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由香里ちゃんのお家はこの病院の近辺か、それでなくてもある程度の距離に立地しているもんだと思っていた。
「あの、お母様」
「なぁに?由香里ちゃん」
ゴォォォ────…
大きく風を切るエンジン音に声が掻き消されていく。
飛行機乗るなんて予想してませんでしたけど。
「お家は遠いんですか?」
「まぁ、そんなことないわよ。どうしたの?」
ぐぅ。
私の腹の虫が雄弁に語ってくれた。
「お腹がすいていたのね」
搭乗手続きやらに向かってから空港のイートインとかで食べるんだと思い、久しぶりに蕎麦かうどんが食べたいなーなんて考えていた。
腹の虫たちがないて賛同してくれた。
こっちよ、と手を引かれるでもなくお母様に促される。
こういう余所様の目がある場所になると、お母様は私にむやみに触れたりしない。
これも上層教育の一環なのかな?
愛情がないわけじゃないのはここ数週間の軟禁で十分わかっている。
促されるまま進んでいると、屋内をしばらく歩いてもう外に出てきてしまった。
え、ご飯は?
視線をあちこちに向けていると、見たことない旅客機が姿を現す。
これは…もしや、プライベートジェットというやつでしょうか。
もしやもなにも、その通りだったようでお母様はタラップをさっさと上がってしまわれた。
私も続いて中に入る。
これは、映画なんかで見たことあるまんまだ。
「何を頂きましょうか」
お母様がにっこり微笑って尋ねてくれる。
こんな中で汁物はチョイスできない。蕎麦なんて庶民派なもの食べてはいけない気がする。あとまぁ、こぼさずに食べられる自信がない。
「サンドウィッチが食べたいです」
「では、由香里ちゃんの好きなベーグルサンドにしましょう」
「はい」
由香里ちゃんはベーグルサンドが好きだったんだ。私は普通に軟らかい食パンではさんだのが好き。
むしろ変わり種は勇気がなくてあまり手が伸びず、定番やお気に入りをずっと自分のロングセラーとしているタイプ。
でもきっとこれからは自分の好みばかりで選んでいくのは難しいのかもしれないな。
運ばれてきたベーグルサンドはとっても美味しかったです。
────────
これが東条家───?
でかくない?
庭、というかちょっとした森林公園並の広場すらあるんですけど。建物は見えるのにまだ着かないってどんだけなの。
艶々に黒光りする車の中から忙しなく外を見た。
これはちょっとしたお散歩なんかも楽しくできちゃうかもな! ちょっとワクワクしてきた!
ふわ〜、と口を開けて窓にへばりつく様にして外を眺めていたら、お母様からご指摘が。令嬢としての振る舞いではなかったみたい。
スッと座席に腰を戻して座り直した。
お母様は病院を出たあと、空港についたとき、プライベートジェットを降りてからと、少しずつではあるが夫人としての顔をのぞかせている。
やっぱり、家の中でも家族なのに礼節ある態度で…的なやりとりがあったりするのかな。私についていけるのか心配だ。
一応これでも中身は成人女性だから、ある程度の佇まいなんかはできるけど(ついさっき窓にへばりついてた奴が何を言ってるのかとも思うけれど)その立ち居振る舞いが果たして正解なのかは分からないもんな。
こんなことなら礼儀作法も囓っておくんだった。
いや、待て。
令嬢なんだから礼儀作法なんかきちんとした習い事として入ってるんじゃないかな? そうだと助かる。そうであってくれ!
綺麗に刈り込まれた植木道を抜けるとやっと玄関が見えた。
あそこに並んで出迎えてるのは執事とかメイドとかかな。
お手伝いさんって感じの家政婦には間違っても見えない。みんなそこそこ若そうなのにピシッとしている。
「おかえりなさいませ」
ただいま、と言おうとして、口をつぐんだ。お母様がにこりと微笑んだだけでそのまま中に入って行かれたからだ。
え……
おかえりって言われたら「ただいま」って言うのは一般常識じゃないの?
いまいち私の知っている礼儀作法が通じるのか分からない。
こういうのって、まずは親をみて学ぶもんだよね? こちらの教育方針は合ってるの?
「おかえりなさい! 母さま!」
「おかえりなさい、母さん」
中に入ると、男の子が二人出迎えてくれた。カルテで名前だけは知ってたけど、壱弥お兄ちゃんと和臣お兄ちゃんだろうね。
壱弥くんは優しそうな男の子だ。髪の毛は射し込んだ陽の光に照らされてちょっとくすんだ琥珀色に見える。色素薄そう。
和臣くんはちょっと色黒で髪も硬そうな黒だった。アウトドア派な印象だな。
「ただいま壱弥さん、和臣さん。留守中お変わりありませんでしたか?」
「はい。母さんはお疲れになっていませんか? カモミールティーを用意させておきましたけど、召し上がられますか」
「まぁ、お気遣いありがとう。お二人の近況も聞きたいし、是非頂くわ」
えっと、あの。
私、ただいまって声かけてもいいんでしょうか?
