう見えたのだけど、変異種に近づくとその人の目は変貌した。私に対する敵意はないはずだ。それなのに私は鳥肌にさせられた。

 その人は剣を使った。見た目は安価な剣だった。装飾はゼロで鞘の革は一部剥げている。鞘から抜く際に、かすかに斜めに傾けたのは、どこかに歪みがある証拠だろう。この剣を作った職人は、もう廃業しているに違いない。

 しかし劣悪な剣は強かった。

 その戦いに戦術はない。ただ力を押し付け合うだけの原始的な争い。争いなんて言っては語弊があるか。見世物だった。ただ変異種が解体されるだけの。

 剣が一度振られれば、変異種が二つに割れる。もう一度振れば、変異種の部品が一つ増える。

 あの剣は魔法の媒介にしているのだろうか。見た目からは信じられない切れ味だった。私が目にした刃物のなかで、最も鋭いと断言できる。

「いい切れ味だが……足りない。まだまだキスノージスには届かないな。しかし、これ以上は過足か」

 異常なのは両者共だった。子供が虫の足をもぐように、変異種を解体していくその人も、首を失い胴もいくつかに分かれて尚も動こうとする変異種も。

 動けても、バランスを崩せば倒れて前に進めなくなる。あっという間にバラバラに解体された変異種は地面でもがくだけになっていた。

「イカれた生命力だ」

 変異種は足だけで立ち上がろうとしていた。縦に割られた頭が、獲物を捉えようと目を動かしていた。疲れていなければ、私はきっと強い嫌悪感に塗れていたはずだ。

 アシエルはどうだろう。私よりも体力が残っているのか、立ち上がっていた。まだぴりぴりした空気を着ている。

「助かった。本当に感謝する。だが、誰だ? 服装から俺たちと同じ学生みたいだが」

「ああ、忘れてた。自己紹介がまだだったっけ」

 びちびち跳ねる変異種の足を串刺しにて地面に縫い付けながら、その人は振り向いた。その目はアシエルだけじゃなくて、私も見ている。

「俺はジハグラド・アストガン。防衛魔法術専攻で特級の一位にいる」

 私は、きっとアシエルも、目を見開いた。特級の一位とはなにか、この学校に通う生徒なら誰でも知っているはずだ。

 特級とは、学年を問わずに特に優秀な生徒が選ばれ、振り分けられるクラスだ。その教室での授業は、他のクラスでの授業よりも数段難解だという。聞いた話では、個々で自習をするような形式だとか。きっと良質なレポートを提出しないといけないのだ。

 特級の最も異質な特徴として、順位と入れ替えがある。特級にいる全ての生徒が、技能や知識量や成長速度などで位付される。最下位付近になると落第だ。

 落第すると、特級から通常のクラスに落ちる。一度落第すると、なかなか特級には戻れないのだとか。落第生が出ると特級の席が空くので、通常のクラスから新しい特級生が選ばれる。入れ替えは、み月毎に行われ、その中で生き抜ける者が特級生だ。

 特級の一位ということは、この学校で最も優秀な生徒の証明だ。この『ジハグラド・アストガン』はそういう生徒ということになる。

「特級一位……特級はみんなあんたみたいなのか?」

 アシエルの驚きの眼差しは、一直線にジハグラドを貫いた。もはや変異種には見向きもしない。

 苦戦した変異種という存在に、あくびをする程度の手間で処理してみせた。力の差を感じたのだろうか。一種の絶望がアシエルの目にある。

「魔法について? 俺は特によくできるよ。特級でもずば抜けている。本当のことを言うと、先生方の誰よりも強い。戦闘の外になると、途端に一般人だけど」

 その戦闘に関してがアシエルには重要なのだろう。アシエルは変異種に対して因縁を感じている。変異種には対話能力はなく、必要になるのは単純な武力だ。

「そんな顔はしなくていい。俺はズルをしているから強いんだ。二人は新入生だろう。まだ経験が浅いのに、変異種を相手に臆さないなんて称賛するしかないよ。今後が期待できる。有望だ。そんな二人を助けられてよかった」

 変異種とは足元に転がっている複数の塊を指しているのだろうか。あっさりと片付けられた光景を目の当たりにすると、時間稼ぎしかできなかった事実に、自信喪失はできても満足はできない。やったのが同じ学生だから尚更だ。

 変異種はバラバラになって転がっている。まだ動いているけれども、先程まで私の心を支配していた驚異は全く感じない。

 唯一、地面に染み込む体液のみが意識の的だ。その体液に触れて、小さな虫が変異種とならないか不安だった。

 ジハグラドも同じことを考えていたのか、魔法を使った。かかとを叩きつけると、染み込んだものが時間を戻しているかのように溢れ出てくる。

 もう一度かかとを叩きつけると、今度は地面との隙間に透明な膜が現れた。それにより体液は地面に染み込まず、横に広がっていく。

「このまま日に晒しておけば浄化されて変異種として死ぬはずだ。それよりも、ハバユ先生を助けないと。二人に任せていいか?」

 ハバユ? と名前を聞いてもわからなかった。先生と聞いて優先順位が入れ替わる。

「アシエル」

 その一言で通じた。アシエルはジハグラドが気になるようだけど、私が走るとついてくる。

「後でお礼がしたい。時間を作っておいてくれ」

 振り返るアシエルは、恩人に向けてとは思えない尖った目でジハグラドを見ていた。向上心? 興味? そういった感情を貪欲にぶつけている。きっと学校一位に近づいて、奪えるものを奪いたいと考えているのだ。私がアシエルの身体能力強化の魔法に興味を持ったのと同じように。

「あっ私も」

 だから私も便乗しておいた。先生の元に急がなければいけないけど、答えるくらいは走りながらでもできる。先生の生き死にが掛かっている可能性が高いのに緊張感が欠けていると言われればそれまでだけど、変に緊張しすぎるよりはいいと思っておこう。

「部屋に尋ねてきてくれれば、歓迎しよう。いつでも待っているよ」

 ジハグラドはにこやかにしながら、更に細かく変異種を裂いていた。より細かくすればより広い面に日があたり浄化が早くなるからだと思う。合理的な判断だけども、猟奇的に見えるのが欠点だった。

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