「由香里ちゃん、一緒に頂きましょうか」
様子を窺うようにお母様の後ろに隠れていた私は、促されるように背中を押された。
「由香里、おかえり」
「…おかえり」
「ただいま、です」
ただいまの敬語とかあるのかとか考えていたら、語尾に「です」なんてくっ付いてしまった。
って、それよりもアレだな。これはちょっと厄介な予感。
壱弥くんは顔全体で微笑んでみせているけど、目が笑ってない。
その年でその表情作れるって凄い。というか怖い。
和臣くんはまだ年若いのもあってか、不貞腐れたような顔が出ちゃってる。
兄妹仲はよろしくなかったんですか、由香里ちゃん…
────────
「───それで、皆様からもお褒めの言葉を頂けました」
「和臣はしっかり挨拶できていたんですよ。母さんに見てもらえなくて残念だったな」
「はい…いえ! 次もまた頑張ります! 母さま、次はご一緒できるんでしょう?」
「そうですね。和臣さんの素敵な姿、早く見たいものです。しっかり頑張っておられたようで、私もとても嬉しいわ」
これはアレだな。
マザコンなんだな、お兄ちゃん’sは。
由香里が入院している間中、お母様は私の元から離れはしなかったから、この数週間はずっと母親不在。
でもって父親は海外出張で、こんな広い家で執事やメイドといった大人に囲まれていたとしても兄弟二人で過ごした時間は、耐え難いものがあったようだ。
非難の目が、母親を取り上げた私にチラチラ突き刺さる。
主に和臣くんの方から。
壱弥くんは称えた微笑みを崩すこともなくお母様と和臣くんを見ている。私には全然目もくれない…と思っていたのだけど、視線を感じて顔を上げても誰も私を見ていないのが何度か続いた。
壱弥お兄ちゃん、末恐ろしい子──!
「由香里、調子はどうなの」
会話に全く入れず、居たたまれなさを一心不乱にティーカップを見つめるという所業でその場をやり過ごそうとしていた私に、壱弥くんが気遣うように聞いてくれた。
むしろ何を喋っても失態しか出せないと思うから話しかけないで欲しかった。
嫌がらせのつもりなのか。
「はい。体調は良いです」
「ふうん。他は悪いってこと?」
ぐっ…!
何て切り返しをするんだこの10歳児は!
「…いえ、そういうわけでは」
歯切れ悪く口籠った私を見て、今度は和臣くんが聞いてくる。
「本当に何も覚えてないのか?」
「はい」
「僕や兄さまのことも?」
「…はい。すみません」
「母さまや父さまのことも?」
「………」
「こら、和臣。よそう」
全くだ。お前は由香里ちゃんの事はともかく、お母様の事は好きなんだろうが。
私がこの場でお母様の事も何も覚えてないと改めて述べることが、どれだけお母様にショックを与えると思っているんだ。
子どもながらに察しろ。
心の中で毒づいておく。
「母さんも由香里も疲れているでしょう。お茶会はこれくらいにして、お部屋で休まれては?」
「そうね。私も少し横になりたいわ」
「由香里、部屋に連れて行ってあげるよ」
「ありがとう壱弥さん。由香里ちゃんをよろしくね」
「僕も行く」
有無を言わさず兄達に自室へ連行されることになった。
変なこと言わないように用心しなければ。
「ここが由香里の部屋だよ」
案内されたのは南向きの陽当たりが良くて明るいお部屋だった。
調度品はオフホワイトとパウダーピンクが基調になっていて、可愛らしい。
儚げな見た目の由香里ちゃんにはピッタリだ。
おずおずと部屋に入ると、そのまま兄たちも部屋に入ってきた。
え、君らも入るの? 私も休みたいんだけど。ていうか一人にして欲しいんだけど。
「なに?」
「いいえ。何でもありません」
ちょっと恨めしく思ってしまったのが顔に出てしまっていたらしい。気を付けないと。
壱弥くんは到底10歳児とは似つかわない中身を持ち合わせておられるようだからな。
「由香里、本当に何も覚えてないんだなー。記憶喪失って初めてみた」
和臣くんがベッドにどさっと座る。
おいおい。お母様の前とで態度違いすぎやしませんか。
あのキラキラした笑顔はどこにやったんだ。ティールームに忘れてきたんじゃないか?
「僕たちの関係性についても覚えてないって事でいいんだよね?」
「えっ…」
壱弥お兄ちゃん、その関係性っていうの、含みがあるように聞こえるのは気のせいですか?
兄と妹、それ以外の関係って何でしょう。
「ちょっと仰ってる意味が分からないです」
「仰ってるだって! 兄さま、こいつ本当に何も覚えてないんだね!」
「えっと…?」
「待て、和臣」
「だって。これじゃまるで別人だよ」
どき───っ!
いきなり核心を突かないで!
ポーカーフェイスは得意じゃないの!
「その様子じゃ、周りのことだけじゃなくて、自分自身についても記憶がないんだね」
オロオロしている私を見て、壱弥くんはそう判断したらしい。
「…はい。思い出そうとは努力しているのですが」
申し訳なさが伝わるように、少し頭を下げる。
不愉快な思いもさせたみたいだし、これからはどうしたって居心地の悪さを感じずにはいられないだろうから。
気を遣わせることになってすみません、と謝ろうとした。
「いいんだよ、由香里は何も思い出さなくて」
「えっ?」
届いた言葉に耳を疑う。
「思い出されたところで気分が悪いのは変わらないんだし。由香里は由香里で、小賢しい真似はせずに御令嬢として馬鹿の一つ覚えみたいに気ままに過ごせばいいから」
「前みたいに僕たちの前をチョロチョロすんなよ」
「母さんをあまり煩わせないようにね。お前の我儘に付き合って病院生活なんかされるから、窶れてしまわれて心配だよ」
「財閥関係の集まりだって、僕らだけで参加したんだぞ。本来なら父さまと母さまが居られたのに。お前が入院なんかして父さまのスケジュールも崩されたんだ」
「そうでもして、気を引かないと構ってもらえないからって、今回はやり過ぎたね。今後は他人に迷惑をかけないようにやりなよ」
じゃあ、一応お大事にと言って、二人は部屋から出ていった。
───なんなの。
何やらかしてこんなこじらせてんの、由香里ちゃんよぉ。